第四話 『自覚あるものと自覚なきもの』
「いやさ、お兄ちゃん。
驚くのも分からなくはないけど、いきなり『え、男?』は酷くない?
私のことなんだと思ってるの?」
「女子校育ち」
「そりゃそうだけどさ!
って、朝もこんな感じのやりとりしなかった?」
「あれはほら、おまえが濡れ衣着せてくるからだろ」
ところ変わって、商店街のベンチ。
竜愁、仙歌、【古賀健二】と言う友人さんの順番で座っている。
なお、妹がお世話になっているからと古賀に押しつけたので竜愁の手に串焼きはない。
一本で胃にもたれていたので助かったというのが竜愁の本音だ。
……冷静に考えれば、なかなか無理のある行動である。
日頃妹が世話になっている礼として兄が差し出したものは、妹が兄に渡したもの。
これが仙歌も軽い気持ちで買った串焼き程度だからよかったが、心を込めたお手製のプレゼントなどであったら紛れもない屑の所行だ。
「それじゃ、改めて。
健二、こちらが私のお兄ちゃんの小川竜愁。
お兄ちゃん、こちらが私の……うん、友達の古賀健二。
私と同い年だよ」
「よろしくお願いします。
――ってか仙歌、間っ!
はっきり断言してもらえないと地味に傷つくんだよ!
友達だと思ってたら一方通行でしたーとか相当トラウマになるわ!!」
「………」
「そこで黙るなよ!」
わいわいと楽しげに騒ぐ二人をよそに、竜愁はふとイジメが始まった直後のことを思い出していた。
友人と呼べるだろう級友は数人いたのだが、誰も助けてくれず、さらに追い打ちをかけるように内一人が主犯に加わった。
あれは一方通行だったのか裏切りだったのか悩んでみたり、よくそんな状況で人間不信にならなかったたなと自分に感心してみたり。
要は現実逃避だ。
掛け合う二人の空気に入っていくこともできず、けれど声は否応なしに聞こえてくる。
その内容から連想するのは思い出となった苦い過去。
五年……いや、八年も昔の出来事なのだと思うと、感慨深い。
することもなく、なんとはなしに耳を傾ける。
そして、二人の会話に混ざってくる意味の分からない指示語にフライパンで殴られたかのような衝撃を受けて、竜愁は我に返った。
――この現在は、竜愁の住んでいた過去と比べて、三年間のアドバンテージを持っているのだ。
激動の時代だったという。
紡がれた関係も、片手の指では足りないだろう。
人は忘れる生き物だ。
新しいものに触れるに連れて、古いものを忘れていく。
何かをきっかけに思い出すことはあるだろうが、忙しさにその何かを奪われ、思い出されなくなった記憶は過去になる。
自分と家族の関係もそうなってしまっているのではないか――妄想的恐怖に揺らされる視界に、竜愁は目を瞑った。
そんなことは、ありえない。
家族はみんな、自分と再会して泣いてくれた。
あの、白い布団に落ちた幾つもの涙が嘘だなんて、あるはずがないのだ。
幸せにも、それは自分の信じたい望みであるということに竜愁が気づくことはなかった。
仙歌の呼び声が、竜愁を引き戻す。
「お兄ちゃん、聞いてる?」
「……っ、悪い、聞いてなかった」
「どうしたの?
