第五章3 ~即死属性はサンプルが少ないのです~
蜘蛛の糸に包まれていた状態から、自力で脱出したテーナルク・ルィテ。
広いホールのような空間の、天井付近に張り巡らされた蜘蛛の巣に掴まり、ぶら下がりながら素早く周辺を見渡す。
自身を糸で捕らえた大蜘蛛が近くにいないことを確認すると、ほっと一息を吐いた。
(注ぎ込まれたのが、致死性の猛毒でなくて命拾いしましたわね……さすがにあの量は耐えきれませんわ)
テーナルクは蜘蛛に牙を突き立てられた箇所を掌で摩る。
大蜘蛛の牙は元々の体躯の差から、人間にとってナイフで刺されるのと変わりない損傷を体に与える。
特に今回は逃がすまじとばかりの突撃と共に突きたてられたため、毒がなくとも傷がそのまま致命傷になりかねないほど深くなっていた。
しかしいま、テーナルクの体には傷らしい傷はない。多少皮膚に違和感はあったが、血も滲んでおらず、ほとんど完治しているといっていい状態だ。
(自動回復の首飾りは……ダメですか。再度同じ攻撃を受ければ、今度こそ死にますわね)
テーナルクは暗殺対策として、傷つけられると同時に発動する回復魔法を仕込んだネックレスを身に付けていた。それが効果を発揮し、受けた傷を癒やしたのである。
高い治癒力を発揮したネックレスは、その代償に壊れかけており、同じことはもう出来ない状態だった。
ネックレスには、毒を無効化する力はなかった。注ぎ込まれた毒液は、純粋にテーナルクの抵抗力で耐えたのだ。王族の嗜みというものである。
本来ならば身動き一つ取れなくなっていただろうが、一時的に意識を失う程度で済んでいた。
しかし当然ながら万全な状態とは言いがたく、テーナルクはこの後はより慎重に行動しなければならないことを肝に銘じる。
改めて周囲の気配を探り、蜘蛛が近くに戻って来ていないことを確認する。
(ひとまず、蜘蛛の気配は近くにない……ですわね。とりあえず下に降りて、落ちついて態勢を整えましょうか――)
身体強化の魔法を扱えるテーナルクにとって、巣の高さはそう恐れるほどのものではなかった。
念のため感知魔法を用いて、細い糸の罠が張られていないことも確認。
怪しいものは何も感知できなかったため、テーナルクは蜘蛛の巣に掴まっていた手を離して、下に降りようとして。
『お待ちください、テーナルク様』
すぐ近くから静止の声がかけられ、その動作を中止した。
テーナルクが周囲を見渡すと、彼女と同じように蜘蛛に捕獲されたと思われる人間大の繭のひとつから声が聞こえて来ていた。
「バラノ様! ご無事でしたの!」
白い繭の一部が裂け、その隙間からバラノの目だけが覗いていた。
『……ええ、なんとか。念話にて失礼いたします』
バラノの口元はいまだ蜘蛛の糸によって覆われており、声を出すことは出来ないようだ。
テーナルクは糸を伝って、バラノの傍に寄る。
『どうやら、あの蜘蛛は我々を殺す気はなかったようですね。周りの方々も生きていらっしゃるようですし。私が早々に脱出を諦めて抵抗をしなかったためか、テーナルク様のように毒も注がれずに済んだようです』
言われてテーナルクは周囲の繭を見渡す。
確かに、どの繭も微かに動いていて、全く動かない繭はないようだ。
「呼吸は出来ているんですの?」
『ええ。激しく動くと苦しいですが、この糸、かなり通気性はよいようで。落ちついて呼吸すれば、普通よりすこし息苦しい程度で済みます。ただ、突然のことに動揺した状態では難しいのでしょう。ほとんどの人はしばらくもがいた後、気を失ってしまっているようです』
さらりとバラノは言ってのけたが、その胆力にテーナルクは舌を巻いた。
力を持たないということがかえって覚悟を決めさせているのかもしれないが、冷静であろうと努めて実際にそうできる者はそうはいない。
「その目の部分だけ糸が裂けているのは?」
