第四章2 ~気づかない幸せもあります~
「ひとまず、森の中からは何が出て来るかわかりませんし、一端部屋に戻りませんか?」
聖羅はルレンティアとアーミアにそう提案した。
謎の触手が襲いかかってきた森の中より、その方が安全だと思ったからだ。
しかし、出てきた方向を振り返った聖羅とアーミアは、揃って眼を見開くことになる。
「あ、あれ……? 扉が……というか、部屋が……」
「……なんてこと」
ふたりが出てきた部屋は、忽然と消滅していた。
触手によって翻弄されている間に、霞のように消えてしまっていたのだ。
ルレンティアはふたりの態度から状況を察したようだ。
「もしかして、ふたりのいた部屋は無事だったのかにゃ?」
「ルレンティアのいた部屋はそうじゃなかったの?」
「ボクは気付いたら裸で森の中に放り出されてたにゃ。すぐ傍に脱いだドレスはおいてたんだけどにゃ。そっちはそうじゃなかったのにゃ?」
「ええ。私たちは突然部屋の外が真っ暗になってしまって異常に気づいたんです。部屋の中はそのままでしたよね?」
聖羅の確認に、アーミアも頷く。
少なくとも彼女たちが感じた範囲で、部屋の中に異常は見られなかった。
「……まあ、仮に部屋がそのまま残っていたとしても、この状況では戻っても安全だったとは限らない」
「それもそうだにゃあ。ひとまず脅威を追い払った森の中にいた方が安全かもしれないにゃ」
ふたりの意見に、聖羅は首を傾げる。
「どういうことですか? ……もしや、おふたりにはこの現象がなんなのか、心当たりがあるのですか?」
「おそらく、だけどにゃ。でも、これは普通はありえないことなんだよにゃあ」
その言葉を聞き、聖羅にもひとつの可能性が浮かんで来た。
「もしや……魔界化、というものでしょうか?」
「そう。強大な魔王級の魔族が存在することで起こる、周辺環境の異常化……わたしの結界術を突破しうる即死属性を持つあの触手は、死告龍の眷属である可能性が高い」
もっとも恐れるべきことだと聖羅が聴いていた、死告龍の魔界と、その眷属の発生。
聖羅はごくりと息を呑んだ。魔界化の兆候を見逃していたかもしれないためだ。
日常的に中庭にいられるのは聖羅だけであり、彼女はそれを理解して中庭の状況には眼を光らせているつもりだった。
「魔界化はそう簡単に起きるものではないと聴いていましたが……」
これほど急激に変化するものだったのだろうか、と聖羅は疑問に思う。
それに対してはルレンティアとアーミアも同感なのか、聖羅に同意して頷いていた。
「だにゃあ。おまけに死告龍がいたのは王城の中にゃ。城というのは入念な魔法対策も施していることが多いから、魔界化するのが最も遅い建造物といえるにゃ」
「けれど、この状況。事実として魔界化してしまったとしか思えない」
「そうだにゃあ……やっぱり死告龍はとんでもない存在だにゃ。魔界化するはずがない場所を魔界化させちゃうんだからにゃ」
ふたりの姫は顔を見合わせて、意味深な視線を交わす。
聖羅はなんとなく、その視線の意味がわかるような気がした。
(リューさんの脅威を改めて認識した……というところでしょうね)
庇護を受けている聖羅はともかく、ふたりにとって死告龍はいまだ脅威になり得る存在としての側面が強い。
板挟みになる聖羅としては悩みどころではあるが、いまはそれにばかり構っていられない状況だった。
「ひとまず、これからどうしましょうか」
「森の中を進んでみるしかないにゃ。安全が確保出来る場所があればいいんだけどにゃ」
「建造物すら飲み込んでしまう魔界に、安全な場所なんてないかもだけど」
「あーみん。それは言っちゃダメにゃー」
三人は、一番先頭に勘が鋭くもっとも近接戦闘力の高いルレンティア、真ん中に様々な魔法を扱えて柔軟に対応出来るアーミア、もっとも不意打ちを受けやすい最後衛に絶対の防御力を持つ聖羅、という布陣を組んで森の中を進むことにした。
森の中を進みながら、聖羅はふたりに魔界化について尋ねる。基本的なことはルィテ王国の者から教えてもらっていたが、より詳しく聞いておいた方が良いと判断したためだ。
魔界化。
それは強大な魔族が存在することで、周囲に異変を起こす現象の総称である。
強すぎる魔力が環境に影響していると考えられているが、魔界化を引き起こすのは魔族だけであり、いかに強大な魔力を持った魔法使いであっても、種族が人間であれば魔界化は起きない。
