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東の地平から朝日が顔を出し、低木や草花を照らし始めた広大なニドレラ平原。
いまこの平原では、わずか三百人程の男達を狩る為に、一万人以上の兵士が包囲していた。
広大な深淵の樹海を背に半円に囲まれ、一見絶体絶命のその状況にも関わらず、男達の表情には恐れも焦りも無い。彼らは幾多の死線を越え多くの仲間を失い、それでも戦場に立つことを選んだ戦士達だからだ。
その男達の中には異彩を放つ存在がいる。
名はレノアス、今年で七歳になった少年の身長は百二十センチで整った顔立ちに髪色は紫色、特にその緋色に鈍光放つ眼が異彩を際立たせていた。
レノアスの
瞳は獰猛さを紅く滲ませて周囲を包囲する敵兵を睨んでいる。
「おい坊主!」
レノアスはふいに浴びせられた大声にビクリとし振り向くと、そこには身長が二メートル程で全身筋肉隆々の黒髪の男が、無精髭のある口角に不敵な笑みを浮かべて立っていた。
彼はここにいる三百人の【楔の傭兵団】を仕切るゼラード団長で、大雑把で直情的、酒癖が悪く女に弱い豪快な男だったが、多くの団員達からは慕われ信頼されていた。
レノアスの頭をゼラードは強引にグシャグシャしながら話しを続ける。
「覚えてるか? 俺と交わした漢と漢の熱い約束を!」
ゼラードはレノアスの胸に握り拳を当てると、忘れたとは言わせねえぜ、とただでさえ強面な表情をさらに凶悪な笑顔で歪ませた。
「はい、覚えていますよ。この傭兵団に入団した時の契約のようなものですよね?」
「おうよ! 魂と魂が交わした唯一無二の契約! それが俺達【楔の傭兵団】には結ばれているのだ!! いつでもそれを忘れんなよ!」
ゼラードは当てた拳を軽く突く。
「あの時はすみませんでした。……いろいろと」
「なあに、気にする事は無いぞ! 過ぎた事だ。あん時だけは俺もちょいやり過ぎたと思っとるしな!! がっはっはっはっはっは!」
そのやり取りを聞いていた近くの団員が、「あん時だけって……。団長はいつもやり過ぎるじゃないすか」と軽口を叩き笑う。
それを聞いたゼラードは「ちがいねえ!」と豪快に笑い、周りの団員もつられて笑う。圧倒的な兵力差で包囲されているというのに、その事を忘れてしまうほどいつもの傭兵団だ。
すると周囲を観察していた団員から知らせが入る。
「報告します! 敵の隊列が整ったようです。徐々に武器や盾の創製を始めています」
弛緩した空気の中、決戦の時が間近に迫ることを知り団員達は顔を引き締める。
「おお! そうかそうか、待ちくたびれたな!」
ゼラードは自分の手のひらを見つめて精神を集中しはじめ、そして呟く。
「創製! どんな敵でもぶったぎる漢の長剣!」
すると虚空から銀色の粒子が徐々に集まり剣を形成していく。やがてゼラードの得意武器である長剣が手の平に現れ、その剣の出来を確認してから同じように盾も作り出す。
「創製! 身を守るすんげえ硬い丸盾!」
これは銀術という能力で、物体や現象を具現化でき本人の意思で消す事もできるという便利な能力だ。
種族ごとに使える銀術に得意不得意があり、それを種族特性という。例えば人間族は創製が得意、長耳族は発現が得意という種族特性がある。
ゼラード達が行った創製は、イメージした物体を具現化させるという最も一般的なもので、訓練をしていない一般人の創製限界は果物包丁程だが、訓練した兵士になると剣や盾等も同時に創製できる。
ちなみに初めに唱えたクレイディフという言葉は古代語で、創製する時に必ず発声する必要がある。その後に物体の特徴を続けて言葉に出すと、よりイメージ通りに創製出来るため、独自の文句を考えるのに力を入れる者も少なくない。
ゼラードが武器を握りブンブンと素振りを始めたのを皮切りに、他の団員達もそれぞれの武器と盾を創製させ戦闘体制を整える。
