3-28 Omnia vincit Amor 愛は全てを征服す
ギディオン・ニーソンは、ニア・ススと初めて出会った瞬間のことを今も鮮明に覚えている。
惑星ダリュムの首都の裏通りにある奴隷商店で、 奴隷商人のコナンに案内されて奥に一歩入り、最初の檻だった。若い娘が檻の中に閉じ込められており、吸い寄せられるように視線があった。檻の中にいた娘の顔立ちは、確かに整っていたが取り立てて目立つほどではない。
だが、ひと目見てニーソンは、頭の芯が麻痺したかのように衝撃を受けていた。
傍らでは、奴隷商人のコナンと副官のシンプソンが何やら喋っていたが、なにを話していたかは一切覚えていない。
ただ、磁力めいた吸引力に視線を逸らすことが出来ず、此の儘、ずっと見つめ合っていたいという欲求が胸の奥から湧き出してくるのを感じ取っていた。若い娘もニーソンをじっと見つめていた。
「ニーソン?」
副官シンプソンの訝しげな呼びかけを切っ掛けに、ニーソンは意志の力を振り絞ると、やっと娘から視線を外した。
「………なんでもない」
初めて出会った時から、ギディオン・ニーソンはそのメルト人の娘に惹かれていた。
そして今、オベロン号の下層区画の小さな部屋で、抱き寄せた娘のぬくもりと匂いを間近に感じながら、ギディオン・ニーソンは苦痛を覚えたように表情を歪めた。ニーソンの内心に渦巻くのは、拒否されることへの恐れだった。奴隷商人であることへの引け目。自身が無慈悲な主だったザーンへ抱いた恐れと憎しみを、彼女が自分に向けてないとどうして言い切れるだろうか。或いは、肌に刻まれた醜い刃や火傷の痕跡、遺伝子操作された獣や巨大昆虫の噛み跡を見られて、蔑みの視線を向けられないだろうか。此の瞬間のニーソンは、自分を宇宙で最も惨めな男の一人だと思った。美しいが残酷に捻じ曲がったザーン貴族の少女たちとの苦痛に満ちた遊戯の記憶が、ニーソンの意識の深層にまで刻まれており、今も彼を苦しめ続けていた。
拒否されたとして、ニーソンは女への怒りを覚える男ではなかったが、それでも、今、拒絶されて傷つくよりは、逃げ出したいとただ願った。幼い頃より尊厳を踏みにじられ、嘲りを受けたがため、素直に愛情を受けることが出来ない。ニア・ススも今まで抱いた一夜限りの相手と変わらないのだと、ニーソンは自分に言い聞かせて精神的な均衡を取り戻そうとしたが、どうしようもなく失敗した。眼の前の女へと抱いていた愛情が、次の瞬間、理不尽にもニーソンの内で抑制できない破壊的な怒りへと転嫁しそうになり、彼はニア・ススを傷つけることへの恐れから離れようとして、しかし、しなやかな指に押し止められた。
海老人形は沈黙している。ニア・ススは、ただニーソンを見つめて彼の頬に触れた。
「嫌いなの?」とニア・スス。
「……なに?」ニーソンは問い返した。
「レッドコート」
「好きではない、な」ニーソンはあえぐように告げた。
文字通りに好きではないが、ニーソンは、もはやログレスを憎んでいる訳ではない。高慢でお高く止まったログレス人を好きになれるはずがないが、連中は少なくとも公正さを重んじている。宇宙にはログレスなど比較にならない邪悪が存在していた。奇しくもレシェナキアの首相が議会で述べたように、仮にログレスを倒せたとして、灰色の帝国亡き後にもっと悪い世界が訪れないとも限らない。
ニーソンは、差し伸べられている女の手をそっと優しく握った。
「だが、連中は銀河の何処の惑星にも……何万光年という星域に。だから、俺は……それで人類圏から遠く離れた惑星に。未踏領域に近い惑星だ」
話している内容に筋道が立っていないのは理解していた。だが、ニーソンは言葉が口から漏れるのを止められなかった。
「うん?」ニア・ススがニーソンに促すように頷いた。
「リゴンだよ。外縁領域ならログレスと関わることもないと思った。だが、連中は、リゴンにまで手を伸ばしてきた」
崩れ落ちそうになるニーソンの頭部を、ニア・ススはただ優しく抱いていた。
「何時か、未踏領域へ。ログレスも、どんな王や議会や大統領も、権力も誰の支配も及んでない星が何処かに在って……そこで平和に穏やかに……此の小さな島宇宙の何処まで行っても、夢は夢で終わるとしても、俺は……」ニーソンは、ただ想いを吐露し続けた。
