第1章
「世界は、不平等だ」
使い古された言葉だってことは、もちろん分かってる。
ラノベの導入かよって、自分でもツッコミを入れたくなる。
けど、俺、影山透、十七歳、平凡を煮詰めて乾燥させたみたいな高校二年生にとっては、それが紛れもない真実なんだ。
机の上には、昨日の夜食のカップ麺の容器。
読みかけの漫画雑誌。
ベッドの上には、脱ぎっぱなしの制服と靴下が、現代アートみたいなオブジェを形成している。
六畳一間のこの城は、俺の冴えない日常そのものを体現していた。
別に、金持ちになりたいとか、世界を救うヒーローになりたいとか、そんな大それた望みはない。
俺の願いは、いつだってシンプルだ。
もっと、こう、女子の柔らかそうな太ももとか、ブラウスのボタンの隙間からチラリと見える谷間とか、そういう生命の神秘を、心ゆくまで堪能したい。
ただ、それだけ。
だが、現実の俺は、女子と話すだけで挙動不審になるコミュ障チキン。
視線を合わせるなんて、高難易度クエストもいいところだ。
だから、俺はいつだって渇いている。
人類の半分を占めるという、あの甘美な存在に。
「はぁ……」
今日何度目か分からないため息をつきながら、俺は机の隅に追いやられた一冊の本に目をやった。
昨日、古本屋の隅っこで、ホコリを被って眠っていた洋書らしきもの。
黒い革の装丁に、意味不明な紋様が金色で描かれている。
読めもしないくせに、その厨二心をくすぐる雰囲気に、ついサイフの紐を緩めてしまった。
「……なんて書いてあんだか」
パラパラとページをめくる。
羊皮紙みたいなゴワゴワした紙には、ミミズが這ったような文字が並んでいる。
その中で唯一、最終ページに日本語の書き込みがあった。マジックで殴り書きしたような、汚い字だ。
『大魔公リリエル・召喚の儀。※マジで出る。自己責任で』
「うさんくせー」
口ではそう言いつくろいながらも、俺の心は躍っていた。
そうだ、こういう非日常こそ、俺が求めていたものじゃないか。
「えーと、『古の契約に基づき、我、汝を現世に招く。いでよ、混沌の公爵、リリエル!』っと」
書かれていた呪文を、芝居がかった口調で読み上げる。
もちろん、何も起こるはずが――。
ゴオオオオッ!
「うおっ!?」
突然、床に置かれた本から、黒い煙が渦を巻いて噴き出した。
部屋の空気が一瞬で重くなる。
焦げ付くような硫黄の匂いが鼻をつき、慌てて窓を開けようとするが、足がすくんで動けない。
煙は天井に達するほどの柱となり、その中心で、二つの赤い光が、まるで捕食者の眼のように俺を捉えた。
やがて煙が晴れていくと、そこに立っていたのは、拍子抜けするほど、小さな女の子だった。
腰まで届くツインテールの銀髪。
血のように赤い瞳。
頭には、申し訳程度に小さな黒い角が生えている。
身体のラインがくっきりと浮かび上がる、ゴスロリ風の黒いドレスを身にまとったその姿は、まるで精巧なフィギュアだ。
小学生くらいにしか見えない。
その小さな少女は、ふんぞり返って胸を張り、尊大な態度で言い放った。
「我輩こそ、魔界の公爵にして混沌の支配者、リルである! 契約に基づき、汝の前に現れてやったぞ。ひれ伏すがよい、矮小なる人間よ!」
俺は呆然とその姿を見つめる。
こいつが、悪魔?
どう見ても、ただのコスプレ好きの少女だ。
俺の部屋の隅で、リルと名乗るチビッ子は、さらに偉そうに腕を組む。
「どうした、人間。我輩のあまりの威光に、声も出ぬか? さあ、言うがよい。汝の、くだらぬ願いを!」
「ね、願いって……」
「この我輩を召喚したからには、相応の願いがあるのだろう? 世界征服か? 不老不死か? それとも、金か? 言ってみよ。このリルが、一つだけ、特別に叶えてやろうではないか!」
ドヤ顔で言い切るリル。
こいつ、マジで悪魔なのか?
