表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/77

第五章1 ~王国の姫と帝国の書記官~


 その使用人は、脇目も振らずに必死に逃げていた。


 背後からは気味の悪い喚き声と共に、裸足で走る音が追いかけて来ている。

 ひときわ鋭い威嚇の声に、思わず使用人が振り返ると、少し距離はあるが確実に使用人を捉えている様子の小鬼たちが、醜い声をあげながら追いかけてきていた。

 小鬼は人型で人間の子供くらいの背丈しかない小さな魔物であるが、厄介なずる賢い知能と残忍さ、どこにでも湧く性質、そして何より人間の女性を犯して繁殖するというおぞましい特徴を有している。

 スライムや血吸い蝙蝠など、低級の魔物は多々いるが、小鬼は他の低級の魔族と違い、人間のテリトリーを積極的に侵してくる。

 その点で、人間にとって最も身近な脅威だった。


「ひぃ……っ!」


 ゆえに追いつかれればどうなるのか、その使用人もよく知っていた。

 全力で逃げる。どこにどう繋がっているかもわからない天然の洞窟内を、使用人は懸命に駆けていた。

 ルィテ王国の王城で働く彼女は、基本的な魔力の扱いは習熟しているものの、戦闘に慣れてはいない。魔力を纏った手で殴りつければ小鬼くらいは殺せる威力が出るが、彼女にそれができるかと言われれば否である。


(どうして、こんなことに……!)


