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――あなたは特別な子。誰にも、その力のことは言ってはいけませんよ。
よく覚えている母の言葉だ。
エリネージュはこの言葉を聞く度に、自分は普通ではないのだと言われている気がして苦しかった。
暗闇の中、飛んでくる矢。向けられる殺意。
剣を向けられたことも、一度や二度ではない。
毒も身近なものだった。
普通の子どもみたいに、友達と遊べない。こんな特別、嬉しくもなんともなかった。
ただ、平穏な暮らしがしたいだけだったのに。
特別な力も、権力も、何もかもいらない。
ただ、自由に生きてみたかった。
――僕のために、死んでくれないか?
美しい死神が、優しく微笑んでいる。
「……いやっ!」
死神の手を振り払うように、エリネージュは勢いよく手を振った。
そして、それが夢だと気づく。
しかし、貴族の屋敷であることは夢ではなかった。
「お目覚めですか、お嬢様」
にこりと微笑んできたのは、侍女服を着たかわいらしい女性。
茶色の髪を後頭部でまとめ、こげ茶色の瞳には好奇心がのぞいている。
「私はお嬢様では……」
「申し遅れました。わたくしは、レクシオン様からお嬢様のお世話をするよう言いつけられております、カトリーヌでございます。何なりとお申し付けくださいませ」
仮死状態だったエリネージュを連れてきて、いきなりキスをしたあの変態はレクシオンというらしい。
カトリーヌは微笑みを絶やさず、丁寧なお辞儀をした。
その所作は洗練されている。カトリーヌも貴族の娘なのだろう。
「私、いきなりここへ連れて来られて何がなんだか分からないのだけれど、説明してもらえる? 早く家へ帰してほしいの」
「わたくしで分かることでしたら、お教えさせていただきますわ。ですが、レクシオン様の許可がなければ家に帰すことはできません」
「私の意思でここに来た訳ではないから、これは立派な誘拐よ?」
「誘拐ではなく、保護だとレクシオン様より伺っております」
レクシオン以外ならば話が通じるかと思ったが、難しそうだ。
はあ、とエリネージュがため息を吐くと、カトリーヌはテキパキと動いて紅茶の準備を始めた。
「ご安心ください。レクシオン様はアルディン王国の第一王子様で、ここは王城の貴賓室です」
「う、うそでしょ!?」
「いいえ、本当ですわ」
曇りのない笑顔で否定された。
思わず、エリネージュは顔を覆った。
よりにもよって、あの男が王族だったとは。
それも、エリネージュの出身国とは敵対関係にある、アルディン王国の。
(……というか、アレが第一王子?)
敵国ながら心配になった。
アルディン王国の第一王子は、変わり者だが頭は切れる、と噂では聞いていた。
変わり者、という言葉では収まりきらない気がする。
「ですから、お嬢様のことはレクシオン様が必ず守ってくださいますわ!」
何故か使命感に燃えているカトリーヌに、恐る恐るエリネージュは尋ねる。
「ねぇ、あなた私のことはなんと説明を受けているの?」
「レクシオン様が視察に出ていた際、道で倒れているお嬢様を見つけて連れて帰ったのですよね? それも、命を狙われているとか。大丈夫ですよ、レクシオン様は不愛想な方ですが、冷たい人ではありませんから」
「え、いや、レクシオン様とやらも私を……」
途中で言葉を止めた。
目をきらきらさせてレクシオンの話をするカトリーヌを見て、レクシオンにも死を望まれたのだとは言えなかった。
彼女は彼に心から仕えているのだと分かったから。
あえて、その夢を壊すこともない。エリネージュには関係のないことだ。
(でも、不愛想? あんなに笑顔だったのに?)
エリネージュを見つめるレクシオンは、本当に恋をしているかのように甘くて優しい表情だった。彼の言動を差し引けば、だが。
あの言葉が本気なのだとしたら、何故エリネージュに世話係をつけたのだろう。
これから殺す予定の女性を守るだなんておかしな話だ。
きっと見張りの意味合いが強いのだろう。
早く不可侵の森へ帰りたい。ここにいても、自分の身を守れない。
「お嬢様?」
「そのレクシオン様は今どこに?」
「お仕事ですわ。ですが、お嬢様のことが心配だから早く帰ってくるとおっしゃっていました」
あたたかいうちにどうぞ、と紅茶をすすめられる。
ほのかに柑橘系のさわやかな香りがする。
茶菓子には、焼き立てのスコーン。
小皿には、林檎や葡萄などのフルーツも用意された。
害はなさそうに見えるが、用心するにこしたことはない。
特に、林檎は口にしたい気分ではない。
エリネージュは手を伸ばさずに、カトリーヌを見た。
「まだ少し気分が悪くて。もう少し寝たいから、一人にしてくれない?」
「まあ。でしたら医者を」
「医者はいらないわ。少し眠ったら良くなるはずだから」
そう言って半ば無理やりカトリーヌを部屋から追い出し、エリネージュはほっと息を吐く。
「さてと。どうやって逃げよう」
逃げるならば、レクシオンがいない今のうちだ。
第一王子が連れてきた女性、というだけでも誤解を生むだろうに、これ以上王城で 長居はできない。
面倒なことになる前に、姿を消しておかなければ。
エリネージュが眠っていた部屋には、ベッドとサイドテーブル、化粧台などの調度品があった。
おそらくここが寝室で、隣の続き部屋は談話室か応接室になっているのだろう。
王城の貴賓室だけあって、置いてあるものも装飾も高級品だった。
つい昨日まで山小屋で過ごしていたエリネージュにとっては、触れるのも恐ろしい贅沢品の数々。
「この部屋の掃除は絶対にできないわ」
ひとつ壊しただけでも一体いくらにいくらになるのか。考えたくもない。
そしてふと、化粧台の鏡に映る自分の姿を見てハッとした。
白のシュミーズ・ドレスに着替えさせられている。どうりで肌触りが良かったはずだ。
黒髪にも香油が使われているのか艶がある。
「まさか……あの男が?」
見ず知らずの男に肌を見られたのかと思うと、鳥肌が立つ。
しかし、もう済んだことだ。エリネージュは深く考えないことにする。
今考えるべきことは、どうすればここから逃げられるのかということだ。
「あら、テラスがあるのね」
寝室の大きな窓から外のテラスに出てみると、遠くに不可侵の森が見えた。
王城から徒歩で帰るとなると、半日はかかるだろう。
しかし、テラスがあって好都合だ。
貴賓室があるのは王城の二階。
テラスの近くには大木が植えられている。
「よし、気合入れるわよ」
エリネージュはスカートの裾をたくし上げ、テラスに足をかけた。
一番近い木の枝までは、一メートルほど。
勢いをつけて飛び出し、木の枝をぎゅっと掴んだ。
「ふう……なんとか成功……って、嘘でしょ」
木の枝がエリネージュの重みでしなり、バキっと音を立てるまで数秒。
声にならない叫びとともに、エリネージュは落ちていく。
――ひゃあぁぁ……っ!
地面にたたきつけられる痛みを覚悟し、ぎゅっと目を閉じたが、誰かに抱きとめられた。




