英雄の条件
近づいた距離は、安心じゃなくて戸惑いを生むこともある。
言葉、視線、沈黙。
ほんの少しの変化が、心を大きく揺らしていく。
これは、関係が「変わり始めた」瞬間。
舞台の上で演技をするその男子生徒を見て、僕は衝撃を受けていた。
その瞬間、彼がちょうど僕とアイアンハートさんの方へ視線を向けた時、ぴたりと動きを止めた。彼の目が、僕たち二人の目に釘付けになる。
「あ、新入部員!」
彼は僕たち両方を指差しながら叫んだ。
瞬時に、教室内の全員が僕たちの方を振り向いた。まるで世界中の注目が自分に集まっているような感覚に襲われる。緊張で唾を飲み込みながら、横目でアイアンハートさんを見ると、先に入ってきたのは彼女なのに、彼女も明らかに居心地悪そうにしていた。
その男子生徒は素早く舞台から降りて、満面の笑みを浮かべながら僕たちに向かって歩いてきた。
「やあ、演劇部の部長をやってる星山守だ」
とても感じの良い人のようだった。笑顔を絶やさず、僕に手を差し出してくる。
「部長だけど、ここじゃ守って呼んでくれよ。苗字で呼び合う必要なんてないからさ、な?」
これって……内部ルールか何かなんだろうか?考えがまとまらないうちに、彼の後ろから一人の女子生徒が近づいてきた。彼女も笑っているが、もっとリラックスした好奇心に満ちた笑顔だ。
「や〜演劇部の副部長やってる、クロエ・ハートフォードだよ」
彼女を見た瞬間、何か独特のオーラを感じた。見た目以上に大人びているというか、まるで「母親」のような……そう、母性的な雰囲気が彼女の外見や振る舞いから漂っている。いや、考えすぎかもしれないが。
僕とアイアンハートさんは簡単に自己紹介をした。
アイアンハートさんは何とか平静を保とうとしながら答える。
「あー……なんていうか。わたし達、まだ部活を見て回ってるだけで、入部するかどうかは決めてないんだけど」
守さんは全く勢いを失わなかった。
「へぇ、見に来ただけか?てっきりもう決めてるもんだと思ったんだけどな。今、演劇部には一年生が五人いるんだ。お前らが六人目と七人目になれるぜ」
彼の表情が少し真剣になったが、それでも温かみは失われていなかった。
「なぁ、俺は才能を見抜く目には自信があるんだ。お前ら二人からは、舞台に必要な独特のオーラが出てるよ。演劇部に入ってくれたら、その中にある可能性を絶対に引き出してやる」
反応する間もなく、彼はアイアンハートさんの肩に片手を、僕の肩にもう片方の手を置いて、真っ直ぐ目を見つめてきた。彼の笑顔は心からのものだったが、まるで僕の内側まで見透かされているような感覚に襲われる。
「演劇ってのはただ演技する場所じゃないんだ。居場所なんだよ。ここじゃ、なりたい自分になれるし、心の中にあるものを表現できる。言葉にできないようなことまでな」
彼の視線が僕に注がれた。その強さに、思わず身震いする。そして、まるで僕の魂に直接語りかけるように、低い声で続けた。
「時々さ、世界が自分の声を聞いてくれないって感じることあるだろ?独りぼっちだって。でも、舞台に上がればその孤独は消えるんだ。お前の声は届くし、お前の感情は理解される。どんなに重いものを抱えてても、ここならそれを解放する方法が見つかる」
その言葉に、何も言えなくなった。まるで守さんが、最近僕が感じていたこと――プレッシャー、不安、孤独――を正確に理解しているかのようだった。
アイアンハートさんが僕の表情に気づいて、口を挟もうとする。
「まぁ、わたしは――」
でも、彼女が言い終える前に、守さんが穏やかな笑顔で付け加えた。
「今決めなくていいからさ。考えてみてくれよ。ここはいつでもお前らを待ってるから」
それ以上は何も言わず、一歩下がって僕たちにスペースを与えてくれた。
アイアンハートさんが僕を見た。僕の反応を待っているようだった。でも何も言えなかった。代わりに、守さんに向かって軽く頷く。
守さんは演技に戻るために踵を返し、僕たちも無言で教室を後にした。
廊下を歩きながら、守さんが言った全ての言葉が頭の中で深く響いていた。
アイアンハートさんがついに沈黙を破った。
「あいつ……変なヤツだと思わない?」
「……そうだな」
まだ考え込んだまま答える。守さんは、僕に全てを問い直させるような、まさにその言葉を投げかけてきた。もしかしたら、この演劇部は単なる演技をする場所じゃないのかもしれない。もしかしたら、本当になりたい自分を見つけ始められる場所なのかもしれない。
