第九章1 ~死告龍VS大妖精~
バスタオルを剥ぎ取られた瞬間、目が覚めてからずっと感じている頭痛が激しくなりました。
けれど、それに構っている場合ではありません。バスタオルに手を伸ばそうとして、まだ両手両足に蔦が絡み付いていることを思い知らされました。
幸い、締め潰されるほどの力ではなかったのか、肌に軽く食い込む程度で済んでいます。
痛いのに違いはありませんでしたが。
「ヨウ、さん……! 返して、くださいっ!」
抵抗する術のない私には、そう声をあげることしか出来ませんでした。
バスタオルを掴んだまま、ふわりと浮かび上がったヨウさんは、そんな私の呼びかけに対して。
『……ごめんなさいね。これがどうしても必要なの』
日本語で、そう答えたのです。不思議な声でした。耳ではなく、頭に直接響いてくるような、涼やかな声音。
外見から想像していた通りの声でした。
突然ヨウさんの声が聞こえるようになって、思わず目を瞬いて驚いてしまう私の前で、ヨウさんがバスタオルをその身体に巻きつけます。
それと同時に、異変を察知したのでしょう。隣の部屋から、クラースさんが駆け込んできました。
「キヨズミ、サマっ……!?」
部屋の状況を見て、クラースさんが驚きで目を見開きます。
ヨウさんがクラースさんを見やり――その目に宿っている、塵芥を見るような冷たい光に、背筋が泡立ちました。
それは、いけないものだと。
クラースさんが危ない、と直感で悟りました。
「っ……! クラースっ!!」
逃げろ、という日本語は教えていなかったので、咄嗟に名前を呼びました。
危ないという意思を込めて、声の限りに叫びます。
クラースさんは私の言葉に反応して、開けたばかりの扉を閉めながら部屋の外に転がり出て行きました。
一拍遅れて、拳大ほどもあるバラの棘のようなものをヨウさんが放ち、それらは扉を貫通して、太い穴だらけにしてしまいます。
もし、その場所にクラースさんが立っていたら――そう思うと背筋が凍りました。
「なん、で……」
仲良く出来ていた、と思っていました。
最近はヨウさんも自由に動き回ることが多く、常に一緒にいたわけではありませんでしたが、それでも毎日会って友好的に接していたはずです。
私のそう言った想いが篭った言葉に、ヨウさんは何も言ってくれませんでした。
いえ、正確にはヨウさんが私の言葉に対し、哀しげに何かを口にしようとしてはいました。ですが、それは言葉になりませんでした。
部屋の壁を突き破って現れたリューさんが、ヨウさんに襲いかかったからです。
怒号とわかる凄まじい咆哮が、耳を劈きます。
部屋全体が歪み、縛り付けられたベッドごと身体が浮くのがわかりました。
リューさんの突撃によって壁が砕け、部屋が崩れていく音と咆哮とが混ざって、頭痛がひときわ酷くなって――何も聞こえなくなりました。
死告龍が突然城を襲い始めた――周りからすれば、そうとしか思えない状況だった。
吹き飛ぶ城の外壁を掻い潜り、一体の大妖精が空を行く。それは半透明の羽を広げて鱗粉のように光の筋を残しながら、一気に空高く舞い上がった。
それを追いかけて死告龍が飛び上がる。
城の上空には空を飛ぶ魔物を撃ち落とすための迎撃魔法が展開されていたが、大妖精は展開された魔方陣を打ち消し、死告龍はもっと単純に発動した迎撃魔法をぶち破った。
そして、死告龍と大妖精の激しい空中戦が始まる。
大妖精が無数の魔方陣を生み出し、雷や石飛礫で死告龍を撃ち抜こうとすれば、死告龍は黒いブレスでそれらを迎撃する。
大魔法使い同士の戦いでもありえないほどに、様々な魔法が飛び交う。
普通ならば大惨事であっただろう。
二体の魔物はお互いのみを敵として認識しているようで、あえて他を狙って魔法を放つことはなかったが、稀に軌道が逸れた魔法は、眼下の街に降り注ぐからだ。
しかし、その逸れた魔法は、即座に別の魔法が発動して空中で撃ち落とされていた。
そのため派手で豪快な戦闘の光景ほど、人間の街に被害は出ていない。
だが、あまりに次元の違う魔物同士の戦闘を前にして、人々は逃げ惑うことしかできなかった。
瓦礫に埋もれた状態で、私は目覚めました。
身体中が悲鳴をあげていますが、死んではいないようです。
幸い、大きな瓦礫の下敷きにはなっていなかったようで、私の力でもなんとか這い出すことが出来ました。