しがみつくように女のシャツの裾を掴んで跪いたニーソンをニア・ススの胸と腕が優しく包み込んだ。
女の腕には、ただぬくもりがあった。ギディオン・ニーソンは、今こそ魂が愛によって癒やされることを知った。
一隻のグラナダ級雷撃艇が最高の戦闘力を発揮するには、250名の水兵と60名の下士官。そして12名の士官と若干名の士官候補生を配備する必要があった。
しかし、最大乗員340名は、あくまで十全の性能を発揮するために必要な人数で、限られた水兵を主要な火砲や駆動系に重点配置し、自動戦闘用電脳を駆使することで、グラナダ級は40名から50名で九割以上の性能を発揮できる。必要最小限の人数さえ確保すれば、王立海軍の戦闘艦艇は、大半の部署をドロイド水兵に代用させても充分に戦闘に耐えるように設計されていた。
ジェームズ・アーサー・ピアソン大尉は本来、他人に緻密に物事を説明するのを好まない人間であった。しかし、部下の一団。此れまで全く異なる集団に属していたバラバラの個人を一つの戦闘機械。一隻の艦艇に所属する統率の取れた戦闘集団として機能させるには、一人ひとりの人間が自らの行っていることを幾ばくかは理解しているのが望ましかった。ピアソン大尉の望む基準は高く、おのずと他の艦艇よりも訓練は過酷なものとなる。辺境軍の准士官と下士官は、その危険と困難を覚悟し、むしろ望んでいるように見えたが、子弟や友人を士官候補生として推薦してきている有力者の幾人が、それを理解しているかはピアソン大尉にも分からない。結局、士官候補生の受け入れに関して、ピアソン大尉は昼食会で訪れた誰に対しても明確な約束はしなかった。
昼食会も、終わりを告げつつあった。潮が引くように客人たちも姿を消し、今や広大なホールには、ピアソン大尉の食卓だけに蝋燭の火が灯されている。
ソームズ中尉とミュラ少尉はとっくに退室しており、空いた席にはコッパード上級曹長とロックウェル准尉、そしてもう一人の客人が腰を下ろしていた。接客係のユル・ススと二人の辺境軍軍人は緊張を隠しきれない面持ちで、しかし、鋭い視線をテーブルの4人目の人物へと向けていた。
「お孫さんを乗せるのに、ネメシスは適した艦とは思えませんな」
ピアソン大尉は、総督府の高等参事官であるルパート・ジャクソン・パーシヴァル卿に対しても淡々とした常の口調を崩さなかった。
王立海軍の艦長が自らの艦艇に有力な友人や良家の子女を士官候補生として受け入れるのは良くあることであった。ログレスやその影響が強い同盟諸国の社会では、高校や大学を卒業した若者が数年の軍務に就き、技術や資格を取得してから民間や教育機関へと戻る生き方は珍しいものではない。
「ピアソン一族の訓練がどのようなものかはよく知っている」パーシヴァル卿は落ち着いた口調で切り返した。
「私は君の祖父の艦に乗っていたのだよ。アーサー」
祖父の部下であったパーシヴァル卿は、ピアソン大尉をセカンドネームで呼んだ。微かに目を細めたピアソン大尉は、手元の履歴書に視線を走らせる。
「ヘンリーは、我が孫ながら見どころがある」パーシヴァル卿の言葉に頷くようにピアソン大尉は相槌を打った。
「ザラ工科大学を主席卒業。素晴らしい成績ですな」
あながち社交辞令だけではない。ピアソン大尉にしても紹介を断りきれない相手はいて、祖父の知己であるルパート・ジャクソン・パーシヴァルはその数少ない相手の一人であったが、それでもやはり士官候補生を引き受けるのであれば、有能な人材が望ましいことに変わりはない。
告げたピアソン大尉は、指で2、3度食卓を叩いてから決断した。
「ヘンリー・パーシヴァルを士官候補生として受け入れることに異存はありません」
「礼を言おう」パーシヴァル卿が満足そうにうなずいた。
言うまでもなく死の危険がある任務に孫を送り出しながら、パーシヴァル卿はピアソン大尉へ礼を述べていた。二人の辺境軍軍人も、当然のような表情を保って会話を聞いている。
孫を死地に送り出して感謝する祖父とは、一体、どういう家族の形なのだろうか。ユル・ススは疑問に感じた。終わりのない戦争が生み出した狂気か。銀河系の生存競争を生き抜くための最適解か。
王立海軍将校にとってそれは在って然るべきとされる精神性のありようなのかも知れないが、それでもユル・ススには空恐ろしく感じられた。(ああ、お姉ちゃんと家族で、ボクはきっと幸せなんだなあ)最後に残されたただ一人の肉親に思いを馳せながら、ユル・ススはそう思った。
