序章3 ~心優しいゴブリンだったらよかった~
ゴブリン。
昔はどんな物語でも不倶戴天の敵でしたが、最近は色々なバリエーションが見られるようになって、場合によっては賢く、人情に厚く、人間とも仲良しになっていることもあるようです。
目の前にいるゴブリンさんたちも、きっと見た目は怖くても、心優しい方々で、バスタオル一枚で放り出されている私に同情し、紳士的に世話してくれることでしょう。
そうであって欲しかったです。
ゴブリンさんたちは突然現れた私に、ぽかんとした視線を向けていました。
それはそうだと思います。洞窟の中にいきなり半裸の女が現れたら誰だって夢か幻かと思うでしょう。
現れた私が、これは夢か幻であって欲しいと思っているのですから間違いありません。
ゴブリンさんたちはお食事中だったようですね。部屋の中央で何かの動物の肉を囲んで座り込んでいました。
こんな密閉空間では火を起こすことができないのだと思いますが、生肉をそのまま食べるとは中々にワイルドです。
わお、口元にべっとりとついた血が、荒々しい性質を余すことなく表現していますね。
「……失礼しました」
私はゆっくりと扉を閉め、そして。
全力で逃げました。
ええ、それはもう全力で走りましたとも。
そんなに詳しくない私にだってわかるんです。あれは確実に話が通じない系の相手だと。
もしあの場に留まっていたら自分がどうされるかなんて、簡単に想像がつきました。
バスタオル一枚の格好で、全力疾走することになるとは思いませんでした。
裾がはためいてかなり危ないところまで丸見えになっている自覚はあります。
普通なら、恥ずかしさのあまり、燃えるように頬を熱くしていたことでしょう。
けれどもその時の私には――血の気が引く感覚しかなかったのです。
「「「ギャギャギャギャッ!!!」」」
だって後ろから引き潰れたカエルの鳴き声よりも、醜い怒号が飛んできているのですから。
私が閉めた扉が蹴り壊されて破片が飛び散り、ゴブリンさんたちが部屋から飛び出しました。もちろん、逃げた私を追いかけてきます。
あれに追いつかれた時、自分がどうなるかなんて考えたくもありません。
私の脳裏には、彼らが涎を垂らしながら噛み砕いていた生肉の姿が過ぎります。
その肉が自分の足やら首やらになっている光景が、はっきりと予想できるのです。
とにかくいまは逃げるしかありません。人生でこれほど必死になったのは初めてです。
それでもバスタオルだけは無くさぬよう、胸のあたりの部分を握っていましたが。
「ギーッ!!」
鋭い声と同時に、肩に衝撃が走ります。体勢を崩しかけましたが、なんとか耐えました。
思わず背後を振り返ると、ゴブリンたちが拳大の石をこちらに向けて投げつけて来ています。
かろうじて二投目を避けながら、肩に走った衝撃はそれが当たったからだと理解しました。
幸いそれほど威力はないのか、軽い衝撃だけで済みましたが危ういところでした。
もし転倒していたら……と考えると血の気が引く感覚がさらに強くなります。
目印を作れそうな石はぜひとも欲しいものでしたが、そんなことは言ってられません。
とにかく逃げるだけで精一杯です。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
けれど、緊張と恐怖で早くも息が上がってきてしまいました。
ただでさえ走るのに向かないバスタオル一枚の格好で神経を削られているのに。
その上、捕まったら一巻の終わりな襲撃者との追いかけっこ。
長く走り続けられるわけがないのです。
そもそも、私は陸上部出身でも何でもないんです。
走るのが得意というわけでもありません。
叫んで助けを呼びたかったのですが、ダンジョンで意味があるとは思えませんでした。
とにかく走る。それしか出来ない私は、がむしゃらに走った結果――
「ひっ……!」
またあの目玉の通路に差し掛かってしまいました。周囲の壁や天井から目が出現します。
思わず足が竦みかけましたが目玉は無害なので、ためらっている場合ではありません。
目玉の化け物と目を合わせないようにしつつ、私はその通路を駆け抜けます。
偶然戻ってきてしまっただけでしたが、ある意味これは幸運でした。
さすがのゴブリンたちもこの目玉の通路には驚くはずです。
追いかけるのを諦めてくれれば最高ですが、追う足が鈍るだけでも十分です。
目玉の通路も、石像の地帯も抜け、さらに角をいくつか曲がったところで、ようやく立ち止まります。
肩で息をしながら後ろを振り返りますが、追ってきている気配はしません。
足音もしません。どうやら逃げ切ることに成功したようです。
「ふー……こ、怖かったです……」
ゲームでは序盤の雑魚敵であるゴブリンが、あんなに恐ろしいものだとは思いませんでした。
追いかけてくる醜悪な顔が、しばらく忘れられそうにありません。
これからはもっと慎重に行動しなければなりませんね。
部屋を物色したかったのですが、なるべく入らない方がいいのかもしれません。
私は走ったことで少し乱れていたバスタオルを、改めてしっかり巻き直します。
これを失ったら全裸でダンジョン内を歩かないといけなくなります。
それだけはごめんでした。
「よし、いきましょう……!」
気合いを入れ直した私は、もうあんな危険な目に遭いませんようにと願って歩き出し。
突然踏みしめるべき床がなくなったことに気づきました。
声をあげる暇もありません。
いつのまに開いたのか、足下が奈落へと開いていました。
とっさに床の縁を掴むとか、そんなことすら考えられず。
私は奈落の底へと落ちて行きました。