細かな粉塵が舞い上がり、それを吸い込んでしまって激しく咳き込みます。
「げほっ、ごほっ……! 一体、何がどうなって……っ」
瓦礫の下から這い出した私は、まず自分が全裸であることを思い出しました。
慌てて手で隠しつつ、たまたま近くにあったボロ切れを体に巻きつけます。
ボロ布と言いましたが、物自体はかなり上質なものでした。恐らくベッドを構成していた一部でしょう。
私にあてがわれていた部屋は盛大に崩れ、原型を留めないほどに破壊されていました。
当然部屋に置かれていた高価であったであろう調度品などもめちゃくちゃです。
被害総額はいくらになるんだろうかと、現実逃避気味な心配をしてしまいました。
「痛、ぅ……!」
そんな私を、身体に走った痛みが現実に引き戻します。
床に着いていた手のひらに、瓦礫の破片が食い込んで痛みを発していました。
それを摘まんで抜き取ると、少し血が滲んで来ます。
いままでならこの程度平気でしたのに、明らかに加護がなくなっていました。
しかし、全身を確かめてみたところ、建物の崩落に巻き込まれたにしては、驚くほど怪我らしい怪我をしていません。
もっと血が出るような傷を負ってもおかしくなかったはずですが。
(加護はなくなったのに……? 運が良かったのでしょうか……)
そう思ったものの、運がいいだけとは思えません。
素肌の上に瓦礫が落ちて来て触れただけで、普通は皮膚が破れて血まみれになってしまうでしょう。
頭痛は酷いものでしたが、打ち身や擦り傷があまり見られないのが不思議です。
じっと体を見つめてみると、ほんのりと光っているように見えました。
(加護が残っている……あるいは、何か別の魔法がかけられていた……?)
でもバスタオルを身につけていた時には、すべての魔法を弾いてしまっていたはずです。
イージェルドさんの協力の元、【探査】などの魔法だけではなく、【治癒】や【堅固】といった回復や防御の魔法も弾いてしまうのを確認していました。
そうなると、バスタオルが剥がされたあとに、魔法がかけられたということになるはずです。
それはつまり――結論を導こうとした私の耳に、鋭い声が飛び込んで来ました。
「キヨズミ嬢!」
それは、完全武装したオルフィルドさんでした。同じく武装した兵士たちに囲まれ、険しい表情を浮かべています。
心配して見に来てくれた、というにはあまりに表情が険しすぎました。
激しい金属音を響かせながら、オルフィルドさんが私の側に近づいてきます。文字通りの布きれ一枚しか身につけていない私と、完全武装かつ従者も連れているオルフィルドさん。
発される威圧感に圧倒され、蛇に睨まれた蛙の如く動けませんでした。
オルフィルドさんは座り込んでいる私の側に膝をつくと、手甲に包まれたその手で、私のむき出しの肩を掴んできました。
焦燥していて力加減を間違えたのか、かなり痛かったです。肩が握り潰されるかと思いました。
「一体何があったんだ!? どうして死告龍が急に暴れ出した!」
肩を揺すられながら厳しい口調で詰問され、なんと応えるべきか迷いました。
ヨウさんが神々の加護を持つバスタオルを私から奪い、それを察知したリューさんがヨウさんに襲いかかった、とは言えません。
返答に窮していると、オルフィルドさんが連れてきた兵士さんたちが、そんなオルフィルドさんに向けて口を開きます。
その声は震えており、明らかな恐怖が滲んでいます。
「オルフィルド#&’%! %$&$’%$、$#$()%……」
言っている内容は私にはわかりませんでしたが、恐らくオルフィルドさんに逃げるように言っているのではないかと思われました。
兵士さんはオルフィルドさんに向かって叫びつつも、その視線は上空へと向けています。目が離せないというか、目を離したら死ぬと思っているらしい、必死な様子でした。
私がその視線を追いかけてみると、城の上空でリューさんとヨウさんが激しく戦っているところでした。
とんでもないスピードで飛び回り、ぶつかり合っては離れ、魔法を連発し、それをブレスで迎撃したりしているようです。
片方は人間サイズなので的確な表現ではありませんでしたが、怪獣大決戦というのが的確な表現である気がしました。
暮れかけた夕刻の空に魔法やブレスの軌跡が妙に映えています。それが演舞や演習であったなら――さぞかし見応えのある光景でしょう。