古来より魔族と人間が争い続けている理由のひとつでもあった。
「基本的に、魔界は人間が住むのに適さない環境。例外はあるけど」
周囲を警戒しつつ、アーミアはそういった。
聖羅はアーミアの話を聞きながら、ルィテ王国の者達に説明してもらった知識とすりあわせていた。ルィテ王国の者達を信用していないわけではなかったが、より確実な知識として蓄積するためである。
「例外もあるんですか?」
聖羅がこの世界の常識を全く知らないために仕方ないことだが、彼女がルィテ王国の者達から受けた説明は基本の範疇が多かった。
そのため、例外事項になると初耳のことが多くなり、聖羅はそのひとつひとつに注意して尋ねなければならないのだ。
伸ばした爪で茂みを薙ぎ払って道を切り開きながら、ルレンティアが応える。
「ログアンがまさにそれだよにゃ。いくら聖亀様が巨大と言っても、本来ならその背中だけで国が成立するほどの広さは得られないはずにゃ」
「そういうこと。グランドジーグ様の甲羅の中には、様々な空間が生み出されている。そこを活用させていただいて、ログアンは国として成り立ってる」
「なるほど……」
「生み出される魔界は、核となる魔族の性質が反映されたもので、そこにはその魔族の眷属が生まれる。グランドジーグ様の眷属は小さな……といってもわたしたちにとっては十分大きいのだけど……大体2メートルから5メートルくらいの陸亀。ログアンの民の生活を助けてくださる重要な存在」
「ボクも会ったことがあるけど、とても紳士的で真面目な亀さんたちなのにゃ。うちに来てくれたら嬉しいんだけどにゃ~」
楽しげにいうルレンティアに対し、アーミアは溜息を吐く。
彼女にとってグランドジーグの眷属たちは神の使いのようなものだ。余所の国に渡すなど論外である。
「何度も言ってるけど、眷属は魔界から離れて存在できない。フィルカードに行くことは原理的に無理」
「残念だにゃあ」
本気で残念そうなルレンティアに対し、アーミアは再度溜息を吐いた。
「ここが魔界だとすると……さっきの触手みたいなものは、その眷属ということなのでしょうか?」
「恐らくはそうだにゃ。長く存在する魔界ならともかく、生まれたばかりの魔界にいる魔物は眷属と見て間違いないはずにゃ」
「即死属性を纏って攻撃してきたことといい……死告龍の眷属である可能性は極めて高い」
殺されかけたアーミアの顔は強ばっていた。
締め付けも十分危険だったが、それ以前に即死属性を纏った攻撃を加えられていたら死もありえた。
「幸い、死告龍本体と違って眷属は即死攻撃を連発することは出来ないみたいだから、まだ対処のしようはある。黒い霧のようなものを纏った攻撃は、結界術や攻撃魔法で相殺して」
「わかったにゃ」
端的に応じるルレンティアには、それが確実に出来るという自負があるようだった。
聖羅やアーミアを触手から助け出した際の手際といい、姫の立場であっても、戦闘ができないわけではないのだと、聖羅は改めて実感した。
防御力はあっても戦えるわけではない聖羅は、なるべく戦わなくても済む道を模索する。
「眷属さんに話は通じないのでしょうか?」
「少なくとも、グランドジーグ様の眷属とは話が出来るけど……」
「いきなり襲いかかってきたんだよにゃ? だとすると、話すのは難しそうだにゃ」
「眷属、というくらいですし、元になった魔族とは主従関係にあるんですよね?」
漫画やゲームのイメージで聖羅は口にしたが、それに対しルレンティアとアーミアは即答しなかった。
「グランドジーグ様の眷族は皆自立した意思を持っているけど、性格はほぼ一緒で、突出して個性的な存在はいない。おおまかにグランドジーグ様の意向を反映して、ログアンの民の懇願に応えて動く存在だから、主従……というべきかどうか」
「魔界によって色々、ってことになるにゃあ。いずれにせよ眷族は魔界でないと存在できないし、その魔界の要たる『主』に危害を加えられないのは変わらないはずにゃ」
「だとすると……リューさんに直接お願いできれば、大人しくしていただける可能性はありますね」
「その期待はできるにゃ」
死告龍に会えれば、問題は解決するかもしれない。
聖羅はわずかながら希望を感じた。
(少なくともリューさん自身とは話が通じる……眷族さんたちに人を襲わないように言わないと……!)
