5 吉人君の思い、彼の思い
吉人君は血相を変えて、後ずさりました。
「あなたは……。魔神ですね」
劉生君、いえ、魔神は口元を緩めます。
「そう警戒しなくてもいい。こいつの身体はバラバラだ。お前をどうこうできはしない」
魔神の言葉は信用に値します。実際に、魔神は身体を起こすことができず、そのまま横になっています。
吉人君も張り詰めていた緊張をわずかに緩め、探るように魔神を眺めます。
「あなたは劉生君の身体を乗っ取って、何をしたいんですか。暇つぶしですか? それとも、僕をあざ笑いに来たんですか?」
「いや。別にお前がどうなろうが興味ない。それよりも、どうするんだ。この餓鬼を殺すのか?」
「……僕は……」
吉人君はレプチレス・コーポレーションを乗っ取った後、社長室のわきに、彼の研究室があったことに気づきました。
書物の大部分は、吉人君の頭脳をもってしても、本の題名さえ理解できないものばかりでした。
けれど、わずかですか、どうにか理解できそうな書物がいくつかありました。その中には、ミラクルランドと吉人君たちの世界の関係性の書物もありました。
本には、こう書いてありました。
現実世界の人間がミラクルランドで死したとしても、元の世界に戻るだけ。ただし、ミラクルランドに二度と来れなくなる、と。
それが正しいのなら、今、ここで劉生君を殺しても、何ら問題はありません。
けれど、大丈夫だと分かっていても、大切な友達を手にかけるのは抵抗を覚えてしまいます。
ためらう吉人君を見て、魔神は、小さく笑います。
「ふっ、殺したくはないか。ならば、その役目、俺が引き取ってやろう」
「……え?」
吉人君がぽかんとする中、魔神は落ちていた宝石を手にします。ためらいなく魔神は宝石を握りしめると、自分の首元に、――劉生君の首元に持っていきました。
「っ! 何をしているんですか!」
吉人君が思わず叫ぶと、魔神は煩わしげに顔をあげます。
「首を掻っ切ろうとした。この餓鬼には期待していたが、駄目そうだからな。さっさと片付けようとしたんだ」
「片付けるなんて……! 蒼さんから聞いています。そもそも赤野君を強引にミラクルランドへ連れて行ったのは、あなただと!」
「ほう、蒼はそんなことを言ったのか。それとも、俺がこの餓鬼の中にいることを知って、そう仮説を立てたか。まあ、どちらでもいい」
魔神はうすら笑みを浮かべます。
「それとも、本当はお前が止めをさしたいのか?こいつの生意気さに相当怒っていたようだが」
「……それは……」
「別に俺はやり方を問わない。こいつを始末するなら、お前でも、俺でも構わない。……それとも、」
魔神は小馬鹿にするように鼻で笑います。
「お前もこの小僧に説得された口か?」
「そんなことはありません」
吉人君はぶっきらぼうに否定します。
そんな彼の様子を、魔神は面白くなさげに見ます。
「なるほど。それもそうだ。このガキはあまりに自己中すぎて、逆に尊敬するレベルだからな」
ちらりと魔神は自分の手を見ます。
宝石を力強く握ったせいか血がダラダラと滴っています。血が滑るせいで、いつの間にか宝石は手から溢れ落ちています。
落ちた石を拾うほどの力は、魔神に残されていません。
吉人君にばれぬよう、軽く舌打ちをします。
自分で手を下せないなら、吉人君をどうにか動かして実行してもらわねばなりません。
魔神は非常にめんどくさそうに吉人君を見上げます。
「あー、そこのお前も、こんな子供に執着されて大変だなな」
「……あなたにとやかく言われたくはありません」
眉間にシワを寄せましたが、それだけです。歯向かってはきません。
ならば、違う方法で煽るだけです。
「そうか。なら一つだけ言わせてもらおう」
魔神は意地悪な笑みを作ります。
「俺はこの餓鬼は嫌いだが、こいつはお前よりも覚悟はあるな」
「……どういうことですか」
「どうもこうもない。そのままの意味だ。もし赤野劉生がお前と同じ立場だったら、迷わずこの子供の命を取っていただろうな」
魔神は挑発するように目を細めます。
「所詮、お前の覚悟などその程度。だったら大人しく向こうに帰ってしまえ。どうせ、些末なことなんだから」