アイアンハートさんはスマホを見て、一瞬硬直したかと思うと、声を荒げた。
「やば!もうこんな時間じゃん。今日はここまでにしとこ」
アイアンハートさんはもう他の部活動を見て回る気はないようだったが、僕はまだ演劇部のことを考えていた。アイアンハートさんは独り言のようにつぶやく。
「先生に明日怒られるわ……」
先生が言っていたことを思い出す。「今日中に部活を見つけなければならない」と。
どうやらアイアンハートさんは既に寮に戻ろうとしているようだったが、僕がその場に立ち尽くして動かないことに気づくと、振り返ってこちらを見た。
「あんた、どうしたの?」
数秒間考え込む。今日起きた全てのこと、そして守さんの言葉が頭の中で響き続けている。ついに、決意を込めて答えた。
「決めたと思う。演劇部に入る……」
アイアンハートさんは驚いた表情で僕を見つめた。この状況が全く理解できないようだ。
「マジで?」
頷く。自分の決断に確信を持って。
アイアンハートさんの表情が、信じられないという気持ちと、僕が言葉にできない何かの間で揺れ動いた。そして沈黙したまま、横目で僕を見つめる。まるで適切な言葉を探しているかのように。
ついに、沈黙を破った。
「ふーん、よかったじゃん。変人の中に変人の居場所見つけてさ」
その言葉は皮肉にしか聞こえなかった。本気で言っているわけではないが、何か戸惑っているようにも見える。
彼女は視線を逸らし、僕に背を向けた。まるで、もっと何か言うべきかどうか迷っているように。そして、唐突に別れを告げる。
「じゃあね」
反応する間もなく、彼女はもう行ってしまった。
遠ざかっていく彼女の背中を見つめる。アイアンハートさんがあんな風に言うのは初めてだった。皮肉も辛辣なコメントもなく。彼女の口調に何かが引っかかったが、今それを分析している時間はない。
演劇部に戻ろう。決断を下した。そして今は、前に進むしかない。
軽いが確かな足取りで、演劇部へと向かった。到着すると、守さんが輝くような笑顔で迎えてくれた。まるで、これが避けられないことだと既に分かっていたかのように。
「――アレン!戻ってくると思ってたけど、思ったより早かったな。十分も経ってねぇじゃん……」
最後のコメントの皮肉が、妙におかしく感じられた。
時間を無駄にせず、彼は演劇部の入部申込書を差し出してくれた。受け取ってすぐに記入する。緊張と興奮が入り混じった気持ちだった。
守さんは僕のサインを見ると、熱心に拍手した。彼のエネルギーには引き込まれるものがあり、その熱意に思わず微笑んでしまう。
そして、より厳粛な雰囲気で、守さんは改めて自己紹介をした。
「俺は星山守、二年生のAクラスで、演劇部の部長やってる。よろしくな」
「よろしく……」
ほぼ自動的に答える。でも、「Aクラス」という言葉を聞いた瞬間、頭の中が一瞬真っ白になった。
その事実に、深く考え込んでしまう。今まで、Aクラスとの経験は威圧的なものばかりだった。彼らの圧倒的なレベルは、僕にとって手の届かないものの象徴だった。守さんがAクラスの一員だということは、一体何を意味するんだろう?
守さんを見る。彼は相変わらず自信に満ちた笑顔を浮かべている。他のAクラスの人間と対峙した時に感じた傲慢さや蔑みは、彼には微塵もない。
彼は違うのだろうか?それとも、単に本性を隠しているだけなのか?
教室を出ながら、その最後の疑問が頭から離れなかった。守さんは演劇が心の内を表現する場所だと言っていたが、彼自身が輝く笑顔と励ましの言葉の裏に、一体何を隠しているのか――そう考えずにはいられなかった。
* * *
目覚ましが鳴らなかった。
気づいた時にはもう遅かった。慌てて制服に着替えて、アカデミーへ急ぐ。
通学路を走りながら周りを見渡すと、誰もいない。いつもなら他の生徒たちで賑わっているはずの道が、今日は静まり返っている。
やばい、完全に遅刻だ……
息を切らしながら走っていると、前方で何かが起きているのが見えた。
立ち止まった。
アイアンハートさんだ。
彼女が誰かと話している――いや、違う。あれは話しているんじゃない。
明らかに揉めている。
相手は背の高い男子生徒。アイアンハートさんより大きい。僕よりも大きい。
咄嗟に近くの木の陰に隠れた。距離を置いて様子を窺う。何が起きているんだ?
「てめぇ、何様のつもりだ!」
男の怒鳴り声が響いた。
アイアンハートさんは何も答えない。ただ黙って立っている。
「どうした?喋ってみろよ。口だけの女が」
彼女は反論しない。それどころか……震えている?
