第七章3 ~大妖精ヨウの忠臣・大鹿~
清澄聖羅を木々の蔦を操って拘束し、動けないようにした大鹿。
聖羅がヨウと呼ぶ大妖精の眷族の一体である彼は、そのような状態にした聖羅を放置し、砂浜へと走っていた。
そこには憎き死告龍・リューが、四人の人間たちと共に残っているはずだった。
大鹿が聖羅を無理矢理縛り付けてでも、いま行動したのは至極単純な理屈。
(あの死告龍を斃す機会は――いまをおいて他にないでござる!)
細かい理由は不明であったが、死告龍の弱体化は本当であると大鹿は確信していた。
聖羅から聴いた話だけが根拠ではない。
普通の状態であるならば、大鹿と死告龍が勝負になるはずがないからだ。
大鹿としては悔しいことだが、本来の力の差を考えれば、大鹿では死告龍の相手にならない。
死告龍側に森に対してブレスを用いない、という制限はあるが、その程度はハンデにもなり得なかった。
ブレスではなく、通常の魔法や物理的な手段であれば、森の中で戦えるからだ。
死告龍の強さはブレス頼りの強さではない。
様々な攻撃魔法、格闘術、観察眼や探知魔法など、あらゆる面に及ぶ。
そのことごとくが磨き抜かれているのだ。
たとえ大鹿が森の中に逃げ込んでも、本来であれば木々をなぎ倒し、大魔法で森を吹き飛ばし、大鹿の優位はあっというまに覆されてしまうだろう。
だが、いまの死告龍はそうではない。
弱体化している死告龍はそこまで理不尽な強さではなく、なればこそ、大鹿が優位に立てる環境に引き込めれば、十分に勝てる可能性があった。
(あれが眷族ではなく、本体というのであれば、拙者が命を賭けてでも斃すのは正しいはずである!)
そう考え、森の中を走る大鹿。
力強く駆けていた足が、急に傾いだ。
巨体が揺らぎ、慌てて体勢を立て直す。大木に寄り掛かり、身体を支える。
大鹿は激しく咳き込み、その口から大量の血を吐き出した。
先ほどの戦闘で死告龍から受けた攻撃の影響、ではない。
大鹿の体は、内部から傷ついていた。
(ぐっ……! やはり、完全には誤魔化し切れないでござるか……!)
この世界では、誠実であることが求められる。
それは、言葉に出した内容を遵守すればいいというだけの、単純なことではない。
特に眷族は、自分だけではなく、主が交わす契約にも大きく縛られてしまうものだった。
直接契約としてやり取りしていなくとも、主と他者の契約に反する不誠実なことを行おうとすれば、自身の魔力が自分自身を傷つけてしまう。
聖羅の行動を縛り、死告龍を斃さんとする大鹿の行動は、ヨウが交わした「聖羅と死告龍を助ける」という契約から明確に背くものだ。
(知らぬままであったなら……支障はなかったのでござるが……)
砂浜で戦ったときは、小さなドラゴンが死告龍本体だとは知らなかったし、聖羅の意図も不明だったゆえ、攻撃を仕掛けても辛うじて影響は出なかった。
しかしいまは聖羅が「ヨウに助けて欲しい」という意図と、小さなドラゴンがヨウと契約を交わした本体であるということを知ってしまっている。
誤魔化しの利かない状態で、明確に契約と異なることをしようとすれば、自身が傷つくことになるのは当然であった。
(だが……! それでも! ここであやつと刺し違えたとしても! 拙者の命と引き替えでも! あやつはここで斃しておかねばならぬ!)