半信半疑のまま、俺の脳裏に、長年抱き続けた、ただ一つのピュアな欲望が稲妻のように閃いた。
そうだ、こいつが本物の悪魔なら。
俺の、あのどうしようもない願いを、叶えられるかもしれない。
ごくり、と喉が鳴る。
「……じゃ、じゃあ」
「うむ」
「俺を……透明人間に、してください!」
それは、俺の魂からの叫びだった。
透明人間。
男子なら誰もが一度は夢見る、究極の存在。
女子の着替え、女子の風呂、女子の……。
ああ、考えただけで、股間が熱くなる。
俺の必死の願いを聞いたリルは、一瞬きょとんとした後、盛大に吹き出した。
「ぷっ……ぶはははは! とうめいにんげん!? 貴様、この我輩を呼び出しておいて、その程度の願いか! なんと矮小で、なんと俗な! だが、面白い! よかろう、そのくだらぬ願い、叶えてやろう!」
高笑いするリル。
なんだか無性に腹が立つが、願いが叶うならそれでいい。
俺は期待に胸を膨らませる。
「ただし」
リルは、くい、と人差し指を立てて、悪魔らしい笑みを浮かべた。
「悪魔との契約には、対価が付き物だということを、忘れてはおるまいな?」
「た、対価……?」
そうだ、忘れてた。悪魔といえば対価だ。
魂か? 寿命か?
俺はゴクリと喉を鳴らす。
リルは俺の周りをくんくんと匂いを嗅ぐように歩き回り、やがてニヤリと笑った。
「ふむ。貴様からは、熟しているようで、全く熟していない、実に面倒な匂いがするな。よし、決めた! 我輩が要求する対価は――」
彼女は俺の目の前に立ち、赤い瞳で俺の目をじっと見つめる。
「お前の『初体験』だ」
「は……はつたいけん?」
「いかにも。そのくだらない願いと引き換えに、貴様の初めてを、この我輩が貰い受けてやろう」
はああああああああああああああ!?
俺は脳内で絶叫する。
初体験!?
俺が、来るべき日のために、毎日右手と二人三脚で大事に大事に守り育ててきた、聖なる初体験を!?
しかも、相手はこのチビッ子悪魔!? いや、見た目は最高に可愛いけど! でも、これはそういう問題じゃ……!
「ど、どうした、人間。光栄に思うがよい。この我輩が、直々に相手をしてやろうというのだぞ?」
「いやいやいや! 無理無理無理! それだけは!」
「ほう? では、契約は破棄か? 透明人間とやらの夢は、諦めるのだな?」
リルの言葉に、俺の脳内で天秤が激しく揺れ動く。
片方には、俺の聖なる初体験。
もう片方には、女子の着替え見放題、風呂入り放題、やりたい放題の透明人間ライフ。
透明人間になれるチャンスは、今、この瞬間しかない!
俺は、数秒間の熟考の末、人生における重大な決断を下した。
「……わ、分かりました。それで、お願いします」
声が震える。もはやヤケクソだ。
俺の言葉に、リルは満足そうに頷いた。
「よろしい。殊勝な心がけだ。では、早速――」
「ちょ、ちょ、待って! 今ここで!?心の準備とか色々!」
「何を勘違いしている。我輩が欲しいのは、貴様の『初体験という概念』そのものだ。行為ではない。まあ、いずれ貴様の童貞を物理的に喰らってやってもよいがな」
ケラケラと笑うリル。
どうやら早とちりだったらしい。
心底ホッとしながらも、なんだか少しだけ残念に思う自分がいるから、男って生き物は本当にどうしようもない。
「では、改めて。契約、成立だ!」
リルが指を鳴らす。
次の瞬間、俺の体は経験したことのない浮遊感に包まれた。
細胞の一つ一つが分解され、光の粒子に変わっていくような、奇妙で心地よい感覚。
視界が白く染まり、やがてゆっくりと元に戻る。
「……終わった、のか?」
自分の手を見る。ちゃんとある。
リルに目を向けると、彼女は退屈そうにあくびをしていた。
「終わったぞ。さあ、確認してみるがよい」
促されるまま、俺は自分の部屋の姿見の前に立つ。
そこに映っていたのは、散らかった俺の部屋の風景だけ。
俺の姿は、どこにもなかった。
「うおおおおおおおおっ!」
俺は叫んだ。歓喜の雄叫びだ。
手で体を触る。確かに感触はある。
なのに、見えない。
完璧な、完全な透明人間。
ついに、ついに俺は手に入れたんだ!
脳裏に、これから始まるであろう、輝かしいバラ色の学園生活が駆け巡る。
ああ、神様、悪魔様、ありがとう!
俺の人生は、今日、この瞬間から始まるんだ!