足が小刻みに震えているのが、ここからでも分かった。
まさか……怖がってるのか?
いつも堂々としているアイアンハートさんが。あの、僕をからかってくるアイアンハートさんが、今は怯えている。
「おい、聞いてんのかよ!オレの荷物ぶっ飛ばして、押しのけて、それでスッと逃げられると思ってんのか!この野郎、返事しろ!」
彼女は顔を上げることすらできない。俯いたまま、ただ震えている。
「デジタルバトルだ!てめぇのポイント全部賭けろ!」
その言葉に、アイアンハートさんの体が跳ねた。
顔を上げて、震える声で言った。
「や……やだ!ポイントだけは……!あれは事故だったの、お願い……」
「うるせぇ!」
男子はアイアンハートさんの襟首を掴んで、乱暴に引き寄せた。
彼女のリュックが地面に落ちて、鈍い音を立てた。
「いいか、スマホ出せ。今すぐバトルだ」
「で、でも……審判がいないと……」
男子は嗤った。
「もう呼んだぜ。いつも一時間目サボってるダチがいるんだ。五分で来る」
アイアンハートさんの震えが激しくなった。足がガクガクと揺れている。
何かしなきゃ。
でも、何ができる?僕に――
「いやぁぁっ!!お願い、あれは事故だったの、わざとじゃ――」
パシッ!
乾いた音が響いた。
アイアンハートさんが尻餅をついて倒れた。
男子が……彼女を殴った。
静寂。
世界が止まったみたいだった。
胸の奥から何かが込み上げてくる。怒りだ。抑えきれない怒りが全身を駆け巡る。
気づいた時には走り出していた。
男子がアイアンハートさんに近づく。
その背中に体当たりした。
「うわっ!」
男子が地面に倒れる。
「大丈夫ですか、アイアンハートさん!」
彼女は目を見開いて僕を見上げていた。涙で潤んだ瞳。
「な、なんで……あんた……」
言葉が出てこないみたいだった。
考えている暇はなかった。
男子が立ち上がる音。睨みつけてくる視線。
そして遠くから足音。走ってくる誰かの足音。
さっき呼んだ友達か。
これは……バトルになる。
覚悟を決めた。
厄介なことに巻き込まれてしまった。
アイアンハートさんがなぜこんな問題に巻き込まれているのか理解できなかったけど、あんな場面を見てしまった以上、助けるのが当然だと思った。
そいつの友達が到着した。明らかに状況が分かっていない様子だ。男子は地面に唾を吐き、視線を逸らさずに僕を睨み続けている。その沈黙を破ったのは、男子の友達の方だった。
「おい、アルム、どうしたんだよ?」
「黙ってろ!遅ぇんだよ。こいつにもう見られちまったんだ」
どうやらあの男子はアルムというらしい。
怒りを込めて彼を睨んでいると、アイアンハートさんが僕の隣で立ち上がった。
「仕方ねぇな……オレ達の会話に割り込んでくるとは、てめぇ何様のつもりだ?」
「会話?……あれを会話って言うのか?君が彼女に平手打ちしたのに」
アルムは自分のしたことを後悔している様子はなかった。それどころか、僕が邪魔したことにイライラしているようだ。
「おい、オレはただこの女に、引き起こしたことの償いをしてもらいたいだけなんだぜ」
アイアンハートさんに視線を向けた。彼女は僕が見ていることに気づくと、少し目を逸らしたが、すぐに言葉を発した。
「わたしは何も悪いことしてない……走ってて、ちょっとぼーっとしてたから、ぶつかっちゃって、リュックを地面に落としちゃって……それで怒られたの。謝ったのに、この男子まだ怒ってて……わたしのせいじゃないってば!」
彼女はとても怯えていた。本当に悪いことはしていない。でも、なぜ走っていたんだろう?何をしていたんだ?