衣擦れの音一つさせずに席から立ち上がったパーシヴァル卿が、ロックウェル准尉とコッパード上級曹長に値踏みするように鋭い視線を向ける。
「そちらの二人に関しては、ザラ駐屯任務に就くように手を回しておこう」
鷹のように鋭い眼差しに射抜かれた二人の辺境軍軍人は思わず喉を鳴らしたが、娘たちを一瞥したザラの高等参事官は軽く頷いただけで素っ気なく視線を外した。
「いずれにせよ、戦闘艦艇には随伴の小型艦艇が必要だ。信頼できる相手であれば、それに越したことはない」
頷いたピアソン大尉も立ち上がり、パーシヴァル卿に手を差し出した。
「では、ルパート。ヘンリーに会える日を楽しみしています」
握手を交わしたパーシヴァル卿は愉快そうに目を細め、笑いかけた。
「ジャクソンで構わん。また、会おう。アーサー」親しみのある言葉だった。
パーシヴァル卿が会場から立ち去ると、ロックウェル准尉が大きく息を吐いた。コッパード上級曹長も額の汗を拭いた。惑星総督府の高官と同席するというのは、一介の辺境軍准士官と下士官にとっては、神経をすり減らす体験だったに違いない。
ピアソン大尉は、腕時計をちらりと見てから、専属の給仕であるユル・ススへと視線を向けた。
「ユル・スス、178年の赤は在るかね?」ワインの注文にユル・ススが頷いた。
「あ、はい。ただいま」ユル・ススも少し呆けていたが、すぐに手際よくワイングラスを取り出した。
「もうひとり客人が来る。グラスを用意してくれたまえ」
ピアソン大尉は、会食場の正面入り口に視線を向けながら、ユル・ススへと命じた。
「客人が来る前に、少し腹にものを入れてきたまえ。もう少し仕事に付き合ってもらう」
オベロン号の戦闘員更衣室で、ソームズ中尉とミュラ少尉は、制服と下着を脱ぎ捨てた。全裸となったソームズ中尉とミュラ少尉は、互いに相手の肉体を一瞥した。
ソームズ中尉は短躯で体毛は薄い。肉付きは薄いように見えるが、筋繊維は尋常の人類とは比較にならない強靭さを持っている。
ピアソン大尉は、鋼鉄のような肉体の持ち主だが、高重力下に耐えるノマドの戦士にとっては、鉄など粘土や豆腐に過ぎない。ピアソン大尉と愛し合う時には、殺さないように注意しているのだろうかとミュラ少尉は意地の悪い想像を楽しんだ。ソームズ中尉にも好意を抱いているミュラ少尉だが、格闘訓練でも操船技術でもまるで歯が立たず、幾度かこてんぱんにのされていた。筋力を同程度に調整しても敵わなかったのは自負を傷つけてくれたし、ソームズ中尉の長い指は、料理も、裁縫も器用にこなす。これくらいの空想は許されるだろう。
ソームズ中尉もミュラ少尉を見つめた。長身で均整の取れた肉体。鍛えられたしなやかな肉体だが、女性らしい丸みを帯びていて、程よく脂肪がついている。肌は健康的な小麦色で、ピアソン大尉の隣に立っても、ノマドの白皙の肌のように目立たないだろう。ソームズ中尉は、自身の手がやや長いことを気にしていた。宇宙船で暮らすには長く力強い腕は役に立つが、性的な対象として見つめた時には話が変わる。ソームズ中尉とミュラ少尉を比べた時、十人中九人の男はミュラ少尉を選ぶだろう。ピアソン大尉も、ミュラ少尉のような豊満な胸の持ち主を好むのだろうか。
互いの品定めを終えた二人の女性将校は、体格に合わせて調整したスーツを地肌に着込み始めた。着込んだアンダーシャツとパンツの継ぎ目が消え去り、一体化する。ソームズ中尉は、漆黒の手袋を嵌めた。光学迷彩を発動せると、指先から色が消えて、背景の床を映し出した。
「サーモグラフィーは?」とソームズ中尉。
オペレーターのアレクシアが装備の性能を説明する。
「赤外線も遮断しますので、高精度の熱分布を探査されなければ」
「サーモグラフィーは無効化されるか」ミュラ少尉も偵察用スーツに手を通しながら、感心したように呟いた。
「質量観測もある程度であれば、反重力力場を張ることで探査を無効化出来ますが、長時間は持ちません」
アレクシアの注意事項に、ミュラ少尉とソームズ中尉が頷いた。
「空気中に探査型ナノマシンを分散された場合、ある程度、同期した反応を返しますが」
その先は言わずもがな。
「了解した」電脳にて視界内に流される情報を読み取りながら、ソームズ中尉が囁いた。