死告龍という存在は、この世界に生きる者にとって、災厄そのものなのだ。
彼の主である大妖精にどんな危害を及ぼすかわからない。
ヨウの忠臣である大鹿は、それゆえに自分の命と引き替えにしてでも、死告龍を斃さなければならないと考えている。
決意を新たに、無理矢理体を動かして再び走り出す。
大鹿は森から魔力を吸いあげ、自身の力を補充していた。
急激に魔力を回復させる行為は森に負担がかかるが、それを行ってでも決戦を急ぐ必要があったのだ。
(この事実を、我が主が認知してしまっては、契約違反が致命的な域に達する――その、前に!)
ヨウは「聖羅と死告龍を助ける」という契約を交わしている。
ゆえに、眷族である大鹿もその契約を極力尊重しなければならない。
いまはまだ、とある事情からヨウは聖羅・死告龍・大鹿の状況を把握していない。
その間に死告龍を斃す。
明確な違反を行った大鹿はいずれにしても死に至るだろうが、何も知らないヨウへのダメージは最小限に留めることが出来る。
死告龍の脅威から主を解放できるのなら、大鹿は自身の命など惜しくはなかった。
(拙者の死に場所は、ここに定まったでござる!)
大きな角に雷撃を宿し、大鹿は跳んだ。
先ほど死告龍と戦った砂浜に到着する。
戦闘の跡も生々しい砂浜。
その一角に、聖羅たちが乗ってきた水上拠点が着岸している。
離れていても大鹿の接近を感知していたのか、拠点の中から小さなドラゴン――死告龍・リューが外に現れていた。
すでに戦闘態勢を取っており、小さな体に魔力が凝縮されているのがわかった。
弱体化しているにも関わらず感じる威圧感。
死告龍と呼ばれる存在の底知れなさを痛感しつつも、大鹿に退く気は一切なかった。
雷を宿した角の先端を死告龍に向け、殺意を練り上げてぶつける。
『その命、頂戴いたす!』
死を覚悟した大鹿が、死を司る怪物――死告龍へと挑む。
大鹿の放った雷が、死告龍の展開した防御魔法に激しくぶつかって、空中で炸裂した。
聖羅は気づけば、畳の敷かれた小さな庵に、正座で座っていた。
庵の外に広がっているのは、時間がゆったりと流れているように錯覚するほど、落ちついた和の空間。
恐ろしいほど精密に整えられた砂地の模様は、聖羅の知る日本庭園そのもので、これまで彼女が見てきた異世界の景色には決して無かったものだ。
聖羅はイージェルドやオルフィルド、テーナルクに対し、日本での日常生活について色々と話していたが、日本庭園の話は話題に出なかったため、まだ話していない。
ゆえに、聖羅は日本庭園に自分がいることにすぐ違和感を抱けた。
(この世界に日本庭園が存在するわけがない……ということは……これは……夢、ですね)
植物の蔦に締め上げられた結果、気を失ってしまったのだと聖羅は察する。
厳密に言えば気絶と睡眠は違うものであるため、気絶して夢を見る、というのもおかしな話なのだが、状況的にそうだとしか思えなかった。
そして、どうしてこうなってしまったのかも思い出した聖羅は、がっくりと肩を落とす。
(うぅ……失敗してしまいました……ヨウさんのところに案内していただくまで、リューさんのことには触れないでおくべきでした)
聖羅とて、ヨウの眷族たちがリューのことを快く思っていないであろうことはわかっていた。
だが、まさか自分を縛り付けてまで、リューを斃しに行こうとするとは読めなかった。
聖羅はヨウとリューがそれなりに上手くやっているところを見ていたが、眷属たちは情報としてしかそのことを知らない。
認識の違いは仕方のないことであったが、致命的な齟齬だった。
(早く眼を覚まさないと……ん?)
