56:そんなに焦らなくてもいいのに
前世でも妄想力の強かった私は……。
またもや「くはっ」と呟き、鼻血が噴き出す。
「ゴ主人様―!」
ノワールがパタパタと飛び回り、ヴィクトルもすぐに声を掛けてくれる。
「アンジェリック様!? どうされた!? そんなに気温は高くないと思うのだが、のぼせた……のだろうか……?」
咄嗟に倒れそうになる私のことを見事に支え、そして取り出したハンカチで血を吹き、素早く神聖力を使ってくれる。鼻の奥や喉で感じていた血の味と匂いが瞬時に消え、まるで森林浴を終えたような、スッキリ感が広がった。
「これがグランデェ卿の神聖力なのですか。……すごく気持ちがいいです。まるで『黒の森』にいるかのように、清らかな気持ちになりました」
「回復には浄化の効果もあるので、清々しさを感じたのかもしれない」
「もう、呪いは完全に消えましたね」
幼い銀狼のヴィクトルは、それはそれでとても愛らしかった。
もう一度会いたい……なんて気持ちもあり、そんなことを口にしてしまったが。
「ええ。もう神聖力を使っても、銀狼になることはない。あれは小さく、弱く、自分とはかけ離れすぎて……」
ヴィクトルはアイスシルバーの髪を揺らし、ため息をつくが、私はこう伝える。
「銀狼姿のグランデェ卿は、大変可愛らしく、私は気に入っていましたよ」
「え」と短く呟いたヴィクトルは……あれ、もしかして赤くなっている?
さすがに星明り頼りの船のデッキでは、肌色の変化までは分からない。
でも多分、“大変可愛い”なんて言ってしまったので、照れたのだろう……と推察する。しかも絶句してしまったので、話題を変えることにした。
「そういえばイネスに剣で刺された時。グランデェ卿は、銀狼の姿に変わるその刹那で、私に神聖力を使い、回復を行ってくださったのですよね?」
私に問われ、ヴィクトルは「え、ええ、そうです」と応じる。
「アンジェリック様に案内され、聖なる泉がある、あの聖域に通うことで、神聖力は発現しなかった……というか、もう発現していたが、使えば銀狼になってしまう。よって使えなかった。だが聖域で鍛錬を積むことで、神聖力自体は、どんどん強化された。おかげで呪いが発動し、自分の身が銀狼に変わるまさにその瞬間。アンジェリック様に致命傷を与えている傷の回復だけは、できた」
「呪いを浄化することもできたのに」と思わず呟くと、私の体を支えていた腕がはなれ、両肩を掴まれた。
「呪いの浄化!? そんなことよりアンジェリック様の命の方が優先だ! あの場での最善は、アンジェリック様の命を救うこと。……もっとご自分のことを大切に考えてください、アンジェリック様」
星空を映したヴィクトルの瞳に悲しみが宿り、さらに噛みしめた唇。肩を掴む手の力強さにも悲痛さを感じ、慌てて「ごめんなさい」と謝る。そして――。
「グランデェ卿は、魔物から自身のことを私が助けた、そう言ってくださいました。でもグランデェ卿も、私の命を助けてくださったのです。それにリュカやジャックにも、私が悪い魔女ではないと話してくださりましたよね。二人は半信半疑だったようですが。私を助け、見守ってくださり、ありがとうございます。生きて、今、こうやってグランデェ卿と話せてよかったです」
私の言葉に、ヴィクトルの瞳から悲しみが消え、なんだかとっても……甘く感じる。
おかしい。
ヴィクトルは、もっとドライだったと思うのに!と感じるのは、今日だけで何度目か。
「アンジェリック様……、自分は」
「おーい、ヴィクトル、アンジェリック様」
リュカの声に、ヴィクトルと私は、同時にギクッと体を揺らす。
ヴィクトルは慌てて私の肩から手をはなす。
ノワールが私の肩に止まったところで、リュカがやってきた。
「二人とも、急にいなくなるから、探したよ。ここで何をしていたんだ?」
リュカに問われ、ヴィクトルは夜光虫で輝く海を指さす。
さっきよりもかなり遠いが、まだその輝きは見えていた。
「あの碧い輝きを見ていた」
「なるほど」
「それとこれだ」
ヴィクトルは、今度は夜空を指さす。
「この星空だ。海と夜空。この二つを眺めていただけだ。未婚のアンジェリック様と二人きりだったが、決してやましいことはしていない!」
なんだか慌てているヴィクトルを見てリュカは「それならばそんなに焦らなくてもいいのに」と言った後、私を見る。「そう言われても」と、私は苦笑するしかない。