「おっしゃ! 今日も愛剣は絶好調だな、惚れ惚れする輝き!」
「それにしても大きな剣ですね」
「おうよ! 武器が小さくては一度に何人もぶった切れねえからな! だーはっはっはっはっは!!」
「そんなことできるのは団長だけでしょうけどね」
剣に頬擦りするゼラードを横目に、レノアスも創製を始める。
「創製、一対の短剣」
レノアスが静かに唱えると瞬時に銀色の短剣がその小さな両手に握られる。
ゼラードはレノアスに感心したように視線を向ける。
「坊主! いつ見ても創製速度がばかすげえな!」
「ありがとうございます。でも団長達もさすがですね。こんな状況でも皆怯えた様子も無く笑ったりしてるし」
「まあな、伊達に捨て駒傭兵団として生き残っちゃいねえって事よ!うはははは!」
レノアスは捨て駒という言葉に団員達の境遇を思い出し、今この状況を作っている王国の貴族達の冷酷さに表情を暗くした。
傭兵で稼ぐ者の多くは孤児や貧民がほとんどで、大きな戦場では正規兵の盾代わりに文字道り捨て駒として扱われ、真っ先に死んでいく。
ゼラードはレノアスのそんな曇った表情に気づき少し柔らかい表情になる。
「そんなに気にすんな坊主! この生き方は誰でもねえ俺たちが選んだ生き方だ。どんな死に方だろうと、どんな使われ方だろうと、俺たちが選びとって来た俺たちだけの戦場だ。いまさら死ぬ覚悟の出来てねえやつはいねえよ」
レノアスはそれでも親しくなった彼らには死んでほしくはなかった。まだ子供だからかゼラードが満足げに語る理由はよく分からない。
ゼラードは団員全体に眼を配り、全員がそれぞれの武器と盾を創製したことを確認する。
決戦は近い。
団員達の敵軍へ向けた殺気が膨れ上がっていき、砕けた日常の顔から歴戦の猛者の顔に変わっていく。
彼らの背中からは恐怖も悲壮も焦燥も無い。ただただ生き残るという本能だけが強く感じられる。
レノアスは仲間達の強まる殺気に緊張しつつ、自分が傭兵団に入るまでの出来事を思い出していた。
***
レノアスは人間族の治めるオルキスヴェリア王国の東部国境に面した広大な領地、ウィゼラント辺境伯爵領に生を受け、伯爵家の次男アルディスの息子として愛されて育った。
産まれてからはほとんど泣かない赤ん坊だったので、アルディスは自分の子が重度な障害を抱えているのではないかと将来を心配したが、五歳を過ぎた頃レノアスの才能に気づきその心配は安堵に変わる。
レノアスには家庭教師を付け貴族の基礎教育として各分野の知識を学ばせたが、皆を驚かせたのはその異常な習得速度だった。六歳になる頃には王城で仕える高等文官を超えるほどの学力を身に付けていて、さらにアルディスの趣味で集められた難解な蔵書を完全に記憶していた。
レノアスは稀に見る天才児であった。
季節は麗らかな春になり、レノアスの住居がある領主街マーラントの大きな屋敷では、品種改良された美しい花々がほのかな香りを漂わせ、住人達に安らぎを与えている。
レノアスは優しい両親や家族同然の使用人達に囲まれ幸せな日常を送り、七歳の誕生日を迎えた。
王国法では貴族の子供全てを対象に、七歳になると銀術の能力を計測し報告することが義務づけられている。
本来は専門の計測官を招き計測をするのだが、最近特に親バカっぷりに磨きをかけた父アルディスは、自ら計測をすると張り切っていた。
アルディスは四兄弟の次男で武の才に恵まれず銀術の能力も人並み、当主の座にも興味がないため政略結婚を尽く拒否し、周囲の反対を押し切り家督の継承権を放棄してまで、幼なじみである領民のセレイヤと結婚した。なので領民からは変わり者として有名だ。
「レノアス、今日は何の日かわかるかい?」
太陽が真上に昇った頃、屋敷にある訓練用広場に呼び出されていたレノアスは父を見上げてはっきりと答える。
「はい。僕の銀術を計測するんですよね、父上。でも計測官はお忙しい父上じゃなくてもいいのでは?」
