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第3章

 放課後。

 オレンジ色の西日が、教室に長い影を落としている。

 クラスメイトたちの喧騒は、もう遠い。

 聞こえるのは、窓の外で活動する運動部の掛け声と、机の木が軋む、静かな音だけ。


 この空間にいるのは、俺と、そして白鷺詩帆の二人きり。

 彼女は日直の仕事らしく、教卓で黙々と日誌を書いている。


 さらさらとペンを走らせる音だけが、やけにクリアに響いていた。


 俺はもちろん、透明だ。

 昼間のニアミス以来、俺の心臓はまだ落ち着きを取り戻していない。


 頭の中では、警報が鳴り響いている。

 やめろ、と。これ以上、この聖域に踏み込むな、と。


 だが、俺の本能は、理性の警告などガン無視だった。

 

 二人きり。誰もいない教室。

 夕日に照らされる、白鷺詩帆。


 このシチュエーションで、何もしないなんて選択肢が、健全な男子高校生にあるだろうか。

 いや、ない。断じてない。


 俺は息を殺し、幽鬼のように彼女の机に近づく。

 彼女のシャンプーだろうか、フローラル系の甘い香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。


 やばい。これだけで、心拍数が上がる。

 俺は必死に雑念を振り払う。

 

 大丈夫だ。匂いを嗅ぐだけ。

 これはただの、アロマテラピー的な、癒し行為だ。


 彼女が、すっ、と背筋を伸ばす。

 その動きに合わせて、白いブラウスの生地がしなり、背中の華奢なラインを浮かび上がらせた。


 ああ、なんて芸術的な曲線だ。

 あの背骨のラインに沿って、指を滑らせたら……。


 ドクン!


 いかん、いかん! 煩悩退散!


 俺は、自分の席の近くまで後退り、息を整える。

 遠くから見ているだけなら、安全なはずだ。


 その時だった。


 カタン、コロコロ……。


 彼女の手から、シャープペンシルが滑り落ちた。

 それは、放物線を描いて床に落ち、彼女の足元へと転がっていく。


「あ……」


 小さく声を漏らし、彼女は椅子から腰を浮かせ、床に落ちたペンを拾おうとかがんだ。


 ――チャンスだ。


 俺の脳細胞が、一斉に沸騰する。


 神が、いや、悪魔が与えてくれた、千載一遇のチャンス。

 彼女は、俺に背を向けるような形で、ゆっくりと体を屈めていく。

 それに伴い、プリーツスカートの裾が、重力に従ってふわりと持ち上がった。


 見えた。

 白いブラウスの下から伸びる、すらりとした腰のライン。

 キュッと引き締まったウエスト。

 そして、その先にある、丸みを帯びた、完璧なフォルムの臀部。


 さらにその下には、神の造形物としか思えない、白く滑らかな太ももが……。


(……いける! その先まで……!)


 俺の興奮は、一気に沸点を超えた。

 これはもう、不可抗力だ。

 男としての、生物としての、根源的な欲求だ。


 俺は、彼女のスカートが作り出す、神秘の暗黒星雲の奥に広がる、光の世界を観測すべく、一歩、踏み出した。


 その瞬間。


 嫌な感覚が、右足に走った。


 俺は、自分の右足に視線を落とす。 

 俺の、履き慣れたスニーカーと、くるぶしソックスが、まるで切り取られたパーツのように、くっきりと、そこに“存在”していた。


 床から、足首だけが、生えている。

 あまりにシュールで、あまりに絶望的な光景。


「あ、あ、あ……」


 声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まる。

 

 やばい、やばい、やばいやばいやばい!

 

 消えろ、消えろ俺の足!

  今すぐ透明になれ!


 俺がパニックに陥っている間にも、白鷺さんは、あっさりとペンを拾い上げ、ゆっくりと体を起こした。

 そして、日誌に何かを書き込もうと、視線を机に戻し――。


 ぴたり、と。

 彼女の動きが、止まった。


 そのアイスブルーの瞳が、わずかに見開かれる。

 彼女の視線は、床の一点を、正確に捉えていた。


 俺の、右足を。


 時間が、止まる。

 心臓の音が、ドクンドクンと、頭蓋骨の中で反響している。


 終わった。


 俺の人生は、今日ここで、終わった。


 悲鳴。軽蔑。社会的な死。

 あらゆる絶望的な単語が、脳内を駆け巡る。


 だが。


 白鷺詩帆の反応は、俺の稚拙な想像を、遥かに超えていた。


 彼女は、驚きも、恐怖も、一切顔に出さなかった。

 ただ、じっと、床から生えた俺の足を、五秒、十秒と、無言で見つめ続ける。


 やがて、彼女はゆっくりと顔を上げ、俺の足首の上、何もない空間を、まるでそこにいる俺の全身をスキャンするかのように、冷徹な瞳で眺め回した。


 そして、その形の良い唇が、静かに開く。


「……なるほど」


 え?


 俺がその一言の意味を理解する前に、彼女は、次の信じられない行動に出た。


 カチャリ。


 彼女は、今拾ったばかりのシャープペンシルを、わざと、指から滑り落とした。

 ペンは、先ほどとほぼ同じ場所に、音を立てて転がる。


 そして、彼女は、再びゆっくりと、椅子から腰を浮かせた。

 今度は、床のペンではなく、俺の可視化された足首を、じっと見つめながら。


 その口元には、かすかな、本当に微かな笑みが浮かんでいるように見えた。


「……ふむ。どうやら特定の条件下で、身体の一部が実体化するようだな」


 彼女の声は、どこまでも冷静な、分析者のトーン。

 だが、その言葉の響きには、明らかに、ある種の愉悦が滲んでいた。


「再現性を、確認したい」


 そう言って、彼女は、見せつけるように、ゆっくりと、ゆっくりと、床に向かって、その華奢な体を屈めていく。

 プリーツスカートの裾が、再び、ふわりと、舞い上がる。


 俺は、動けなかった。

 透明な体は、金縛りにあったように硬直し、ただ、目の前で繰り広げられる、悪夢のような光景を見つめることしか、できなかった。


 まさか――。

 分かってて、やってるのか?

 俺の反応を、楽しんでいるのか?


 氷のように冷たい彼女の瞳の奥で、確かに燃えていた。

 それは、知的好奇心などという生易しいものではない。


 獲物を見つけた、捕食者のような。

 新しいオモチャを見つけた、子供のような。


 純粋で、無邪気で、そして底なしの――変態の光。


 俺は、自分がとんでもない人物の、とんでもないスイッチを押してしまったことを、この瞬間、ようやく理解したのだった。

 

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