第二章2 ~どんな時でもお腹は空きます~
とりあえず、ドラゴンさんがこちらに危害を加える気がなさそう、というのならば少しは落ち着いて考えることができます。
私は水に落ちたにもかかわらず、水から上がった途端、一瞬で乾いてしまった不思議なバスタオルの裾を使って頭を拭きます。
裾をめくってしまうので身体が丸見えになってしまうのですが、ここにはドラゴンさんしかいないので気にしないようにします。
(ドラゴンさん相手ならまだ恥ずかしくはないですね……)
あの時はそもそも存在に気づいていなかったので、意識していなかったのですが、最初に水からあがった時、いまと同じ事をやったので、恐らくばっちり見られてましたね。
それを思うと、いまさらながら恥ずかしくなってしまいます。
さすがに裸を見られたからといって、いなくなって良かったとまでは思いませんが、結果として魔王がいなくなったのは、私にとって幸いだったかもしれません。
(……さて、と。やれることを試していかないと、ですね)
濡れた髪も乾き、さっぱりしたのに合わせて気持ちを切り替えます。
ドラゴンさんは伏せた姿勢のまま、こちらの様子を目で追いかけてきていますが、特に動く気配はありません。
犬がする『伏せ』みたいな姿勢のため、長い首の先にある頭が私のすぐ目の前まで降りてきています。
ここまでの感じ、言葉による意思疎通は出来そうにないですが、とりあえず話しかけてみましょう。
「えーと……ドラゴンさん、私の言葉がわかりますか?」
身体の大きさが違うのですから、声もなるべく大きく張り上げます。
距離も近いですし、聞こえていないということはないはずです。
しかしやはりというか、ドラゴンさんは反応を示しませんでした。
じっとこちらを見つめているだけです。
言語が違うせいなのか、それとも単純にドラゴンさんは会話できないのか。
でも魔王の例を考えると、もしドラゴンさんが喋っているなら、意味はわからなくとも音として聞こえはするはずなんですよね。
つまり、ドラゴンさんはそもそも喋れない、という可能性が高いようです。
(困りました……犬猫だったら、身振りや手振りで……ん?)
言葉が通じないのは犬猫と同じです。
そして、いま大人しくして私の様子を伺っているように、ただ本能のままに暴れる獣とは違うようです。
知性はある、と思っていいはずです。
ならば、言葉が通じないものの、仲良くしたいという意思を伝えることはできるのではないでしょうか。
私は緊張から、ごくり、と生唾を飲み込みました。
犬猫相手なら舌でも鳴らしながらそっと撫でればいいかもしれませんが、ドラゴンさん相手にどうしたら敵意がないことが伝わるでしょうか。
(まずは……そう、スキンシップですね!)
とにかくまずは触れてみることにします。
向こうは舐めて来たくらいですし、たぶん敵意はないはず。
なら、こちらからも触れてあげれば、こちらも敵意がないことの証になるはずです。
ふと、自分からも舐めた方がいいのかもしれないと思いましたが、さすがにそれは難しいので、触れるのに留めておくことにしました。
(身体に触れるということが、敵対行動に取られませんように……!)
恐る恐る、ドラゴンさんを見上げ、近付いていきます。
腰が引けている自覚はあったのですが、なるべく身体は近付かないようにしながら、ドラゴンさんの身体に手を伸ばしました。
私の動きに対し、ドラゴンさんに動きはありません。
やがて、指先がドラゴンさんの鼻先、鱗で覆われた体表面に達します。
(わ……! な、なんというか、すごい……です……これ……)
これほどの巨大生物に触れるなんて、初めてのことです。
じんわりと熱い体温が分厚い鱗越しにも感じられます。
背中の翼を除いて、外見はトカゲとかの爬虫類に似ていますが、変温動物ではないようです。
鱗は硬いことは硬いのですが、金属みたいな無機質な硬さではなく、どこか柔らかさも兼ね揃えていました。
実際ナイフなどの刃が立ちそうにないほどに、硬いとは思うのですが。
指先で触れてもドラゴンさんは特に反応を見せなかったので、少し大胆になって掌を押しつけるようにして撫でてみました。
鱗の一枚一枚が私の掌より大きいので、ドラゴン全体を撫でるというよりは鱗を撫でるような感覚でしたが。
(……意外と、柔らかいし暖かい……うん、ちょっと怖くなくなってきました)
さっきまでは無感動に見えた瞳も、どこか愛嬌が感じられます。
そういえば瞼のようなものが動いているのが見えますし、構造的にはヘビより人間の方が近いのかもしれません。
大きさによる威圧感ばかりはどうしようもありませんでしたが、私は少しドラゴンさんの存在に慣れて来ていました。
じっとしてくれているのも大きいです。なにせちょっと身じろぎすれば私を押しつぶしてしまいそうな大きさなのですから。
もしドラゴンさんが忙しく動いていたら、とてもいまの心境にはなれなかったでしょう。
そうして少し余裕が出来たからでしょうか。
――きゅるるる……
我ながら、そんなに大きく主張しなくてもいいと思うくらい大きく、腹の虫が鳴り響きました。
ドラゴンさんに食い殺される心配がなくなったせいか、とうとう私のお腹の方が空腹を訴え始めたのです。
この場にはドラゴンさんしかいないとはいえ、私はそのあまりに大きなお腹の音を恥ずかしく感じ、思わずお腹を押さえました。
恥ずかしいのはともかく、当初の問題を思い出しました。
(な、なにか食べるものを探さないと……いえ、まずはここから出ないと……)
ドラゴンさんがここに入って来た時に天井に穴が空いて、その穴から日の光が差し込んでいるのはわかっていました。
問題は結局、そこに登る方法がないということですね。
積み上がった瓦礫を足場にすればなんとか出れないでしょうか。
私はそう思って、ドラゴンさんに背を向け、穴がどこまで繋がっているのか改めて見てみました。
この場所は相当な地下深くにあったらしく、穴は洞窟のように外まで続いていました。
縮尺がおかしいですが、出来たばかりのアリの巣みたいな感じでしょうか。
(これ……地上まで何百メートルあるんですか……?)
