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死出の旅路、その道連れ

作者: 雉白書屋

 ――死ぬほど驚いたよ


 新田はたった今、自分の頭の中に浮かんだその言葉に、フッと笑いそうになった。

 死ぬほどだってさ、と。ただ驚いたことは事実。まさか背後から少女に声をかけられるとは。それも場所が場所だ。


「その、それで、もう一度言ってくれるかな?」


「……あたし、道に迷っちゃったの。たすけてくれる?」


 僕もだよ。『人生というやつにもね』と添えて言葉を返そうとした自分に新田は呆れ、フッと笑った。



「でね、ママはね、お兄ちゃんとケンカばかりでね、何でなのかなって、あ、原因ははっきりしているの。パパとリコンしたせいでみんなおかしくなっちゃってるのよ。じょーちょふあんていってやつね。引っ越しして環境が変わったのもあるかもしれないけどね。あ、それから――」


 少女と共に樹海を歩くことになってから新田が蛇を見かけた回数は二回。奇しくも、その場で叫び出し、また怒鳴りつけてやろうかと思った回数と同じである。が、それは衝動と呼ぶまでもない、ほんの僅かな火花にも満たないもの。本気ではない。ただ、嫌味の一つくらい言いたくなった。


「よく喋るね。いや、本当に」


「そう? 普段はそうでもないけどね。ママとお兄ちゃんのケンカの最中もだまーってるの」


 あたし、いい子だから。あたし、賢い子だから。そのどっちを語尾に付けようか少女は一瞬悩み、結果、賢くていい子と言ったときには新田も笑うしかなかった。少女はちょっと欲張りだったかなと照れ笑いした。

 しかし、賢い子というのは、あながち間違いではないと新田は思い直した。少なくとも気を使える子だとは思った。使いすぎるとも。

 こうして少女が喋り続けるのも、道に迷った不安(それも知らない男と行動を共にしている)もあるだろうが、気まずい空気を作らないためであり、その証拠に会話が途切れると少女は滑って転んで照れ笑いしてみせた。

 新田は小学生の頃、クラスに一人はいた、やけに賢い女子のことを思い出した。無論、無邪気、子供らしさはあるが一方で達観していて周りをよく見ているそんな子供。生まれついてのものなのか、それとも環境などで培われたものなのか気になったことはあったが多分、両方だと新田は思った。


 前を歩く少女がチラリと後ろを振り返り新田を見る。その度にその目に浮かぶ疑念が何か新田は知っている。そして、それは新田自身も少女を目に映す時、思うことであった。


 この人は実在しているのだろうか、と。


 樹海に母親と兄と三人でハイキングに来て、ひとり道に迷い疲労。普段意識することがない、恐らく初めて死を感じた不安から作り出した幻。

 もう一方は、樹海に首を吊りに来て、心の奥底でドライアイスの小さな破片から立ち昇る煙のような生への渇望が見せた幻。

 そう、新田は首を吊りに来た。手頃な場所。それがどこかもわからないが、人が歩く道から離れ方角もなにもなく、ただひたすらに歩き続けていたのだ。


『隠すっていうのも疲れる。だから正直に言うけどね、僕はここには死にに来たんだ』


 出会ったとき、新田がそう言うと少女は『わかる。隠すのって疲れるよね』と明らかに、自分の母親と兄を思い浮かべた顔をしてそう言った。それで結局、なし崩しのように二人、共に歩くことになった。

 新田が少女に手を貸す理由は特になかった。言うなれば自分を見捨てようとしている人間だ。道に迷った少女を無視しても心は痛まない。あるいは、当人は考えもしなかったが殺すことにさえ、罪悪感は抱かなかったかもしれない。ただただ疲れている。どうするか考える事にも。勝敗は決しているのに、それでも試合を続けなければならないそんな苦痛。いや、眺めなければならない苦痛か。自分の人生も、もはや他人事。

