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劇中劇とエンドロール  作者: 遠禾
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幕間

 楽譜を落とした。

 神経質なピアノ講師はとても丁寧な言葉で、楽譜の扱いが粗雑である事は音を正確に美しく奏でる為に必要な精神性を損なっているからと執拗に責めていた。簡単に集中しなさい、と一言言えば良いだけの事に時間をいたずらに消費する方が如何に無駄かを考えるべきではないかと、ぼんやりと葵は思う。

 それでも長々とお説教を真面目な態度で、心から反省していると伝わるかのように真摯な態度で聞いていた。この講師はやけに目敏く、または葵の態度が露骨なだけかもしれないが聞き流していると直ぐに悟られてしまう。高校生にもなって、万一本気で怒らせては腕力では敵わないという判断からか、彼女は今では暴力で言う事を聞かせる事はしなくなった。代わりに年々、お説教が長くなっていく気がしている。

 漸くお説教が一段落つき、楽譜を拾う事を許された。大事な楽譜、己の指先の延長のように丁寧に扱えと言うのならば自己満足のお説教より先に、大事なその楽譜を拾わせてはくれないものか。

 防音完備の部屋には絨毯が敷かれており、毛の深いそれの隙間に細かい紙切れのようなものが混ざっているのに、膝を付いて楽譜を拾い上げた時に気が付いた。

 それは小さな小さな紙切れだ。細切れのそれが元はどんな形をしていたのか、何が記されていたのかを知るのは不可能であろう。しかし小指の先程しかないそれに、見覚えのある筆跡の欠片を発見して思わず葵は息を呑む。

 早く座りなさい、と講師が急かす。おざなりな謝罪を返すのも忘れて座った儘彼女を見上げた。どんな表情をしていたのか、細面に浮かんだ神経質そうな瞳が僅かに怯えたように見えた。


 葵が前髪を長くしているのを、家族の誰もが嫌がった。

 見栄えが悪い、みっともない。親戚や大事な会合に連れて行くには見苦しくて仕方がない、と。

 偶に痺れを切らした父親が強引に美容師を呼ぶけれど、やはり高校生にもなれば腕力でなんとかなる場合も多いもので、癇癪を起こして暴れ叫んで嫌がって見せると、なんとか去ってくれる。他の事は誰も何も許してくれない。せめて、この程度の現実逃避は許して欲しかった。父親も、葵が髪を切られた事で不貞腐れでもして素行を悪くするくらいなら、と諦めたようだ。他の事は殴っても蹴ってでも意のままにしようと動く事から考えると、葵の見栄えについてそこまで本心では関心などないのだろう。


 父親本人はお飾りの会社役員に他ならないがその更に父親、つまり祖父は歴史だけは異様に長い中高一貫の私立校の理事を務めていて父親が大手の製薬会社に勤めていられるの、祖父の口利きがあってこそという話も、実は葵は知っている。

 息子に対しては傍目には高圧的な物言いの男であるが、彼自身は自分を厳しく、時には一人息子に手を挙げる事も厭わない威厳のある父親のつもりのように見えた。だからか、自分自身が父親の威光のおこぼれにあずかっている事実を葵に知られぬように努めているようだ。

 父親が彼が振る舞う程には大層な人間ではない事を、葵は年の離れた従妹から聞いて知っていた。中学生の割に異様にませたその従妹は、偶に親戚筋の付き合いで我が家にやってくると自分には甘い祖父から仕入れた話を好き勝手に話して去っていく。


 彼女は帰る時に必ず言うのだ。


「葵くんはお祖父様の跡を継ぐんですから、そんな覇気のない事でどうするんですか」


 何でだ、と思う。この従妹は葵が大事なものを破壊された時にその場に居合わせたからか、義憤に駆られてか葵の代わりにとばかりに父親によくつっかかる。父親も祖父に可愛がられている孫世代の最年少には強く言えないらしく、顔にうんざりするような怒りを滲ませながら必死に余裕のある大人を演じようと笑みを作るのが実に滑稽だった。だけど、同じくらい他人事のように発破をかけてくる従妹も苦手だった。

 ほっといて欲しい。好きな事を、大事な事をさせて欲しい。

 とはいえ、従妹と同じように父親の望みも葵を祖父の後釜に据える事だったから、到底ほっといてはくれない。

 自分に人の上に立つ事なんて、それも経営者なんて到底向いていない。高校生活が順風満帆ではない事がそれを証明している。同年代の少年少女の輪に入っていけないような人間が、少年少女の通う学校を任せられるものか。


 講師が帰った後、家庭教師が来るまでの僅かな時間をぬってそれを必死に探した。

 本を読むのが好きだった。好きな本を読んでいるうちに、嫌いな本もあると知った。こんな本より良い本を書きたいと思った。

 動悸は過剰な自信と顕示欲が原因だったが、書いているうちに大量の紙が文字で埋まっていくのが楽しくなっていった。

 母親に小説家になりたい、と打ち明けたその日のうちに父親がレッスン中に怒鳴り込んできた。従妹もその場にいた。耳を引っ張られ怒声を鼓膜に叩きつけられたが、頭が痛いだけで何を言っているのかわからなかった。

「こんなつまらん落書きをする暇があるのなら、習い事を増やした方がお前の為になる」

 そういったような言葉を、絨毯の上に投げつけられた葵に暫く怒鳴り散らした後に頭上に紙吹雪が舞い降りた。

 その正体を知った時の絶望といったら。

 初めて完成させた小説を記した、自分の小遣いで買ったノートの破片だとわかった時に泣き叫んだ。もう中学生になろうというのに紙をかき集めながらわんわん泣いた。

 涙で顔面を汚し、頭を掻きむしり引きつけを起こした息子の背中を殴って父親は吐き捨てた。二度とこんな無駄をするな、と。その時現場に居合わせたピアノ講師は今も冷ややかな面で、才能を持ち合わせていない葵に根気強くピアノを教えている。



 家では何も書けない。書く事を許されなかった。母親は父親と父親の家の人間の言いなりだし、自由時間も部活動を与えてはくれない。祖父に評価されなかった父親は、息子を祖父の後釜に据える事で自分の名誉が奪還出来ると思い込み、葵に過大な期待を押し付けた。

「意味なんか、ないのに」

 あれから不幸な話しか書けなくなった。破壊と絶望に取り憑かれたみたいに後味の悪さに執着するようになった。

 

 手のひらに小さな紙片が幾つかあったが、それが何になるのか。今思い返してもきっと稚拙な物語だったろうに。

(凄いね、百戸って)

 不意にクラスメイトの言葉が脳裏に蘇った。

 思い起こせばなんであんなことを、と思う。父親の手で初めて書いた物語が読む者なく破壊されてから、誰かに物語を書いていることを話しもせず読ませようとも思わなかった。どうせ捨てられる。くだらないと、つまらないと切って捨てられる。

 

 自分の物語を読んでくれる人がいた。凄く不思議だった。今もずっと、不思議だ。

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