第十二話
<ロシア極東軍第35軍第90独立自動車化狙撃旅団第1大隊第2中隊前線指揮所>
南西に川を望む小高い丘の森の縁に作られた監視哨の中で、オロコフスキー予備役少尉は痛む脛をさすった。昨年、ここラドデの森で奴等の仕掛けたワナにかかった際に負った裂傷の痛みは、7月のシベリアの大地をわたる蒸し暑い南風に晒されいよいよズキズキと疼くばかり。中隊本部付き軍医のくれた痛み止めをウォトカと一緒に流し込んでみたところで一向に良くはならなかった。
あの年端もいかないそばかすまみれの軍医殿の言うような“軍務に支障のない程度の負傷”などではなく、本当は街のまともな病院でまともな医者に見せるべき類の傷だとは思う。とはいえ、曽祖父の代からこのアムール川沿いの森林で猟師を営むドミトリィ家の長男が、祖国の、そして自分の森で、あろうことか中国野郎の不法入国猟師の仕掛けた程度の低いワナに嵌められた挙句、今度は森そのものを奪われようとしているのだからおちおち入院などはしておれぬ。
奴等の狙いがこのラドデの北東20kmにあるロシア連邦道路P-297、通称“アフトダローガ・アムール”の占拠にあることは明らかだ。山間部を東西に貫くこの幹線道路を抑えられれば、ウスクーリクの第5軍やハバロフスクの管区司令部との連絡が絶たれ、15万もの兵力をもってなだれ込む人民解放軍瀋陽軍区第16集団軍先鋒の自動車化歩兵ならびに装甲3個師団の行動の自由を約し、実質増強2個旅団程度の戦力に過ぎないロシア極東軍第35軍の前線は早晩突破されるに相違なかった。
この地を明け渡せば、シベリア有数の鉱業都市ヤクーツクまでまともな地上部隊は存在せず、世界有数の規模を誇る針葉樹林帯と、その地下に眠る膨大な鉱物資源の全てが奪われることになる。ヘラジカやクロテンをこそこそ狩られるのとはワケが違う。いや、俺にとっては同じことか。
北から来るアムールの流れが北東へ向かって大きく蛇行するその対岸の名も無き寒村。大隊参謀によれば、その村の後背の峰の向こうに連隊規模の機甲部隊がいるのだそうだ。予算不足で飛ぶことのできない空軍の偵察機の代わりにドローンを飛ばして情報を集めているのだとか。いま俺が使っているビノキュラーと同じ中国製の安物ドローン(参謀サマがモスクワからポケットマネーで取り寄せた逸品だ)が送って寄越す高精細画像には、96式戦車と85式装甲兵員輸送車が、数えることも嫌になるくらい映っていた。あんな物に森を荒らされてはロクな獲物も残るまい。この俺の生命と同様に。
少尉は知らなかったが、少尉と同様、地元の猟師から徴用された兵士に先導された瀋陽軍区直轄の特殊作戦部隊が、昨晩すでに渡河を済ませ、ラドデ後背の山間に布陣し、86式120mm迫撃砲の設置を終えていた。その砲口は自軍の陣地に向けられ、極北の夏の早くて高い曙光が、鬱蒼とおいしげる針葉樹林の天辺を撫ぜるその少し前、現地時間午前4時、一斉に火を吹いた。
後にアムール事変と呼ばれることになるシベリア侵攻は、ロシア極東軍による“先制攻撃”に人民解放軍が呼応する形で戦端が開かれ、実質的には最初の数時間で決着を見た。解放軍が大量に投入した超小型ドローンに位置を把握されトラッキングされたロシア側の装甲車両や防御陣地は、そのことごとくが北斗-2による長距離精密誘導砲撃に晒され、開戦劈頭に壊滅。残された歩兵部隊や国境警備隊は、文字通り徒手空拳で解放軍機甲部隊と対峙することになり、決死の抵抗も虚しく損耗率は8割を超え潰走した。
ベロゴルスクに橋頭堡を築いた人民解放軍は、一路北を目指した。輸送部隊に至るまで装軌化された部隊が連邦道路A-360を進撃するのに対し、他軍管区からの増援を文字通り泥濘と化した夏のシベリア横断道路を経由して送り込まねばならないロシア連邦軍の兵站は早々に破綻。空爆で寸断されたシベリア鉄道は機能を喪失。長年にわたる軍事費削減により、すでに書類上の存在となっていたロシア極東軍が、その書類からも抹消されるまで、僅かに半月あまりの経過しか要しなかった。
そして何より、ほぼ完成していたベロゴルスク北方のボストチヌイ宇宙基地を無傷で奪取されたことにより、バイコヌール宇宙基地から当基地への移行を完了しようとしていたロシア政府の宇宙戦略は、その根本から見直しを迫られることとなったのである。
北斗-2:中国国家航天局の衛星測位システム




