第九章3 ~恩を返すのは当たり前のことです~
「イージェルドさん、お願いがあります。私に……身体強化の魔法をかけてください」
あそこに行かなければならないと、私は直感で考えていました。
バスタオルの加護もなく、防御力は紙切れ以下。
身につけている服とも言えないボロ布は、胸から膝の下くらいまでは隠してくれていましたが、非常に頼りない状態です。
その状態でも、行かなければなりません。
当然、イージェルドさんには正気を疑う顔をされました。
「……キヨズミ。それは――」
イージェルドさんが何か言おうとしたのを、私は遮ります。
彼が言わんとしていることはわかっていました。
その判断は的確であり、正しいのであろうことも理解しています。
ですが、そんなことは承知の上です。
「イージェルドさん。お願いします」
彼の目をまっすぐ見つめ、再度そう言います。
イージェルドさんも私の覚悟を汲んでくれたのか、言いかけていた言葉を飲み込み、頷きました。
その豪華な杖を構えることはせず、空いた手の手のひらを私に向けます。
「『俊足』」
恐らく杖を必要としないレベルの基本魔法なのでしょう。
イージェルドさんの手に光が宿り、そこから放たれた光が私の身体を包み込みます。
すると途端に、頭にものすごい激痛が走りました。
(ま、たこの痛み……っ! 痛ぅ……!)
歯を食いしばって痛みを堪えます。
目が覚めてから頭が痛いのは、瓦礫に頭を打ち付けたためだと思っていたのですが、どうやら違うようです。
ですが、いまはその痛みの原因を考えている暇はありません。
「あり、がとうございます、イージェルドさん……!」
私はお礼を言うのもそこそこに、ヨウさんが落ちた塔に向かって走りだしました。
身体が羽のように軽く、ものすごい勢いで景色が流れていきます。
身に纏ったボロ布の裾が舞い上がり、イージェルドさんやオルフィルドさんには、色々大事なところを見られてしまったような気がします。
顔から火が出るほど恥ずかしかったですが、それを気にしている余裕はありません。
(急がないと……!)
塔の入り口に扉などがなくて助かりました。
物見櫓のような役割を持つ塔なのでしょう。内側に螺旋階段が上へと伸びています。
ぱらぱらと上から塔の破片のようなものが落ちてきており、いつ塔自体が倒壊するかわかりません。
だから私は、全力で螺旋階段を駆け上がりました。
途中落ちていた破片を踏みつけてしまい、めちゃくちゃ痛い思いをしましたが、根性で走り続けます。
(頭が痛いのが幸いするとは……!)
足の裏だけの痛みだったら、耐えられずに走れなくなっていたかもしれません。
けれど、今の私は頭の中で激痛そのものが暴れ回っている状態です。
アドレナリンが激しく分泌されているのか、足の裏からの痛みはそれほど感じなかったのです。
それを幸いとしていいのかはさておき、とにかく私は塔を駆け上がりました。
身体が軽いことも相成って、三段四段飛ばしで上っていきます。
この勢いで転んだら、それは悲惨なことになるでしょう。
(慎重に……! 転ばないようにだけ気をつけて、走る!)
ところが、順調に駆け上がっていた途中で、突然塔が揺れました。
リューさんのものと思われる咆哮が塔を揺さぶったのです。
とんでもない咆哮でした。思わず階段から足を踏み外し、盛大に転んでしまいます。
とっさに腕をクッションにして頭を打つことだけは避けました。
ですが、腕を石造りの階段に擦り付けてしまい、血が出るほどの擦り傷を作ってしまいました。
さらに悪いことに、身体に巻き付けていたボロ布が外れてしまいます。
(そう、でした……加護があるわけじゃないから……!)