「下層区画の構造データーは最新のものをダウンロードしておりますが念の為、6時間前に検査ドローンで探査済みです」
アレクシアの状況説明を聞き流しながらソームズ中尉とミュラ少尉は腕についたワイヤーを動かし、爪と特殊素材。特殊義手。そして指先から湧き出したジェルでの接着力を試すために、ヤモリのように壁を昇り始めた。
天井から指一本でぶら下がって、ソームズ中尉がうなずき、ミュラ少尉はさらに念入りに探査ドローンを操作して、動作をチェックしている。
ソームズ中尉が、手首から、映画の蜘蛛怪人の糸のように細いケーブルを射出しては、元に戻している。
「距離と強度は?」
「最大2キロメートル。50t。宇宙空間に放り出されても、近場なら戻れます」遥かに強靭な素材も用意できるが、装備は無闇に強力であったり、高スペックであるよりも、的確な方が作戦成功率は高くなる。
二人のスーツの臀部には、猫に似た尻尾がついている。
「尻尾は動体及び振動、熱源、質量、流体探知機も兼ねておりますので。切替可能ですが、全て作動させると把握しきれない可能性もあります」アレクシアの説明にソームズ中尉が頷いてから、ミュラ少尉に向き直った。
「では、始めよう」
ケンダル2等士官を伴って昼食会の会場へと現れたアンドロビッチ船長は、盛んに時間を気にした態度を見せながらピアソン大尉に向かって会釈した。
「待たせたかな。大尉」
「充分に楽しませて頂いた。船長」ピアソン大尉がワイングラスを掲げた。
アンドロビッチ船長が頷くと、対面の席についた。
「仕込みに少し時間が掛かってしまってね。しかし、ようやく準備が整いましたよ」
気乗りのしない様子でつぶやきながら、アンドロビッチ船長は自らの顔をつるりと撫でた。
「まったく気の進まん仕事だが、艦内の治安を守るためであれば致し方ない」
「私たちは席を外しましょうか?」
辺境軍のロックウェル准尉がピアソン大尉に尋ねた。
ロックウェル准尉とコッパード上級曹長は、ともに地上戦での海賊との戦闘経験を持っていた。
手が必要になるか。作戦の秘匿性はさほど高くないが、二人の口の堅さは未知数であった。
信用するにも、今少しの時間と実績が必要だろうと、少し考えてからピアソン大尉は頷いた。
二人の辺境軍軍人が退席するのに合わせて、ユル・ススも下がろうとしたが、ピアソン大尉に呼び止められた。
「君は残り給え。ユル・スス」
「此の作戦を知っている者は?」早速の酒盃を傾けながらアンドロビッチ船長が質問した。
「船長とケンダル君を除けば、私と3名の部下だけです。ユル・ススに関しては……」
「彼は問題ない」とアンドロビッチ船長。
大人たちには信頼されているみたいだった。戸惑うユル・ススの前で、ピアソン大尉もあっさりと頷くと、ケンダル2等士官に視線を向けた。
「では……」
ケンダル2等士官がうなずいてから、手元の電脳端末を操作する。
薄暗い会場に複数の立体映像が表示された。
ドローンで撮影されているようで、時々、カメラの位置が動いている。
4人の目前に展開された3D画像は、まさしく現場にいるかのような臨場感であり、倉庫らしき広大な空間の各所で、顔に包帯とガスマスクを巻いたフードの連中が気勢を上げていた。
「彼らは……」ユル・ススは、物々しい雰囲気につばを飲み込んだ。
「トートメンです」鼻を鳴らしたケンダル2等士官が、説明するようにオベロン号下層で幾つかの区画を縄張りとするギャングの名称を呟いた。
ピアソン大尉とユル・ススは、眼の前に表示されたログレス語の資料を読み込みながら、言葉の続きを待った。
トートメンの首魁だろうか。倉庫中央の椅子に座っているペイントされたガスマスク。派手な帽子を被ったガスマスクの足元に、数人の人物が縛られて転がっていた。
転がっている人物たち、そしてトートメンたちの体の前に、所属と名前が浮かび上がってきた。
どうやら、縄で縛られているのは、メルト自由軍の下部構成員らしい。ユル・ススは、そのうち一人の顔に見覚えがあった。
「ロロ?」呟いたユル・ススの視線の先で、頬を派手に腫れ上がらせた少年がすすり泣いていた。
「君の知り合いかね?」
ピアソン大尉の問いかけにユル・ススは唇を噛んでから返答した。
「巻き込まれるとは、気の毒なことだ」ピアソン大尉は、気の毒とも思ってなさそうな口調で呟いた。