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第8章

 俺の目の前で、白鷺さんが、悪魔のように、いや、悪魔そのものよりも妖艶に微笑む。

 

「君の深層心理に、直接、アクセスするしかないようだ」

 

 その言葉が、俺の脳髄を、甘く痺れさせる。

 もはや、俺に抵抗する術はない。

 彼女のなすがままに、俺の精神は、丸裸にされてしまうのだろうか。


 俺が、そんな絶望的な覚悟を決めた、その時だった。


「ふん。手ぬるい、手ぬるいぞ、人間! そんな遠回しなことでは、この煩悩猿の本質など、分かりはしない!」


 そのとき、退屈そうに見ていたリルが、しびれを切らしたように叫んだ。

 そして、小さな指先を、くいっと動かす。


 その瞬間、部屋の中を、小さな、しかし悪戯っぽい魔力を含んだ風が、さっと吹き抜けた。


「きゃっ」


 白鷺さんが、小さく声を上げる。

 風は、彼女の髪を、ふわりと揺らした。


 それだけでは、なかった。

 ローテーブルの端に置かれていた、彼女の、あの黒い革張りのノート。

 風は、そのノートのページをパラパラとめくり、そして、つるりとした表紙を、テーブルの端へと滑らせた。


 パサッ。


 軽い音を立てて、ノートは床に落ちる。

 そして、フローリングの上を滑り、するすると、部屋のドアの下の、わずかな隙間から、廊下へと滑り出てしまった。


「あ……」


 俺と白鷺さんの視線が、ノートの消えたドアの隙間に、吸い寄せられる。

 

 静寂。


 部屋に満ちていた、ねっとりとした緊張感が、一瞬で、別の種類の、もっと冷たい緊張感へと変わる。


 まずい。

 あのノートには、俺の、あらゆるデータが。身体測定の結果から、メイド服への反応まで、俺の羞恥のすべてが、あの変態的な筆致で記録されている。


 あれが、誰かの目に触れたら――。


 そう思った、まさにその時だった。


 カチャ。


 廊下の方から、リビングのドアが開く音がした。

 そして、優しい、鈴の音のような声が聞こえる。


「詩帆ー? お友達、まだいるのー? そろそろ、お夕飯の時間だけれど。よかったら、お友達の分も用意するわよ?」


 白鷺さんの、母親の声だ。


 スリッパの、パタ、パタ、という軽快な足音が、だんだんと、こちらに近づいてくる。


 この部屋の、ドアに向かって。

 床に落ちている、あの、地獄の黙示録に向かって。


 俺の全身から、血の気が引いていくのが分かった。


 あんな変態的なノートが母親に見つかったら、どんなことになるか。

 想像もしたくない。


 俺は、変態美少女の共犯者として、社会的に抹殺されるだろう。


 俺は、隣の白鷺さんに視線を送った。

 彼女は、凍り付いていた。


 いつもの、余裕綽々の、捕食者のような表情は、どこにもない。

 血の気の引いた、真っ白な顔。

 

 見開かれた瞳には、明らかなパニックの色が浮かんでいる。

 その姿は、いつもの完璧な彼女ではなく、ただの、追い詰められた、一人の女の子だった。


 その表情を見た、瞬間。

 俺の頭の中で、何かが、切り替わった。


(やばいのは、俺だけじゃない)


 そうだ。俺のプライバシーなど、どうでもいい。

 問題は、白鷺さんだ。


 これがバレたら、彼女の、完璧な優等生というイメージは、木っ端微塵に砕け散る。

 家族に、どんな顔をすればいい? 学校での立場は?


 彼女の、今まで築き上げてきた全てが、崩壊する。


 それは、ダメだ。

 たとえ、彼女が、どれだけ俺をオモチャにしてきた、ド変態だとしても。

 この、今にも泣き出しそうな顔を、見捨てることなんて、できるはずがない。


(……守らなきゃ)


 初めて、そう思った。

 自分の欲望のためじゃない。自分の保身のためでもない。

 

 ただ、目の前にいる、この追い詰められた女の子を、守らなければならない。


 パタ、パタ、パタ……。

 足音は、もう、ドアのすぐそこまで来ている。


 俺は、目を固く閉じる。

 そして、ただ、一つのことだけを、心の中で叫び続ける。


(白鷺さんを、守る! 彼女の、完璧な日常を、俺が!)


 興奮を、願いで、上書きする。

 欲望を、意志の力で、ねじ伏せる。


 すぅっ……。


 体が、軽くなる。

 成功した。俺は、祈りが通じたことを確信する。


 俺は、音もなく、床を滑るように移動する。

 目の前で、ゆっくりと、ドアノブが回り始めた。


 ギィ……。


 ドアが、開く。

 優しい母親の、スリッパを履いた足先が見える。


 そして、そのすぐ先に、例の黒いノートが、まるで時限爆弾のように、鎮座している。

 母親の視線が、床に落ちたノートを、捉える――その、寸前。


 俺は、床にダイブした。

 俺の手が、ノートを鷲掴みにし、そしてすばやく物陰に隠れる。


 母親は、何も気づかない。


「あら、 どうかしたの、顔が真っ赤よ」

「な、なんでもない! ちょっと、部屋が暑いだけ!」


 しどろもどろになる白鷺さん。

 母親は、怪訝そうな顔をしたが、「あら、お友達は帰ったのね」と言ってドアを閉めた。


 静寂が、部屋に戻る。

 嵐は、去った。


 俺は、その場にへたり込んだまま、能力を解除した。

 ぜぇ、ぜぇ、と、息が荒い。

 心臓が、今にも飛び出しそうだ。


 手の中には、確かに、あの黒いノートが握られている。


 俺は、ゆっくりと立ち上がり、まだ呆然と立ち尽くしている白鷺さんの方を向いた。

 そして透明化の能力をとく。

 彼女は、俺と、俺が持つノートを、信じられないものを見るような目つきで、交互に見ている。


 その顔は、まだ、リンゴのように赤い。


 気まずい。

 めちゃくちゃ、気まずい。


 何か、言わなければ。


 俺は、彼女の元へ歩み寄り、ぶっきらぼうに、ノートを突き出した。


「べ、別に、お前のためじゃねーからな!」


 我ながら、なんてテンプレなツンデレセリフだろうか。

 だが、今の俺には、そう言うことしかできなかった。


「俺の、データが、外部に漏れたら、困るだけだ! 勘違いすんな!」


 白鷺さんは、俺の言葉に、はっ、と我に返ったように、ノートを受け取った。

 そして、宝物のように、ぎゅっと、胸に抱きしめる。


 彼女は、何も言わない。


 ただ、潤んだ瞳で、俺の顔を、じっと見上げていた。

 その瞳に宿っていたのは、感謝か、安堵か、それとも、別の何かか。


 いつもの、支配者のような、余裕のある表情は、どこにもなかった。

 俺たちは、ただ、無言で、見つめ合う。


 俺と彼女の間にあった、歪んだ支配関係が、音を立てて崩れ、そして、新しい関係が、静かに、芽生えようとしていた。

 それは、秘密と、弱さと、そして、ほんの少しの信頼で結ばれた、奇妙で、危険な関係が――。


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