 だからどっちでもよかった。少女が猫の手も借りたいというのなら、そうしてやっても。

 ただ、猫のほうが髭がある分、役に立ちそうだとは思った。レーダー的な。猫の髭にそんな機能があるかは知らないが、少なくとも新田の無精髭にはない。なので、二人が今歩いている道というのも(道というには烏滸がましい、雑草と木の根と柔らかい土の集合体)二人がなんとなく、こっちにハイキングコースがあると指さした方角、その間を取った位置。そこをただ進んでいた。

 当然ながら二人とも電話など連絡を取る手段を持ち合わせていない。

『歩いて考えましょ! 人間は考える足だもの!』と足と葦を勘違いしている無垢な少女と、それを訂正する気力もない成人を過ぎた男のぶらり旅。どことなく死の気配があるも、新田はこの話の結末をなんとなくだが想像できていた。


 母親と再会する少女。抱きしめ合うその横で生意気そうな顔をした少女の兄がポリポリと頭を掻き、少女の肩に手を置くかどうか悩んでいる。親子は涙を流し、そしてそれをきっかけに三人の人生はその後、良い方向へと進むのだ。絡み合いながら。

 自分はそれを木と木の間から眺め、そしてフッと笑うとまた森の奥へと姿を消す。

 少女が振り返り、あの人が助けてくれたと指を差そうとするも、人差し指は伸びきらぬまま、やがて折り畳まれる。

 あの人は森の精霊だったのかしら。

 そんな年相応の子供染みた考えを一つ箱の中に入れ、思い出として保管される。

 それも悪くはないな、と自分は首吊り縄の輪に首を通し、またフッと笑う。最期の光景は木々の間から見上げた月。そんな想像。

 この少女は死なない。自分は死ぬ。そういうものだ。そういう星の元に生まれたというのがわかりやすい表現か。

 根拠は自分。負ける側の人間の視点。自分がそうだった。だから勝つ側、幸せになる側の人を見分けることができる。無論、少女は勝つ側の人間だ。


 ……だと思っていたのだが、新田は今、月を見上げため息をついた。まさかの夜。いや、現実がそう上手く行かないのは当然とも言うべきか。ショッピングセンターでの迷子とは訳が違う。樹海の中なのだから。


 バチバチと焚火にくべた枝が音を立てる。

 パチンパチンと少女が寄ってきた蚊を叩くその音が時折重なり、新田はどこか奇妙な感覚を抱いていた。

 少女が取り逃がした蚊が一匹、新田の手の甲にとまる。新田はそれを叩き潰すと手についた血を焚火にかざし、よく見つめた。

 

 この少女は現実のものらしい。


 新田はそう思い、どこかホッとした気持ちになった。

 少女もまた同じようであった。そっと傍に寄り、新田の首筋にとまった蚊を、その手で叩き潰すと手のひらを広げニヤッと笑った。


「実は俺は森の精霊なんだ」新田がそう言うと少女は「うん知ってる」と笑顔で言った。男って馬鹿よね。そう添えたそうであった。



 死ぬはずだった一夜を越えた新田は眠ったにもかかわらず、体の疲れは取れるばかりか、むしろ増していることに顔を歪めた。昨日はハイになっていたのかもしれない。香ばしい死の匂いに、涎の如く脳内麻薬が溢れ出ていたのかも。

 重く圧し掛かる疲労感は生への実感を抱かせると同時に、ただただ疎ましくあった。

 ちょうど新田が目を覚ましたタイミングで少女も起きたようで、意識してかせずか、ぐいーっと両腕を頭上へと伸ばした。


 二人は持ってきていた僅かな食料を分け合うという昨日の夕食と同じ、簡単な朝食を終え、また歩き出そうとした。

 と、ちょうどその時であった。どこからか人の話し声がした。

 新田は、それがまたお得意のアレかと思ったが少女を見るに、どうやら幻聴ではないらしかった。

 しかし、その声は右か左かどうも位置がはっきりしなかった。なので二人は並び立ち、ここだと思う方向へ同時に指を差した。それが真逆であったため二人は無言で指をツッーと動かし、ちょうど中間の位置でピタリと止めた。