『私の無詠唱魔法ではこれが精一杯でした。起きていることが蜘蛛に知られても困りますし……ちなみに、私たちがここに運びこまれてから一時間ほど経過しております。その間、何度か蜘蛛は私たちと同じようにした犠牲者を運びこんで来ています。先ほども二人ほど追加されたところです』
「一体、何のつもりなのでしょう……この巣に生け捕りにすることに意味があるのでしょうか? ともあれ、貴女を捕らえている糸を焼きますので、動かないでくださいまし」
『お願いします。ただ、下に降りたくはないので、体を支えておいてくださいますか?』
「なぜ下に降りたくないんですの? 何かあるようには見えませんわ。糸もないようですし」
先ほど、見えないほど細い糸の罠に引っかかったテーナルクは、それを学習して、そういった細い糸がないかどうかは真っ先に警戒していた。
『予想なのですが、触れたら切れる程度の、極細の糸が張り巡らされているのではないかと。蜘蛛の種族の中には、そういった糸を感知装置にして、巣の異変に気づく者がいると聞いたことがあります。それが厄介な点は、目視することが極めて困難である上、魔力を介さないために感知魔法で認識できないという点です』
バラノは知識と予想を絡めてテーナルクに説明する。
あらゆる想定を行うのは、軍略家たるバラノの得意とするところであった。
『わざわざ我々を生け捕りにした以上、そこにはなんらかの意味があるはず。こんな開けた場所に、何の用意もなく、ただ放置するとは思えません』
「……ありえなくはない話ですわね」
テーナルクは言いつつ、視力を限界まで強化し、床に極細の糸が張られていないかを確かめる。
そう意識して糸を探して見ると、ほんのわずかであったが視界の一部に違和感を覚えた。
先ほどテーナルクたちを捕らえたものよりも遙かに細い糸が張り巡らされているようだ。
それは獲物を捕らえる役目は果たさないだろうが、バラノが言ったような延長された感覚器としての役割は果たすであろう。
もしテーナルクが先ほど下に降りていたら、それを察知した蜘蛛が戻ってきていたかもしれない。
(まったく……味方であるうちは頼もしいのですが)
テーナルクは争う領域が違うとはいえ、バラノの想定の的確さに舌を巻かざるを得ない。
その頭脳がかつては敵としてルィテ王国に牙を剥いていたこと、そして死告龍の騒動によって、彼女がルィテ攻略のための戦略を立てられなくなったことを考えると、テーナルクは命拾いをしたような心持ちだった。
(とはいえ、軍略家は彼女だけではありませんし、油断は禁物ですわね)
そこまで考えたテーナルクは、一端それらのことを頭の隅に追いやった。
ルィテ王国とザズグドズ帝国の戦いも重要だが、いま優先すべきはこの非常に危険な状況からの脱出である。
テーナルクはバラノの近くの糸に片手でぶら下がり、バラノの体に空いた手を添える。身体能力強化の魔法がなければ、とても出来ない芸当だ。
「では、いきますわよ。動かないでくださいませ」
バラノの体に添えた手に魔法の火を宿し、バラノを捕らえている蜘蛛の糸だけを正確に焼いていく。
戦闘中には不可能であったが、じっくり行うのであれば問題なく糸だけを焼ける。
程なくして、バラノは糸から解放された。その体を片手で担ぐようにして、テーナルクが支える。
「ありがとうございます。テーナルク様」
バラノは糸から解放され、喋れるようになったためか、肉声に切り替えて話す。
両手で胸を庇っているのは、彼女が着ていた『聖女風ドレス』の胸に巻き付けていた布が引き千切れていたためである。
テーナルクは的確に糸だけを魔法の炎で焼いたのだが、その布は糸を巻き付けられる段階で破かれていたのだ。
幸い、彼女はそのドレスの発端になった聖羅と違い、ちゃんと下着は身につけていたため、裸の胸を晒すことは避けられていたが、恥ずかしいことに変わりは無い。
そういう意味ではテーナルクも似たような状況にあるのだが、本人の維持もあり、気にしないように努めていた。
