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第91話 困った困った

作者: 山中幸盛

 いやはや困った。「北斗」の第91話のアイディアが全く想い浮かんでこないのだ。これまでに何度もそのようなことはあったが、釣りに行くとかしてなんとか誤魔化してきた。

 ところが今回は原稿の提出期限までに所用が入っていて釣りに行くことができない。新聞などでネタを探そうとしてもこれで行こう、という気持ちになれない。そこで切羽詰まり、幸盛は『手で考えるタイプ』なので、「困った困った」と書き始めた次第。

 最悪の場合は「困った、困った、困った、……、」と二ページ全行を埋め尽くして「てへっ。今回はジョン・ケージの『4分33秒』を真似してみました」と開き直ることはできる。しかしそれでは「北斗」の沽券に関わるから、『前衛作家』の尾関さんといえども許して下さらないだろう。

 ということで、友人葬について書くことにする。


 身内の葬式が続いた。幸盛の娘の夫の父親が先々月に誤嚥性肺炎で亡くなったのに引き続き、今月は幸盛の母親が百八歳で大往生を遂げたのだ。

 母が会費を納めていた斎場を借りて通夜と告別式を友人葬で執り行い、火葬場から斎場に戻ってからの初七日法要は親族だけでやるから、ということで幸盛が勤行・唱題の導師を勤めた。通夜も告別式も幸盛が導師をやってもよかったのだが、喪主さんにやらせるわけにはいきませんよ、と現役の若い支部長が引き受けてくれたので、お願いした。

 一連の葬儀を終え、その斎場の食堂で、幸盛が大きな海老フライにかぶりついた時、なぜか隣の席に陣取っていた孫の桃太郎が、ペロリと完食した後で話しかけてきた。

「ねえ、おじいちゃん、ひいおばあちゃんの葬式はこないだの葬式とは全然ちがうね。お坊さんはいないし、お経は大勢の人が一緒に声を出して唱えるし。さっきもおじいちゃんが当たり前のような顔してお坊さんの代わりをやるし」

 幸盛は喜んで応じた。

「おうよ。だから友人葬というんだ。みんな葬式の時だけじゃなく常日頃から朝と晩に法華経を読んでお題目を唱えているから、お坊さんを呼ぶ必要がないんだ。ありがたいのはお坊さんじゃなくてお経とお題目だからな」

「それって、誰が決めたの?」

「お釈迦様さ」

「文献はあるの?」

 普段ならこの手の話に耳を貸さない桃太郎だが、火葬場の煙突から立ち上る煙を見た直後だけに、求道心のようなものが芽ばえているようだ。

「入滅される直前の経典によると、『私の葬儀などに関わっているヒマがあるなら、その分、修行に専念しなさい』と弟子の僧侶たちに遺言されたそうだ。だから、お釈迦様が亡くなると、クシナーラーの在家の住民マッラ族によって葬儀が執り行われたということだ」

「ふーん」

「葬儀だけじゃない。戒名も位牌も塔婆も、室町時代から江戸時代にかけて、葬式仏教に成り下がった寺院が金儲けのために編み出したものだ」

「そこまで言う? 過激的過ぎるんじゃない?」

「まあな。だから日本の仏教界はこぞって我々を攻撃してきた。メシの種を奪われたら女房子供が養えなくなるからな」

「それにしても自信過剰とちがう? その根拠はいったい何なのさ?」

 母が生前に、孫・ひ孫たちが信仰に目覚めることをずっと祈り続けていたことを知っている幸盛は微笑む。

「一言で言えば『四十余年未顕真実』だな。法華経の序分、開経として説かれた無量義経のなかにある文言だ」

「どういう意味?」

「要するに、お釈迦様は三十歳で悟りを得てから八十歳で死ぬまでの五十年間で、八万法蔵という多くの経典を遺されたのだが、そのうちの始めから四十二年間で説いてきた教えは『未だ真実を顕さず』と宣言され、それから八年間にわたって説かれた法華経のなかにこそ真実が顕されているというものだ」

「真実って何さ?」

「死んだ者に畏敬の念を抱くことも大切だが、生きている人間に勇気と希望と生き抜く力を与えることができるのが真実の仏教ということだ。つまり、万人が成仏できる法を有していなければならない。法華経以前の教えにも応分の成仏・作仏が許されてはいるが、十界互具、一念三千が明かされていないので有名無実、つまり『未顕真実』ということになる」

「何それ、ちんぷんかんぷんだよ」

「桃太郎が解らなくて当然だ。先ほど読んだ法華経の方便品に『其の智慧の門は難解難入』とあるし、日蓮大聖人も『一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり』と仰せだからな。では何のために四十二年間の教えはあったのか。日蓮大聖人はお手紙や論文の中で分かり易く譬えておられる。法華経という大きな建物を建てるには『足場』が必要だった。だが、建ってしまえば足場は必要ないと」

「それって、究極の手前味噌とちがう?」



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