ふと、聖羅は気づく。
夢にしては、妙に意識や体の感覚がしっかり感じられることに。
普段普通に見ている夢の中とは違うその感覚に、覚えがあることに。
それを確かめるため、自分の身体に視線を落とした聖羅は、その感覚が間違っていなかったことを知る。
聖羅はいまや着慣れた――バスタオル一枚の姿だった。
純和風な庵の中で、バスタオル一枚でいることを自覚した聖羅の頬が赤く染まる。
バスタオル一枚の格好にも慣れてきてはいたが、畳敷きの部屋で取る格好としては違和感がことさら大きく、薄れかけていた羞恥心が煽られるのだ。
とはいえ、バスタオル以外に持ち物はなく、耐えるしかない。
聖羅は、何か身体を隠せるものが無いかと庵の中を見渡した。
その眼に、のんびりと茶を点てている、美しい人型の姿が映し出された。
聖羅が思わず目を点にしてしまったのも無理はないだろう。
茶を点てる、という行為自体は、庵という場所に合っていると言える。
だが、その点てている人物は、ファンタジー色の強い真っ白なローブを身に纏っており、明らかに日本人とは違う顔立ちをしているのだ。
バスタオル一枚の聖羅とて、この場に即した姿とは言えないのに、その人物の異質さ加減は聖羅の比ではなかった。
そんな違和感は気にしていない様子のその人型は、十分にかき混ぜたお茶を呑み、苦さにか、あるいは別の理由でか、顔を顰めた。
「ふむ……こんなものか。なかなか面白いな。このようにして茶を呑む文化はこちらの世界にはない。わびさび、というのか? 悪くない」
ゆったりとした動作でお椀を置いたその人型は、自分を呆然と見つめる聖羅へと向き直った。
「さて、しばらくぶりだな清澄聖羅。……まさか私のことを忘れたとは言わんよな?」
じろり、と睨め付けられた聖羅。
無論、聖羅がその人型のことを忘れているわけがなかった。
「は、はい。ちゃんと覚えています……アハサさん。お久しぶりです」
聖羅がこちらの世界に来てから、数度夢を通じて干渉してきている存在。
人間ならば誰もがその存在を知るという――『月夜の王』アハサ。
着ているローブだけではなく、その長い長髪や肌の色まで、白で統一された姿をした美しい人型。
人の形をしているが、果たして本当に人なのかはわからない。
その超然的な存在感からは、人外の者の気配もしていた。
王を自称していて、口調も男性寄りではあるが、あまりに容姿が整いすぎていて、男性か女性かも判然としないのである。
色んな意味でインパクトのあるアハサのことを忘れられるわけがない。
聖羅の答えに、アハサは満足げに頷いた。
「うむ。まあ当然の答えではあるが、覚えていないなどと抜かしたらどうしてやろうかと思っていたところだ。新たに出会ったあの四人――テーナルク、ルレンティア、アーミア、バラノにも私のことを訊いていないだろう? まさかとは思ったが、忘れられているのかと思ってな」
若干拗ねているようなアハサの言い様に、聖羅は言葉に詰まる。
かつて、聖羅がアハサのことを誰にも訊けていなかったのは、以前はルィテ王国の者達を警戒してのことだった。
騙されるのではないかということを危惧し、ルィテ王国の者とは別の情報源として、アハサを考えていたためである。
ただ、その彼ら、彼女らと打ち解けてからも、アハサのことを訊けていなかったのは、ただ純粋に訊くのを忘れていたからだ。
他に訊くべきこと、気にするべきことが多すぎるということもあるのだが、アハサからしてみれば自分のことを気にしていないのか、と感じても無理はなかった。
「うっ……ご、ごめんなさい」
アハサの存在を軽んじていたつもりはないのだが、実質的には軽んじていたことになるため、聖羅は素直に謝った。
若干拗ねていたようにも見えたアハサは、聖羅の謝罪を受けて笑顔を浮かべる。
「いいさ、許すとも。私は狭量ではないからな。それに……君がずいぶんと複雑な状況におかれていることくらい、わかっている」
