樹海王国での新たな一歩
オルキスヴェリア王国の東には、広大な深淵の樹海が地平の限り広がっている。
そのほぼ中央に位置するセレンジシア樹海王国。ここは森の民と言われる長耳族の国として栄えている。
レノアスがここに到着してから、五年が経った。
「創製、鏡面の板」
手元に反射率の高い銀色の板が作られる。
「身だしなみ良し、鞄良しっと」
身長が百五十センチ程になり少し大人びたレノアスは、夜明け前の自分の部屋で、創製で作り出した鏡をのぞき込み、出かける準備をしていた。
愛用の背負い鞄を肩にかけ部屋を出る。そこには大樹がひしめく樹海が広がっていた。彼は王都セレンジシアから、走って二時間程の樹海の中に家を造って暮らしている。
人間族のレノアスは長耳族から嫌悪されている。差別無く扱ってくれる人も少数いるものの、差別意識が強い彼らをなるべく刺激しないで暮らす必要があった。
「ん! 今日もいい狩り日和だな」
レノアスは後ろを振り返り、高さ百メートル程の巨木を見上げる。
その巨木の根元に、レノアスが造った小さな家がひっそりと隠れていた。
「行くか!」
苔むした大地を蹴り駆け出すレノアス。木の根が這う凸凹とした地面も既に慣れ親しんだ道だ。
時には、枝から枝へと縦横無尽に樹海を進む姿は、樹海の民である長耳族のような華麗な動きではなく、まさに動物。隙も無駄もない完成された野生的な動きは、レノアスが一人で生活するために心血を注ぎ努力してきた結果だった。
「ん?」
レノアスは高い木の枝で静止し、気配を極限まで消す。
まだ辺りは薄暗く樹々は影絵のようだった。
冷たい朝の大気と、濃い緑の香り。
虫の鳴き声だけが響いている。
パキッと枝葉を踏んだ音が小さく聞こえ、三百メートル先の木々の間から、体長四メートルの獰猛な肉食獣、角金獅子が歩いているのが見えた。攻撃的で力強く、兵士の長耳族が十人でやっと仕留められるほどの大物で、捕れる素材は薬にも毛皮にもなり肉も高価で取引されるため、レノアスはにやりと笑みを浮かべた。
「ついてるな今日の俺。ここからならいけるな」
レノアスは武器を創製するためささやくように唱えた。
「……創製、翔る静穏の弓矢」
レノアスの手には輝く銀色の長弓が創られた。弓に矢をつがえ、弦の張りを最大にして射る。
矢は大気を鋭く切り裂き、金色の猛獣に迫る。
誰にも認識出来ないような高速の矢が角金獅子の額を穿つ。
ドオオオン!!
空気が爆ぜる音が遅れて追従する。
金色の獣はドサリと地に伏せた。
「おっし、幸先いいぞ」
レノアスは直ぐに倒れた獅子の元に向かい、創製した短剣で手際良く血抜きと解体をし、取引できる素材を切り分けていく。骨のみ残して全てを鞄の中に収めた。
「まだ、入るな」
すでに背負い鞄は幅が二メートルにまで膨れていたが、彼の愛用している背負い鞄には、樹海大蛙という巨大な蛙の腹の皮が使われていて、驚く程伸び大量に物が入る。
その後も王都セレンジシアに向かう道すがら、多くの動物を狩り素材を詰め込みながら進む。朝日が樹海に差し込む頃、王都の郊外にある素材換金所に辿り着いた。
「よ〜し! 大猟、大猟! それにしても、本当に動物が多くて豊かな場所だよな、樹海って。全く狩れない時もあるけど、毎日狩っても減る様子がない」
そう言って満足げに背中の重みを再確認し、取引所の大口受付に進む。
「あら、レノアス君。毎日偉いわね」
「ケファさん、おはようございます。今日も換金お願いしますね。それと、さっき角金獅子を狩れましたよ。今日は何か良いことが起きそうな予感!」
換金所の受付の一人、ケファさんはレノアスの持って来る素材の担当になっていて、彼を差別しない数少ない人だった。
「え!? ほんとに? すごいわね! 最近じゃ角金獅子をここに持ち込むのはレノアス君ぐらいになったって、所長がぼやいてたわよ。今の若い長耳族はなっとらんとか言ってね。ふふ」