ですがいま上空で展開されているそれは、見世物でも何でもありません。一歩間違えば街が消し飛ぶ核弾頭同士のぶつかり合いです。綺麗だなんて悠長なことは言ってられませんでした。
オルフィルドさんは忌々しげに上空のリューさんとヨウさんを見上げます。
「……そうだな。街に被害が出る前に、住民を避難させ――」
オルフィルドさんが呟きかけた時、いくつかの魔法が街に向けて落下していくのが見えました。
落ちる、と私が感じた次の瞬間、それらは別に打ち出された魔法によって打ち落とされていました。
被害が出ずにほっとしましたが、時間の問題でしょう。
オルフィルドさんも胸をなで下ろしていましたが、不意に顔を顰めました。
「いまのは兄上……か? それにしては妙な気が……」
「私の仕業ではないよ。驚いたことに……死告龍が約束を守っているようだ」
オルフィルドさんの疑問に答えるように、イージェルドさんが現れました。彼もまた従者を連れていました。
いつもと変わらぬ豪奢なローブを身につけ、複雑怪奇な装飾が施された杖を手にしています。
また、ズキリ、と頭痛が酷くなりました。
オルフィルドさんはイージェルドさんに向かって食ってかかります。
「死告龍が約束を守っているだと!? 城を破壊したじゃないか!」
「オルフィルド。あれが本気で城を破壊しにかかっていたら、いまごろ我らは生きておらんよ。死告龍の力を忘れたわけではないだろう?」
リューさんのブレスは即死属性を有する広範囲攻撃です。以前の街で見せたように、街の一角を吹き飛ばすくらいの威力があります。
本気で破壊しようとしたならば、確かにいまの破壊の規模で済むわけがありません。
さらに即死の効果までついてくるので、私たちは生きていないでしょう。
冷静なイージェルドさんの言葉に、オルフィルドさんも冷静さを取り戻したようです。
イージェルドさんの視線がこちらを向きました。
「キヨズミ。二体が争い始めた経緯はだいたい察しがつく。決着がつくまで、我らと共に避難するといい。安全な場所に移動しよう」
そういって移動を始めようとする二人とそのお付きの人たち。従者の人たちが私を囲み、立たせようとします。
私はとっさに、二人を呼び止めていました。
「ま、待ってください! 決着がつくまで……というのは、どちらが勝つのか、イージェルドさんにはわかっているのですか?」
恐ろしい即死効果持ちのブレスを放てるリューさん。
対して、その即死効果を打ち消すことの出来る『神々の加護』を得たバスタオルを身につけた大妖精たるヨウさん。
元々の力の差がどれくらいかはわかりませんが、リューさんは最大の武器を封じられたに等しい状況のはずです。普通に考えれば、リューさんが不利とみるべきでしょう。
しかし、イージェルドさんは全く違う風に考えているようです。
「……決まっているだろう。大妖精は絶対防御の『神々の加護』を得て、攻撃に専念すれば勝てると思ったのかもしれないが、見込みが甘すぎる」
イージェルドさんは終始淡々と、言葉を続けました。
「その程度で討伐出来るなら――人間はあれを死告龍などとは呼ばなかったよ」
その言葉に被さるように、ひときわ大きな爆発が上空で巻き起こりました。
全員の視線がそちらに向きます。上空で、小さな人影がふらふらと飛んでいました。
それに対し、巨大なドラゴンは悠然とその小さな人影に近づいて。
身体ごと回転させた鋭い尾の一撃で、人影を城の尖塔へと叩き落としました。
ずずん、と私たちのいるところまで衝撃が伝播してきます。
それを見たオルフィルドさんは、苦い顔を浮かべていました。
「見張りは逃げた後のようだが……壊すなよ……」
「人と違って物ならいくらでも直せるさ。さあ、早く逃げるぞ」
それはきっと、とても正しい判断なのだと思います。
魔物同士の争い。イージェルドさんやオルフィルドさんにとっては、傍迷惑な争いでしかないのでしょう。
明らかに優位に立っているリューさんが、街に被害を出さないように戦っていることは明らかですから、なおさらやり過ごすのが正しい選択なのは理解できました。
ただ、それでも。あるいは――だからこそ。
「……待ってください、イージェルドさん。お願いがあります」
他の誰でもない私が、ここで動かなければならないと思ったのです。