「っ!あなたに何がわかる!?」
真面目で冷静な吉人君らしくもなく、声をあらげます。
「あなたは、赤野君の中で僕の思いを理解したはず。なのにっ」
「そう怒るな」
怒鳴る吉人君に、魔神はクスクスと笑い、唐突とも思える問いを投げてきました。
「お前は、レプチレス・ミラクルランドのことを調べているとき、どう思った?」
「え……?ど、どうとは……?」
思わず、吉人君も怒りを忘れて素で首を捻ります。
「喜怒哀楽でいい。喜びを感じたか、それとも怒りを感じたか」
「……それは、こんな面白い世界のことを知れて、楽しかった、と思いましたが……」
「楽しい。そう思ったわけだな。だったら、スランプも脱せるじゃないか」
「何を根拠に……!」
「勉強が嫌だったんだろ?だが、お前は学んで楽しいと思えた。そうだろ?」
「っ!」
一ページ、一ページと。
めくればめくるだけ、本は吉人君の知らない世界を教えてくれました。
昔の吉人君も、そうでした。
教科書をめくるたびに喜びを覚え、先生の言葉に耳を傾けていました。
失ったと思っていた勉強することの楽しさを、吉人君はまだ大切に持っていたのです。
「けど、どうして……。だって、もとの世界にいたときの僕は、勉強が嫌になったはず……」
「自分のペースで、自分の好きなことができたからだろうな」
大きくあくびをして、魔神は答えます。
「親だの先生だの社会だのって圧力がなかったから、楽しいと思えた。喜ばしいと思えた。違うか?」
「……圧力、なんかではありません」
動揺を隠しきれず、吉人君はつっかえつっかえで、懸命に言葉を紡ぎます。
「僕の両親も、先生も、僕のためを思ってあえてきつく躾ているんです。圧力とは違います」
「圧力ってのは、かけられる相手がそう思えば、圧力と捉えてもいいだろ。勉強が嫌になった原因がそいつらなら、圧力だな」
「……」
黙る李火君に、魔神は目をとろんとさせます。
「だから、戻って自分の好きなように勉強してみたらどうだ?それができないなら、さっさとこの餓鬼をばらせ」
「……あなたは、」
吉人君は困惑して魔神を見つめます。
「あなたは、何をしたかったんですか?」
「ん……?」
「挑発させて、赤野君を殺したかったと思っていました。ですが、あなたは僕の悩みを解決しようとしているようでした」
「……そうか?俺はお前に殺してほしかったんだがな。できれば、俺の力が持つまでにはやってほしかったが、もう尽きるからな。仕方ない。じゃあな」
彼は無邪気そうに微笑みます。
まるで、いつもの劉生君みたいに。
そのまま彼は目を閉じ、眠ってしまいました。
「……」
魔神が劉生君の体から消えたところで、劉生君が目覚めるわけではありません。
変わらず、意識を失っています。
倒すなら、今でしょう。
ですが、吉人君は手を下さず、一人、静かに考え込んでいました。
吉人君は自分の状態について、こう思いました。
もう勉強を楽しめる気力がない。だから、ミラクルランドからもとの世界に帰っても、仕方がない、と。
だが、魔神は吉人君の考えを真っ向から否定しました。
「……」
あのとき、レプチレス社長が残した書物をめくっているとき、吉人君は一心不乱に読み込んでいました。
読み始めた当初の目的は、劉生君を倒すため、複雑怪奇なレプチレス・コーポレーションの全貌を把握するためでした。
しかし、読んでいる最中、吉人君の頭の中に浮かんでいた思いは、たった一つだけ。
好奇心。
それだけでした。
魔神の言うとおりです。気づかぬ間に、吉人君はスランプを脱していたのです。
いや、そもそもスランプになんて嵌まってはいません。
魔神の言葉通り、吉人君は両親や親、そして、未来の自分からの圧力に怯えていたのです。
劉生君の言葉が甦ります。
「吉人君は、立派な大人になれる、そう信じている」
魔神の言葉が甦ります。
「戻ってみればいいんじゃないか」
吉人君は、小さくため息をつきます。
「赤野君は、本当に予想外のことばかりする」
根拠のない信頼。
それを、
――信じてみても、いいかもしれません。
吉人君は、微笑みました。