「正解だ、レノアス。それに父を気遣ってくれる優しさに父は感激しているぞ!」
大げさな動きで両手を広げ喜びを表現する父。
「私としては学問の才能を開花させた息子なら、銀術の才能も無論開花すると思うのだよ! だから息子の銀術の才能が歴史に刻まれる、この記念すべき瞬間を父である私が見逃すことなどあり得ない!! ……そこのところどう思うかね妻のセレイア君?」
すると広場の端で妹のラーナといっしょに、お茶の時間を楽しんでいた艶やかで長い金色の髪のセレイアは、優しい眼差しを愛する男達に向け微笑む。
セレイヤの隣ではラーナがお菓子をほおばりながら、頬にかけらを付けたまま、リスのように夢中で食べている。
「そうですね、私としては才能があっても無くても可愛い息子には変わりありませんよ。ただ、心配なのは最近の父親の過保護さかしら」
そう言うとクスクス笑い、ラーナの口の周りに着いたお菓子のかけらを取り払う。
「ふふふ、私も才能があろうが無かろうがレノアスへの愛は変わらないさ!」
大げさな動きでレノアスに親指を立てて笑みを浮かべる過保護ぎみの父。
それを見たレノアスも急いで同じ仕草で返答する。
「それで、何から始めますか? 父上」
「そうだな、まずは銀術の基礎知識だ。どんなことを知っている?」
「ええと、大分すると物体を具現化する創製、現象を発生させる発現の二つに分けられ、近接戦では創製、遠距離戦では発現の能力が適していると本にありました」
「よく学んでいるな、さすが私の息子だ!これから計測するのは創製のほうだぞ。まずは華麗なる父の見本を見せてあげよう」
そう言うと手を頭上にかざし集中する。
「創製! 切り裂く刃は疾風のごとし! 華麗なる小剣いざここに現れ出よ!」
すると息子にかっこいいところを見せようと、唱言が無意味に長いアルディスの手に、光る銀色の粒子がキラキラと集まっていき、少し装飾の施された小剣が徐々に出来ていく。
「おお! さすがは父上、それが創製なんですね。でも原理が分からないです」
純粋に驚く息子に気を良くしたアルディスは、創製の基本をレノアスに教え始める。
「はっはっは!私も詳しい原理はしらないが、人間族なら誰でも使えるらしいぞ。クレイディフというのは古代語で創製という意味らしい」
アルディスは腕を組み自慢げに語る。
「その後に唱えたかっこいい文章はな、より創製物を明確に具現化するために必要なのだ。私が自分で考えたんだぞ。どうだ?かっこいいだろう?」
そう言うと腰に手を当て反り返りそうになるぐらい胸を張る。レノアスは眼を輝かせそんな父の勇姿に興奮する。
「僕も早く父上のようなかっこいい唱文を考えたいです!」
「よし! その調子だ、息子よ。私に見習い頑張ればいつか必ず立派な唱言ができるだろう。しかし何より大事なのはかっこいい事ではなく、かっこ悪くても愛する者達を最後まで守りきる事だ。これは絶対に忘れるな」
「はい! がんばります!」
ニッコリと元気よく返事をするレノアスに、優しい父の顔で微笑み返す。それからアルディスは前もって用意しておいた薪を手に取った。
「では実践してみようか。まずは頭の中で創製したい形を出来るだけ明確に想像するのだ。次に性質を考える。つまり堅さとか、鋭さとか、あとはあまり実用性はないが重さや意匠などだな。一般に知られているのは思いの強さが創製の質と量を高めるらしい。それと消したい時は消えるところを想像するだけでいい」
そうして薪を宙に放り投げ、その薪目がけて小剣を振るった。コンッ!という音と共に剣が薪の中央に食い込んだ。
アルディスはすぐに持っていた剣を霧散させ新たに剣を作り、その後もう一本薪を放り投げると、銀色の軌跡がパカリと薪を両断した。
「このように、思いの強さは性質を変化させる。つまり切れ味を良くする事ができるのだ!」
胸を張って説明する父。輝きを増すレノアスの瞳。
「ではレノアス、今度はお前がやってみるんだ」