 彼女は逃げ続けながらそう思っていた。

 王城で働く彼女は、有事の際にどう動けばいいのか、よく理解している。ルィテの王族が様々な状況を想定して、あらかじめ行動指針を定めているためだ。

 突如空から敵国の大軍勢が襲って来た場合でも、ちゃんと行動指針は定められている。

 仮にそういう状況であったとしたら、彼女も落ちついて行動できただろう。

 だが、王城そのものが魔界化し、それに飲み込まれるなどというあり得ない状況に対しては、対策が講じられていない。

 着の身着のままダンジョンに放り出されたようなものだ。


「だれか……! 誰かーッ!」


 彼女は逃げつつも声を張り上げ、助けを求める。だが、返事はない。

 普段の王城なら一声あげればすぐに衛兵がかけつけてくるというのに。

 叫べば呼吸が苦しくなるとわかっていたが、いまにも追いつかれそうな恐怖に声をあげずにはいられなかったのだ。

 健闘虚しく、疲労の溜まってきた使用人の動きは鈍くなり、蹴躓いて転んでしまう。

 その際、悪い躓き方をしたらしく、足を挫いてしまっていた。起き上がろうとすると足首に激痛が走り、彼女はまた転んでしまった。

 足掻く彼女に、小鬼たちが追いつく。

 そして彼女が逃げられないように、その周りを取り囲んだ。獲物を前にして、舌なめずりをしている。


「ひっ……こ、来ないで! 触らないで!」


 伸びて来た小鬼の手を振り払い使用人は抗うが、小鬼たちは嗤うばかりでその場から去ることはない。

 通常、小鬼たちは粗末な武器や衣服を身につけていることが多いが、この場にいる小鬼たちは何も手に持たず、何も身に付けていなかった。

 小鬼に限らず、低級の魔物は大気中に流れる魔力が、何らかの原因で一点に集中した時、形を成して生まれることがある。

 魔界ではそれがより顕著であり、彼らはそうして生まれたばかりの存在であった。

 だが、魔物にとって生まれたばかりというのは無垢であることを意味しない。


「ギッギッギッ」


 怯え震えることしかできないらしい獲物を前に、小鬼たちは潰れた蛙のような、醜い笑い声をあげる。

 本能に従い生きる彼らにとって、弱い人間は格好の獲物であった。

 小鬼たちが強く持つ欲求――所有欲、食欲、支配欲、そして性欲。

 それらをすべて満たす『服を着た』『人間』の『弱い』『雌』は、ご馳走としか言い様のないものだ。

 遮二無二暴れる彼女が疲れるのを待っていた小鬼たちが、彼女の動きが鈍ったのを見て、地面を蹴って一斉に跳びかかる。


 そして、再び地面を踏むことはなかった。


 彼らは謎の力で一瞬空中に縫い付けられたかと思うと、次の瞬間その体を歪ませ、巨大な透明の手に握り潰されたかのように潰れてしまったからだ。

 水袋が破裂したかのように赤い血が迸り、周囲にまき散らされる。

 それを頭から被った使用人は、目の前で起きた異常な事態に唖然とすることしかできなかった。

 その頭上から、細長い何かが彼女に襲いかかる。


「あっ――むぐっ、うぅ!?」


 悲鳴を上げる暇もなく、彼女の上半身はその何かに包まれてしまった。

 生暖かい感触が彼女の上半身を覆う。

 咄嗟に瞼と口は閉じたものの、鼻にどろりとした液体がかかり、危うく吸い込むところだったのを呼吸を止めて凌ぐ。

 もし彼女の状況を傍から見るものがいれば、天井を突き破って出現した細長い筒に、彼女の上半身が飲み込まれた様が見れただろう。

 いまはまだそれに包まれていない下半身が暴れて逃れようとしたが、その筒は彼女を上へと吸いあげていき、彼女の体はどんどん筒の中へと入っていく。


「ンーッ! ンんッーっ!」


 出せる限りの呻き声をあげ、必死に体を捩らせ、足をばたつかせる使用人の彼女。

 だがその抵抗も虚しく、彼女のシルエットは筒の中を移動し、足先まで筒の中に呑まれ、最終的には天井の中へと消えていった。

 そして、彼女を飲み込んでしまった筒自体も、突き破った天井の中へと再び戻っていく。

 彼女の呻き声はすぐ聞こえなくなり、その場所には静寂と、不可視の力で押しつぶされた小鬼たちの血だまりと肉片だけが残った。





「妙、ですね」


 床を塗らすその液体を検分していたバラノが、ふと呟いた。

 周囲を警戒していたテーナルクが、その呟きを聞き咎め、苛立ち混じりに問う。


「なにが、ですの? 調べられたのなら、ちゃんと詳細を教えてくださりませんか?」


 トゲのある言い方になってしまっているのは、元よりバラノとそりが合わないということもあるが、彼女が緊迫した状況下で神経を尖らせているためであった。

 テーナルクは王族らしく、魔法の扱いに長けた実力者ではあるが、王族であるが故に実際に戦場に出たことはほとんどない。

 戦地を視察することがあっても、その際には腕利きの護衛を伴っている。

 ゆえに、何が起きるかもわからない状況下で、戦える者が自分しかおらず、守らなければならない相手は本来敵国に属する者、となれば神経を尖らせるのも無理はないことだった。

 そんなテーナルクの心情を正確に理解しているのか、バラノはテーナルクに対して「申し訳ありません」と、不用意な呟きを聞かせてしまったことを詫びつつ、応えた。


「この液体は、スライムの体が溶けた……いえ、崩れて出来たもの、というべきでしょうか。いうなればスライムの残骸です。宿っている魔力の乏しさから、生まれて何も吸収することなく死んだと思われます。ただ、もし魔界化に伴って発生した魔物であるならば、死告龍の眷族ということになり、そう容易く死ぬとは思えません」


 バラノは戦闘力を持たない代わりに、分析力に長けていた。テーナルクも探査の魔法は使えるが、バラノはそういった魔法に加えて知識と知恵で分析を行う。

 テーナルクは深く息を吸って吐き、尖り気味の気を静め、冷静であろうと努める。

 そして同時に、バラノにひとつ上をいかれていることを自覚し、忌々しげに唸った。


(情けない……ルィテ王族ともあろうものが……いえ、その誇りもいまは不要ですわ)


 つい先ほど、魔界化が始まる前まで、テーナルクとバラノは互いに嫌悪を隠さないやりとりを繰り広げていた。

 無論、表立って敵意を露わにすることはふたりともしなかったが、思うところがあるのはお互い様であり、駆け引きの一種として嫌味の応酬くらいはしていたのだ。

 だが魔界化に呑まれ、ふたり孤立した時――戦える者と戦えない者の違いはあるとはいえ――テーナルクは先のやりとりの尾を引いてしまったのに対し、バラノはこの状況では協調するべきと即断し、先のやりとりの影響などまるで感じさせないように振る舞ったのだ。

 結果、テーナルクはバラノの態度もあって、頭を冷やさせられた。


(本当に、これを全部狙ってやっているのだとしたら質が悪すぎますわ……)


 冷静にならなければならなかったことは事実であり、ひとまずテーナルクはバラノの態度については考えるのはやめて、改めて問う。


「王城には兵士や魔法を使える者もいたはず……その者達が倒した、ということではありませんの?」


「そうかもしれません。ただ、それにしては周りに戦闘した後が何もないのです」


 そういってバラノは周囲に視線を走らせる。

 テーナルクはスライムの痕跡にばかり目がいって、周りを見渡せていなかったことに気づかされ、顔をしかめた。


「……確かに、そうですわね」


「見るべきものは見ましたし、ここから移動しましょう。なんであれスライムを倒すような存在がこの付近にはいるわけですし」


 テーナルクとバラノは移動を開始する。

 彼女たちがいる場所は城の廊下のような広い空間だった。しかしルィテの王城とは違う場所であることは明らかで、廊下は複雑怪奇に入り組み、先が霞むほどの遠くまで続いている廊下さえあった。天井は高く、魔法の灯りが天井からつり下がって照らしているため、視界はそれほど悪くはない。