「いやあ、まだまだですよ。次は噂に名高い樹海の主を狩るのが目標ですかね」
レノアスは横幅三メートル程に膨らんだ鞄から素材を査定台に下ろす。
「それじゃ、いつものように帰りに代金を受け取りに来ますね」
「はーい。いつもありがとうね」
レノアスは萎んだ鞄を軽く洗ってから王都の中心に向かった。
「あら、所長。ついさっきまでレノアス君が来ていて、角金獅子が獲れたって置いていきましたよ」
ケファは検分し忙しく帳簿をつけながら、部屋に入ってきた男に言った。所長と呼ばれた禿頭の老人は目を丸くする。
「発見も稀な獣を半年で二頭とな。五年前に比べると目覚ましい成長だのう」
「そうですね、来たばかりの頃は木登り兎も獲れずに悩んでましたし。まだ若いのに努力を重ねてしっかりしてますよね」
「うむ。それに比べて最近の若い長耳族ときたらなっとらん。たるんどる!なにが武術の稽古だ。何が知識を学ぶだ。長耳族なら狩りを極めるべきだろうに」
「ふふ。まあまあ。レノアス君はちょっと変わってますから」
「たしか今日は学院の入学式典だったかな?この国で暮らす以上、差別されるのは致し方ないが不憫だのう。わしらにはどうすることもできんが……」
「……そうですね。でも彼ならうまくやっていけると思いますよ」
「うむ。わしもそう願うよ」
やがて多くの狩人達が集まり始め、ケファと所長もいつもの仕事をこなしていく。
レノアスはすでに王都に入り、今日から入学する学院を目指していた。
王都セレンジシアは約五十万人もの長耳族が暮らす大都市だが、至る所に林や森を残して造られ、街中でも鳥や小動物などが多く見られる。
家屋は白木の木造で苔類の緑が美しい三角屋根の街並みが続く。緩やかに丘になっている中心部には王宮や貴族達の屋敷が建ち並ぶ一等地だ。
レノアスが向かう学院もその地域にあるので、フードを目深く被って耳が見えないように隠し、緩やかな坂を進む。
そのように顔を隠すことは日常茶飯事だった。
過去数度に行われた人間族との大戦で、長耳族は非道な扱いを受け、その歴史を子供に教え込んでいた。
何処の国にも差別や偏見はあるんだなと五年前を思い出す。
来たばかりの頃はあからさまに差別され敵視され、時には危害を加えようとしてきた人々もいた。当時は辛い思いを幾度もしたが今では大分慣れたものだ。
街路は早朝から仕事に向かう人々や出店、朝市の商人などで賑わいを見せていた。角を曲がり林を越えた先に見えて来たのは、広大な学院の敷地。
「敷地を囲む塀の長さから見て、かなり広いな」
白い布地に青や緑をきかせた上品で立派な学生服に身を包んだ少年少女達が学院の敷地に入って行く。
レノアスも門をくぐろうとした時、門前の警備兵に止められた。
「君! 学生以外は立ち入り禁止だ」
「ええ、知ってます」
「なら早々に立ち去りたまえ」
「俺はここの学生なんですが……」
「学生服はどうした?それに学生証はあるのかね」
「はい、どうぞ」
レノアスは懐から学生証を出し警備兵に渡す。それを確認しつつ警備兵は怪訝な表情で尋ねた。
「ああ、お前が特例で入学が許された人間族か?」
「はい、よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げる。
「ふんっ」と言うと警備兵は学生証を押し付けるようにレノアスに返し、戻っていった。
まあ、そうだよなと気にした様子もなく門をくぐると、広々とした美しい庭園と薔薇の芳香がレノアスを歓迎した。手入れのされた草木を更に美しく見せようと庭師たちが働いている。その奥には装飾を施された白く美しい学び舎が数棟並んでいる。奥にもまだ何棟か続いているようだ。
「この国の建物はどこも美しいな。人間族の街並みは雑多な感じだが、ここは自然と調和していて本当に気持ちがいい」
案内板に導かれ入学式典が行われる大講義堂へ入る。
