22 楽しい思い出も、つらい思い出に
誰かから呼び止められたような気もしましたが、劉生君は足を止めることなく走ります。咲音ちゃんはそう遠いところにいませんでした。
「咲音ちゃんっ!」
劉生君は咲音ちゃんが返事をする前に、頭を下げます。
「ごめん! 咲音ちゃん! 僕が余計なことしたから……!」
「りゅ、劉生さん? 落ち着いてください、劉生さんのせいではありませんって」
「……でも」
「とにかく、顔をあげてください」
彼女は困ったように眉を八の字にしていました。まだ目元が赤くなっています。
泣き虫といったら劉生君、劉生君といったら泣き虫と言えるほどに、劉生君はよく泣く子でした。
けれど、こう自分以外の子が泣いているのにはとんと慣れていません。リンちゃんも吉人君も涙を流さない子なのです。
劉生君はもらい泣きしそうになりながら、拳をぎゅっと握りしめます。
「ううん。僕のせいだよ。……そのせいで、ピーちゃんの楽しい思い出を、こんな形で思い出させちゃって……」
「……楽しい思い出、ですか」
咲音ちゃんはためらいがちに視線を反らします。
「……いえ、やはり、劉生さんは悪くありません。あの思い出を忘れたいって思ってたから、ピーちゃんが怒ったんです」
「え? そうなの?」劉生君はびっくりします「ピアノの演奏の思い出をなくすんじゃなったの?」
咲音ちゃんは髪を耳にかけて、小さく笑います。
「あのピアノの曲は、ピーちゃんが好きだった曲なんです。記憶の中でわたくしが歌っていたお歌なんです」
「え? そうなの! ……ああ、どっかで聞いたことあるなーって思ってたら、そうだったんだ」
咲音ちゃん曰く、ピアノで弾いていたのはオーケストラバージョンのだったとのことです。
「そのときのピーちゃんは体調が悪くて、食欲もなかったんです。ですけど、あの曲を歌ていると、ピーちゃんも喜んでくれて、ご飯もたくさん食べてくれたんです」
それなら、ピアノでも弾けるようになって、ピーちゃんに聞かせてあげたい。
そしたら、きっとあの子も喜んでくれる。
咲音ちゃんは一途に、一生懸命になって練習していました。
ピアノの先生も咲音ちゃんの頑張りを認めてくれました。
本当はピアノの発表会用に別の曲を練習しなくてはならなかったのですが、先生はピーちゃんの大好きな曲を発表会用の曲にしてもいいと許してくれました。
それを機に、咲音ちゃんはもっともっと頑張り始めました。学校に行く前、帰った後、寝る前は近所迷惑ですので止めておきましたが、楽譜を眺めて眠っていました。
ピーちゃんを喜ばせるために、必死でした。
ですが、うまく弾けるようになる前に、ピーちゃんは眠るように亡くなってしまったのです。
咲音ちゃんは気を紛らわせようと、ふわふわの髪を手でいじります。
「発表会用の曲ですから、辛いことを思い出さないように、出来るだけ何も考えず弾くように意識していたんです。……そのせいで、ハシビロコウさんも認めてくれなかったんだと思います」
だから、と言って、咲音ちゃんは真っすぐ劉生君を見つめます。
「この記憶さえなくなって、全力で曲を弾けたら、ウグイスさんも通してくれると思うんです。元々、わたくしはピアノを弾くのが好きですから、その気持ちがあれば合格できるはずです!」
「……」
咲音ちゃんは心の奥底から、真剣に考えていました。だというのに、よそ者が助言するなんて、本来はよくないことなのでしょう。
しかし、正直者の劉生君は、そうは思いませんでした。
「僕は、……咲音ちゃんに忘れてほしくないかな、って思うよ」
「えっ?」
「だって、咲音ちゃんがピーちゃんに歌ってた曲、僕はすごく大好きだったんだ」
まるで、心地よいふわふわのベッドの上で、お母さんの子守歌を聞いているような、そんな気持ちになりました。
「だからさ、今のままで、今の全力で唄えば、ウグイスさんも認めてくれるよ! 咲音ちゃんのお歌には、ピーちゃんの思いでいっぱいなんだもん!」
威勢よく劉生君は『ドラゴンソード』を手にします。
「もしウグイスさんが避けてくれなかったら、僕ががんばって倒すからさ! ……あ、いや」
自信なさそうに剣を下ろします。
「み、みんなと一緒にね! リンちゃんに吉人君、それからみつる君にも手伝ってもらおう! 僕一人じゃ勝てないかもしれないからさ!」
キョトンとしていた咲音ちゃんですが、吹き出すように笑います。今度は劉生君が戸惑う番です。
「どうしたの? 咲音ちゃん? 僕、変なこと言った?」
「ふふっ、なんだか劉生さんって、かっこいいのかよくないのか分からないなって思いまして」
「ええ!? そうなの?」
「ですです! どちらかというと、かっこいいですけどね。かっこよくないときもあります」
「ガーン……」
劉生君は落ち込みます。
と、そこに橙花ちゃんたちが来てくれました。
喧嘩でもしてるかもしれない、と心配してきた橙花ちゃんたちですが、大笑いしている咲音ちゃんと、若干涙目の劉生君を見て目を丸くしています。
咲音ちゃんもみんなに気づき、ペコリと頭を下げます。
「すみません。お騒がせしました」
咲音ちゃんはニコッとはにかみます。
「お騒がせついでですけど、蒼さん。記憶を消すのは止めてもいいですか」
「え? ボクはいいけど……。どうかしたの?」
「ふふっ、わたくし、嫌な思い出さえ消せばいいと思っていたんです。けど、違いますよね」
両手を胸に押し当て、目をつぶります。
「楽しい思い出も、苦しい思い出も、全部がピーちゃんの思いですもんね」
ピーちゃんをはじめてお迎えしたときの喜びも。
病気になっちゃったピーちゃんをつきっきりで看病した不安な思いも。
食べるものがだんだんと増えて行って、体も大きくなっていく嬉しさも。
雨の日は雷で怖がってないかな、と心配して。寒い日はエアコンを切ってしまっていないかと思う焦りの気持ちも。
新しい小鳥用の玩具を買っては、ピーちゃんが喜んでくれるかとワクワクして。
気に入ってくれなかったら、落ち込んだりして。
不安な気持ちも、嬉しい気持ちも。
すべてが、ピーちゃんへの思い。
「ですから、それをこめて、唄ってみます」
「……そっか。うん、わかった」
橙花ちゃんは安心したように、顔をほころばせました。