それ以上考える前に、アルムが再び口を開いた。
「おい坊主、消えろよ。この女はマジでうぜぇんだ。走ってきてオレにぶつかってきやがって、その拍子にリュックが落ちたんだよ。しかも文句ばっか言いやがるからブチ切れたんだぜ。だからこいつは相応の報いを受けるってわけだ」
アルムはアイアンハートさんとのバトルにかなり本気のようだった。でも、彼女はそのバトルを望んでいない。
もう一歩前に出た。まるで自分の体でアイアンハートさんを守ろうとするかのように。この行動の理由が自分でもよく分からない。そもそも彼女が女性であることにまだ怖さを感じているのに、それ以上にあの男子が怖い。感情の渦が心の中で荒れ狂っている。
「もし君がアイアンハートさんと戦うなら、僕も戦う!」
どこからこんな勇気が湧いてきたのか分からない。アルムに立ち向かおうとしている自分に驚いた。でもアルムは笑みを浮かべ、この瞬間を楽しんでいるようだった。
「後悔すんなよ、ははっ!」
アイアンハートさんは何も言わず、じっと僕を見つめていた。困惑しているのか、それとも僕がなぜこんなことをしているのか理解できないのか。でも、彼女を助けたい。その一心だけが、こうさせているんだ。
アルムの友達が審判の位置につき、ルールを宣言した。
「聞けよ!バトルは二対一だ。ルールは、最初に倒れた方が負け。賭けるポイントは……全部だ!」
アルムは勝利を確信したような笑みを浮かべながら、スマホを操作している。
アイアンハートさんの手が震えながらスマホを操作しているのが見えた。
何か言わなければ。拳を握りしめて、彼女に向かって言った。
「アイアンハートさん!大丈夫です、絶対に勝ちますから」
画面に表示された賭けポイントの総数は驚くほど高かった。235ポイント。
デジタルフィールドが現れ、僕たちを包み込んだ。バトルが始まった。
素早く糸を放ち、アルムを距離を保とうとした。アイアンハートさんも鎖を投げて彼を捕らえようとしたが、無駄だった。全く当たらない。
アイアンハートさんは集中できていないようだ。これは致命的かもしれない。
アルムはアイアンハートさんに向かって走った。どうやら彼のスキルは二刀の短剣らしい。彼女は攻撃を避けようとしているが、ほとんど動けず、胸や顔に何度も切り傷を負っていく。
糸を放ってアルムの動きを止めようとしたが、彼は片手で腕に向かってくる糸を切り裂いた。
アイアンハートさんに怒りが芽生えたようだったが、それも無駄だった。彼は彼女を蹴り飛ばし、数メートル先まで転がした。
アルムはアイアンハートさんだけに集中していることに気づいた。僕の反撃はほとんど無視している。これが彼の最大の過ちになるはずだ。
気づかれないように、糸を至る所に張り巡らせ始めた。でも、その間もアイアンハートさんは苦しんでいた。彼女の攻撃は全て無駄に終わっていた。
アルムが彼女に最後の一撃を加える前に、糸の準備を急いだ。
全ての準備が整ったとき、最悪のことが起きた――
アイアンハートさんが地面へ叩きつけられるのが見えた。攻撃でバランスを崩し、うつ伏せに倒れた。衝撃は鈍く、彼女は前のめりに倒れ、スキルの鎖がイライラした蛇のように周りでうねっている。体は前に傾き、勢いでお尻が上がっていた。スカートは動きで舞い上がり、一瞬宙に浮いてから落ち着き、下着の縁が見えてしまった。
分析に慣れている脳が、腕の傷を記録するのと同じ冷静さでその光景を記録してしまった。
そこに倒れ、敗北寸前の彼女を見て、胸に鋭い痛みを感じた。まるで過去が蘇るように……ひめかとの……
何も考えずに、全ての糸を一気に引き締めた。アルムは何が起きたのかも分からなかった。全ての糸が一斉に動き、彼を蜘蛛の巣に捕らえられた虫のように絡め取った。逃げる余地もなくなったところで、拳を握りしめた。糸がアルムを締め付け、瞬時に彼の悲鳴が響き、機械音声が僕とアイアンハートさんの勝利を告げた。
デジタルフィールドが消えた。アルムは以前よりも怒っているようだった。
僕に向かって殴りかかってきそうな勢いだったが、その時、見知らぬ声が彼を止めた。
「やめろ!」
彼は立ち止まり、声の主を見るために振り返った。僕も振り返ると、そこには生徒会長の銀太郎さんがいた。
アルムは舌打ちをし、知らないふりをしながら友達と一緒に立ち去り始めた。生徒会長が彼に何か言うと思ったが、何もなかった。まるで何事もなかったかのように、彼を行かせた。
彼は僕とまだ地面に座って全てを処理しているアイアンハートさんを見て、ただ一言。
「教室に戻れ。もう遅い」
そして彼も去っていった。ただ見送ることしかできなかった。
それから視線をアイアンハートさんに向けた。起きたことに打ちひしがれ、何もする気力がないようだった。こんな彼女を見ていると、僕も気分が沈んだ。彼女を助けなければならないという奇妙な衝動を感じた。
なぜこんな気持ちになるんだろう?彼女が近くにいることに恐怖も感じているはずなのに。
次回――
守るという行為は、勇気だけじゃ足りない。
誰かの過去に踏み込み、
その痛みに触れた時――
選択は、より残酷になる。
心の壁は、越えられるのか。
それとも、傷つくだけなのか。
次の展開を、ぜひ見届けてほしい。