 お互い顔を見合わせると笑みがこぼれた。


 また歩く間、少女は新田に子供とは無限の体力を持ち合わせているのかと思わせるほど喋り続け、一方で新田は黙りこくり、少女の話をそっちのけで、またこの物語の結末を想像していた。


 少女を捜索隊のもとへ送り届けたあと、自分は樹海を隣に道路をトボトボと歩き、そして通りがかった車に親指を立てる。

 残念、無視されたと思ったのも束の間。車は止まり、窓から運転手が顔を出す。

 新田は小走りで助手席に乗り、そして運転手が言う。

 『どこまで?』『どこかな……とりあえず町まで』『何か面白い話はあるかい?』『ああ、あるとも』

 そして車は走り出す。先は見えないが、太陽に照らされ眩いばかりの道を。


 ……と、蚊が耳元で唸ったのをきっかけに新田は頭を振り、想像を打ち消した。

 ないさ。そんなことは。自分にあるのは死だ。そしてそれが、それだけが救いだ。


 新田は樹海に横たわり、青白い顔で曇天の空から降り注ぐ雨に顔を打たれる自分の姿を想像した。

 泥が跳ね、顔につき、それをまた雨粒が散らす。手の下からは虫が顔を出し、また引っ込める。ピクニックは雨天中止。しばらく雨宿り。雨が止んだら食事の再開。そして、新田のその傍らには同じく青白い顔した少女が……と、予想もしなかった悍ましい想像に怖気が走り、新田は目を見開き、頭を振った。

 

「どうしたの?」


「……蚊だよ」


 少女はああ、と頷き、困っちゃうわよね、とおどけてみせた。

 死が自分ひとりだけのものではなくなってしまった。

 新田は治まらない動悸に、背を丸めた。


 遊びに遊んで日が暮れあっという間に夜に。友達の顔も見えない暗闇に。しまった、家に帰らないと怒られる。と走りに走り、そして辿り着いてみればちょうど夕飯時。そういった経験をしたあと、それと似たような話を教科書で目にした時、新田はいたく共感を覚えた。

 案外たいしたことではなかった、と。


「それってトロッコ問題?」


「いいや、違うと思う」


 少女の言葉に新田は和ませるために、わざと間違えて言ったのかと感じたが、今はその必要がないとも思った。

 そう、案外たいしたことではなかった。

 残念なことに成長するにつれ、その逆のことばかりが身に起きたが、今回は久しぶりに新田はその感覚を思い出し、懐かしくなった。


「それで、これハイキングコースじゃない!? そうだよね!」


 少女が指さすその先には細い丸太で縁取られた確かな道があった。

 新田は胸を張って「ああ」と答えた。顔に力を入れ、笑顔も添えておいた。少女はそれ以上の笑みを浮かべ、丸太の上から別の丸太の上へ飛び乗ってみせた。


「前と後ろ、どっちに向かって歩く?」


 少女と新田が差した指はまたも真逆の方を向いていたが結局、少女が差した方。前に向かって二人は進んだ。

 それが実際に前か、駐車場、つまりハイキングコースの入口の方かはわからなかったが、多分、合ってるなと新田は感じた。


 少女は変わらず喋り続けた。いや、安心したのか、むしろハキハキと声に明るさもある。

 新田は適当に相槌を打っていたが、やはり思うのは少女とは別の水槽にいるということ。住んでいる世界が違うという話だが、新田はその表現がしっくりきていた。特に、冷たいガラスで隔たれているというその感じが。

