心の壁
人と人の距離は、言葉一つで近づくこともあれば、恐怖一つで止まってしまうこともある。
名前を呼ぶという、たったそれだけのことが、どれほど重い意味を持つのか。
そして「友達になる」という選択が、どれほど勇気を必要とするのか。
これは、自身がその一歩を踏み出せるのかどうかが試される。
不器用で、臆病で、それでも――逃げたくないと思ってしまった話だ。
もう一度アイアンハートさんを見た。疑問だらけで、だからこそ心配になって――つい口を開いていた。
「……アイアンハート さん、一体何があったんですか?話してもらえませんか?」
彼女は黙ったまま、こちらを睨むような目で見てきた。でも、その怒りは無理に作っているように見えた。どうしてそんな態度を……?
舌打ちが聞こえた。
「あんたに関係ないでしょ、誰も助けてなんて頼んでないわ」
その言葉が胸に刺さった。また……また間違えたのか?また……。
「……アイアンハート さん、教室に戻った方がいいと思います。もう遅いですし……」
教室までの道のりは、ずっと沈黙だった。重苦しい空気。視線を落としたまま歩いた。もしかして、正しくなかったのかもしれない。アイアンハート さんは怒っている。今回の怒りは、今までより深刻に感じる。もしかしたら、彼女は全部コントロールできていたのかもしれない。僕はただ邪魔をしただけなのかも……。
教室のドアを開けると、そこには古橋先生がいた。僕たち二人を見るなり、怒った表情になった。
「二人とも、どこに行ってたの!?今何時だと思ってるの?」
アイアンハート さんはいつも通り、反抗的に先生と向き合った。
「別にいいじゃないですか、結局来たんだし」
まだ視線を下げたまま――アイアンハート さんの迷惑になってしまって、今度は先生に怒られて……重苦しい気持ちだった。視線を下げていると、先生が何か勘違いしたようだった。
「もういい加減にしなさいアヤさん!あなたの態度は本当に問題よ!昨日部活動を見つけなさいって言ったのに、まだ入ってないじゃない。アレンくんだってもう入ったのに、あなたはまだ好き勝手しようとして」
「はあ?わたしはちゃんと――」
「黙りなさい!」
先生の突然の大声が冷たく響いた。アイアンハート さんへの叱責だったけど、その冷たさは僕にも伝わってきた。先生が二人の前まで歩いてくる。視線が僕の上に注がれているのを感じた。何かを観察しているように……そして突然、先生が言った。
「アレンくん、髪も乱れて、制服も汚れて……それに怯えているみたい……アヤさん、アレンくんに何かしたの?」
「はあ!?わたし何もしてないわよ!」
「嘘ね!もう我慢できないわ。あなたの反抗的な態度、これ以上見過ごせない。学園長と話して、あなたの退学について相談するわ……」
そう言うと、先生はアイアンハート さんの手首を掴んで引っ張り始めた。当然、アイアンハート さんは動揺して反論し始めた。
「ちょ、ちょっと待ってください先生!わたし何もしてないですってば!」
顔を上げた。すぐ近くで、アイアンハート さんの必死な表情が見えた……さっき見たあの表情と似ている……。どうしてアイアンハート さんはもっと素直になれないんだろう?どうして自分で物事を複雑にしてしまうんだろう?