これを失うと私は全裸なのですが、もう一度拾って身体に巻き付けている時間的余裕は恐らくありません。
足にまとわりついて走りにくかったのもありますし、私はボロ布を放置して生まれたままの姿で再度塔を上っていきます。
この歳になって全裸での全力疾走を行う羽目になるとは。
頭痛でまともに考えることもできないのが逆に功を奏しました。
そうして、私はついに塔の最上部にたどり着くことが出来ました。
ヨウさんが叩きつけられて粉砕された塔の先端。壁が無くなって吹きさらしの屋上みたいになっています。
崩れた瓦礫の中から這い出て来た様子のヨウさんが、その場に膝を突いて、呆然と空を見上げています。
そして、空からリューさんがそのヨウさんに向かって降りてこようとしていました。
私は最後の力を振り絞り、ヨウさんとリューさんの間に立ち塞がります。
「ダメです! リューさん! 止まってください!」
恐ろしい勢いで迫ってきていたリューさんが私の姿を認め、慌てて急減速を行いました。
私の目の前に魔方陣がいくつも生じ、空気のクッションのようなものがリューさんの勢いを殺し、衝突寸前で止まりました。
リューさんは翼を広げ、羽ばたくのとは違う力でその場に滞空し始めます。
ひとまず止まってくれたことに、私はほっと内心胸をなで下ろしました。
もし構わず突っ込んで来られていたら、私は間違いなくミンチ肉になっていたでしょう。
しかし、まだ危機は脱していません。
リューさんの目が怒りで真っ赤に染まっているからです。
『セイラ、なんでそれをかばうの?』
リューさんの声は、想像していたより数段高い声でした。
喋り方もどこか子供っぽいので、リューさんはドラゴンとしては子供なのかもしれません。
思えばリューさんの行動にはどこか子供っぽいところが多かったように思います。単に人とドラゴンの感覚の違いゆえかと思っていましたが、純粋に子供に近かったようです。
死告龍、などという呼び名自体は大層だと思いますが、そこまで恐れられている理由もその年齢にあるのかもしれません。
(子供ゆえの残虐性に加え、行動も感情的になりうる……そりゃ、怖いですよね)
成熟した精神の持ち主であれば、取引や駆け引きが有効でしょう。
多少は不快なことがあっても、ぐっと我慢するだろうと信用できます。
ですが、子供相手だとすると、どうでしょうか。
その場では納得したように見えても、その時々の感情でそれがひっくり返されるかもしれません。
普通の子供ならば、約束を破ったり暴れたりすれば、拳骨のひとつでも落として叱るところですが、リューさんはドラゴンで、しかも即死の属性持ちです。
人が神か悪魔とばかりに恐れるのも、納得出来るというものです。
とはいえ、いまはそのことを気にしてはいられません。
怒気がリューさんの全身から立ち上っているのがわかります。
リューさんが私を気に入っている理由がなんであれ、それ以上に気にくわないことをすれば当然不興を買うでしょう。
そして私を裏切った形になるヨウさんを、リューさんから庇うという行為は、リューさんにとって十分に不愉快な行為に他なりません。
『それはセイラのものを盗ったのに、なんでセイラはかばうの?』
頭が割れそうな痛みを発する中、私はどう応えるべきか考えていました。
一言でいえば『死んで欲しくなかったから』なのです。バスタオルを奪うためについてきていたのだとしても、私がヨウさんの存在に救われていたのは事実です。
それに、ヨウさんは私が巻き込んだようなものであり、本来であれば森の奥で穏やかに暮らしていられたはずの存在です。
そういった負い目もあるにはあるのですが。
(それでは、納得してくれなさそうですね……)
何かリューさんを納得させられるような、いい理由を模索します。
ですが、頭痛が酷くて思考も定まらない中では、上手い言い訳を考えることができませんでした。
いくつもの考えが浮かんでは消えていきます。
リューさんが爆発するまで、時間もありません。
ですから、私は次に頭に浮かんだ言葉を、そのまま口に出すことにしました。
「受けた恩を――返すためです」
口にしてしまえば、それがすっと胸に落ちて来ました。
それが一番の理由なのだと、頭ではなく心で言うことができます。
『……恩?』
それはリューさんではなく、背後に庇ったヨウさんからの呟きでした。