 ふたりはなるべく目立たないように廊下の端を、周囲に警戒しながら進む。

 バラノが先に立って進み、テーナルクは背後に立って広く俯瞰して周囲を見つつ、背後にも気を配っていた。


(本当に、腹立たしいほど有能ですわね……)


 テーナルクは前を進むバラノの背を複雑な気持ちで見つめる。

 戦闘力をほとんど持たないバラノが先頭を歩いている理由は、端的にいえば囮である。

 最も危険な初撃をバラノが受けることで、背後に控えたテーナルクが対処しやすくするという目論見だ。

 確かに初撃でテーナルクが戦闘不能になってしまっては、バラノも結局はやられてしまうだろう。戦闘力がないといっても基本的な護身術は抑えているので、バラノが初撃で死ぬようなことはよほどの攻撃でなければない。

 とはいえ、それでも自ら攻撃を受けるかもしれない立ち位置を躊躇わず選択できる辺り、非戦闘員らしかぬ覚悟を決めていると言えた。

 移動しながら、テーナルクとバラノは会話を続ける。


「スライムは弱い魔物ではありますが、物理的な攻撃では核を的確に打ち抜かねばならず、とても激しい戦いになるはずですし、魔法でならばまだ対処は容易ですが、焼き払うという形になる以上、その痕跡は多く残るはずです」


「それほど強力な眷族ではなかった、ということかもしれませんわよ?」


「私もその可能性が高いと思うのですが……仮説として聞いてください。即死属性なら、相手がスライムであろうと痕跡ひとつ残さず、難なく殺せます」


「……? それは当然では……ん、いえ、そうではないですわね」


 スライムを痕跡ひとつ残さず倒すには、熟練した技か、即死属性持ちの攻撃が必要だ。

 前者でないとすれば、即死属性を持つ者がこのスライムを殺したことになる。そうなるとその候補の筆頭に上がるのは死告龍である。

 死告龍レベルの即死攻撃が出来るものを、テーナルクもバラノも他に知らない。

 死告龍であれば、気にくわないという理由でせっかく生まれた眷族を殺す可能性もないわけではない。

 ただ、死告龍の眷族であれば、眷族も即死属性を持っているはずなのだ。


「属性持ちの魔物は、持っている属性に対する耐性も合わせて持っているのが普通……でなければ、死告龍は自分の吐く即死ブレスで死んでしまいますから」


「もしあのスライムが眷族であったとするなら、即死属性で容易く死ぬはずがない、というわけですわね」


「ええ。基本的に眷族は主に忠実とはいえ、死ねと言われて死ぬほどではありません。何の抵抗もしなかったのはおかしい……つまり、あのスライムは抵抗する間もなく、死告龍、もしくはその眷族に即死属性で倒された、死告龍の眷族ではないスライムの可能性があります」


「……まさか。魔界化がそこまで進行しているというのですの?」


「あくまで可能性の話ですが……十分あり得るかと。本来なら、城が魔界化すること自体あり得ないことなのですし」


「……それもそう、ですわね」


 反抗心ゆえではなかったが、否定する材料を探したテーナルクは、バラノの推測を否定することが出来なかった。

 魔界化にはいくつか段階がある。

 ある一定の大きさを有する魔界には、魔力溜まりがよく出来るようになり、魔界の主とは直接関係のない魔物が多々発生するようになるのだ。

 それがさらに深まっていくと、魔界から出られない眷族以外の魔物が魔界から溢れ出すようになる。その中でも強力な魔物がまた別の魔界を生み出して広がり、やがて魔界は迷宮――いわゆるダンジョン――へと呼び名を変えていく。

 元々混沌とした魔界がさらに混沌とし、思い掛けない素材や財宝も生まれるようになり、そういった迷宮は人々にとって最大の脅威にして最高の狩り場になる。


「全く……死告龍は本当に何もかもが規格外すぎますわ……迷宮は『古代魔王の大迷宮』だけで十分ですのに……」


「あそこは魔界の中核を成す魔王が封印されていて、比較的安全ですからね。ただ、最近は各国の調査団が殺到しすぎて、少々面倒なことになっているようです。迷宮を管理しているシュルラーヌ共和国から、しばらく転移を控えるように通達がありましたし」


