44:最高じゃないですか。何がダメなんです?
「私の魂がどうなろうが、お姉さま、もう関係ないでしょう。それで、交渉です」
イネスは両手をパンと叩き、ぶりっ子全開で微笑む。
一歩後ろで控えるようにして立つアランは、腕組みをして、無言でこのやり取りをずっと聞いていた。
イネスを“自分だけのもの”にしたがる筆頭が、アランに思える。でもこの無反応は……。
「お姉さま、聞いています? アランのこと、物欲しそうに見るの、やめてくれませんか~?」
リュカがチラッとこちらを見る。
見ていたのは事実だが、物欲しそうになんかしていないのに!
アランはイネスの言葉を受け、彼女を後ろから抱きしめ、その髪に「チュッ」とキスをする。まるで私に対し、興味がないと示すようで、ちょっとムカッときた。でもそれは呑み込む。
「聞いています。交渉、何をするつもりですか?」
私が答えると、イネスは悠然と微笑む。
「お姉さまが私に課した制約、魔法の種。これを解除してください。そうしたらヴィクトルにかけた呪いは解きます。これでwin- winですよね? あとはお互い、もう無干渉にしましょう。ヴィクトルは特別と思ったけれど、漏れなくお姉さまの干渉がついてくるなんて、面倒過ぎる! 他に素敵な男性を見つけ、好きなようにすればいいだけですから」
「何が、win- winよ! ヴィクトルが助かっても、今後も犠牲者が出るじゃない!」
私の言葉にイネスは「心外だわ」と呟き、自身の胸に手を当て、まるで演説するかのように話し出す。
「犠牲者? どうして犠牲者なんですか? 私に寵愛されれば、面倒な仕事はしなくていいんですよ。まあ、たまに、入浴の手伝いやマッサージをしてもらうこともありますけど。でも仕事ではないですよね? 女神みたいな私の体に、触れることができるのだから。それに神殿に連れてくる時は、多少強引でも、ここに来たら基本的に自由です。それに食事も保証して、この神殿という住まいもある。最高じゃないですか。どこが犠牲者なんですか?」
イネスが本気で言っているのだと分かり、思わず私が固まると、リュカが声をあげた。
「面倒であるとか、最高であるとか、自由であるとか。それはあくまで君の視点です。仕事にやりがいや生きがいを感じている者だっています。食事と寝床があっても、それだけではありません。家族や友人と一緒の食事だから、会話があり、楽しく感じる。待ってくれる人がいるから、帰る家があることを嬉しく思える。でもこれだって一例です。何を最高と感じるか。それは人それぞれですよね」
リュカが言うのは、まさにその人らしさだ。価値観は多様であり、イネスが提供しているこの神殿の世界が、必ずしも最高ではないということ。
「この神殿に閉じ込められたら、家族や友人には会えない。自由? ないですよね? こんな海の真ん中にいたら、街へも行けない。買い物もできない。友にも会えない。僕だったら一日持たず、海に飛び込み、岸を目指しますよ」
リュカのこの意見には、激しく同意だ。
これを聞かされたイネスの顔色は、見る見る間に変わっていく。今にも恐ろしい魔法を詠唱しそうだったが……。
「うっ」と大きく目を見開いたイネスが、自身のお腹を押さえる。
今、この瞬間に、負の感情を相当湧かせたのだろう。
魔法の種が、発芽したのかもしれない。
恨めしそうに私を見て、それから視線をリュカに移し、イネスが口を開く。
「王子さまは、少し黙っていただけますか。今はお姉さまと交渉しているのですから」
確かに交渉の話は、私との間のことだから、一旦、リュカは口をつぐむ。
「それでお姉さま、どうされるのですか? この交渉を受けるのですか、受けないのですか?」
イネスが二度とヴィクトルに呪いをかけないという保証は、どこにもなかった。魔法の種による制約を失えば、イネスは自由だ。それにヴィクトルを助けるためにここに来たが、他にも犠牲者がいるなら話は別。
自分の愛玩具とするため、人間を呪いで動物に変え、好きなようにするのは、止めさせないといけない。
その方法は――。
そこで私の視線は、イネスの腰を抱き寄せている、アランの手に向かった。