やっぱりまだ、体調悪いんじゃ。
……私が無理に誘ったからだね、ごめ」
「いや!!」
最後まで言い切らせず、声を荒げて遮った。
仙歌の顔が目に見えて陰ったからだ。
竜愁が自分に定めた最大の罪は、家族の笑顔を消すこと。
犯してしまったのならば、一秒でも早く、何事にも優先して取り返さなければならない。
染み着いた反射が竜愁を突き動かしていた。
「……ちょっと考えごとしてただけだから、仙歌のせいじゃない。
大声出してごめん。
――それで、なんの話なんだ?」
へたくそな自分への嘲笑を苦笑に塗り変えて、言った。
いきなり声を上げた竜愁に、二人はぎょっとしていたのだ。
当然の帰結である。
否定したいなら「いや、違うよ」と軽く言うだけで充分なのに、過剰反応にもほどがあった。
調子が狂ってるなと、どうしようもない自分の膝を思いっきり抓る。
痛みは強烈な刺激だから、戒めとするのにもってこいなのだ。
ノーミスを求めるというのなら、凡人な竜愁が緩められる気なんて欠片もない。
自傷でもって、引き締めた。
「……前、健二にお兄ちゃんが行方不明だって話しちゃったんだけどさ、詳しいことも話して大丈夫かな。
お父さんになんか言われてたりしない?」
「別に言われてないし、それぐらいなら気にしなくてもいいだろ。
どうせ分かってることとかほとんど無いんだし、むしろ俺が聞きたいくらいなんだから。
……もしかして、仙歌は俺が三年間何してたか、知ってるのか?」
「んーん、ぜんぜん。
知ってそうな人は何人か心当たりあるけど、その人達は教えてくれなかったんだよね。
あ、でも、誰よりも強くて弱い、凄いやつだったーみたいなことは言ってたよ。
意味わかんないけど」
「……なんだそれ。
言葉遊び……にもなってないな」
分かっているのなら教えてくれればいいのにと愚痴るのは、ワガママなのだろうか。
自分の知らない自分を、誰かが知っている。
それは竜愁にとって、不安でしかたないことなのだ。
隅から隅までを掌握していなければ、演じきることができないのだから。
はっきり区別のつかないヒントを、頭の中でこねくり回してみる。
凄い、ということで犯罪者疑惑は消えてくれるが、自分は何が強くて、何が弱いのか。
懐かしき『道徳』にありそうな問いの答えは判然としない。
誰よりも、という枕詞が厄介だ。
竜愁の身体能力は一般人に毛が生えた程度で、本職の人間には遠く及ばない。
……弱い点は悩むまでもなく浮かび、嫌になった。
「えーと、それで、俺は聞いてもいいんですか?」
「ああ、それと敬語はいらない。
俺、そんなに偉い人間じゃないからな」
「……分かった。
あー、こんな感じでいい?」
「ん、じゃあ話すな」
変に勿体が付いたが、実際に話す内容は二〇〇字にも満たない。
だからと言って軽いわけでもないのが、竜愁の置かれている状況の奇妙さだ。
竜愁の私見だが、分からない、ということは時として物事を単純に見せかけてしまうらしい。
「俺は記憶喪失らしいんだよ。
三年前に行方不明になって、発見されたのは二日前。
でも、俺は三年分の記憶がないから寝て起きたらタイムスリップしてた感じだな。
起きたときの一番新しい記憶が校長の長話だったっていうのがまあ、なんとも言えないけど」
「それは……」
気の毒そうな顔をする古賀に、竜愁は頭を掻いた。
なるべく軽く話そうと努力したのだが、いかんせん竜愁の声は低すぎてその方面には向いていない。
喋ろうにも喋れない、重苦しい沈黙が三人の間に漂った。
「そんなことよりさ!
私とお兄ちゃんは買い物だけど、健二は何しに来たの?」
「え、あ、えーと、俺も買い物。
食料切らしたんだよ」
竜愁は人のことを言えないが、随分と強引な仙歌の話題替えだ。
けれど、古賀が空気を呼んで流れに乗ったことで沈黙は払底された。
ここでまたムードを下げるわけにはいかないと、竜愁は口を噤む。
逆に言えば、それぐらいしかできなかったのだ。
「じゃあ、一緒行こう?
私達も残りは食べ物だけだから……お兄ちゃんも、いいよね?」
「ん」
「じゃ、動くか」
古賀に倣って、三人はベンチから立ち上がる。
やけにトントン拍子にまとまったなと竜愁が仙歌を見れば、先行する古賀の隣をつかず離れず歩いている。
――そう言えば、さっき聞かれたとき圧力感じたな。
空気を悪くした竜愁を睨んだのだと思ったが、別な意図があると邪推すると……。
微妙な気分になって、竜愁は二人から少し距離をあけるのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
古賀健二の外見は、周囲を歩く一般的な人々の水準からしてかなり高い……上の上の部類に達している。
上の下から中の容姿を持つ仙歌の長い黒髪と、古賀のクシャクシャな黒髪。
並ぶ後ろ姿はお似合いのカップルだ。
現に、商店街を行き交う若者からは何度か舌打ちと呪詛を頂戴している。
