#07
そこで、気づく。ぼくが先ほどからじっと見つめている、視線の先。
青い渡り廊下に現れる、赤茶色のポンチョのようなコート。
「や。未由、元気?」
立ち上がり、その姿へと歩みを進める。この、全ての服飾品の類が配給制でかつすべてを青色でまとめられているこの街で、ただ一人、毎日他の配色の様々な種類の服を着ている彼女は、それこそ青い空に輝く、唯一無二の太陽のようだった。ぼくはいつも通りの笑顔を浮かべ、いつも通りの調子で声をかけた。
その、つもりだった。
「…………」
しかし、それに対してあの子は真っ直ぐ前、ぼくから見て左方向に向けていた顔を、さらに向こう、未由からは右手へと顔の向きを変えた。
――視線を、逸らされた?
「あ……」
再度話しかけようとするがそのタイミングは、完全に外された。あの子はぼくが片手を挙げて存在を示そうとするのを見越してのようにこちらに一瞥すらくれることはなく、顔の向きは先ほどのまま歩みをまったく淀ませることもなく、進む先にある向こうの校舎へと、消えていった。
「な……んて、ね」
片手をあげた体勢で、ぼくは固まった。動けない。どうしたらいいのかわからない。頭が回らない。ただ自分に、言い訳を繰り返していた。きっと、気づかなかっただけなんだ。きっと、急いでただけなんだ。きっと、なにか、やむにやまれぬ事情があっただけなんだ。きっと、その筈なんだ。だって――
あの子がぼくを避けるなんて、ありえないことの筈なんだ。
実は施設の人物で、最初に覚えた名前だったりする。
「……なに?」
どこか呆けたような表情と口調は、いつも変わらない。自分に話しかけられるという事態に、慣れていないのだ。しかしそれはその他大勢のロボットのような人間たちにもいえることかもしれない。確証はない。
ぼくは選んで、彼女に話しかけているからだ。
「最近、恐いことが続いてるね」
「……そうかなぁ?」
頭を傾げる。ピンときていない。あまり世界に、興味を持てていないのだ。少しだけ、共感を覚える。
手に乗るくらい小型の、鳥の名。別にその鳥が好きだというわけじゃない。ただ最初に聞いた時に、鳥の名前だなと思っただけ。そしてその名前は、彼女によく似合っているなとも思った。
鶫沙紀。
「鶫は最近、どうしてる?」
話題を変える。無理に世間に合わせる必要もないだろう。週に一度の、大事な時間。彼女としか出来ない会話を、しようじゃないか。
「……おばあちゃんが、よく笑うようになった」
ほんのり淡い、笑顔を浮かべる。ぼくは未由のほくそ笑みの次に、この笑顔が、好きだった。
鶫の家は、相変わらず何も無かった。
真四角な間取り。一辺は十メートルほどだろうか。ひと二人が暮らす分には、申し分ない。一角にキッチン。一角にトイレ。一角にシャワー室。一角に、出入り口。そして一辺に本棚、一辺に箪笥、一辺に窓、一辺にベッド。天井に蛍光灯。ただ、それだけの部屋。だけどそれは、鶫には合っているような気がした。余っている空白の部分こそが、鶫の本質を表しているような気がしていた。
「そっか」
その言葉に、部屋の一番奥へ視線を向ける。そこには鶫の祖母が横になっていた。ずっと寝たきりだ。それを鶫は、傍にいて世話をしている。具合が悪い時などは施設に来ない時もあるぐらいだ。それで鶫は何度も警告を受けている。それによって何らかのペナルティを受けているのか気になるところではあるが、それを鶫に聞く気にはなれなかった。
鶫との時間は、緩やかに流れていく。
「鶫はそれで、幸せかい?」
みんながみんな、揺らいでるわけじゃない。
「うん、幸せ」
その名に武器を冠したその男は、文字通り鋭い感性を持っていた。
「いつか言おうと思ってた。だけど考えたら、なかなか言えなかった。だけどお前になら、俺も……」
斡桐刀耶。なかなか施設には来ない。来ても学習するわけでもなく、一人机で懊悩している。来てるというよりキテるというところか。
「俺は、昔から……人に言えない嗜好があって、それをお前に……」
「落ち着けよ、刀耶」
目を血走らせるその男の髪は、真っ白だった。それを短く刈っている。髪が白い理由は聞いたことがない。遺伝なのか、それとも過度のストレスにでもさらされたか。とにかく高い身長と相まって異様な迫力があることは間違いなかった。
ベヒモスの塔が崩壊してからというもの、時折りぼくの机に人が訪れるようになってきた。
「わかってないな……鈎束、お前にもわからないのか……俺は、俺のことは、誰にも理解できない……」
初めての経験だった。刀耶がこんなにも興奮し、ぼくに何かを訴えている。恐怖もあった。同時に興味も湧いていた。だけどそのためにも、まずは落ち着かせる必要があった。このままじゃ、要領を得ない。
「いや、わかるさ。オレとお前の仲だろ? で、なんだ。刀耶は、オレになにを伝えたいんだ?」
刀耶はぼくの言葉に伏せ、両手で抱えていた顔を上げ、
「俺は、俺は……傷つけたい。なにも、かも……」
「そうか」
そうか、では済まない言葉だとは、思った。