「はい、父上!」
レノアスは先ほど言われた手順を頭の中で反復しながら、言われた通りに自分の手にちょうど良い長さの短剣をイメージする。鋭さは必要ないし重いと振れないなと考え、可能な限り軽くなるよう頭の中で想像する。
「創製! 軽い短剣!」と唱えるとレノアスの手には瞬時に短剣が現れる。
「こんなものでどうでしょうか。父上」
手を開き短剣を見せようとした瞬間、優しく頬を撫でるような風が吹くと短剣がふわりふわりと風に乗って遠くに飛ばされていった。まるで羽毛のように。
唖然とした表情でレノアスの創製した短剣を見送るアルディス。
「あ、ごめんなさい。飛んでいっちゃいました」
レノアスはペコリと頭をさげるが、父からの反応がないことに気づき、恐る恐る父を見る。
「……え!? へ!? レ、レノアスよ。今短剣らしきものが風に乗って飛んでいかなかったかい?」
「はい、ごめんなさい。ちょっと軽くしすぎたみたいで……」
「……ああ、そ、そうだよね。軽くしすぎたらね、飛んじゃうよ、ね? 短剣なのに……」
空の彼方に飛んでいったレノアスの短剣がキラリと光り見えなくなった。
アルディスは唖然とした表情をセレイヤ向けた。
「……お母さん、この子やっぱ天才……」
セレイヤは楽しそうに、「知っていますよ、私の息子ですもの」と何事もなかったかのようにいつもの笑顔で返した。
アルディスが驚くのも無理はない。通常、創製は鉄と同等の重さとして具現化され、軽さをイメージをしても風で飛ばされるということはありえない。それをレノアスは知らずにやってのけた。
その後もアルディスは、レノアスに指示して一辺が十センチ程の四角い立方体を創製させ、用意していた計量器で重さを計測したが、最低重量は少なすぎて計測不可能。最高重量は重すぎて計量器が機能せず計測不可能となり、その重い立方体は全力のアルディスでさえ持ち上げられなかった。
「おっ!! 重! う、動かせない。……こ、これも計測できずっと。我が息子ながらすごいなこれは……」
レノアスの創製精度が想像のはるか斜め上をいき、鋭さに関しても力を入れずに丸太が両断されたことに顔を青ざめるアルディス。気をとりなおして次は創製距離を計るため、計測用紙に記録しつつレノアスに指示をする。
「よ、よし! 次は創製距離だ。つまりはどれだけ離れた位置で創製物を操作できるかって事だ。では早速やってみようか。先ほどの四角い箱で重さは鉄くらいか?重さの指示を出すのは初めてだが、まあいい。できるだけ遠くに創製して浮かしてから動かしてみるんだ。いいね?」
「はい! 父上」
レノアスは真剣な表情で返答し空に向けて手をかざし物体を創製する。
「創製! 四角い箱!」
それは遠くで一瞬キラリと銀色に煌めき創製され、上下したり円を描く様に回っている。
アルディスは片手を額にあて遠くを眺めていたが、眼を線のようにしてもはっきりと見えない。創製距離が遠すぎて肉眼ではっきりと見えなかったのだ。
「……み、見えないな、一瞬キラッとしたのがそうなのか? ええと、もう年かな、それとも疲れ目か。これも計測できません、と」
訓練した兵士でも五メートルが操作限界なので当然だ。
「ごめんなさい、父上。これ以上は遠くにできませんでした」
「い、いや、十分、十分だと思うよ。うん、よくやったな。正直どこに浮いているか見えなかったが、すごいぞ!」
レノアスは父に褒められにこにこしているが、冷や汗が止まらないアルディスは半分放心状態で、創製質量の計測を促した。
「じゃあ次は創製質量だな。何でもいいから出来るだけ沢山創製するんだ」
レノアスが集中し両手を虚空にかざすと、一瞬にして騎士の装備する全身鎧を生み出した。屋敷に鎧見本が一体あるのでそれを真似たのだろう。
「これまたすごい。創製速度は一瞬か。限界質量は貴族の平均と同じ全身鎧くらいだな」