「一昔前に比べると、転移魔法に改良が加えられて、発動に必要な魔力量も抑えられて来ておりますから……というか、その面倒を起こしている筆頭の国が、人ごとみたいに言うんじゃありませんわ」


「我が国にとっても重要な迷宮ですので」


 テーナルクのトゲのついた言葉を、しれっと受け流すバラノ。

 その役者ぶりにテーナルクは深く溜息を吐いた。

 ザズグドズ帝国は侵略政策を主とする軍事国家だ。ゆえに『古代魔王の大迷宮』にも頻繁に調査団――という名の冒険者の一団――を派遣し、貴重な資源や財宝を回収している。

 大抵の国で冒険者は上位になればなるほど自由人の気質が強くなり、縦の繋がりは弱くなっていく。国のいうことを利かなくなる者が多くなるのだ。

 だが、ザズグドズでは、冒険者と国の結びつきが強く、各国の迷宮調査団の中でも破格の実績をあげている。


「あれだけ優秀な冒険者たちを国がまとめ上げている手腕には関心してしまいますわ。一体どんなカラクリがあるんですの?」


「機密でもなんでもないですよ。単に駆け出しの頃からきちんと支援しているだけです」


 帝国では冒険者というのは「一攫千金を目指す向こう見ずな若者がなるもの」という認識ではなく、「未知に挑み、困難に打ち勝つ専門家」という認識である。

 食うに困った寒村の若者や周囲に馴染めない乱暴者が仕方なくなるもの、ではないのだ。商人や職人と同様にひとつの職業であり、向いているものが目指すものなのである。

 ゆえに教育や指導などの支援が充実しており、他の国に比べると駆けだし冒険者の死亡率は極めて低い。


「なるほど、そうやって育った冒険者は、国に恩があるから指示も聞かせやすく、作戦行動も取りやすいというわけですのね……」


「特にいまの王は徹底した実力主義者ですから。冒険者を軽んじたとある貴族のご令嬢を毒沼に蹴り落としたこともありましたね」


「聞き及んでおりますわ……その噂、帝国の野蛮さを端的に表す話となっていますわよ? 真実は違うのですの?」


「もちろんです。王はドレスに身を包んだご令嬢に、その姿で毒沼を歩けるかと問うたのです。無論、ドレスはめちゃくちゃ、ご令嬢も毒に侵されてまともに歩くことも出来なくなりました。王はそんなご令嬢を冒険者に命じて助けさせ、己が分を弁えよとおっしゃいました」


 バラノは自分の主君を誇るように、話を続ける。


「すっかり大人しくなったご令嬢の元に、王は彼女が着ていた以上の素晴らしいドレスを贈り、伝えたのです。『お前の分は華やかに着飾り、美しい所作と振る舞いで我が国を美しく魅せることにある。それは冒険者には出来ないお前の仕事だ』と」


「なるほど……飴と鞭で諭したというわけですわね。周辺国家には鞭の部分しか伝わっていないようですけども」


「逆の話もありますよ? 貴族を軽んじた冒険者に対し、巧みな話術で極めて不公平な契約を結ばせたのです。その解消を貴族に命じて、貴族の交渉術というものを見せつけさせたことも」


「なんとも厄介な……そこまで優秀なのに、なぜ侵略政策など取るのでしょう」


「王曰く、必要なことだからだそうですが……私も詳しくは教えられておりません。王自身に『王を盲目的に信じるな』と命じられておりますので、私も独自に色々と調べて考えてはいるのですが……ん?」


 そこで不意にバラノの進む足が止まった。

 テーナルクが警戒を強める。バラノはそんなテーナルクに人差し指を立てて静かにするように合図してから、廊下の角から奥を静かに覗き込み――その身体が、天井に向かって吹き飛んだ。

 一瞬の出来事だったが、テーナルクは何が起きたのか正確に把握出来ていた。

 角から先を覗き込んだバラノの背中に、白い糸のようなものが上から降って来て、張り付くと同時に引き揚げたのだ。


「バラノ様! ――くっ!」


 テーナルクは咄嗟に頭上に魔法障壁を張りながら後退する。

 展開した魔法障壁に粘着性のある白い糸がぶつかり、障壁をたわませた。


(上からとは……不覚ですわ!)