「そ、そういっていただけると、助かります」
「死告龍の魔界に囚われたようだな。だからさっさと離れた方がよいと言ったのに」
「……アハサさんは、こうなるとわかっていたのですか?」
確かに、聖羅はアハサから「死告龍とは離れた方が良い」という忠告をされていた。
こうなることがわかっていたのかと、訊いた聖羅に対し、アハサはあっさりと首を横に振った。
「いや。こうなる、とまではわからなかった。だけどまあ、あの域に達する魔物が同じ場所に留まり続ければ、いずれ何らかの騒動を引き起こすだろうとは予想していたのだよ」
全く迷惑な話だと、アハサは溜息を吐く。
聖羅はアハサに対し、訊いてみることにした。
「アハサさんはリューさんの魔界の外におられるんですよね? 外はどうなってしまっているのですか? ルィテ王国の街は……どうなっていますか?」
その問いにアハサはすぐに答えず、まず確認する。
「ふむ。そちらではすでに半日以上の時間が経過したのだったかな? 内と外で時空の歪みが生じることは稀によくあることだが、死告龍の魔界はそれが顕著だ。具体的には、外では魔界が生じて一時間も経過していない」
「そんなに、ズレが……!」
「ちなみに、魔界に飲まれたのはルィテ王国の王城のみ。城下町までは影響は出ていない。王城にいた三百二十八人は、ほぼ全員取り込まれたがね」
淡々と告げられた事実に、聖羅は青ざめる。
「そんなに取り込まれた人が……!」
「完全に展開する前の混乱に乗じて、魔界化から逃れることに成功したのは、イージェルドのみのようだ。小国の王でも、王は王と言ったところか」
アハサの告げた事実に、聖羅は少し安堵する。
色んな国の重要人物が取り込まれている時点で大問題であるが、国の頂点に位置する王が魔界から逃れているというのは、数少ない明るい情報だった。
だが。
「ちなみにそのイージェルドは今現在、魔界に取り込まれた者達を救出すべく、戦力をまとめ上げているようだ。もっとも、外と中では時間の流れが違うから、実際に彼らが突入できるのは、取り込まれた君たちの感覚では何週間も経ってからのことだろうけどね」
明るい情報を塗りつぶすほどの絶望的な情報を示され、安堵に緩みかけた聖羅の表情が再び強ばった。
「そ、そんなに……! それでは、ダメです……!」
聖羅は焦りと共にそう呟いた。
助けが来るにしても、そんなに時間が経ってからでは遅すぎる。
取り込まれた人々が助かる可能性も低くなってしまう。
聖羅はアハサに対し、必死になって尋ねた。
「アハサさん、どうにか、どうにかならないんでしょうか……!」
「ふむ……そうだねぇ」
アハサは少し考え込む様子を見せてから、聖羅の問いに答える。
「死告龍の魔界化は極めて特異なものだ。外側からの干渉が難しい以上、内側で対応するしかないだろうね。……ただ、少し調べてみたが、魔界の対応策として基本である『起点となっている主を斃す』という対応は現段階ではお薦めしない」
その方針はすでに一度話題に出ていたことであった。
聖羅としては出来れば取りたくない方針であったため、アハサから「お薦めしない」と言ったこと自体は、聖羅には歓迎できることだ。
しかし、死告龍に対して良い感情を抱いていないらしいアハサがそう言った理由は気になった。
「どうして、ですか?」
「うむ。魔界を発生させた主を斃すというのは、もっともシンプルで確実な対応策ではある。魔界における主という存在は、基盤であり、要だ。魔界がなくとも主は存在出来るが、主がいなければ魔界はその存在を維持できずに自己崩壊してしまう。それはどんな魔界でも変わらない基本なのだよ」
「では、それを推奨しないという理由は……?」
「なに、とても簡単な話だよ、清澄聖羅」
アハサは相変わらず超然とした態度であったが、わずかに、忌々しげな表情を浮かべていた。
そして、その理由を口にする。
「死告龍の魔界は――要の役割を、その眷族が奪い取りつつある状態にあるからだ」