「この体勢、あまり長くは保ちませんわ。いずれにせよ、降りていかなければなりませんが……方針を定めましょう。奇襲か。逃走か」
「逃走でしょうね」
バラノのその判断に、テーナルクも異論は無かった。
この場に隠れ、戻ってきた蜘蛛を奇襲することも考えられなくはないが、テーナルクもバラノも戦闘に特別優れているわけではない。
一撃で倒し切れればそれもいいが、そうできない場合の方が可能性としては高い。。
即死属性を持つ蜘蛛に戦いを挑むのは無謀である。
まずはこの場を離れ、戦闘に長けた者と合流することを目指すべきだった。
「蜘蛛がどちらに行ったかはご覧になっておられませんの?」
蜘蛛との遭遇は極力避けなければならない。
相手も移動する以上、確実なことはわからなくともなるべく可能性を下げるために、テーナルクはバラノにそう尋ねた。
「残念ながら、蜘蛛が去っていった通路は私から見えなかったのです。ただ、逆にいえば私から見えていた通路から出て行っていないので、選ぶならそこでしょうか」
言いつつ、バラノはこの広間に通じる道のうち、一本の通路を指さした。
そこは蜘蛛が出入りするには少々狭く、選択肢としては悪くなさそうに見える。
だが、テーナルクは悩んだ。
「……おそらく、罠が張り巡らされていると見ますわ」
いかにも蜘蛛から逃げやすそうな通路。
そして、蜘蛛が使いづらそうな通路。
開けた廊下での遭遇戦でさえ、用意周到に逃げ道を塞ぐように罠を準備する蜘蛛が、その場所に罠を何も用意していないわけがなかった。
そのことに、バラノも同意する。
「私もそう思います。ですので……こういう手はいかがでしょうか?」
バラノが示した策戦に、テーナルクは苦い顔をしながらも従わざるを得なかった。
軍略家たるバラノの示す手は、実に的確だったためである。
二人の騎士が、たった一匹の大蜘蛛に翻弄されていた。
騎士は王城に勤めていることもあり、選りすぐりの精鋭だった。その研ぎすまされた剣技と優れた魔法の扱いによって、大抵の魔物は個人で討伐出来る実力者揃いだ。
だが、それでも蜘蛛は騎士を翻弄し得た。
「くっ……!」
騎士が構えた剣が、突如半ばから切断されて使い物にならなくなる。
咄嗟にその騎士は転がって追撃を裂けたが、戦闘力の著しい低下は避けられない。
「ダメだ魔力を宿した剣でも受けるな! 『即死』させられるぞ!」
「こんなんありかよ! 反則だろこれ!」
もう一人の騎士がそう悲鳴混じりに叫びつつ、一歩後ろに後退する――その足が、張り巡らされていた糸に触れた。
それを感じたその騎士は、冷や汗を流しながら慌てて足を戻そうとするが、糸は足を覆う鎧にひっついて離れない。
その糸を、黒い霧が伝って来た。
黒い霧が騎士の鎧に触れた瞬間、その足を覆っていた鎧が砕け散る。
片脚だけ鎧を失った騎士は、バランスを崩しつつも、風の魔法で進行方向の安全を確保しつつ、後退する。
蜘蛛は天井付近を高速で移動しており、狙いを絞らせない。
「即死攻撃で装備が破壊されるなんて聞いたことねーぞ!」
「とにかく避けろ! これが生身に触れたら――ッ!」
指示を出していた騎士が被っていた兜が、破裂した。
極細の糸が風に乗せて垂らされていたようだ。
兜の中に納めていたその騎士の長い茶髪がパサリと広がってしまい、騎士は慌てて手でひとつに纏め、風の刃を発生させて乱暴に断ち切る。
普段の戦場なら髪が広がろうと気にしないが、即死属性を持つ相手に対して広がる髪は致命的だからだ。
ざんばらの髪型になったその騎士を見て、もうひとりの騎士が苦々しい顔になる。
「隊長……っ! くそっ、隊長の婚期がこれ以上遅れたらどうしてくれるんだ!」
「髪くらいあとでいくらでも直せる! 馬鹿なこと言ってないで警戒しろ! あと、あとで話があるからな!」
隊長と呼ばれた女騎士は、部下の騎士に向かってそう怒鳴ってから、天井の蜘蛛を睨み付ける。
蜘蛛は悠々と天井を移動していた。