 カサカサと、天井を這う音がする。

 バラノはその音に気づいたが、角を曲がる直前だったため、曲がった先から聞こえていると勘違いしてしまったのだ。

 天井を見上げたテーナルクは、天井に巨大な蜘蛛が張り付いているのを見た。その大きさは、口の部分だけで人間の頭部を囓れるほどに大きく、膨らんだ胴体や、細長いが大きく広がる八本の足まで含めると、死告龍並みに大きい。

 蜘蛛はお尻の先から白い糸を射出し、バラノをぐるぐる巻きにしていた。バラノはミイラのように全身が白い糸で覆われており、芋虫のように身体をくねらせることしかできていなかった。


(まずい……あのままでは呼吸ができませんわ……!)


 一刻も早く助けなければ命が危ない。

 テーナルクが攻撃的な魔法を唱えようとしたとき、蜘蛛が再びテーナルクに狙いを定める。

 障壁を展開して備えるテーナルク。その背筋に悪寒が走る。

 彼女は咄嗟に魔法を中断し、横っ飛びでその場から逃れた。

 その次の瞬間、黒い霧のようなものを纏った糸を蜘蛛が射出し、テーナルクが展開していた障壁を突き破って、一瞬前まで彼女がいた場所に白い糸が着弾した。


(障壁を一瞬で――? これは、即死属性……死告龍の眷族……っ!)


 悪寒の正体を悟りながら、テーナルクは走る。

 逃げるためではなく、同じ場所に留まらないための足運びだ。

 テーナルクの判断は正しく、蜘蛛は次々糸を放射し、テーナルクをも絡め取ろうとする。

 避け続ける彼女は、蜘蛛を倒すのは難しいと判断した。


(蜘蛛には炎系の魔法が有効……ですが、いまそれを放つとバラノ様まで巻き込んでしまいますわ……)


 蜘蛛の糸は良く燃える。それゆえに、もしいまテーナルクが炎の魔法を使って攻撃をすれば、燃え広がる火がバラノまで燃やしてしまうだろう。

 魔法の火は放った者の意思である程度制御することが出来るが、選択した者だけ全く焦がさないほどに制御出来るのは、魔法を極めた者だけだ。

 ましてや、炎の制御だけに集中できる状況でもない以上、延焼してバラノを焼いてしまうということになりかねない。


(ここは、撤退すべ――きっ!?)


 天井に張り付いていた蜘蛛が、突如落下して来た。空中でくるりと身体の向きを変えた蜘蛛は、床に着くや否や、もう加速してテーナルクに迫る。

 蜘蛛の口の前、鎌のような形状をした鋏角がテーナルクに食らいつかんと開いていた。

 硬直しかけたテーナルクだが、ギリギリ回避行動が間に合った。床を蹴り、突っ込んで来た蜘蛛の頭上を越える形で、突進を回避する。

 その際、着ていたドレスの裾が蜘蛛の身体に引っかかり、太ももまでむき出しになるスリットが新たに生まれてしまった。

 だが、そんなことに構っている余裕はない。


(いまが好機ですわ!)


 蜘蛛の速度は確かに脅威だったが、テーナルクがギリギリでかわしたことにより、蜘蛛は一瞬テーナルクの姿を見失った。

 テーナルクは無防備な蜘蛛の背に攻撃魔法を撃ち込む――ことはせずに、強化した身体能力を活かし、天井に向けて跳躍。

 糸によってぐるぐる巻きにされていたバラノの近くに移動すると、風の刃を生み出す魔法を使い、バラノを巣から切り離した。

 肩に担ぐようにバラノを回収すると、天井を蹴って床へと移動。着地すると同時に勢いよく駆けだし、蜘蛛から離れていく。

 決して無理はせず、救出を優先したテーナルクの判断は正しかった。


 だが、警戒が一つ足りなかった。


 確実に逃げられると考えたテーナルクの身体が突如減速し、空中につなぎ止められる。

 テーナルクは自分の身体に、目を凝らさないと見えないレベルの、細い糸が絡みついているのを感じた。


(罠――!?)


 テーナルクは失敗を悟る。

 蜘蛛の死角を行こうと咄嗟に駆けだした方向は、まだ彼女たちが歩いていない場所、つまりは蜘蛛がいた方向の廊下だった。

 すでにその場所には蜘蛛によって罠が張られており、迂闊に走りだしたテーナルクはその罠にまんまと引っかかってしまったのである。

 魔法を使って抜け出そうとしたが、それは致命的なタイムラグだった。


 テーナルクの腹部に、激痛が走った。


 即座に距離を詰めた蜘蛛が、その毒針をテーナルクの腹部に突き刺していた。

 刺されたことによる激痛と、流し込まれた毒液による痺れが全身を襲い、テーナルクの意識は暗転してしまった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