また……黙って見ていることができなくなった。真実を知っているのは僕だ。先生が彼女を過去の態度のせいで不当に責めているのを……。
だから、声を上げた。
「古橋先生!」
声を上げた瞬間、全てが静まり返った。みんなの視線を感じた。でも言わなければならない。今、彼女を助けられるのは僕だけだ。
「アイアンハート さんは……悪いことは、してません……僕に何も……してません!」
少し顔を上げて、アイアンハート さんを見た。彼女は驚いた様子でこちらを見ていた。何も理解できていないようだった。でも僕も自分が理解できない。二人とも同じ状況だった。
先生が近づいてきた。
「アレンくん、嘘ついてないわよね?」
「……いえ、本当です……僕が遅刻しそうになって、アイアンハートさんがある生徒に絡まれているところに遭遇して……その生徒の年生もクラスも分かりませんが、彼女は……助けが必要でした……」
アイアンハート さんの声が聞こえた。止めようとしているように。
「待って――!」
「アヤさん、黙ってなさい!今アレンくんと話してるの」
先生がさらに近づいてきた。緊張する。でも強くならないと。アイアンハート さんに本当に起こったことを言えるのは、僕だけだ。
「アイアンハート さんが困っているのを見て……助けたいと思って……それで、その生徒とバトルになって……」
先生がじっと見つめてくる。恐怖を押し殺して、僕も先生を見返した……。
先生は諦めたようにため息をついた。
「分かったわ。あなたのことは信じられる。ちょっと言い過ぎたかもしれないわね」
先生はアイアンハート さんの方を向いて謝罪した。これで、アイアンハート さんはさらに驚いた様子だったけど、僕を見る目はもっと驚いているようだった。僕は彼女から目を逸らした。
先生がまた話し始めた。
「でもまだ警告よアヤさん。あなたまだどの部活動にも入ってないじゃない。もし入らないなら――」
「待ってください先生!」
アイアンハート さんが先生の言葉を遮った。でも今回は挑発的でも反抗的でもなかった。いつもと違う……。
「……もう決めました……どの部活に入るか……」
「それでどこなの?まだ申請書も出してないわよね?」
「……はっきりしてなかったんですけど、今はもう確信してます……演劇部に入ります!」
その言葉を聞いた瞬間、周りの時間が止まったように感じた。
アイアンハート さんが演劇部に?これはどういう意味だ?
彼女がこちらを振り向いた。そして驚いたことに――いや、恐ろしいことに――笑顔を向けてきた。
どう処理していいか分からなかった。自分の席に戻った。アイアンハート さんも自分の席に戻って授業が再開された。でも、起こったことを完全に理解することができなかった。
その時、小さな紙切れが机の上に落ちてきた。霧崎さんを振り向くと、その紙を見るように指差していた。開いてみると、メッセージが書いてあった。
『よくやったね。頑張ってるの見れて嬉しい』
霧崎さんが励ましてくれている。彼女も、他のみんなも、アイアンハート さんと先生のやり取り全部を見ていたんだ。
振り向いて彼女を見た。霧崎さんも視線に気づいて振り向いた。目が合った。動揺した。でも、その瞬間、彼女は微笑んだ。いつものあの、心と魂を温めてくれるような笑顔。
何も分からない。何も理解できない。自分自身が怖くなり始めている。もう自分自身が理解できない。
ただ……起こったこと、これから起こることに向き合うしかない。
アイアンハート さんの方を振り向いた。この位置からは背中しか見えない。でもどういうわけか、アイアンハート さんが変わった気がする。何かが違う。それとも、変わったのは僕自身なのか……。
今、彼女は何を考えているんだろう――……。
* * *
(アヤ)
あいつ……なんで演劇部に入るって言ったのよ?
わたしは、あの光景を思い出しながら、まだ信じられない気持ちでいた。アレン。あいつは……今まで見た中で一番変な奴だ。
初めてあいつを見た日のこと、覚えてる。あいつはあんなに緊張してて、まるで全身が震えてるみたいだった。正直、笑っちゃったわ。でも、その後——りんがわたしに審判を頼んできた時。りんとあいつのバトル。あれには驚いた。
でも、もっと驚いたのは……いや、腹が立ったのは、あいつのりんに対する態度。
男子なんて信用できない。わたしはそれをよく知ってる。だって……経験したもの。自分自身で。男子の本性ってやつをね。
もう男子を人として見てない。コインの表裏みたいなもの。表は優しい顔。裏は……いつも人を傷つける刃。
全部、あの男子から始まった。簡単に笑って、天国を約束して、地獄だけ残していった——あの男子。
それからずっと、頭の中で結論が勝手に出来上がっていく。毒みたいに。
『全員嘘つき』
『優しさなんてない。あるのは欲望だけ』
『女で遊ぶのが好きなのよ』
『絶対に変わらない』
最初は甘い。でもそれって、わたしたちを落とすためだけ。落としたら、次の女を探す。
「君は特別だよ」——あいつはそう言いながら、メッセージはどんどん冷たくなっていった。
褒め言葉は触るための口実。プレゼントは恩を着せるための罠。
電車の中で「偶然」体に触れてくる男子たち。クラスメイトが女子が赤くなるのを見て笑う光景。全部、大嫌い。
「君のことが大切だよ」って言いながら、本当は勝ちたいだけ。恋愛がトロフィーみたいに。
あいつが最悪だった。星空の下でデートに誘って……その後、わたしの気持ちを笑い者にした。
「ごめん」って都合のいい時だけ言って、同じ間違いを繰り返す。まるでわたしたちが取り替え可能みたいに……。
今見る男子は全員、あの裏切り者の残像。
だから確信してた。アレンも同じか、もっと悪い男子だって。
でも……アレンは……変なのよ。あいつは……変。
りんが言ってた。あいつは女性が怖いって。だから、ああいう態度なんだって。
……どんな過去を背負えば、そんな恐怖を持つわけ?
