55:中ボスは中ボスらしく。大人しくしていないと。
呪いに距離は、関係ない。呪いをかけた相手と例えどれだけ離れていたとしても。呪いは発動するものだ。
だが日常生活を問題なく送り、呪いをかけた相手と距離ができてしまえば、ヴィクトルのように油断してしまうことも……仕方ないと思える。
「ちょっと指先を怪我したので、そこを神聖力の回復で治癒してみようと、軽い気持ちで試したところ……。まさかあんなに魔物に追われることになるとは。予想外だった」
ヴィクトルは握りしめていた私の手を持ち上げると、手の甲へキスをして、その氷河なような瞳をこちらへと向ける。星空を映し込んだ瞳は、まるで宇宙のようだ。
「あの時、助けてくださり、本当にありがとうございます。それまでずっと敵だと思っていた。ですが実際に会った北の魔女のアンジェリック様は……。魔物から自分を守り、怪我を癒してくださった。しかも老婆だと聞いていたのに、自分と変わらぬ年齢だと分かり、とても驚いた」
私の手をはなすと、おろしている髪をひと房つかみ、そちらへもキスをする。
手の甲へのキスといい、この髪へのキスといい、いろいろ耐性がないので、このまま失神しそうだった。
「あなたの枕元で眠り、甘い香りのするこの髪に頬を寄せる朝は、至福の一時だった……」
「くはっ」と小声で呟き、ヴィクトルの甘々な言葉に、なんとか耐えようとするが。
もう立っていられない……!
片手だけついていた手すりを、両手で掴みなおし、なんとか腰砕けを回避する。
そこでさりげなく私の背中を、ノワールが支えてくれていることに気づく。
ノワールでは、私を支えるなんて無理なのに。あの小さな体で、なんとかしようとしてくれることに感動する。感動しつつ、先程のヴィクトルの言葉を思い出す。
こんな言葉、普段のヴィクトルは絶対に言わない!
ヒロインに攻略された後のボーナス特典で初めて、溺愛モードが解禁なのに。
どうしてしまったの!?
夜光虫のせい?
星空のせい?
いや、香水のせい……?
あまりにもパニックになり、前世の古い歌のことまで思い出したところで、我に返る。
落ち着いて、私。
船上の光る海と星空の下で、大変ロマンチックだけど、ヴィクトルはヒロインの攻略対象なんだから。変な気を起こしてはいけない。イネスと同じように、この世界の抑止力が依頼人となり、アランへ私への抹殺を指示しかねないわ。そう、私はアランの依頼人はこの世界の抑止力なのではないかと考えていた。呪いを使い、堕落したイネスは、この世界から排除するしかないと考えたのではないかと。
モブはモブらしく。中ボスは中ボスらしく。
大人しくしていないと。
ということで吹き飛びそうになる意識のキープも含め、ヴィクトルに質問をする。
「急に、姿を消したので、驚きました」
「そうだった。あれは本当に申し訳なかったと思う。殿下が戻る日は分かっていた。前日の午後、なんとかアンジェリック様に、明日にはこの家から立つこと伝えたかったのだが……」
そう言われるとあの日の午後、水浴びをさせた銀狼は、ふわふわな毛となり、私にしきりと甘えていた。甘えていたというより、別れの挨拶を懸命にしようとしていたのね。
ちょ、ちょっと待って。
私は銀狼を水浴びさせた時、その体を……。
想像してはいけない。
絶対に、銀狼とヴィクトルを置き換えて想像してはいけない。
どれだけ念じても。
前世でも妄想力の強かった私は……。