 ……いや、この子の水槽のガラスは温いか。熱帯魚のようだ。

 新田はふとそんなどうでもいいようなことを思いつき、フッと笑う。

 少女はその笑いが自分のお話によるものだと思ったのか、ますます調子づいた。


 延々続くのではないかと思えたお喋り。少女がその口を閉じたのは森の中から、と言っても、かなり近くで人の声がし始めた時だった。彼らが呼んでいるのが自分の名前だとわかると、少女は新田の方を向き、まるでコンサート会場でアーティストが自分に目線をくれたとはしゃぐファンのように顔をほころばせた。

 新田はどこか安堵しつつ、ここで別れようかと考え始めた。その一方で、少女が自分の存在を捜索隊に告げ、その流れで探されるのも面倒。しかし、このまま合流し、説明するのもまた面倒だと悩んだ。

 その後、死に場所探しに戻るのも面倒。どちらも結末としてはパッとしない。面倒。面倒。面倒。雑巾を洗ったあとのバケツの水を見つめているような気分だった。


 が、さすがに新田もこの展開は予想していなかった。


「ママ!」


 少女が駆け出し、母親と涙の再会。

 その場は感動に包まれ……ではなかった。

 場は恐怖に満ちていた。


「き、来ちゃ駄目よ!」


 黒い毛並み。新田は一瞬、捜索隊が用意した犬かと思ったが、それは紛うことなき熊であった。

 四つん這いのため、大きさははっきりとはわからないが、人を殺すに十分な力を備えていることは少女の母親の近くで腕や足から血を流した恐らく捜索隊のメンバーの苦悶の表情から見てわかる。

 熊には詳しくはないが、あれだけの大人数を前に恐れないのか? いや、すでに人の肉の味を知っているのなら。それか興興奮状態で……などと考えていた新田の脳内に、ふと続きが浮かんだ。一人で首を吊ったあとの結末の。


 香ばしい死の匂いに誘われ、鋭い爪を突き立てる。

 それは追いすがり嘆くようにも見えるが目当ては肉。腐りかけ、それが程良いアクセントになっている。

 体重をかけ引っ張られ、縄がちぎれて地に落ちた。

 黒い獣はご馳走にありつき、また欲しいと鼻をひくつかせる。


 それは、この樹海で首を吊った誰かの結末。自分がそうなるかもしれなかった結末。黒い獣とは、あの熊。

 

 そしてこれが新田の本当の結末。


 さすがの大人数を前に慄いたのか、熊が新田たち、つまり少女の方を向いた。

 少女が息を呑んだ。熊が一歩、前に進む。少女の母親が悲鳴を上げる。その傍の少女の兄が「逃げろ! 逃げろ!」と吠える。

 熊がまた一歩、前に。飛び掛かろうとする所作を見せたその時だった。熊がビクッと硬直した。

 新田が少女の前に飛び出したのだ。そしてその勢いのまま、熊めがけて覆いかぶさるように飛びついた。

 熊は暴れ、爪を牙を新田の体へ突き立てる。

 しがみついた新田の身体が完全に地面から離れ、また叩きつけられ、新田は荒い息と心臓の音。そして少女の悲鳴と新たに駆け付けた捜索隊の怒号を聞いた。とろけたバターとハチミツが。それをグチャグチャに混ぜ合わせたホットケーキの皿。肉片と血が飛び散り、やがて新田は放り捨てられたペットボトルのように地面の上、湿った草や落ち葉の上を転がり、動きを止めた。

 熊は樹海の奥へと姿を消した。

 新田は仰向けで空を見上げる。木々の間から見えたのは太陽。

 そして、この結末は自殺と呼べるかは甚だ疑問ではあったが、新田はそれを考えるのも面倒に思った。


 ただ気分は悪くはなかった。

 自身を悩ませた幻聴は、今は自分を心配する声に掻き消され、出血する首に添えられた手も温かかった。

 隔たっていた世界は今は一つ。そのまま幕を閉じた。それでよかった。

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