見たところ一学年の人数は四百人というところで、大講義堂の中は大勢の学生でひしめき合っていた。二年生と三年生は今日は休みで、一年生のレノアス達は入学式典だけのために登校している。
レノアスには最近になって身につけた有用な技術がある。それは人ごみの中でも目立たない隠密行動術だ。樹海で狩りをするうちに身に付いた気配を消す技術と、人の死角を意識した位置取り、完全に音を出さない移動術、それらを結集してあみ出したものだ。面倒なことは避けるに限ると毎日重宝している。
レノアスはその技術を活かして学生達の最後尾に座った。
学長の素晴らしく聞き応えのある話しを、眠気をかみ殺して聞き流しやり過ごす。式が終わりレノアスは、自分の所属する教室を探すべく大勢の名前が書かれた掲示板に視線を向けた。
「ん、あった。七番教室か」
ここまでは、学生服ではなくフードを被るレノアスを生徒達がヒソヒソ話すくらいしか問題はなかった。
レノアスは自分の教室を見つけて中に入り、最後列の窓際を選んで座った。何か非常事態があってもすぐ外に逃げられるようにするためだ。この国でのレノアスの立ち位置は、そういう自己防衛を真剣に考えなければならないほどだった。
木の机や新しい制服のノリの匂い。大きな黒板。殆ど初めて会う人達。皆が新しく始まる学院生活に期待を膨らませ、教室は活気に溢れていた。
レノアスは小さくため息を吐く。
やがて担当教師だろうか、年齢が二十歳くらいに見える若い女性が教室に入って来た。髪は少し緑がかった金色で、長耳族特有の端正な顔立ちに、凛とした冷たさが宿る瞳の美しい人だ。
成長し強くなったと自負しているレノアスでも、彼女からは緊張させられる程の強さを感じた。周りの生徒達は特に気にした様子はない。喰うか喰われるかの生活を毎日送るレノアスだからこそ感じ取れる隠蔽された気配。相当な手練だ。
「静粛に。今日から七番教室を担当する、ライラ・アレイスレイだ。教師は初めてなのでよろしく頼む」
その言動から察するに軍人だろう。意思の強そうな瞳と無駄の無いハキハキとした自己紹介も、軍の上官から指示を出されている新兵の気分になる。
なんで軍人が教師をしているのかと考えていると、ライラ先生の勧めで生徒達が名前や趣味などの自己紹介を順々に始めていた。
しばらく名前を覚えようと聞き耳を立てていると、やはり貴族や大商人の家の子がほとんどだった。
それもそのはずで、この学院の授業料は高額だった。
レノアスは自力で学費を払っているため学費の高さを知っている。
目の前の席の少女が自己紹介のために立ち上がる。
どこか張りつめた空気を纏う少女。明るい黄金色の長い髪を腰の辺りまで垂らし、片側に分けて虹色の蝶の髪留めで広がらない様に留めている。瞳の色は澄んだ翠色、容姿は教室内では一番の美人だ。数人の男子生徒が見惚れている。
「……わたしの名前はフレイシア。フレイシア・エルフィス・セレンジシア。よろしく」
その少女の簡潔な自己紹介が終わると教室内がざわめいた。家柄にあたる部分にセレンジシアが入っていたためだろう。
レノアスはすぐ後ろでそうなんだと興味無さげに立とうとすると、他の生徒達がフレイシアに質問し始めた。
「えっ! 第三王女のフレイシア様? え? どうしてここに?」
「…」
「王女様も学院に来るんだね! 家庭教師とかいないの?」
「……」
「フレイシア様、何か困ったことがあれば是非、この僕にご相談ください!」
「あ! 抜け駆けずりいぞ! 僕も、相談してくれたら何でもします!!」
「………」
「見てました剣舞会! あれだけの強さをどのように? やっぱり一流の方に習っていますの?」
「フレイシア様ってさあどんな男性が好み?」
「お近づきの印に私の贔屓にしている喫茶店でお茶でもどうですか? 王女」
「王女様! 王宮ってどんなとこですか? やっぱり王女様のお部屋は舞踏会場くらい広いんですか?」