魔界に呑まれた他の人間の安否が気になっていたのだ。
アーミアやルレンティアは戦闘能力があるが、城で働いている使用人の中には、あまりそういったことが得意でない者も多い。
その者たちのためにも、一刻も早くリューに会わなければと聖羅は決意する。
「……しっかし、この森はどこまで続くのかにゃー?」
そういうルレンティアの前方には、鬱蒼とした森が遙か先まで続いていた。
乱立する木や生い茂った藪のために視界は悪いが、それでも広々と続いていることは明らかだった。
「魔界というのは、どこもこんなに広いものなんですか?」
「規模による……といっても、生まれたばかりの魔界がこんなに広いわけがない」
「空間の端にたどり着けば色々やりようもあるんだけどにゃあ。なにか、カラクリがありそうだにゃ」
「カラクリ……というと――あびっ!?」
ルレンティアとアーミアに続いて歩いていた聖羅が、突如不自然な動きでひっくり返る。
前を見ずに歩いていて間抜けにも壁か何かに激突したような、そんな動きだった。
先行していた二人が聖羅のあげた奇妙な声に驚いて振り返ると、聖羅が額を抑えて仰向けにひっくり返っていた。
二人が即座に視線を外したのは、ひっくり返った聖羅の大事なところが開帳されていたためである。聖羅への気遣いもあったが、同性とはいえ、そこを直視するのは二人も恥ずかしかったのだ。
「いたっ……くはないですけど、びっくりしました……」
幸か不幸か、ひっくり返った張本人は額を打ち付けたことに唖然としていたため、そのことに気づいている様子はなかった。
ルレンティアとアーミアはさりげなく聖羅の脇に移動し、彼女を助け起こす。
「怪我はしてないみたいだにゃ」
「セイラさん、何があったの? 枝か何かにぶつかった?」
二人に優しく声をかけられ、聖羅は礼を言いつつ身体を起こした。
そして、恐る恐るといった様子で手をまっすぐ前に伸ばす。
その指先が不自然なところで何かにぶつかって、押し戻された。
「ここになにか……透明な壁のようなものがあるんです」
ルレンティアとアーミアが聖羅の指先辺りの空間に手を伸ばしてみるが、何も起きなかった。自然に動いている。
だが聖羅の指は相変わらず一定の場所で止まり、それ以上先にはどうやっても進まなかった。『壁がある』というパントマイムでもしているようだと聖羅は感じたが、他の二人はそれを見て思いつくことがあったようだ。
「……ここで空間がねじ曲がってるのかも」
「いくらなんでも広すぎると思ったら……なるほど、そういうことにゃ」
ふたりは納得したように呟き、それを聴いた聖羅もなんとなく事情を察した。
「つまり、実際に空間が広がっているのではなく、空間が歪曲して無限に続いているように見せかけられている、ということですか?」
「そういうことだにゃ。せいらんが気づいてくれなかったら、延々森の中を歩かされていたところにゃ」
「性質が悪い……結界術の心得があるわたしが気づけないなんて」
空間に関わる魔法は結界術の範疇であり、その熟練した使い手であるアーミアが気づけなかったというのは相当高度な魔法の証拠であった。
誇りを刺激されたのか、アーミアは杖を構え、その魔法の解析を始める。無数の魔方陣がアーミアを中心に広がり、薄暗い森の中を魔法の光が照らした。