アルディスはレノアスを褒めようと口を開いたが、驚愕のあまりその口をしばらく閉じることができなかった。
気がつくと訓練用広場一面に銀色に輝く全身鎧が所狭しとひしめき合っていた。それもよく見ると全て違う意匠の鎧で、屋敷の書庫にあった世界の鎧辞典を記憶していたのだろう。
例に漏れずレノアスが「ごめんなさい! もう場所がなくて」と焦りながら謝るのを「は、はは、これも計測不可能、っと……」と乾いた笑みで受けとめる。
「……セレイヤ。こ、この子箱入り息子、決定だわ」
セレイヤは動じる事無く「あらまあ、鎧の博物館みたいで楽しいわね」とのんきな発言をしていて、いつもの家族の時間が過ぎていく。
このように記念すべき計測会は無事に終わったが、レノアスの能力が異常だったため、一族以外には秘密にされた。
嫉妬や他家の力を削ぐために暗殺を企む輩、レノアスを政治の道具にしようとする者達、強引に婚姻を結ばせ一族に優秀な血を入れようと目論む王族や大貴族等に対して適当な時期がくるまで守るためである。
アルディスが言った「箱入り息子」というのはそういう事。
レノアスはまだ子供のため貴族の駆け引きなどの機微には疎いし、他人が自分をどう見ているかについても分からない。それ以降、従順に父の言うことに従い人前では決して能力を見せる事はなかった。
優秀な跡取りを得て子孫安寧を確信したアルディスは歓喜していたが、それを良く思わない者がいた。
ウィゼラント辺境伯爵家の現当主の座にあった兄トレザールである。
能力主義の王国法では、貴族家の当主に叙任される者には基本的な自領の統治能力があり、一族の中で最も武に秀でた者という決まりがある。そのため候補者の実力が拮抗していて複数人いる場合、継承決闘といわれる死傷者のでない決闘が王城の御前で行われ、勝者が当主に叙任される仕組みだ。
この取り決めは一族の中で家督争いによる犠牲者を無くすためであるが、現実はうまく機能しておらず大貴族には常に黒い噂が流れていた。
レノアスが十五歳で成人し継承決闘の権利が与えられると、間違いなく家督を奪われると判断したトレザールは、表向きレノアスに家督を継がせる意思を示しつつ、裏ではレノアスを殺害するため動き出していた。
***
ウィゼラント辺境伯爵家の現当主トレザールの執務室には、商人らしき風貌の取り立てて特徴の無い男が立っていた。
「ところで、用意できたんだろうな。あれだけの代金を前払いしているのだから、出来なかったでは済まされないぞ」
豪華な装飾の施された執務机で、書類に署名しつつ業務を終え、射抜くような鋭い視線で商人の男を見る。
その商人は気圧された様子も無く腰を低くして返答した。
「はい。もちろんでございますとも、辺境伯様。本日伺ったのは準備が整ったご報告ですので。……それと私共の辞書には代金を頂いた後の、取引不成立という五文字は記載されておりませんので、ご安心を」
「ふんっ! 確実に仕事をするなら文句は無い。準備が出来ているなら直ぐに始めろ。彼の紹介だから間違いは無いと思うが、もし失敗したら分かっておるな?」
「はい。この仕事も長く続けておりますので、身に染みて理解しておりますとも。それではすぐに商品の納品をさせて頂きます」
トレザールは訝しむように商人を睨み、「もう用はない」と手首を軽く振って出て行けと指図する。
「まいど、ありがとうございました。今後ともご贔屓に……」と恭しく頭を下げる商人。そのまま静かに執務室を出て行く彼の表情には、富を貪る商人の醜い歪んだ笑みが浮かんでいた。
***
それからしばらく経った頃、アルディス達が暮らしている領主街マーラント内で、アルディス一家は名無しの魔神を崇拝している魔神教徒だという噂が広まった。
人間族の治めるオルキスヴェリア王国では、女神アーファ神教が国教とされ、ほとんど全ての国民が女神アーファを信仰している。
国内でのアーファ教会の役割は、人々を教義によって幸福に導く事だが、最たるものは王国法と教義によって人々を裁く事にある。