「このような場所に来てまで、私ども民の声を聞きにきていただけるなんて!! 私は感激で…」
「………っ!!」
フレイシアは周囲の五月蝿い質問攻めに我慢できなくなったのか、机を叩き大声で諌めようとしたが、レノアスも同じタイミングで自分の机をドンッと叩いて立ち上がり、フードを外して生徒達の声を遮る音量で自己紹介をした。
「俺の名前はレノアス! 人間族だ。強くなるためこの学院に入った。よろしく!!」
場は一転して静まり、沈黙が支配する。
いつもの嫌悪感ある視線ではなく、呆れ、冷たい、胡散臭いものを見つめる数々の視線。
王女に怒鳴らせまいとしてやったことだが、空気を読まない変な奴として印象づけられ、後悔しつつ席に着いた。レノアスの額には冷や汗が滲んでいるが、涼しい顔で窓の外を見て生徒達の視線を回避する。
沈黙を破ったのはライラ先生だ。
「……よし! 終わったな。では、この学院の説明に入る。よく聞くように!」
変な空気を強引に切り替え、ライラは簡潔に説明をしていった。いたたまれない空気から救ってくれたライラを、誰よりも先に信頼するレノアスだった。
学院の正式名称はセレンジシア王立専門学院。王都にある三つの学院の中で最も古く規模も大きい学院で、ある程度の学力があれば年齢は不問。殆どの生徒は初等教育を修了してすぐに学院に入学するため、レノアスと同じ十二歳だった。
この学院の目的は、国を守る王国軍の士官候補生を育てることと、国の上級官仕を育てることで、レノアスが入学した戦技科は戦いを、学術研究科は官仕に必要な様々な知識を学ぶ。二つに大別された学部は学年が上がるに応じて、更に細かく枝別れし、より専門的な技術や経験が積めるようになっている。
「解散!」
ライラは最後まで規律正しく、概要を話し終えると教室から出て行った。
生徒達は珍獣を見るかのように、レノアスを横目で気にしつつ帰り支度を始める。その中からいかにも貴族然とした雰囲気の小太りの少年が彼に近づいてきた。
「おい人間族! お前のような下衆な種族が、この由緒正しい長耳族の学院に入学しても良いと思っているのか?」
「……ああ、許可はもらってるし。学生証もある」
「ふん、どうせ卑怯な手をつかって入学したんだろう」
五年この国で暮らしていたレノアスは、この少年の反応が一般的な反応だとすでに分かっていた。
親もそうなのだから、その子供達も同じ物の見方をするのだろう。たしか名前はホブリスだったかなと、レノアスは気にせず学生服をもらいに行くため帰り支度をはじめた。
「……」
「おい! 聞いているのか人間族。それとも短い耳では聞こえないのか?」
「……」
「き、貴様、僕を無視するな! おちょくっているのか!」
無言のまま席を立つレノアス。
「おのれっ!!」
「やめたまえホブリス」
ホブリスが平手打ちをしようと手を上げた直後、他の男子生徒が彼を止めた。彼はラディエルトという名で、長耳族三大公爵家の一つウトラス家の出身だ。
「貴族たるもの、いかなる悪感情があろうと大衆の面前で暴力を振るうものではない」
「ラディエルト様!? あ、申し訳ありません」
ホブリスは素直に引き下がる。
「君の気持ちは良く分かるよ。しかし今日は入学式典だ。同じ七番教室ならば、いずれ我らが人間族より優れているということも、正当な場で示せる機会もあるだろう」
上品でいて人間族への嫌悪を隠さないその態度は、まさにこの国の貴族の鏡、とレノアスは彼を一瞥し、無言で教室を出て学生購買部に向かう。
ラディエルトはその後ろ姿に冷酷な瞳を向けていた。
「すみませんが、俺の学生服を一つお願いします」
すると奥からいかにも温厚で優しそうに微笑み、黒髪を七三分けにして身なりの整った職員が出てきた。
「ああ? なんだ、てめえ」
予想外の荒い口調に驚くレノアスだが、冷静に落ち着いて繰り返す。