馬鹿げてるでしょ?
でも……あいつは本当にその恐怖を持ってて、本当に苦しんでるみたい……。
あの日、あいつにバトルを挑んだのには二つの理由があった。一つ目は、りんの仇を取ること。二つ目は……あいつが偽物だって証明すること。演じてるだけの男子だって。本当の自分じゃない何かを……。
でも、違った。
アレンは……そんな奴じゃなかった。
それでも、みこに嘘をついて代わりに戦わせた。なのに……みこは負けた。
わたしは怒りと混乱の中に閉じ込められてた。もっと色んな感情が渦巻いてた。
アレンはわたしが知ってる全てと違いすぎて、逆にイライラする。違うことが腹立つ。こんな自分が嫌になる。馬鹿みたい。
先生にアレンと一緒に部活を探せって言われた日。これはあいつを困らせるチャンスかもって思った。
でも……あいつは変わらなかった。
また、イライラした。
でも……あいつと言葉を交わすのは……悪くなかった。
そして、演劇部に入るって言った時……信じられなかった。
翌朝。
待ち伏せすることにした。一緒に教室に行くために。アカデミーへの道は一本道だから、待ってればあいつと歩ける。
演劇部のこと、話そうと思ってた。わたしも入ろうかなって。
……あいつを困らせるため?それとも、興味があるから?あいつの行動をもっと近くで見たいから?
でも、あいつがなかなか現れない。遅刻しそうになって、走って戻ろうとした時——
誰かとぶつかった。
二年生みたいだった。
見た瞬間、怖かった。
この男子は乱暴だ。何を言っても無駄。絶対に聞かない——そう感じた。
でも……その恐怖の中で……あいつが現れた。
アレンがわたしを守った。その男子とバトルまでした。
わたしには理解できない。
なんであいつはこんなに変なの?なんでこんなことするの?
女性が怖いって言ってたのに……なんでこんなことを?
なんであいつは……違うの?
バトルに勝った後も、その男子に立ち向かった。それだけじゃない。先生にもわたしを守って、遅刻の理由を説明してくれた。
本当に……アレンって何なのよ?
なんでこんなに違う気持ちにさせるわけ?
今、わたしは何をすればいいの?
分かんない。いくら考えても「分かんない」しか出てこない。
とりあえず……監視する。そう、あいつを近くで見張るの。いつか本性を暴いてやる。本当の性格を見つけてやるってば。
演劇部に入ったのも、そのためよ。ただあいつを追いかけて監視するため。
そう……それだけ。他に理由なんてない。
そう……そうよ……。
自分の言葉に自分で焦ってる。
認めたくない。アレンが……本当に違うなんて。
わたしが思ってた通りの男子じゃないなんて。
でも認めない……絶対に。
だって、まだ監視しなきゃいけないもの。あいつが違うなんて、まだ信じてないんだから……。
なのに……なんで今、あいつの方を見てるのよ……。
* * *
(アレン)
今日が演劇部の部活動に参加する初日だった。
何が起こるか分からなくて、緊張していた。授業終了のチャイムが鳴った瞬間――部活動に行く時間だ。
霧崎さんはいつも通り挨拶をして帰っていった。荷物をまとめて出ようとした時、すぐ横に誰かの気配を感じた。
振り向くと――アイアンハートさんだった。
まさか、彼女も同じ部活動に入るつもりなのか?何も言わないけど、明らかに一緒に行くのを待っているようだった。歩き始めると、少し距離を置いて彼女が付いてくる。やっぱり、そうだったのか。
演劇部の部屋に着くと、守さんが待っていた。アイアンハートさんを見た瞬間、彼の顔がぱっと明るくなった。
「やっぱりな!お前らふたりとも、この部活に向いてるって言っただろ?」
守さんは他の一年生メンバーを紹介してくれた。驚いたことに、知っている顔がいくつかあった。Eクラスの朋也さん、Dクラスのカリさん。他の三人は初めて会う人たちだった――Eクラスの正太郎さん、Bクラスのディオニさん、そして最後の女子は...何というか、近づくなと警告してくるようなオーラを放っていた。Aクラスのカサンドラさん。