事情によっては強硬な独裁権も与えられており、国内では王や元老院に継ぐ大きな影響力を持つ。
教典を紐解くと女神アーファが世界と多くの種族を生み出した後、名無しの魔神が人間族以外を配下に加え反乱を起こし、世界の半分を何処かに隠してしまったという。
女神アーファはその強大な力で魔神を倒すも、世界の半分は戻ってこなかった。
故に魔神はアーファの宿敵であり、敵対した人間以外の種族は嫌悪され忌避されている。
魔人の名は忌むべきものとして聖典から除かれた後、名無しの魔神として伝わるようになったが、人間族以外の種族では今でも名を残し伝わっている。
魔神崇拝の噂が流れてから事態の進展は早かった。
領主街の各所で老若男女を問わず、魔神教の儀式で生け贄にされたと思われる凄惨な変死事件が連続して続いた。
その事件が解決されずに三ヶ月経過し、犯人の目撃者も無いまま犠牲者だけが増え、その数は百人を越えていた。
領主街の住民の不安と恐怖は最高潮に達し、ついに仕組まれた計略が実を結ぶ。
「ジルハ高等司祭、実は内密なお話があります……」
ここはウィゼラント辺境伯爵領内にあるアーファ教会の大聖堂。
荘厳で美しい礼拝堂は高い吹き抜けになっており、奥に十メートルはある女神像が鎮座している。
豪華な装飾やステンドグラスに彩られた堂内は崇高な雰囲気で、人々に女神の存在を感じさせ信仰心を強める役割を果たしていた。
その礼拝堂から奥に入った場所にある貴賓室には、夕食を終えたジルハ高等司祭の元に、一人の客が訪れていた。
内密の話しがあると言われ眉根を寄せたが、相手の沈痛な表情からただ事ではないと察し、自らの白く長い豊かな髭を撫でながらその相手に話すように促す。
「……トレザール卿、お主程の者が内密な話しなど。どうやら退っ引きならぬ事情があるようじゃな。話してみなさい」
「……はい、実は私の弟であるアルディスが……、とても言い辛いのですが、魔神教に関わっている節がありまして……」
ジルハはしわの多い目蓋を大きく見開く。
「な、なんじゃと! それは確かなのか? 最近わしの耳にも入ってきた良からぬ噂と、街で騒ぎになっておる変死事件に関係があると!?」
「はい。私も信じられなかったのですが、アルディスの屋敷に運び入れる予定の荷物を偶然検分する機会がありまして、その中に魔神教崇拝の儀式道具や魔神の像が見つかり……」
トレザールは悲痛な声で訴えた。
「だとすれば由々しき事態じゃ! 魔神はアーファ様の宿敵、それを崇拝するだけでも重罪だというのに。邪悪な儀式で犠牲者もかなりの数になっていると聞く……」
ジルハは血走った眼球を振るわせて怒りに震えている。
「しかし、実際に儀式を目撃されたわけではない。決めつけるのは……」
その言葉を遮ってトレザールは泣きそうな声で強く言った。
「それがいるのですよ、目撃者が!」
ジルハは反射的に立ち上がる。
「っ!! それは真か!?」
「ええ……、領主館に出入りしている行商人なのですが、アルディスの屋敷の近くを通った際に、見てしまったらしいのです。家族皆で人を生け贄に何やら禍々しい儀式を行っているところを」
「……ああ! 女神アーファよ……」とジルハは両手を頭上に広げ眼をつむり、見えない存在に縋る。
天を仰いだままぶつぶつと何かを呻いていたが、ゆっくりと現実に意識を戻す。
「……わしが高等司祭に就いてから最悪の事件じゃ。まずはその行商人に話しを聞いてみよう。詳しく聞いておかねばならぬ。それと証拠品も見せてもらえるかの?」
「司祭がそう言われると思いまして、引き止めてあります。今日はもう遅いので明日の……」
「いいや! 今すぐ連れてくるのじゃ! 事は一刻を争う事態じゃぞ! 犠牲者をもうこれ以上増やしてはならん!」
ジルハは憤慨で顔を真っ赤にし、落ち着き無く貴賓室の中を行ったり来たりする。