「ええと、俺の学生服を」
言葉を遮って畳まれた学生服が乱暴に置かれる。
「代金は一万ジエル。大きさは間違いねえはずだ。とっとと持ってけ」
「はい、どうも」
目測でサイズを見抜いたんだろうかと考えつつ、お金を置いて立ち去ろうとするレノアス。
「……おい。待てよ」
「なんでしょうか」
「お前……」
男の双眸がレノアスを射抜くように捉え、場に緊迫した空気が漂い始める。
この職員からもライラ先生のような強さを感じたレノアスは、五感を鋭くさせ瞬時に動けるように心を整えた。
「靴ひも解けそうになってんぞ。転ぶと危ねえからしっかり結んどけよ」
そう言うと奥に戻って行った。
「……あ、どうも」
風貌からは想像できない言動に、レノアスは変な男だなと不安になる。
敷地を出るまでに完璧に職員に変装した十五人の兵士がいたが、レノアスには興味がないらしく学生達と普通に接しながら仕事をしていた。
「……んー。やっぱり王女様関係の人達だよな。まあ王族が学院にくるんだ、当然と言えば当然か」
門を出てからすぐに後ろから声がかけられた。
「ちょっと待ちなさい」
「ん? 俺?」
そこには同じ教室のフレイシア王女と四人の護衛の兵士が立っていた。
彼女は艶のある長髪を片手で後ろにやり、そんな何気ない仕草にも王族としての気品を感じさせた。虹色の蝶の髪留めが彼女の美しさをより際立たせる。
「あなた、確かレノアス君だったわね」
「君、はいらない。レノアスでいいよ。フレイシア姫」
「私も姫は入らないわ。柄じゃないし」
「そうか。じゃあフレイシア、俺に何か用でも?」
「……お父様からあなたの話は聞いているわ」
「そうか、シュナーザ王の娘だもんな」
「……あなた本当に人間なの? 私、初めて見たわ」
「そうだよ。長耳族が人間族と国交を断絶して千年も経ってるんだから仕方がないよな」
「もっと口が裂けててキバが大きく、凶暴で他種族を食う化け物のような者だと思っていたわ」
「おい。……この国の教育制度を根本から見直す必要性があるな」
フレイシアの澄んだ翠の瞳には好奇心が見てとれる。
「それに……あなた忌み子だったって本当なの?」
「まあ、少しの間ね」
「そう」
フレイシアの瞳に、好奇心と共に戦士のような鋭さが宿る。
「……あなた、強いの?」
「え?」
「だから、戦ったら強いのかっていうことよ」
「いや、どうかな。その時の状況にもよるし。強くなるために入学したから、これから頑張るつもりだけど」
「ふうん、そう」
訝しむ視線を向けてからフレイシアは少し考え込み、ぽつりと言った。
「……さっきは、ありがとう」
「ん? 何が?」
「教室の生徒達がうるさかった時のことよ。私に気を使ってくれたんでしょう?」
「ああ、俺もうるさいと思ったからな。気にするな」
「……うん。でも、ありがとう」
フレイシアは少し俯いてから、真っすぐにレノアスの瞳を見つめた。
「これからよろしくね」
「おう。よろしくな」
「じゃあ、私は帰るわ」
「ああ、それじゃあな」
帰り道、馬車の中でフレイシアは呟く。
「あなたのこと、……見極めさせてもらうわ」
レノアスは護衛を四人も引き連れて王女は大変だなと思いつつ、王宮の敷地の一番端にある学術研究棟に向かった。王宮学術部の顧問の先生がいる場所で、彼は齢二百五十になるこの国で最高齢の学者である。彼は周りの人に大先生と呼ばせていた。
レノアスの話しを聞いて、彼は獣人界へ続く扉に興味を示し扉の解明に最も力を注いでくれている。
彼からレノアスは獣人の資料を見せてもらい、古代語を教わった。これまで何度も二人は樹海王国内にある遺跡を調べに出かけたりもしている。
かなり変わっている人だが、他種族に差別はないようで助かっていた。
当時ラーナをすぐにでも助けたい一心で焦り、精神的に弱っていたレノアスに、こう助言したことがある。
