反撃
私の名前は鈴木麻子。
何十社、何百社とお祈りメールを見るのが当たり前の就職氷河期と言われた時代、靴底をすり減らし続けて踵も一緒になくなっていくのではと思われた頃、業界でも最大手と言われるメーカーに営業職として内定を貰うことが出来た。
勿論最初は飛び上がるほど嬉しかったのだが、季節の移ろいと人の心は同じのようで、二ヶ月も経てば、本当にこの会社に入社していいのだろうかと、疑念の靄が心の中をぐるぐると旋回して私は目を回して倒れそうになっていた。
私はミーハーだ。別にこの会社に入りたい理由があった訳じゃない。誰もが知っている会社に入って周りにチヤホヤされたかっただけなのだ。そのツケが回ってきたらしい。
一人ではこの迷宮から永遠に脱出できないと思ったので、幼稚園からの付き合いの友人に相談してみた。
友人は言った。
「入ってから考えればいいじゃん。内定貰うのも『縁』でしょ」
なるほど。一理ある。
私は縁を大事にすることにした。
新入社員研修で講師の名前を聞いたとき、これこそ『縁』なのだと悟った。
「黒沼 毒尾」
中々聞かない珍しい名前。輝かしい経歴。記憶の渦の中心から、該当する記憶が眼前に幾つも飛んでくる。
私には三歳上のお姉ちゃんがいる。私と違って責任感があって真面目な姉は、やりたいことがあって会社を選び、千葉のとある商社に内定を貰った。
その会社の新入社員研修で、お姉ちゃん心を壊してしまった。三ヶ月の休職の後、復帰を試みたのだが、結局会社を辞めてしまった。
休職期間に一人暮らしのお姉ちゃんを尋ねたとき、部屋の隅に丸められた資料らしきものが目に止まった。盗み見るのは悪いと思ったが、姉の目を盗んで中を確認すると、それは研修資料だった。
その資料に書いてあった講師の名前が、「黒沼毒尾」だった。
態々お姉ちゃんが大事な会社の研修資料をぐしゃぐしゃに丸めるのはおかしい。私は気になって、お姉ちゃんに何があったのかを聞いてみた。何があったのかを、ゆっくりと絞り出すように語る姿を見るのは胸が締め付けられるような気持ちになった。
全てを聞き終わり、お姉ちゃんが流れる涙を拭う様子を見ていると、私は見ず知らずの「黒沼毒尾」という男を確かに憎んでいるのだと自覚できた。
私は人に対して憎しみを抱くことは滅多にない。けれど、生まれて初めてと言ってもいい。心の中から真っ黒い触手が全身に伸びて、つま先からつむじまで私をすっかり支配してしまったようだった。
どうすればこの男に復讐ができるのだろうと考えた。けれど、大学二年生が黒沼と接点を持とうと思っても、途方もなく困難だった。黒沼の会社はアルバイトを募集していなかったし、新入社員も必要としていなかった。
復讐する機会などないのだと分かると、全身を支配していた黒い触手は心の奥の方へと引っ込んでいった。だが、それから今日に至るまで社会復帰できないお姉ちゃんを見るたびに、行き場のない黒い触手はひょっこりと顔を覗かせるのだった
なのに、まさか、こんな形で「縁」が生まれるとは。
旅行代理店として社員旅行を企画するグループワークでは、細かい設定や数字などは違うものの、姉に見せてもらった研修資料の内容とほぼ同じだった。
「鈴木さんはどんなプランがいいと思う?」
私が聞かれているのだと気がついて、意識が戻った。
このままだと不味いと思った。このグループワークは罠だ。中途半端なプランを提示すれば、黒沼が人格否定するためだけの材料にされる。完璧なプランを提示する必要がある。そして何より、ここにいる同期の誰も傷付いて欲しくない。
「みんなの言う通り、治安を考えるとグアムかシンガポールもいいと思う。だけど、私はこの資料の中に載っている従業員の人たちの情報をまとめてプランを組んだ方がいいと思うんだよね…。ねぇねぇ、ちょっと提案があるんだけど、二つのプランを用意してみない?」
Eグループはすごく良い人たちばかりで、嫌な顔もせず私の提案を面白いと言ってくれた。こうして私たちは二つのプランを練ることになった。
発表を終えて帰ってきたAグループ達の表情を見て、心の底から怒りが込み上げてきた。
予想していたことだが、黒沼は何も変わらず同じことを繰り返している。きっとお姉ちゃんと同じように精神を壊された人間が何十人、何百人もいるだろう。その後、どれだけ本人が苦しみながら生きているのかも知らずに、若者をいじめて楽しむ鬼畜な人間。心の奥から黒い触手が飛び出してくる。やっと、この怒りをぶつける先が見つかったのだ。
黒沼の思い通りにはさせない。絶対に。
発表を終え、黒沼の表情を見てから、このグループワークが成功に終わったのだと確信した。平静を装ってはいるが、黒沼の口元に力が入っている。Eグループに誰も涙を流している人間もいない。最高の復讐を成し得たと思い、とても清々しい気持ちになった。
だが、これで満足してはいけない。他のグループは傷つき、泣き崩れていたのだ。まだ研修は二週間ある。
「一つ聞くけど、個別に配った資料は見せあったりしてないですよね?」
私を明らかに訝しんでいる。怒りすら滲んでいる気がする。
「勿論です。あれ?…そういうルールでしたよね?」
挑発的に答えてみる。
「分かりました。これでグループワークは終了となります。どうぞ、研修室に戻って下さい」
勝敗は決まった。けれど、この男に突っかかりたい。
「え?発表の後は、先生のフィードバックがあるとお聞きしてたんですが、何もないんですか?その理由は、何故なんですか?」
面倒くさいだろう。イライラすればいいのだ。
「他のグループは泣いて帰ってくる子達もいました。大層なことを言ってくるのだろうと身構えていたのですが、なぜ、私達のグループには何もご意見を頂けないのでしょうか?教えて下さい」
「とても、完成度が高いと思いますよ」
何とか捻り出した言葉がこんな短い言葉とは。