途方もない深さを目の当たりにして、私は気が遠くなってしまいます。
これをえっちらおっちら登っている余裕はありません。というか、登れません。
考えてみれば、ドラゴンさんはこれほどの穴を一瞬で作ったわけです。
改めて凄まじい力を持った怪物なのだ、と実感せざるを得ませんでした。
(そういえば、なんでこのドラゴンさんはここに来たんでしょう?)
ドラゴンさんに助けられたわけですから、そこは感謝すべきなのでしょうが、どうしてドラゴンさんがここに飛び込んで来たのかは謎です。
タイミング的にはまるで私を助けに来たようにも感じましたが、それにしては最初のブレスに躊躇無く巻き込んでくれていました。
例えば私をこの異世界に連れてきた神様のような存在がいたとして、その神様の使いとしてドラゴンさんが助けに来てくれた、という可能性はあります。
ありますが、もしわざわざドラゴンさんを使いに出して助けてくれるような神様なら、何の説明もしないままこんな風に放り出すはずがないのも確かです。
もしも本当にそうだとしたら、はっきり言って世話を焼くところを間違えているとしか思えません。
(ううーん。結論を出すには情報が足りなさすぎですね……まずはここから出るのが先決……でしょう。けど……どうしたものでしょうか)
脱出出来そうな穴は険しく、高く、長く、そして危うそうな気配しかありません。
その時、私は穴を見上げて途方に暮れていたので、気づきませんでした。
私の背後で、伏せていたドラゴンさんが音もなく立ち上がったことに。
なんとなく圧を感じて、後ろを振り返ったら、ドラゴンさんがその口を大きく開き、私に迫ってきているところでした
悲鳴をあげる間すらなく、私の上半身はドラゴンさんの口の中に入ってしまっていました。
「ひ、ゃあッ!? う、ぐぅっ――!」
ずらりと並んだドラゴンさんの牙が、私のお腹と背中に食い込んでいます。
死んだ、と思いましたが、圧迫されて苦しいだけで痛みはありませんでした。
タオル越しとはいえ、尖った牙が刺さっているのに、です。
もしドラゴンさんが本気で食べようとしているのなら、私の身体はとっくにふたつに千切れていることでしょう。
(あ、甘噛みってことですか? 一体なぜ――っひゃあああ!?)
脚が地面から離れ、全身が空中に浮くのが感覚でわかりました。
どうやら、ドラゴンさんが咥えた私を持ち上げたようです。
思わず脚をばたつかせましたが、そんなことでどうにかなる体格差ではありません。
はしたない姿を晒しているという自覚はあったものの、暴れずにもいられません。
いままで大人しかったのに、どうしてそんなことをするのか。
私はドラゴンさんの口の中で、ばさりという翼の広がるような音を聞きました。
何をしようとしているのか、朧気ながら理解します。
「ちょっと、まっ――!!」
無論、ドラゴンさんが待つわけもなく。
私はすごい慣性の力が自分の身体にかかるのを感じました。
例えるなら、後ろ向きに発射するジェットコースターに乗った時のような感覚です。
ジェットコースターは嫌いではありません。遊園地に遊びに行ったら何度も乗る程度に好きなくらいです。
ですが、ほぼ全裸で、巨大生物に咥えられて、空を飛ぶ、というのはさすがに勝手が違いすぎました。
あとから思えば、よく失禁したり、吐いたりしなかったものだと自分を褒めてあげたいです。
「い、やあああああああああああッッッ――!!!」
悲鳴は出ましたけど。
私はドラゴンさんに咥えられての初飛行、という未知の恐怖体験を存分にしながら、その意識を手放しました。
これもあとから思えばの話ですが、何百メートルもの高空でドラゴンさんの口から下半身を丸出しにして運ばれていたわけです。
その光景を客観視できなくて良かったと思います。
そんなあられもない姿を誰かに見れていたら、私は迷いなく自ら命を断っていたかもしれないのですから。
こうして情けない姿を晒しつつも――私は文字通り異世界へと飛び出したのでした。