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とても寂しかった。何がだろうか。葵の言葉を聞くと同時に薄く透明に近い青い布で視界を遮られたような、優しく切り捨てられたような、そんな気分になった。
小説が可愛そうだとでも思ったのか。あんなに一心不乱に書き続けている葵の気持ちが、その文字の羅列に向けられていないというのが。
「じゃあ……何で、そんなに夢中になってんの。好きなんじゃないの。小説家とか、憧れないの」
メモ帳を手にした葵の言葉は変わらなかった。
「好きだからだよ」
「なら、なったら良いのに」
「だからなれる訳ないんだよ。バカバカしい」
決めつけないで良いのに。なれるなれないの前に、なりたいと思うだけ、誰も迷惑には思わないだろう。なのにどうしてこいつは、好きなのが間違いないなら、何故。
「加百さ、クラスでも浮いてるじゃん」
余計なお世話だとわかっていたが、黙っていたくなくて暁は口を開いた。わかって欲しかった。葵の、葵自身が好きなものへの気持ちを自らそんな邪険にしないで欲しいと思った。
「浮きまくって、男子にも女子にも遠巻きにされてんじゃん。先生だってしょっちゅう話聞いてないって加百怒られてるじゃん。好きなだけでそこまで出来んのあんた」
「人の趣味にうるせえな……母さんかお前。好きな事を好きなだけしてるんだよ俺は」
そりゃそうだ。葵の性格なら、趣味がなくても、ただただぼんやり他人を無視して呆れられても別になんとも思わないというのは、想像が付く。
自分が葵に敵対意識が芽生え始めているのに、暁は気付いていた。
女優になりたかった。芝居がしたかった。主人公になりたかった。
その、自分の女優になる事へと向ける努力は、純粋な思いからじゃないのかもしれない。芝居が好きなだけなら、演劇部や素人劇団に所属しているだけで満足な筈だ。芝居がしたいのではなく、女優になって認められたいからであって純粋な動機ではないのかもと思ってしまった。
葵は小説家になれるかなれないかなんて考えていない。見返りや称賛が欲しい訳じゃないのだ。
「……」
一方的に言いたい事を言ったものの、苦悩に満ちた表情で黙り込んでしまった暁をどう思ったのか。
葵はメモ帳を制服のポケットに捩じ込むと、背中を向けながら口を開いた。話は終わった、と思ったらしかった。
「じゃあ。尾根?だっけ?……また明日」
彼にとっては全力を尽くした社交辞令だったのだろうが、生憎暁には会話が終わってしまうという意味しか受け取れなかった。
「待って!」
「え?まだ何かあんの」
葵の動きは止まったが、暁も混乱していた。
「えっと」
納得がいかない。理想像がわからない。暁は残念ながら学業や家事、友人をはね除けてまで演劇に打ち込めてはいない。葵のような人間が「好き」の究極ならば自分は何だ。あそこまでやらなければ好きと認められないのか。自分は女優になりたいと言うだけで努力も意識も力も足りないのか。
違う。絶対に違う。自分は、自分の努力は認められなくとも、そんな軽いもんじゃない。
今葵に向けてしまった、浮かび上がってしまった疑問を、劣等感をなんとかしないと自分はもう心が折れてしまう気がした。
呼び止めた癖に沈黙を貫く暁を、葵は不可解そうな表情で睨んでいる。とても面倒臭そうだ。焦りが暁をおかしくした。兎に角葵を去らないように、そして自分をなんとか保つ為に思い付いたのが、それだった。
「……なんの、その、どんな話書いてるの?」
葵が目を丸くした。文字通り。会話をしてほんの数分ではあるが、彼が無防備な表情は年相応どころか、幼く、粗野で他者をやたらと無視する人物には見えなかった。
しかし焦る暁には葵の表情を観察する余裕はなかった。べらべらとその場繋ぎに言葉を紡ぐのに必死だ。
「恋愛とか、ミステリとかあるじゃん。アクションとか……加百はどんな話が、好きなの?」
勢いよく捲し立てて、はたと気が付く。今日初めて会話した相手に、流石に立ち入り過ぎではないか。葵が自分の小説に価値が無いと思ってるなら尚更だ。触れて欲しくないかもしれない。自分なら、どんな女優になりたいのとか言われて自信満々には答えられないだろう。