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「夢が記憶の7割を越えました」
カナセは岩の中で目を覚ました。すき間から外の光が漏れている。
ここはマンハッガイの森の中。
カナセは岩の中から出て、見覚えのある、でもすっかり変わった、道だけの街を辿った。
ここには昔お世話になったマーク先生がいるはずだ。カナセはその頃、医療事務として働いていた。
もう中年になったカナセは医院のドアを押した。
「お久しぶりです、先生」
「ああ、カナセさん」
マークは相変わらず狭い医院の中に埋もれた書類の中にいた。
「近くまで来たもので、挨拶代わりに」
患者の切れ目らしくマークはコーヒーを入れてカナセと向かい合って座った。
長く働いたからこの医院は思い出深い。
話は自然にオークーガイに住んでいたある男性の患者に及んだ。
「今、どうしてるかしら」医院の窓がコーヒーの湯気で曇っている。
「さあ・・」
フライは来なくなった。治療が必要なのに。
そういう患者さんはいつになっても気がかりなものだ。
フライは汚言症で、いきなり汚い言葉を吐く。
今でも反吐を吐いてるんだろう。
カナセも何の前触れもなく「マザーファッカー」と言われたことがある。マークはもっと悪い事を言われただろう。
「君はどうやってここへ?」
「ああ、タイムマシンで」
控えの部屋では細々とした声で途切れなくラジオがついたままなのもあの頃と同じだった。
犯罪予報の時間だった。
「先生、BACのことでもお忙しいのではないですか」
「まあ、世間話を聞くのも仕事の内ですから」
マークは自分の余計な意見を言わない。
「寓意的であることは確かでしょうな」
フライに処方されていた薬はずっとバルビツールとアンフェタミンだった。
それで気持ちよくなったら少しは奏功するのではないか。だが、フライはちっとも良くならなかった。
「どうしてるのでしょうかねえ」
来なくなった患者などいくらでもいるのに、カナセはフライという青年が気になっていた。
ちょうど息子と同じ年くらいだったこともあるのだろう。
その青年はカメレオンのような顔をしていて、目だけが苦しそうだった。緊張と耐えているせいでその青年の瞳を動いたところをカナセは見たことがなかった。
「見た目では全然分からないのにね」
同僚と話していた。
「はい、いつもと同じお薬出てますね。次はいつにする?」
「マザーファッカー」
「え?」
フライは自分で言ったのが分からないようにいつもと同じように下を向いていた。
予約の表にカナセが書き込むとお辞儀をして帰っていった。
カナセはそのことを誰にも言わなかった。自分の口からはとても言えたような言葉じゃなかった。
一か月後、またその青年が来た。礼儀正しく座って黙っていたが何かに埋もれているようだった。
順番待ちの列に急かされるように先生と何分か話すと出てきて会計待ちの列に加わった。
「フライさん、お待たせいたしました」
フライは微かに頭を下げた。
「リトルガールまでの間ここにいろ」
今度も何の前触れもなく口にしたので何を言われたのか、カナセは分からなかった。
「は、はい。いつもと同じ・・」
それから来なくなった。最後の言葉を聞いたのはカナセらしい。
先生とどんな話があったのか知らないが。
カナセは今も医療事務として働いている。今度は大きな病院だから、気がかりといっても声をかけてくるおじいさんくらいなものだった。
空が緑色に変わった。
ラジオが別の音を拾った。
「電波を探れ」間違いない、時間稼ぎの声だ。
「時間稼ぎの連中だな」
マークは立ち上がった。
「君はここにいちゃいけない」カナセのカップが置かれた所を書類で隠した。
「じゃあ、先生もお元気で」
岩の中のタイムマシンに入って、また少し寝た。
「夢が記憶の・・」
目を覚ますと現在だった。
院内に薬部が併設されている。
カナセは忙しく立ち回っていた。
「・・ツールと、こちら、アンフェタ・・」
カナセは横を見た。そこにはフライが座っていた。
汚れたリュックと緑色に剥げたジャケットを着ていた。
トリュフブタのように汚く鼻をすすった。
それはイノシシの顔だった。