「演劇部にはもっとメンバーがいるけど、とりあえずお前ら一年生同士で活動してもらうからな」
守さんの説明を聞きながら、演劇部がどう運営されているか、アカデミー内のイベントで公演をすることもあると知った。組織の仕方や活動内容を学んでいくうちに、何だか心地よくなってきた。ここで成長できる気がした。小さな希望の火が灯ったような感覚だ。
ただ――女子が近づいてくるたびに、やっぱりパニックになりそうになる。特にアイアンハートさん。彼女も入部したせいで、相変わらず皮肉っぽい冗談で絡んでくる。
「おい、アヤとアレン!」
守さんが突然呼びかけてきた。
「お前ら、めっちゃ仲いいじゃん。だから罰として、ふたりでこの箱全部、舞台裏に運んで整理しろよ」
「誰があんたと仲いいって言ったのよ!」
アイアンハートさんが即座に反論した。
「はは!それを言うこと自体が証拠だろ」
守さんの言葉に、アイアンハートさんは視線を逸らして黙り込んだ。
……彼女、どうしたんだろう?
ふたりで箱を運び始めた。気づいた――通路が思ったより狭くて、少し焦る。でもアイアンハートさんは気にせず、さっさと進んでいった。
大丈夫だろうか。箱を持って、狭い通路を歩いて、棚に置いて、彼女が来る前に出る。それを繰り返せばいいだけだ。
そう思いながら、黙々と作業を続けていた。
でも――
作業に没頭しすぎて、気づかなかった。アイアンハートさんが通路を歩いてきていることに。
「ねえ、なんでまだここにいるのよ?」
彼女が無理やり通り抜けようとして――身体が密着した。
そして、彼女は動きを止めた。
「……多分、挟まったわ……」
冷や汗が流れるのを感じた。
後ろに下がるスペースもない。彼女の身体が正面から押し付けられている。彼女の胸が、否応なく現実として伝わってくる。熱い。アイアンハートさんの体温が直接伝わってくる。まるで追い詰められた動物みたいだ――心臓がバクバクと鳴り、筋肉が硬直する。未知のものへの純粋な恐怖。
彼女の呼吸が荒い。一回一回の吐息が、ふたりの間で震えている。汗の匂い――彼女の努力と自分の混ざった匂いが、何だか非現実的だった。ただのデータとして記録されていく感覚。
なんで手が震えてるんだ?箱を押そうとしても、力が入らない。これは恐怖なのか、怒りなのか?
彼女の目を見る勇気はなかった。でも、彼女のまばたきが速いのは分かった。ストレスの兆候だろう。
彼女がもがくたびに、状況は悪化していく。膝と膝が擦れ合う。少し湿った彼女の髪が、シャツのボタンに絡まった。
「動かないで!」
彼女が叫んだけど、声が裏返っていた。顎を固く噛み締めている。見えない敵と戦っているみたいだ。
何をしても無駄だ。動けない。彼女がもがくたびに生まれる感触が、頭を真っ白にしていく。このまま意識を失いそうだ。恐怖だけが膨らんでいく。
アイアンハートさんは、きっと思ってるんだろう。僕が変態だって。わざとやったんだって。気持ち悪いって。いつも通り、最悪のことを考えてるんだろう――
なんて運が悪いんだ。彼女をこんな不快な状況に追い込んでしまった。自分を呪いたくなる。
突然、彼女が動きを止めた。
「……仕方ないわね。誰か来るまで待ちましょう。そのうち気づくでしょ……」
気まずい沈黙が続いた。
お互い目を合わせないようにしていたけど、何度か偶然視線が交わった。彼女の瞳に何かを見た気がした。軽蔑?恥ずかしさ?分からない。今は考察してる場合じゃない。
十秒が何時間にも感じられた。
そして――
「……おや?これは新しい恋愛シーンかな?」
守さんが入口に現れた。眉を上げて、からかうような笑みを浮かべている。
「いやいや、十分くらい見てたんだけどさ...その壁、押せば開くぞ」
顔が耳まで赤くなるのが分かった。慌てて偽の壁を押すと、一気に空間が広がった。アイアンハートさんが後ろによろめく。
誰も何も言わなかった。
でも守さんは去りながら笑っていた。
「あー、青春だなぁ」
