第2章
教室の窓から差し込む気怠い光が、ホコリをキラキラと照らしている。
教師の抑揚のない声が、まるで遠い国の催眠術のように鼓膜を揺らす。
周囲では、クラスメイトたちがノートを取ったり、船を漕いだり、思い思いの時間を過ごしている。
ごく普通の、ありふれた高校の教室。
「……くそっ」
誰にも聞こえない声で、俺は悪態をつく。
原因は、もちろん俺の隣で、ふよふよと浮いている銀髪ツインテールのチビッ子悪魔、リルだ。
こいつのせいで、俺の人生は、天国と地獄を往復するジェットコースターと化した。
俺は試した。手に入れたばかりの、夢の透明化能力を。
まず手始めに、隣の家に住む美人女子大生、ミカさんの部屋を覗こうとした。
彼女の部屋に忍び込み、まさにこれから、という瞬間に、俺の脳裏をよぎったのは、ミカさんの豊満な胸と、シャワーシーンだった。
その瞬間、俺の右手首から先が、ぼんやりと光りながらミカさんの部屋の空中から生えた。
結果、ミカさんの「キャアアアア!」という悲鳴ととともに、俺はそそくさと退散した。
次に、本屋でエロ雑誌を立ち読みしようとした。
完璧な透明化で、エロいコーナーへ。
手に取った雑誌の、わがままボディを堪能しようとした、まさにその時。
俺の顔が、チカチカと点滅を始めた。
蛍光灯が切れかかるみたいに、見えたり見えなかったりを高速で繰り返す。
周囲のオッサンたちの「お?」みたいな視線を感じ、俺は雑誌を放り出して逃げ帰った。
結論は、出た。
この能力は、エロいことを考えたり、興奮したりすると、ランダムな部位が可視化するという、致命的な欠陥を抱えたポンコツ能力だったのだ。
「だから言ったであろう、矮小なる人間よ。悪いのは我輩の能力ではない。貴様の、その煩悩にまみれた精神の方だと」
リルが、俺の耳元で得意げに言う。
こいつは契約上、俺のそばを離れられないらしいが、その姿は俺にしか見えない。
都合のいいことだ。
「うるせえ! 透明人間になりたいって奴が、エロいこと考えないわけないだろ! それ込みで能力だろ普通!」
「知らぬ。我輩は悪魔だぞ? 人間の生態など、専門外だ」
ふん、とそっぽを向くリル。
ともかく、そういうわけで、俺の楽園計画は頓挫した。
女子の着替えも、女子の風呂も、夢のまた夢。
そのとき、ふと俺の視界に、一人の女子生徒の姿が滑り込んできた。
白鷺詩帆。
俺のクラスの、高嶺の花。
腰まで伸びる、手入れの行き届いた銀色のストレートヘア。
雪のように白い肌。長いまつ毛に縁どられた、アイスブルーの瞳。
彼女がそこにいるだけで、教室の空気の彩度が、一段階上がるような気さえする。
彼女は、窓際の席で、分厚いハードカバーの本を静かに読んでいた。
その姿は、まるで一枚の絵画だ。
下品な欲望など、一切寄せ付けない、神聖なオーラを放っている。
(……白鷺さんなら、いけるかもしれない)
俺の脳内に、悪魔の囁きが響く。
いや、もちろん、スケベな意味じゃない。断じて。
白鷺さんは、言ってみれば「芸術作品」だ。
ルーブル美術館でモナ・リザを鑑賞するように、彼女を「観察」する。
そこに、やましい気持ちはない。
あるのは、美に対する純粋な探究心だけだ。
そうだ、これはリハビリだ。エロいことを考えずに、女子を観察する訓練。
まずは、この最もハードルの高い対象で、精神を鍛えるんだ。
俺は静かに息を吸い、心を無にして、能力を発動させる。
すぅっ、と体が透けていく。
完璧な透明状態で、俺は白鷺さんの斜め後ろ、絶好の観察ポジションへと移動する。
よし。大丈夫だ。
心は凪いでいる。
まずは、彼女の髪。
光を反射して、銀色の絹糸のように輝いている。
一本一本が、意思を持っているかのように滑らかだ。
次に、耳。小さな耳たぶの形が、精巧な陶器細工のようだ。
そして、うなじ。制服の襟から覗く、白い肌。
そこに生えた、数本の産毛が……。
(……やばい)
心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。
違う、これは芸術鑑賞だ。
産毛も、ダビデ像の筋肉の筋みたいなものだ。
そうだそうだ。
俺は視線を、彼女が読んでいる本へ移す。
難しそうな哲学書か何かだろうか。
その白い指が、ゆっくりとページをめくる。
指先が、ほんのりとピンク色に染まっている。
綺麗だ。あの指で、優しく触れられたら……。
ドクン! ドクン!
心臓の鼓動が、うるさくなってきた。
まずい。精神を集中しろ。
素数だ、素数! 11、13、17、19……23……。
彼女が、ふ、と息をつく。
その瞬間、ブラウスの胸元が、わずかに揺れた。
大きくはない。だが、その控えめな膨らみは、逆に俺の想像力をたくましく刺激する。
あの下には、きっと、純白の……。
ドクッドクッドクンッ!
しまっ……!
俺は慌てて自分の手を見る。
案の定、右手の指先が、チカ、チカッと、ホタルのように点滅を始めていた。
見える、消える、見える、消える。
やばいやばいやばい!
俺は必死に、この世で最も興奮しないものを思い浮かべる。
げっそりとした担任の顔。
夏休みの最終日に手つかずだった宿題の山。
その、あまりの必死さで、俺は気づかなかった。
白鷺詩帆が、読んでいた本から、顔を上げたことに。
まるで、俺の視線を感じ取ったかのように。
彼女は、ゆっくりと、こちらを振り向いた。
そして。
俺のいる、何もない空間と。
そのアイスブルーの瞳が、ぴたり、と合った。
「――っ!?」
全身の血が、一瞬で凍り付く。
見られた? いや、見えるはずがない。
俺は透明だ。
でも、確かに、彼女の瞳は、俺の目の高さを、正確に捉えていた。
心臓が、爆発しそうなほど跳ね上がる。
俺は反射的に視線をそらし、頭の中で般若心経をハイスピードで唱え始めた。
色即是空空即是色! 欲望は無だ! 俺は石だ!
どれくらいの時間が経っただろうか。
数秒か、あるいは数分か。
恐る恐る、俺はもう一度、彼女の方に視線を戻す。
白鷺さんは、もうこちらを見てはいなかった。
再び本に視線を落としている。
ただ、その完璧な柳眉が、ほんのわずかに、しかめられていたような気がした。
まるで、何か不思議なものを見た後のような、小さな、小さな戸惑いの表情。
俺の心臓は、まだバクバクと鳴り響いていた。