「欲するものは必ず手に入る。しかし急く者の手には焦燥のみが握られる」
それ以来、レノアスはラーナを思い出すたび、この言葉を噛みしめるのだった。長年生きているだけあり含蓄のある言葉をたまに言うので、一概に変人の部類にはしたくないのだが、奇行が九割を占めるためレノアスの中では変人認定されてしまっていた。
王宮の使用人用の入り口から敷地に入り、大先生の研究室のある学術研究棟へ向かう。
いつも美しい意匠の王宮と緑豊かに整えられた庭園は、レノアスのお気に入りの場所だった。
研究棟の扉を開けると、大先生の研究室の方からいつもの奇声が聞こえてきた。
「ふぎゃあーー!扉解錠の動力源的な命の代替え機能を有する魔力結晶の凝縮限界値が空間隔離の術法の必要解除臨界点に及ぼす法則の再計算と明日の夕飯のおかずの予想がままならず古代のぽっと出の文明がたどった末路を糧に我らは共に世界を超えるのじゃああああ!!」
訳がわからないことを口走る大先生の研究室の扉を叩き、返事を待たずに中に入る。机の上にはうず高く積まれた本と、引き出しの上にも開かれた本が無造作に層を作り、床には散らかった本が山になっていた。
「ベベラシ大先生! またこんなに散らかして……」
レノアスは散らかった本を手際良く本棚の定位置にしまい、片付けながら話しをする。
「おお、レノアスではないか! ちょうど良いところに。今さっき昨日の夕ご飯の魔力結晶が空間に文明を作用させくるくると超えたところじゃ!!」
「ええ!? すごいじゃないですか! これで生け贄以外で扉を開く方法の目処がたちましたね!」
「そのとうり。わしにかかれば明日の法則の朝飯予想ちょっと前じゃて! ふょっふょっふょ!!」
ベベラシは前で一つに結ばれた白い長髭を左右に揺らしながら笑った。
彼は用途の不明な機材で、怪しい鉱石を変な匂いのする緑の液体に漬け、理解不能な実験をしていたが、ふと手を止める。
「レノアスは例の場所でまた修行かの?」
「ええ、日課ですから」
「その歳で偉いものよ。わしも若い頃は研究に暴走の組み替え作業遺跡じゃったが、今ではのう」
「今でも現役ですよ、大先生」
「ふょっふょっふょ! わしは砦が暴風の感覚で寿命を硬めにした周囲で新たに研磨しておるからの!」
キラリと禿げた頭が光った。
ベベラシは机の上に積んであったいろいな物をがしゃがしゃと床に落とし、そうして見つけた長さ十センチ程で銀色の円筒をレノアスに投げてよこした。
「その鍵、レノアスが持っているとよいぞ」
「いいんですか? 重要施設だから大先生に管理責任があって、解錠する時は一緒に行く必要があるのでは?」
「よいよい。いちいちわしが開くのも腰が倍速で果実の風味に咲き乱れるからの。……正直面倒じゃ」
「そうですか。分かりました」
「では気をつけよ」
「はい」
レノアスは大先生の研究室を出て研究棟を後にし、王宮の地下の螺旋階段を下る。
王宮の建物と違い、地下への階段は造られた時代がかなり古いようだ。どこまでも深く階段が続く。
セレンジシア樹海王国の地下には数多くの古代遺跡が眠っていた。ベベラシ大先生の話しだと古代には王都を中心に、広大な都市が栄えていたという。
王宮は巨大遺跡の上に造られ、王家が代々守ってきたという話しだ。
この銀の円筒はその鍵で、遺跡の扉の前まで行けば自動で開けることができる。
「……やっと着いた。この遺跡の階段いつも大変なんだよな」
レノアスは慣れた手つきで、光で幾何学的な模様が浮かんだ銀色の壁に鍵を近づけた。
『スティックキー確認、ようこそセレンジシアへ』
遺跡の管理者の声が響く。太古からこの遺跡の中にいたので当然人間ではないが、数千年間この遺跡を守ってきたらしい。
扉がフッと消える。壁と床は何かの金属で出来ていて通路が奥まで続いている。何度か曲がりながら迷うこと無く、いつもの場所まで向かう。
