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第4章

 夕暮れの光が、俺と白鷺詩帆の間に、長い影を落とす。

 彼女はゆっくりと体を起こし、拾い上げたペンを指先で弄びながら、俺の可視化された足首から、何もない空間の、俺の顔があるであろう位置へと、視線を滑らせた。


 そのアイスブルーの瞳には、もはや冷静な分析の色はない。

 あるのは、溶岩のように熱く、底なし沼のように深い、ねっとりとした悦びの色だった。


「……観念、したかな」


 その声は、悪魔の囁きのように甘く、そして冷たい。

 俺は、全てを悟った。

 抵抗は、無意味だ。

 言い訳も、通用しない。


 俺はゆっくりと、能力を解除する。

 ぼんやりとした光の輪郭が俺の全身に浮かび上がり、やがて、夕日を浴びて情けなく立ち尽くす、制服姿の俺が、彼女の前に姿を現した。


「……白鷺、さん」


 かろうじて、絞り出した声は、自分でも驚くほど、か細く震えていた。

 彼女は、俺のその情けない姿を、愛おしいものでも見るかのように、うっとりと細める。


「素晴らしい……」


 彼女は、恍惚としたため息と共に、その言葉を紡いだ。


「本当に、素晴らしいわ、影山君。君は、神が私に遣わした、最高の贈り物よ」

「は……?」

「ずっと、探していたんだ。ずっと、渇望していた。この、偽善と建前で塗り固められた世界で、混じりけのない、純粋な『本質』をね」


 彼女は一歩、俺に近づく。

 フローラル系の甘い香りが、俺の鼻腔を支配する。


「女子の前では、格好つけたい。誠実でありたい。下心などないフリをする。男子という生き物は、いつだってそう。つまらない虚飾の鎧を、誰もが着込んでいる。それは、あまりにも、美しくない」


 彼女の言葉は、まるで詩を朗読するかのようだ。

 だが、その内容は、あまりにも歪んでいる。


「でも、君なら。君という、最高のサンプルを使えば、私は見ることができる」


 彼女の白い頬が、夕日を受けて、ほんのりと上気している。

 その瞳は、熱に浮かされたように、潤んでいた。


「男子の、無防備な姿。その、ありのままの生態。そして……欲望に揺れる、混じりけのない純粋な反応を。誰にも咎められずに、心ゆくまで、観察できる……!」


 ああ、ダメだ。

 彼女は、俺の想像を遥かに超えた、本物の、真性の、ド変態だ。


 知的好奇心?

 違う。

 

 彼女の原動力は、もっとシンプルで、もっと根源的な、ただの「スケベ心」だ。

 俺と同レベルか、いや、その純度と深度においては、俺など足元にも及ばない、遥か高みにいる。


 俺が、その事実に戦慄していると、俺の隣で軽い衝撃があった。


「ほう。こいつ、なかなか見込みがあるではないか、人間にしては!」


 見ると、いつの間にかリルが俺のそばに浮かび、感心したように腕を組んでいた。


「我輩の魔術の本質を、直感で見抜いておる。それ以上に、その欲望の『質』が良い。実に、実に良いぞ!」


 リルは、ケラケラと楽しそうに笑う。

 俺の絶望的な状況が、こいつにとっては最高のエンターテイメントらしい。


 俺は、彼女にリルの姿が見えているのかどうか、一瞬不安になった。

 だが、その不安は、すぐに別の形の恐怖へと変わる。


 白鷺さんは、俺の肩に座るリルを一瞥し、全く動じなかった。

 それどころか、そのアイスブルーの瞳を、さらにキラキラと輝かせたのだ。


「……悪魔。なるほど、君の能力の根源はこの子か。論理を超えた存在……なんて魅力的なのかしら」


 彼女は、うっとりとした表情で、リルと俺を交互に見つめる。

 どうやら白鷺さんにはリルの姿が見えているらしい。

 リルが意図的に見せているのだろう。


「素晴らしいわ。研究対象が、一気に二つに増えてしまった」

「ふん。我輩を、そこの煩悩猿と同じにするな。まあよい。貴様のその歪んだ探究心、我輩は気に入った。この契約者で遊ぶことを、特別に許可してやろう」

「え、ちょっと待って! 俺の意思は!?」


 俺の悲痛な叫びは、二人の変態によって、完全に無視された。

 白鷺さんは、どこからともなく、黒い革張りの、真新しいノートを取り出す。


「まずは、このサンプルの基礎データを記録する必要があるわね。名前、影山透。身長、体重、身体的特徴……ふふ、これから、このノートが君の情報で埋まっていくのが楽しみだわ。能力の耐久性も気になるな。どれくらいの精神的負荷まで、透明化を維持できるのか」


 俺を置き去りにして、二人の「共同研究」計画は、着々と進んでいく。

 白鷺さんは、ノートにサラサラと何かを書き込みながら、時折チラリと俺を見ては、妖艶に微笑む。

 リルは、周囲をぴょんぴょん跳ねながら、無責任な提案を繰り返す。


 ああ、終わった。

 俺は、美しき変態と、ポンコツな悪魔に、完全にロックオンされてしまった。


 逃げ場はない。

 俺の、平凡で、しかし平和だった日常は、音を立てて崩れ去っていく。


「じゃあ、決まりね」


 白鷺さんは、パタン、とノートを閉じる。

 その仕草すら、やけに絵になっているのが腹立たしい。


 彼女は、俺に向かって、聖母のような、それでいて悪魔のような、完璧な微笑みを向けた。


「これから楽しみだわ、影山君」


 その言葉は、甘い死の宣告のように、夕暮れの教室に、静かに響き渡った。

 俺は、ただ、乾いた笑みを浮かべることしか、できなかった。

 

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