肩越しに振り返ると、ヨウさんは私を呆然と見上げています。
そんな彼女に向けて、私はほんの少し笑って見せました。
「果実を、分けてくださったでしょう?」
『そんな、程度のことで……?』
『なにそれ……そんなことで――』
ヨウさんとリューさん、両方から呆れられているような気がしました。
けれど私はそうは思わないのです。
ですから、リューさんの言葉を遮って口を開きます。
「いいえ、リューさん。そんなこと、じゃないです。ヨウさんが最初にくださった金色の果実……あれは、とても希少なものだったのではありませんか? 例えば、そう――知恵の実とか」
あのときはただの果実だと思ってしまいましたが、冷静に考えるとそうであるわけがないのです。
普通の果実もその後で食べさせてもらっていましたし、あの金色の果実だけが異彩を放っていました。
私があれを食べたあと、言葉が通じないとわかっているはずのヨウさんたちが話しかけて来ていて、私がその意味がわからないという当たり前のことに対し、絶望していました。
つまり本来、あの実を食べれば言葉が通じるようになるはずだったのでしょう。
そしてそのことをリューさんは知っていたからこそ、わざわざあの大森林に行って、ヨウさんたちを脅しつけて用意させたはずです。
案の定、リューさんは気まずげに視線を逸らしました。
『……食べればなんでも知ることができる実があそこだけにあるって、物知りなお兄ちゃんに聞いたから。セイラに食べさせればリューと喋れるようになるんじゃないかって思って』
ご兄弟がいらっしゃったんですね。
そういえば、最初リューさんは私を咥えて持ち運んでいたのに、グリフォンを狩ったあと、私を手で持って運ぶようになっていました。
もしや、私が気絶している間にご兄弟に会っていたのでしょうか。
その時に、仮称『知恵の実』の情報だけでは無く、人間は掴んで運ぶようにアドバイスされた、とか。
「なるほど……ではやはり、とても貴重なものを分けていただいていたわけですね」
その実の効果が発揮されなかったのは、バスタオルの所為でしょう。
恐らくその実は高度な魔法をかけてくれるようなものなのではないでしょうか。だから、加護によってあらゆる魔法を弾いてしまう私には通じなかった、と。
いまから思えば、それで良かったのかもしれません。『俊足』の魔法ですら、死にそうなほどの激痛を受けたのですから、「なんでも知ることができる」なんていう効果を受けていたら、その場でショック死していたかもしれません。
つくづく、バスタオルの所為で苦労しましたが、バスタオルのおかげで命を繋いで来れたのだと実感します。
『セイラ……貴女、おかしいわ。どうして、そんな風に思えるの?』
ヨウさんが正気を疑う目で私を見ていました。
「一応、他にも理由はありますよ? バスタオルを奪った後、私を殺さなかったじゃないですか。それだけじゃなく、守るための魔法もかけてくださったでしょう?」
バスタオルだけが目的なら、奪ったあとの私なんてどうでも良かったはずです。
その場に捨ておくだけでよかったのに、守るための魔法を使ってくれたのです。
それを指摘すると、ヨウさんは気まずげに目線を逸らしました。
『別に……強いて殺すほどの価値がなかっただけよ……』
「それでも、恩は恩ですから」
そう言葉を返すと、ヨウさんは項垂れてしまいました。
本気で呆れられているのか、それとも少しは感じるところがあってくれたのでしょうか。
大妖精の感性がどういうものなのか、私にはよくわかりません。
ひとまず、ヨウさんにはもう戦意はないようです。
『……そもそも、それがセイラから盗らなければよかった』
リューさんはまだ納得が行っていないのか、不満げに唸ります。
私の側に顔を寄せてきて、その口を開きました。
『そうしなければ、セイラがこんなに傷つくことはなかったのに』
全身傷だらけで血だらけな状態を思い出させないで欲しいです。
そう思う私の前で、リューさんの口から舌が伸びてきて、私の身体を舐めました。
改めて裸であることを意識させられてしまい、恥ずかしく思ったその刹那。
『――ッ!? 死告龍!? ダメ!!』
項垂れていた顔をあげたヨウさんが、目を見開いて叫びました。
しかし時すでに遅し。
リューさんの舌から、黒い霧のようなものが私の身体に伝わってきました。
即死の『力』は、ブレスだけに乗るものではなかったのです。