目的地まで到着し入り口に近づくと扉が消える。そこは建物の中とは思えないほど広い空間になっていた。
天井までの高さは五十メートルほどで、床の一辺が百メートルもある広い空間は、直ぐに全体が明るく光を放ち真っ白い大空間となった。
そのほぼ真ん中に先ほどの声の主で、この遺跡の管理者である女性がこちらに向けてお辞儀をしたまま待っていた。
「こんちはテトラ、調子はどう?」
彼女は頭を上げた。見ためはレノアスより少し上くらいで、どこか儚さを感じる美しい女性だ。瞳は銀色で感情の色は見えない。髪も瞳と同じ銀色で、顎の辺りで真っすぐに切りそろえられているのが印象的だ。
テトラは無表情で淡々と語る。
「はい。異常はありません。重大な問題もなく六千九百九十五年七ヶ月十五日十時間三十二分の期間に及び管理を継続できています」
「……毎日同じ返答をするんだな」
「正確には時間が経過していますので、同じではありません。レノアス様」
「そうなんだけど、他に違う返答の仕方はないのか?」
「と申しますと?」
「例えば、今日は髪型がきまらなくて大変でしたとか、天気がいいので出かけようと思ってますとか」
「あいにく私の頭髪は崩れない仕様で製造されていますし、管理業務を継続するため外出することはできません」
「……うん、テトラはかなり不器用だってことは分かったよ」
「了解しました。私のステータス情報に不器用を追加しておきます。修正の必要はありますか?」
「いや、大丈夫。……たぶんそれもテトラの魅力だと思うよ」
レノアスは少し呆れて肩を落とす。
「それではレノアス様、本日も千七百五十五回目のバトル・オブ・バトルズ、レベルアタックプログラムをお使いになりますか?」
「ああ、たのむ」
「レベル設定はどうされますか?」
「前回の一つ上、百五十二レベルで頼むよ」
この遺跡はレノアスが来るまで、入り口が全く開かず誰も入れなかった。テトラの話では人間族に対してのみ反応する仕組みらしい。レノアスが鍵を開けたことで内部の調査が始まったのだが、実際は何も見つからなかった。古代の超技術や品々もなく、人が生活していた形跡もない。ベベラシ大先生いわく何のために建造されたか謎らしい。
唯一テトラが勧めてきたのが、このバトル・オブ・バトルズ、レベルアタックプログラムだ。
仕組みは不明だが、レベルごとに決められた強さの敵が現れ、それを倒していくことで百レベル毎に賞品をくれるというものだ。
昔の遊びだとテトラは言うが、レノアスは絶対に違うと考えている。なぜなら下手をしたら本当に死ぬからだ。
これも人間族専用ということで、長耳族にとっては何も旨味がないことにがっかりした調査隊は、肩を落として螺旋階段を重い足取りで帰って行った。
このプログラムのおかげで、自分の実力に会わせてレベルが上げていけるので、レノアスは効率の良い修行として重宝している。過去の百レベル達成報酬は強制解除プログラムというものだが、なんでも銀術で作られた物を強制的に消滅させることができるものだそうだ。
使い方によっては戦闘で応用できるので、今訓練の真っ最中だった。
「それではこちらの|コンソール(制御装置)に触れて、百五十二レベルのエネミーが創製されるのをお待ちください」
「ああ」
地面から銀色の球体が空中に浮き出て、レノアスがそれに触れた。
するとテトラは再度機械的にお辞儀をし、その空間を出て行った。
空間に変化が現れる。
床から煌めく銀の粒子が浮かび上がり、人の形を形成していき次第に造形が細かくなっていく。
剣や盾を持ったり、弓矢や槍、針のような武器を持つ者、大きな人や小柄な人など、様々な種類の銀の人形が五十体以上に増えた。
レノアスは慣れ親しんだ剣を創製するために唱えた。
「創製! 摩擦係数ゼロの双剣!!」
「よし、今日も本気で遊ぶぜ」
銀の軍勢の中に飛び込むレノアスの表情は、心から遊びを楽しむ子供の様に嬉々としていた。