彼女は何も言わずに離れていった。最後の表情も見れなかった。ただその場に立ち尽くして、何が起きたのか理解しようとしていた。
今日は本当に複雑な日だった。色々な経験をした。
……母さん、やっと女性への恐怖と向き合えるかもしれない。
* * *
今朝は目覚ましの音で目が覚めた。体は重い。演劇部の活動が続いていて、疲れが溜まっているんだろう。
そして――アイアンハートさんのことがあってから、もう二日が経った。
あれ以来、彼女は僕を完全に避けている。でも時々、視線を感じるんだ。こっちを見ているような……気がする。
やっぱり、最終的には嫌われてしまったんだろうな。謝ったところで、許してもらえるとは思えない。いや……それでも謝らなきゃいけない。たとえ許してもらえなくても、彼女の空間を侵してしまったのは僕のせいなんだから。彼女の気持ちを尊重しないと。
今日こそ、ちゃんと謝ろう。
そう決心して準備を終え、アカデミーへ向かった。
そして――
「……え?」
道の途中で、まさかの光景が目に飛び込んできた。
アイアンハートさんが……待っていた。僕を。
「ウィッス!アレン」
彼女が……挨拶を?それも、僕を待っていて?
何が起きているんだ?これはアイアンハートさんじゃない。誰だ、この人は?
彼女は恥ずかしそうに近づいてくる。挨拶を返してほしい……そう期待しているように見える。でも、頭が追いつかない。今の彼女の態度が、今起きていること全てが、理解できない。
黙ったままでいると、彼女の表情が変わった。
「ねえ!あんた失礼じゃない!?挨拶したのに返さないってどういうことよ!」
……皮肉だ。いつも誰に対しても反抗的な態度を取っている彼女が、それを言うなんて。
でも、選択の余地はない。それに、このチャンスを逃したくない。
「お、お、おはようございます……アイアンハートさん」
彼女は笑顔を見せた。けれど、さらに近づいてきて――その笑顔が、怖い笑顔に変わる。
「ねえ!わたしあんたのこと『アレン』って呼んでるってば!苗字で呼ぶのやめてよ!」
え……?
感情の衝突が頭の中で起きて、思考が真っ白になった。まるで粉々に砕けたみたい。顔面を殴られたような衝撃。
な、何て言った!?
まさか……名前で?彼女、僕のことを名前で呼んで……それで、自分のことも名前で呼んでほしいってこと!?
脳が――ショートした。一瞬で。
心臓が爆発しそうだ。いや、もう爆発したかもしれない。視界の端で光が点滅して、世界がスローモーションになる。
ちょっと待って、待って、待って……!名前で呼ぶって、いきなり!?早すぎるだろ、絶対に!
「……あ、え……そ、その……え……あ、あの……」
声が裏返る。終わった。顔が燃えるように熱い。いや、実際に燃えている。いや、崩壊している。
落ち着け。これは罠だ。そう、試練に違いない……神々の誘惑だ。
「これからはわたしのこと――『アヤ』って呼んで」
――ビープ音!突発的事態発生!
――その内部アナウンス止めろ!落ち着け!
心臓の音がうるさい。まずい……どうすればいい!?『アヤ』なんて呼べない!そんなに近い関係だったっけ!?
「ふふ、別に無理強いはしないけど」
違う……!その笑顔は悪魔的だ!その笑顔は絶対に僕を追い詰めようとしている……!
朝の風が木々を揺らし、花びらが空中を舞う。まるで世界が僕たちを祝福しているみたいだ。
……いや、違う。ただ名前で呼んでって言われただけだ。
アカデミーでの生活が、大きな変化の波に襲われている……。
今回から、静かに、しかし確実に別の段階へと進み始めます。
表面上は何事もない日常。
けれど、その裏では「歪んだ従順」と「沈黙の恐怖」が、確かに存在していました。
信頼とは何か。
先輩という立場は、絶対でなければならないのか。
そして――助けるという行為は、どこまで踏み込んでいいものなのか。
次回、裏庭に隠された真実と、避けられない衝突。
アレンの選択が、誰かの運命を大きく揺らしていきます。
この一歩は、救いになるのか、それとも――。




