26:「あっ、しまった!」と思うが、遅かった。
閉じられていた瞼がゆっくり開き、長い睫毛の下の氷河を思わせる瞳が、ゆっくりと私に向けられた。
「ソア……」
久々に聞くヴィクトルの声は、以前より深みが増した気がする。声変わりをしたんだ。現在十九歳のヴィクトル。彼もまた、他のヒロインの攻略対象、大人になったわけだ。昔から大人っぽいけれど、よく見ると、さらに身長も伸びていた。体つきもよくなっている。前世で言う、いわゆる細マッチョの完成形を見た気分だ。
そんな感じで私は気軽な気持ちだったが、ヴィクトルはなんだか暗い表情をしている。
どうしたのだろう……?
「殿下とジャック様から聞いた。北の魔女であるアンジェリックは、少女の姿に変身できると。ストレートのプラチナブロンド。スミレ色の瞳。陶器のような肌に、くびれたウエスト、長い手足……。これはソア、君のことではないのか?」
これには「あっ、しまった!」と思うが、遅かった。
リュカとジャックとの戦闘を終え、すっかり緊張感がなくなっていたと思う。二人がヴィクトルに、老婆の北の魔女が美しい少女に魔法で変身する……と話すことは、いくらでも想定できた。そしてこの世界には、まだ写真は存在しないから、相手の特徴をよく捉え、わりと詳細に説明する。
「君は……自分のことを騙したのか?」
「ごめんなさい。騙すつもりはありませんでした。でも毎日のようにこの森へ……私と戦いに来ることが分かっていたから……咄嗟に、嘘を……本当に、ごめんなさい」
ここはもう素直に謝るしかないと思った。
頭を下げ、ヴィクトルの許しを請うしかないと。
ザッ、ザッと音がして、ヴィクトルの革靴が地面に見えた。
「ソア……ではなく、北の魔女であるアンジェリック、顔をあげてほしい」
白い手袋をつけたヴィクトルの手が、私の肩に触れた。
その声音は先ほどとは一転、優しいものに変わっている気がする。
恐る恐るで顔を上げ、その目を見ると。
氷河を思わせる瞳は、穏やかに澄んでいる。
怒っている――と思ったが、そうではないようだ。
そのことに少し安堵し、再度、謝罪すると。
「もう謝らないでいい。騙すつもりではないことも、君の立場も分かっているから」
「グランデェ卿……」
「リュカとジャックとの勝負もついたと聞いている。そして北の魔女であるアンジェリックに関する数々の噂は、嘘であったと遂に二人とも認めた。森を荒らさないよう、フラン王国に進言するとも聞いている。良かったな」
ヴィクトルとは二歳しか違わないのに。しかも彼の方が年下なのに。
とても落ち着いている。
やはり団長ともなると、こんな貫禄が自然と身に着くのだろうか。
「ありがとうございます。……これからはこの森で、穏やかに生きていけるのかなと思っています。……グランデェ卿は、母国に帰るのですね?」
「ああ、そのつもりだ。せっかくアンジェリック様に、この聖域へ案内いただいたが、神聖力は発現できず……。自分として不甲斐ない限り。武術の腕は、連日の魔物退治で上がった。それに父上が『若い者に道は譲らないと』と、いきなり引退宣言をして……。おかげで騎士団の団長になってしまい、これから王都に張り付きになりそうだ」
「そうでしたか。……神聖力がグランデェ卿の中で高まっているのは、事実だと思います。ある時、突然、発現するかもしれないので、諦めないでください。……その、私の予言は当たらなくて、申し訳なく思いますが……」
するとヴィクトルはいつもの整った表情を少し崩し、口元に笑みを浮かべた。
常に表情を崩すことが少ないヴィクトルにしては、珍しい姿だ。
「アンジェリック様の予言では、自分が十九歳のうちに発現する……だった。まだ時間はある。それにご指摘の通り、不意に発現するかもしれない。可能性はまだある」
「はい! そうですよ。諦めないで下さい。……王都へ戻られるということと、団長の就任をお祝いして、良かったらこれをどうぞ。黒イチジクですが、今が旬で、採れたてです。苦手ではなければ」
箒を取り出し、籠を渡すと、「ありがとう。……イチジクは好物なんだ」と氷河のようなその瞳を細めた。明確に笑っているわけではないが、喜びは伝わってくる。
嬉しくなり、ポケットに手を忍ばせ、白金で作られた雪の結晶を取り出す。
「これがお祝いです」と渡そうとすると。
ヴィクトルの表情が一気に硬くなる。
どうしたのかと思うと、彼は苦しそうな表情で私を見た。
「それは……なんだ? 何か魔法がかけられているのか?」
「えっ……」
私は自分の手にのせた白金で作られた雪の結晶を見る。
ゲームの設定上、受け取り不可になることは想定したが、こんな風に問われるとは思わなかった。少し驚き、「魔法はかかっていません」と答えようとして、息を呑む。
「これは……自分の意志ではない。だが、手が勝手に……」
そう言ったヴィクトルの手は、腰に帯びた鞘から剣を抜いている。
そこで理解する。
白金で作られた雪の結晶は本来、私との戦闘を終えた後に渡すもの。
それを持ち出し、渡そうとしてしまったから……。
これは恐らくゲームの設定による強制力だ。
ヴィクトルは問答無用で戦闘モードに入ってしまっている。
「今すぐ逃げて欲しい、アンジェリック様!」
ヴィクトルが怒鳴るのと同時に、剣が突き出された。