「魔法使いではない以上、髪を失うことくらいどうってことはない、が……この代償は高く付くぞ!」
隊長の怒りを表すように、彼女の体を一瞬雷が走り、それは無数の雷となって天井の蜘蛛へと空中を走る。
蜘蛛の張り巡らせた糸を縫うようにして避けた雷撃は、的確に蜘蛛の頭部へと突き刺さった。
「やった! さすが隊長!」
「まだだ! 奴め……雷を受け流した!」
忌々しげに呟いた隊長の言うとおり、蜘蛛の腹部に突き立ったと思われた雷は、その直前に張られていた糸に誘導され、天井へと流されていた。
天井が雷によって焦げ、大きな音を立ててひび割れるが、蜘蛛自体はさして傷ついていない。
それでも多少の影響はあったはずだが、高い魔法への抵抗力を有しているらしく、蜘蛛の体表面が多少焦げている程度だ。
「マジで!? なんつー器用な!」
そんなのありかよ、と再度呟く部下に対し、隊長は冷静だった。
「即死属性をそのままブレスとして放てる死告龍よりはまだ対処のしようもあるが……生まれたばかりの眷族にしては技巧派すぎるな」
長期戦を覚悟し、隊長が気合いを入れ直す中、不意に天井付近にいた蜘蛛が、あらぬ方向を向いた。
警戒する地上の二人を置いて、蜘蛛は高速で移動を始め、その場から去ってしまう。
しばし呆然としていた二人だが、蜘蛛が戻ってこないとわかり、一息つく。
「なんだったんでしょ? 慌てていたようにも見えましたけど……」
「さあな……とにかく、この場を凌げたことは確かだ」
そう言いつつ、隊長は壊れて散らばった兜の破片を拾い上げる。
破片に向かって魔法を行使するが、破片に変化はなかった。
「むぅ……【修復】の魔法が利かないだと……?」
「直せない、なんてことありえるんですか?」
「わからん……もしかすると、即死属性がまだ残留している、のかもしれないが……あれに壊されたものは直せないと考えなければならないだろうな」
試しに騎士隊長が自分の髪に【修復】の魔法を使ってみると、床に散らばっていた髪がふわりと切断面へと舞い戻り、彼女の髪型は再び元のように戻った。
大蜘蛛にやられたのではなく、彼女自身が切ったためだろう。
それを見ていたもうひとりの騎士も、砕かれた自分の鎧の足の部分に【修復】をかけてみるが、その部分が修復されることはなかった。
「うええ……マジっすか……鎧の片脚だけないとか、みっともないなぁ……」
「剣を折られた私よりはマシだろう。とにかく、蜘蛛が戻ってこないうちに探索を進めよう。姫様やキヨズミセイラ様、各国の来訪者など、保護しなければならない方々と一刻も早く合流せねば」
城内で魔界が発生するという異常事態にあっても、彼女は騎士の矜持に従って勤めを果たすつもりだった。
なお、頂点である王が彼女の保護対象に入っていないのは、この世界における一国の王というものが純然たる力の頂点であるためだ。
彼女たちと合流しようがしまいが、王が対処出来ない者に彼女のような一介の騎士が勝てるわけがなく、仮に王と合流したところで、王からは「他の者を守護するように」と言われるのが目に見えていた。
運良く合流できれば共に行動することになるだろうが、そうでないなら王を探すのではなく他の非戦闘員や重要人物を探すべきなのだ。
「よし、では罠に注意を払いつつ、先に進むぞ。感知魔法を怠るなよ」
騎士は冒険者ではなく、探索に特別秀でているわけではない。
だが城勤めの騎士ともなれば、ある程度の状況にも対処出来る程度の対応力はある。
想定外の状況に慌てふためいていては騎士の中でも上位には立てない。
ただ――
『うむ。良い心がけですな』
それぞれが警戒している騎士たちの間から、正体不明の声がするというのは、さすがの騎士隊長にも予想外すぎた。
騎士たちが距離を取ろうとする前に、怪しげな声の主はすでに魔法を唱え終えており。
『お眠りなさい。あなたたちでは――存在価値不足です』
その言葉が聞こえるのと同時に、騎士たちの意識は闇へと沈んだ。