戦の無い世界
青年武将の悩みは尽きない。
人間本来の心の狭間に有るものは何か。
現代に通ずる人間の悩みは深い。
京の桂川上流、保津川の流れに沿った大地に亀岡がある。
更に奥まった草原に、最近馬場が出来た。
馬場の側には馬小屋が数棟建てられ、三十頭程馬が飼育されている。土地の者にも余り知られていない事である。
牧場の近くの草刈り場に、数名の農夫と馬喰が、飼葉用の草を刈っている。
昼近く迄かかって、相当量の飼葉が刈り終えた。昼の休憩となって、小柄な一人が休憩の小屋に引き上げた。
汗を拭き皆の帰りをもうそろそろと待っていた。
突然小屋の戸が開け放たれた。
「居るか、おせん。」入って来る者が居た。
「まあ、お殿様お変わりなく。」
「うん、元気じゃ、お前も達者か。はっはっは。」
突然の再会に、おせんは只々感激の涙であった。いつも孤独だった、おせんである。
今も一人であるが、待つ人が居る。
自分にとって愛する人を待つ事は人生の大切な時間であった。
「恙無く…。」
「うん、元気じゃった。」
「おせん、相変わらずよのう。奥州の果てから、京の都まで来て女子のそなたが、未だに馬の世話も無いであろう。」
「ほほほ。」
泣き笑いの顔の中で、
「殿様は馬の臭いが、お嫌いですか。」
「なんの、儂など年中馬の上で寝ておる故、馬の臭い等よう判らん。」「ほほほ。毎日、馬の下の世話も致しております。」
「馬は私の宝物。」
「ふん、で其の次は何じゃ。」
「殿様でございます。」
「何を、こらっ。性懲りも無く。こいつめ。はっはっ。」
「ほほほ。」
「私は赤い小袖を身に付けて、奥女中の中で暮らすのは嫌でございます。」
「馬は人間と違い、正直で優しい眼をしております。」
「……。」
「殿様は別です。大好きです。」
「そうだなあ、人は馬と違い、業が深い。儂も馬にでも生まれれば良かった。」
「そんな悲しい事は、云わないで。殿様は人のままが良い。」
「はっはっはっは。判った。今夜は京の儂の宿舎へ参られよ。」
「はい。」
愛らしい笑顔が溢れる様である。
春爛漫の京の都の河原辺に早朝から、沢山の人手が集まって来た。畿内各地から物見高い人々、老若男女、町人、農夫、漁師、商人、勿論武士も子供も、大勢押し寄せた。
「おい、権助さん。今日のこの騒ぎは一体何事じゃ。」
「いやー、凄いね。」
「なんだい、教えておくれよ。」
「最近、都の守護になられた源氏の九郎様を御存知ないかい。」
「おーっ、知ってるよ。牛若丸様だね。私はあの人が大好きなんだよ。」「知っているのかい。」
「いーや、会った事は無い。けど、其れからどうしたの。」
「平氏の御一族がね、例の如く都を追い出されちゃったろう。」
「うん、その後が木曽の何とか、ああ、義仲様。」
「そう、中々太平が長続きしないので、今度の守護の九郎様が、次の平氏の征伐の前に、ぱっと明るく、華を咲かせて、活気付けようとの御配慮だね。」
「嬉しいね、わくわくするよ。」
「今日は、源氏始め各地から、沢山のお侍がやって来て、乗馬の腕試しがあるそうじゃ。」
「それは、面白そうじゃな。」
河原の試合場には殿上の方々も、御招待されて居るとか。
「天子様もいらっしゃるのかしら。」
「其れは、ちょっと判らないが、きっと、お慶びでいらしたと思うよ。」
「さあ、天下泰平、天下泰平。」
陽が少し高くなった頃、京の市街地の方面から色どりも鮮やかな、緋色縅やら武者絵巻から抜け出た様な行列がやって来た。或者は源氏、また或者は、平氏を伏せた者も居たであろう。
皆晴れやかに馬場目指してやって来た。おおよそ二百名程の武士が集合した。
やがて大きく東西に別れ、中央に設けられた三つの台の上から金の札、銀の札、銅の札を逸早く取り合う競技であった。
一番太鼓で二百名の騎馬が、広い馬場を駆け廻った。
二番太鼓で止まり、三番太鼓で勇壮な札取りが始まった。
手前に陣取った神官の合図と共に三回行われた。
最近はやたらに血なまぐさい出来事が続く最中、久々の晴れやかな事で、周辺は非常に盛り上がった。
噂によると法皇様もお忍びで見えられたとか。
やがて大盛況の内に祭りは終了した。民心に残る戦渦への不安を鎮めるには、これから相当時間と労力が必要と思われる。
義経も殿上人も心の中に一つ気掛かりがある。
其れは云う迄も無く平家の若手の勢力による台頭であった。