その姿を見たトラザールはジルハに見えないように陰湿な微笑を浮かべた。
「わかりました。直ちに呼んでこさせます。では失礼します」
トレザールの背中をちらりと見送ったジルハはすぐに他の司祭達を招集し緊急の会議を始めた。
後にその会議で全員一致で決議されたのは、証拠と証言を確認し次第、容疑者の家の強制捜査を行い、もし再度証拠が確認されたときは、関係者の審問を省いた即時処刑を行うというものであった。
次の日の早朝、敬虔な信者を装っていたトレザールはとどめとばかりに事態を煽るため街に繰り出した。彼は領主街の信者達や犠牲者の家族に対し事情を説明して回ったのである。
そうなると当然教会内だけで納まるものでなくなり、信者や犠牲者の家族が中心になって波紋のように領主街全体に恐怖と怒りの熱波が広がっていった。
彼らの目には憤怒と殺意が宿っている。家族を無惨に殺された者、女神を崇拝するが故に義憤に駆られる者、自分の家族を守るために武器を取る者。その中には金でトレザールに雇われて騒ぎを大きくしていた者達もいる。
彼らは集団となり、事実確認と指示を仰ぐため大聖堂前の広場に集まった。
「高等司祭様! 変死事件の犯人はアルディス様だというのは本当ですか!?」
ジルハは片手を挙げ領民達を鎮めてから返答する。
「さきほどトレザール卿から提出された証拠と目撃者の聴取が終わったところじゃ。残念じゃが可能性が高そうじゃ」
広場に大勢のどよめきが広がる。
「高等司祭様! 悪しき異端者に制裁を!!」
「もちろんじゃ! よってアルディスの屋敷を再度捜査し証拠が見つかるなら、審問を省き即時処刑により異端者の排除を行う! 皆の者武器を取れ! 相手は残虐な魔神崇拝者。犠牲者の殺され方は知っているじゃろう! 我らの女神アーフェ様にその信仰心を示すときじゃ!!」
「「「「「おおおおおおおおおおおおおおお!!」」」」」
教会の司祭や信者達は集まった約五千人の領民達を扇動し、彼らに武器を持たせ魔神の崇拝者を一掃するため、アルディスの屋敷に移動を開始した。
***
時刻は昼過ぎ。アルディスの屋敷では何も知らない子供達が、広い庭園の中心にある大きな木の上に作られた小家で遊んでいた。
長い黒髪に碧色の瞳の妹のラーナは、レノアスよりも一つ下の六歳になった。
今日も大好きな兄と二人の秘密基地である木の小屋で、おままごとをして遊んでいてご機嫌だ。
「帰ったよー。お土産もってきたから、食べてもいいよ。それと、今日も仕事で疲れたので、頭を撫でて!」
ラーナは前もって用意しておいた自分のおやつをレノアスの前に置く。
「……ラーナ。なんでぼくがいつもお母さん役なのかな?」
ラーナはレノアスに頭を撫でられ、ムフフフという変な声を漏らしながら質問に答える。
「え? だってラーナがお仕事して帰ってこないと、兄様からご褒美に頭なでてもらえないでしょ?」
「で、でも普通は男の子がお父さん役だよね?」
「だったらラーナは男の子になる!」
「え!? それは無理だと思うよ、たぶん」
「むむむ。だったらラーナがお母さん役になって、仕事しに行く! うん、それがいい」
「じゃあ、ぼくはお父さん役で料理と洗濯をするの?」
「そう。兄様はラーナを家で待っていればいいの。これから家の中に悪者が出てくるから、家で待つお父さんは、お母さんに助けを求めてね!」
「ほえ!? どんな展開!?」
「細かい事はいいの! 強くて甲斐性? のあるお母さんは最強なの!! 英雄なの!」
甲斐性と英雄の言葉を理解しているのか不安な妹にたじたじになりながらも、ラーナの強引な展開のおままごとで楽しく遊んでいると、なにやら屋敷の門前が騒がしくなった。
興奮した領民達がアルディスの屋敷までたどり着き、護衛の領主軍達が騒いでいたのだ。
「ん? なにか騒がしくなったね」
更新は不定期ですが毎回この程度の文章量で掲載してきます。
ここまで読んでくださりありがとうございます。