「……解析成功。どうやらこの境界線はこの空間の反対側……わたしたちからすると、今歩いて来た方向に繋がってる」
「普通に歩いていたら同じ場所をずっと歩くことになるわけだにゃ」
「このような結界は、どうやったら脱出できるのでしょうか?」
聖羅の問いに対し、ルレンティアは拳を握ってみせる。
そしてそれを透明な壁に当てるように振った。
「大したことのない結界なら、力尽くで突破することもできるにゃ。……でも、ボクには干渉すらできないみたいだにゃ」
「……術者を倒して解除させればいい。この規模の結界なら術者は確実に結界の内側にいるはず。もしくは、起点となる何らかの要がある」
「問題は……この広い空間の中からそれを見つけ出すのは難しいってことだにゃあ」
「歩いて来た分だけを考えても結構な広さですもんね」
「もう少し解析してみる。そうすれば要の位置も――」
アーミアがさらに結界の解析をしようとした時、ルレンティアが手をあげてそれを制した。怪訝そうな顔をしつつも、アーミアは解析のための魔方陣を展開するのを中断する。
ルレンティアは自分たちが歩いてきた方向を睨んでいた。
「どうやら、悠長に解析している暇はないみたいだにゃ」
遅れてアーミアと聖羅もそれに気づいた。
明らかに巨大な何かが近づいてきている音が響いてきている。
待つというほどの時間もなく、すぐにその何かは姿を現した。
「あれは……巨大な……花……?」
それは巨大な蕾を中心に広がった、植物であった。
人間のほどもある巨大な蕾の周りを守護するように、無数の蔓のような触手が蠢いている。いくつかの蔓の途中には人間の頭部ほどの大きさの蕾がいくつもあり、なにやら不気味な雰囲気だった。
放っている気配も禍々しいもので、聖羅は思わず後ずさりして距離を取る。
聖羅のその判断は間違っていなかったのだろう。
中央の蕾が窄めていた花弁を開き、その本性を露わにする。
その花は、一言で言えば巨大な口だった。
花の中央には巨大な穴が空いており、その周辺には鋭い牙のような鋭利なトゲが並んでいる。その角度は内側を向いていて、もしその中に呑まれれば、トゲが返しのようになって抜け出そうとする者の身体をさらに傷つけるだろう。
その口のような穴からはどろりとした液体が零れ出しており、毒液なのか消化液なのか、地面に落ちて湯気のようなものをあげている。
そんな凶悪な形状をした蕾は、どう贔屓目に見ても邪悪な存在にしか見えなかった。
さらにそれを助長するかのように、蔓の所々にある蕾が開く。
その蕾の中には、小さな妖精達が囚われていた。
妖精達はぐったりとした様子だった。
蕾の中に無数に生えた触手のようなものに、四肢や羽を絡め取られ、動けないようだ。
本来妖精は物質的な拘束を受けない存在だ。仮に縄や鎖で縛ったとしても、魔力で構築されている身体を一端粒子化して逃れることができる。
そんな妖精達が捕獲されているという事実は、つまりその行動を阻害し得る何かがその触手にはあるということだった。
妖精達に生物学的な雌雄はないが、大妖精であるヨウがそうであるように、見た目は人間の女性に似通っている。
そんな妖精たちが、触手に絡め取られて弄ばれているような光景は、三人にとって衝撃的なものだった。思わず硬直してしまった三人を責めることはできない。
怪しげな花の怪物は三人に向けても、躊躇なくその蔓を伸ばした。