鎌倉の春
「阿闍梨様はこちらにおいでか。」
「弁慶、参れ。」
「はっ、御前に。」
「そなたも変ったのう。」
市の谷の戦の後に、仮の祭段が整えられ、御魂が安置された。
一部焼け焦げた平氏一族の仮の住まい跡である。
義経は昔、鞍馬時代、僧籍にあった多くの人々から、硬・軟の温かい愛情を受け育った。
其の中で祭事の大切さが知らず、身に付いた様である。多くの武将の中でも慈悲と慈愛の情に恵まれた人物と云える。
彼は人間として為すべき事は、決して疎かにしない。
此処に後世に人望を残す要因があるのであろう。
広い斎場には義経を始め、義経配下の武士が居並んで居る。
義経の肝いりで、源氏、平氏、両族の戦死者の御霊が前方に祭られていた。
この市の谷の迅速な攻撃が始まる前に、義経と弁慶の機転で慰霊が手配されていた。
勝敗は武士の習いと申せ、名も無く異国の地に没し、朽ち果てる事は寂しいものである。
死する者は敵味方の隔て無く、祭る所存であった。
特別に叡山の阿闍梨を、内々に招聘したのも義経の考えであった。
平家追討の旅はまだまだ続くであろうが、同じ武士同士の礼儀として、義経はそうせざる了えなかったのである。
場内には馥郁とした香の香りが立ちこめ、皆の涙を誘った。
青二才の頃の弁慶を良く知っている阿闍梨は、只成長した若者を慈愛を込めて見つめて居た。
市の谷より四国へ流れた平清実の元へ、風の噂が届いた。
「殿、昨夜港街にて、面白い噂を耳に致しました。」
「む、聞こう。」
「はてさて、真実かどうか判りませぬが、街へ出入りする村上水軍の者と、最近馴染みになりまして。」
「うむ。如何致した。」
「先日我が方、市の谷では手痛い思いを居たしました。その恨み今だ、覚めやらぬ事ではありますが。」
「うむ。」
「あの戦で、敵の真実の首領格は御存知、九郎義経。戦の終了後に我々平氏、又源氏両軍。敵味方の隔て無く、あの地にて手厚い慰霊を執り行ったとの事。」
「其れで、どう致したのじゃ。」
「何でも京の都の叡山より、内々で阿闍梨様を招聘されたとの事。皆々懇ろに弔われたそうでございます。」
「そうか、敵乍ら天晴れと云いたいが、我等に油断を与えんが為に非ざるか。」
忠心から述べたつもりが、逆にこちらの腹まで探られそうで、忠言から述べたまでであったが男は思わずむっとした。
「我等平氏と源氏は、古来より賢きあたりの守護に永きに渡って、共に働いて参りました。過去に色々と確執が多く、今日に至ったものなれば、同じ武士同士、恩讐を越えた礼儀は、認めねばならぬと。」「お前は何時から、源氏方の贔屓になり下がったのじゃ。」
其処まで云われては、配下としては黙するしか無かった。
清実の部下の毛利某は、ぐっと堪えて下を向いてしまった。
「其の様な事を今どき。真に受けていたら、必ずや同じ轍を踏むであろう。甘い期待は禁物じゃ。」
つくずく思った。大化の改新の公武共に力を合わせた事実は、遠い過去の夢物語りになっているのであろうか。
市の谷で戦の後始末を終えた、数万の兵士は一旦、凱旋の帰途に着いた。取りあえず京へ立ち帰り、賢きあたりへ平氏征伐の報告をせねばならなかった。
その帰路の道々、不思議な表情をした男が居た。
黒毛の名馬に跨がった壮年の武将、義経のお目付役、梶原であった。
彼は一人馬上で考え込み、時々上の空で危うく落馬しそうな時もあった。
この度の戦で、市の谷の坂落しに、最初から反対だったのは、勿論梶原であった。
但しこの件に関しては、何故彼はその意志表示を翻したか。
それは恐らく源氏の武士として、臆病風を吹聴されるのが迷惑だったからであろう。
しかし、この戦の後始末には大いに反対論者であった。源平の果し合いが未だ白黒付いていない間に、味方なら兎も角、どうして敵方の慰霊まで、せねばならないのか。
是こそ源氏武士の士気の弛緩に関わるのである。
その様な甘い、弱腰でこれからの武士世界の仕置きが成るのであろうか。
又禁裏の許諾が得られたといえ、例え内々でも叡山の阿闍梨まで呼んで、その様な大事を決行するのは、行き過ぎであろう。
しかし、梶原の意見は当然の如くかわされた。源氏の大事と思い述べたまでで、是では自分としては、兄頼朝へ再度異論を伝えねばならない。
その事が梶原自身の忠節な勤めの表現であったろう。
等と色々考えを巡らせている内に、仲間の義経を売る様な自責の観念とで悩み、気が付くともう、京の宿舎前であった。
その夜、梶原は頼朝に久方振りの手紙を認めた。
季節は二月の半ば、鎌倉の春は優しい陽光が降り注ぎ、鮮烈な胸に染み入る様な浜風が吹き抜ける。
もう其処此処で鶯が鳴いている。頼朝の屋敷では早朝から、下男達が全ての戸を開け放ち、隅々まで拭き浄めている。
やがて頼朝公が出仕しようとして居ると、小姓の一人が
「殿、京の梶原殿より使いの者が。」
「よし、通せ。」
小姓は政務を執り行う詰所へ、頼朝公の予定変わりを知らせに行った。
「挨拶は良い、何事か。」
梶原の使いは、頼朝への報告書を手渡した。
市の谷の戦況報告と其の経過、及び戦勝後の後始末、特に最後には梶原からの、平家戦死者慰霊に関わる処理の不当性を朗々と書き綴ってあった。
さすがに初めは、鷹揚に読んでいた頼朝の顔は、次第に苦笑に変わり、最後には燗に堪え難い表情になった。
読み終わると、やや落ち着きを取り戻し、冷静な表情に戻った。「ふん、これだけか。」
暫く天井を睨んでいたが、やがて返書を認めて、使いを帰した。「九郎も九郎なら、梶原も梶原じゃ。」
不機嫌な顔をすると小姓を従えて、政務の座に引き上げて行った。多忙な政務に加えて、肝心の都や遠くの戦地での始末が、自分の手を離れた処にあるもどかしさに、焦燥感を覚える頼朝であった。