斜陽の平家とは云え、まだまだ其の勢力は、西日本に温存してある。頼朝より更なる平家攻略の指令は、出ているのである。
平治元年暮れ、近畿は大和の山道を二人の女が歩いている。
一人はどことなく気品のある武家の女房。
そしてもう一人は乳母であろうか。
降り積もる新雪に四人の足跡が、遥か後方へと続いている。
女達には二人の連れ、いや正確には三人の連れがいた。
大きな女達の足跡に寄りそう様に、可愛らしげな二人分の足跡は、未だ八歳と六歳の、いたいけな童子のものであった。
あとの一人は女主人の懐に大切そうに抱えられていた。
二人の童子の手は乳母にしっかりと握られていた。
童子は時々立ち止まっては乳母の懐で、凍えた手を温めて貰った。暫く歩いては度々足を取られて転ぶ姿は、哀れなものであった。「寒かろのう。耐えるのじゃ、父さまの子じゃ。」
「うん。寒いけど、寒くない。」
思わず泣き笑いの女房達であった。
辛く悲しい彼女等の行進は麓の里迄続いた。
此処からは各々六波羅からの迎えの馬があった。
迎えと云っても鬼の六波羅である。平家に非ずば人に非ず。と人の云う栄華の城である。
五人は長く厳しい旅路の果て、遂に六波羅に曳き出された。
平家にとっては憎い敵将の落し胤が、揃って曳き出されたのである。雪を被った大門は奇麗に掃き清められ、もの珍しく五人を眺める野次馬や、不運な一家に哀れみの、まなざしを送る訳知りが犇めく中、此れ見よがしに追い立てられた。
広い長い廊下の末に大広間が有り、一族郎党が居並んで居た。
女房常盤御前は死にたる如く、蒼白な面にて平伏した。
何故隠れ家より、辛い裁きの庭に罷り居でたのか。
其れは彼女の母が六波羅の捕縛吏に、常盤の行方を巡って拷問を受けて居ると云う知らせを受けた為である。
如何に常盤ならでも、身を棄てて命乞いに来たであろう。
広間の一座には、平家の棟梁である平清盛を始めとして重盛、宗盛など平家一門の重鎮が居ならんで居た。
常盤にとっては生きた心地も、しなかったであろう。
「これ女。其の方何故、此処に参ったか。」
余りにも恐ろしく気を失いかけた常盤が、直ぐに返答出来ずに居ると、泣き伏す女を尻目に、宗盛であろうか、
「此の童共も後、七、八年もすれば我々にとって、害毒の種。悪因は早々に刈り取るのが上々。のう、父上。」
意地悪気なまなざしで、清盛公に視線を送た。
清盛公は息子の云う通りとは申せ、大の清盛程の者が、一族の安泰と源氏怖さで、この様な幼子のか弱い命を絶つ事は容易いが、世間をはばかる程の羞恥心はあった。
「儂は入道故、その様な血生臭さい事は好かぬ。おまえ達に任す。」入道清盛は不快そうな顔をして即決は避けた。
すると隣の部屋との境の戸が静々と開いた。
一人の老女が入って来ると、
「おおっ、池の禅尼でござるか。如何が致した。」
「入道殿、後生でございます。此の幼い童共の命、私に免じてお救い下され。この様な赤子の手足を捻っても、入道殿の得には為りませぬ。因果応報と申しまする。我々平家の安泰を、お考えでしたら尚の事、無慈悲な事は、是非ともお止しなされ。」
「そうじゃ、此の幼子達は寺に預け、仏弟子として亡き者共の菩堤を弔ってくれれば、又善業を積む事相違無い。のう、のう、のう。そう致そう。」
さすがに女親ともなれば、とても此の様な無慈悲なものは、見聞きに耐えぬらしい。
常盤の必死の命乞いも、池の善尼の口添えにて漸く、効を奏したものであった。
幼子達は雪降る中を、又々散り散りに引き裂かれて行くのであった。
京の冬は寒い。
其れにも増して此の親子の心の中は、厳しい絶望其のものであった。
「母上っ。母上っ。」
「母上ーっ。」
「母上ーっ。」
「…はっ。」
涙で夜具が濡れていた。
真っ暗な部屋の中で、九郎は暫し空を眺めていた。
その夜義経は宿舎にて寛いでいた。
「おせん。」
「はい。」おせんは遠慮勝ちに寄り添った。
「こちらへ来い。」
「はい、殿様。」
「束の間であったが、又行くぞ。」
悲しそうな目をしているが、おせんは頷いた。
「はい、心得て居ります。」義経は又悲しそうな目で、
「済まない、正妻として迎える事は、難しいままじゃ。」
「はい、存じて居ります。」
「今の侭でお帰りを待ちとうございます。」
「すまぬ、おせん。」
何処ともなく、遥か彼方から、悲しげな笛の音が聞こえて来る。「戦の無い世界へ参りたいのう。いや、そんな世の中にしてみたいのじゃ。」
「はい。」