第5章
俺の高校生活は、新たなステージに突入していた。
それは「実験」という名の、白鷺詩帆による、俺の尊厳を削り取る儀式の日々だ。
「おい、人間。今日は何やら、校内が浮足立っておるな」
肩の上で、リルが退屈そうに足をぶらぶらさせながら言う。
俺は、教室の窓から外を眺め、深く、深ーいため息をついた。
「ああ。今日は、女子の健康診断の日だ」
その言葉を口にしただけで、俺の心臓が、ドクン、と期待に跳ねる。
健康診断。それは、男子にとって、一年で最もイマジネーションがたくましくなる一日。
普段は制服という名の鎧に守られた、女子たちの柔らかな素肌が、白日の下に晒される、聖なる祭り。
「ほう? つまり、女子の裸がそこかしこにある、と。貴様のような煩悩猿には、たまらん一日というわけか」
「うるせえ。これは、ただの祭りじゃない。試練だ」
俺は、リルに向かって、真剣な表情で言い放つ。
「極限の興奮状態の中で、いかに精神を平常に保ち、能力を制御するか。これは、今の俺にとって、最高の修行になる!」
「ふん。ただの覗きを、それっぽく言い換えただけではないか。呆れた奴め」
リルのツッコミなど、聞こえないフリをする。
そうだ、これは修行だ。
行かなければならない。
俺が、このポンコツ能力を使いこなす、唯一の道なのだから。
決意を固めた俺は、リルに悪態をつかれながら、保健室へと向かった。
もちろん、完璧な透明状態で。
◇
俺は保健室の中へと潜入した。
ツン、と鼻をつく消毒液の匂い。
カーテンで仕切られた、簡易的な診察スペース。
女子生徒たちの、緊張と緩和が入り混じった、ひそひそ話の声。
俺は、部屋の隅にある、人体模型の影に身を潜め、これから始まるであろう祭典を、固唾をのんで見守った。
身長計の前では、クラスメイトの女子たちが、キャッキャと騒ぎながら、数ミリの差に一喜一憂している。
視力検査では、見えない方の目を必死に細める姿が、小動物のようで、なかなかに愛らしい。
平和だ。なんて、平和な光景なんだ。
だが、本当の戦場は、カーテンの奥。
心電図測定スペースだ。
やがて、最初の女子生徒が、先生に呼ばれて、カーテンの中へと入っていく。
俺は、心臓の音を抑えながら、ゆっくりと、その聖域へと近づいた。
カーテンの隙間から、中を覗く。
そこにいたのは、テニス部の、活発な女子だった。
彼女は、少し照れたように、制服のブラウスのボタンに、指をかけている。
「はい、上着、脱いでねー」
先生の、のんびりとした声が響く。
彼女は、こくりと頷くと、意を決したように、ボタンを一つ、また一つと外していく。
俺の喉が、ごくり、と鳴った。
白いブラウスがはだけられ、その下から現れたのは、水色の、爽やかなレースがあしらわれたブラジャーだった。
普段の快活なイメージとは違う、その可愛らしいデザインに、俺の脳は、一瞬で沸騰した。
彼女は、慣れた手つきで、背中に手を回し、ホックを外す。
そして、上半身、裸に。
張りのある、健康的な肌。
華奢な肩甲骨のライン。
そして、正面からでは窺い知れない、その柔らかな膨らみの、美しい曲線。
(うおおおおお……! これが、これが女子の……!)
俺の興奮は、早くも臨界点に達しようとしていた。
やばい。このままでは、また体が可視化してしまう。
なんとか精神を落ち着かせ、俺は次の獲物、いや、観察対象へと意識を移す。
次に現れたのは、吹奏楽部の、おとなしい女子だった。
彼女は、恥ずかしそうに、ゆっくりとブラウスを脱ぐ。
その下に着けていたのは、シンプルな、真っ白のコットンブラ。
その、あまりの清純さに、俺は別の意味で脳を焼かれた。
清楚系、最高かよ……。
彼女が、ベッドに横たわり、先生が、心電図の電極を、彼女の胸に貼り付けていく。
ペタ、ペタ、と。
その、吸盤が肌に吸い付く、生々しい音。
白い肌に付けられた、カラフルな電極。
その、あまりにもアンバランスな光景が、俺の、新たな扉を、ノックしていた。
ドクンッ! ドクンッ! ドクンッ!
心臓が、警鐘のように鳴り響く。
もうダメだ。限界だ。
俺は、自分の足元を見る。
案の定、俺のスニーカーが、保健室の白いリノリウムの上で、ぼんやりと、陽炎のように揺らめき始めていた。
やばいやばいやばいやばい! 消えろ! 俺の足!
俺が、血の気が引くのを感じた、その時だった。
すぐ近くで、一人の女子生徒が、順番を待ちながら、スマホをいじっていた。
その彼女が、ふと、視線を床に落とす。
その視線が、俺の、実体化しかけている足元へと、ゆっくりと、向かっていくのが、スローモーションで見えた。
終わった。
今度こそ、本当に。
そう、俺が全てを諦めかけた、その瞬間だった。
ガシャアアアアアアアンッ!!!
突然、部屋の反対側から、金属製のトレイが床に叩きつけられるような、けたたましい音が響き渡った。
「きゃっ!?」
「な、何!?」
保健室にいた全員の意識が、一斉に、音の発生源へと向かう。
俺も、そちらに視線を向け、息を呑んだ。
そこにいたのは、ベッドの縁に座り込み、青ざめた顔で口元を押さえる、白鷺詩帆の姿だった。
彼女の足元には、ステンレス製のボウルや、ピンセットといった医療器具が、無残に散らばっている。
「すみません、先生……」
白鷺さんは、か細い、今にも消え入りそうな声で、養護教諭に告げる。
「急に、めまいが……。手が、滑ってしまいました」
先生も、他の生徒たちも、心配そうに彼女の元へと駆け寄っていく。
「白鷺さん、大丈夫!?」
「顔、真っ青よ!」
その混乱の中、俺は、ただ一人、理解していた。
彼女は、俺を、助けたのだ。
俺は、その隙に、音を立てないように、幽霊のように保健室から這い出し、廊下で能力を解除した。
心臓は、まだバクバクと鳴り響き、全身から、冷や汗が噴き出している。
助かった。
だが、なぜ彼女は俺を助けた?
その答えは、その日の放課後、屋上で突きつけられた。
俺を呼び出した白鷺さんは、もう、あの時の青ざめた表情など、微塵も見せず、氷のように冷たい瞳で、俺を見下ろしていた。
「今日の君の行動、実に愚かだったな」
「……」
「いずれ、そういった行動に出るだろうとは予測していた。それにしても、予想以上に、君の自制心はもろいらしい」
やはり、全て、彼女の計算通りだったのだ。
「貴重なサンプルを、あんなくだらないミスで失うところだった。社会的に抹殺されたサンプルに、研究価値はないからな」
彼女は、ふぅ、とため息をつくと、俺に一歩近づいた。
「これで、君は私に『借り』ができたな」
その言葉に、俺はゾッとする。
「今後は、君の行動は、すべて私が管理・記録させてもらう。私の許可なく、この能力を、勝手に使うことは許さない。いいな?」
それは、絶対的な命令だった。
俺は、もはや、頷くことしかできない。
助けられたはずなのに、首に繋がれた鎖は、より太く、より重くなった。
俺は、この美しき悪魔の手の中で、転がされ続けるしかないのだろうか。
その事実に、俺は、ただただ、唇を噛みしめることしか、できなかった。