竜愁はと言えば、そんな二人から少し離れたところで無関係を装っていた。
全力で気配を殺し、存在感を薄め、空気と同化する。
成功しているかどうかはともかく、そんな心持ちでの隠遁状態だ。
トイレと言って離脱してからずっと、竜愁は二人に接触しようとしてこなかった。
三人行動に移ってすぐ、竜愁は妹の状態に確信を持ったのだ。
積極的に話しかけては大げさに笑い、目を生き生きと輝かせる姿を外から見れば仙歌が隣の男に抱いている感情を誰であっても悟ることができるだろう。
特に竜愁は直前までの彼女を知っていたから、容易なことだった。
感じるのは、今朝の仙歌ではないけれど、年頃になった妹が嬉しいやら懐かしいやらの兄心。
古賀も仙歌に満更でもない様子をしていて、なら、背を押してやるのが兄のすべきことだろう、と。
竜愁は二人きりを演出して、邪魔が入らないように目を光らせている。
仙歌は竜愁と話しているときよりもずっと楽しそうに笑っている。
そして、竜愁にとっての第一信条はその笑顔を護ることだ。
……裏方に徹することで自身に生じる寂寥は、どうしようもなかったけれど。
忘れられてしまうのは、苦しいから。
「ああ、でも、クソヤロウだったらどうするかな」
古賀に受けた第一印象は、悪くない。
整った容姿、他人のこころを推し測ろうとする姿勢、敬語を使うなと言われてすぐ止められる柔軟性。
それらからある種のやさしさを感じ取ってはいたものの、上に挙げた要素は詐欺師にも通じている。
仙歌が騙されている可能性は、なきにしもあらずなのだ。
――だが、理性的判断を抜きにしてしまえば、竜愁は古賀を信用できる人間として見ていた。
もっとも、直感でしかない。
だからこそ、裏切られた人間のそれなんて信用できないとする理性が竜愁に待ったをかけ、観察を促していた。
詐欺師であることを前提とし、考えるべきだ。
そのときに備えて竜愁がすべきは仙歌が悲しまなくてもすむ着地点を探すこと。
まずは条件を確認する。
あれほどあからさまなのだ、仙歌が古賀を好きなのは疑いの余地がない。
……初っ端から詰んでいた。
「遅すぎた、か」
息を吐いて頭を抱えた。
竜愁の預かり知らぬところで関係はできあがっていて、そういった関係の喪失は悲しみをもたらす。
そんなとき、部外者でしかない竜愁はあまりに無力だ。
ひとのこころが見えるのなら話は別だが、そうでない自分では何もできない。
そこまでを考えて、肢体から抜ける力を感じていた。
やれることがあると思いこみ、何ができるのか悩んで出した結論は『何もできない』。
意気込んでいた自分は何だったのかと、竜愁はふらふら歩き出す。
結局のところ、自分はどこまで行っても無力にすぎないのだ。
無駄に懐疑的になって、これでは人間不信もいいところだ。
「ただの馬鹿だろ、俺」
肩を落として、うなだれる。
――どうにも、色々と嫌になる一日だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それからトイレとするには長すぎるほどの時間、粘りに粘って考え続け、竜愁は二人に合流した。
ひとつだけ、確認の方法を思いついたのだ。
それも古賀の技量が優れていれば通用しないが、一六か一七歳の少年がそんなレベルで慣れていることはないだろうという希望的観測が根底にあった。
――何かができると、信じたかったというのもある。
ほかの店よりかなり大きい、護民官直営のスーパーマーケット。
魔術を利用した農法を試験導入して収穫した結果、季節感のない色とりどりの食材が並んでいる。
その分値段はお察しなのだが、社員割引のようなものが効き、また魔術への抵抗が薄い護民軍関係者からはなかなかの好評を博している。
仙歌は――というより小川家は――金が有り余っていることから、古賀も護民軍で事務員をやっているため頻繁に利用しているらしい。
なお、人手不足から常時アルバイトを募集している模様。
時給は未成年でも昼間九五〇円夜間一一〇〇円と大盤振舞だ。
護民軍が金を余らせているということがよくわかる。
スーパーに入り、古賀と仙歌は別れた。
それぞれの買い物が終わったら出入口で合流することになっている。
――そこで竜愁は、古賀に同行する。
思いつきを実行するのに絶好の機会と見たからだ。
「仙歌も役所で働いてたのか……。
そうなると俺、家族の中でひとりだけ無職……ニート?」
「ハハッ、記憶ねーんならしゃーないだろ。
――で、仕事教えてもらってる内に結構話すようになったんだよ」
仙歌が生活雑貨のコーナーに消え、古賀と竜愁は野菜売場に向かう。
行うのはまだ無邪気な会話。
あまり時間をかけすぎて仙歌が合流してくるのも不味いから、少し歩いたところで話題を切り、言う。
「ん、なるほど。
精神年齢的には負けてても、やっぱり兄としては妹が何してるか心配だったから、話してくれてありがとう。
疑うみたいにして悪かった。
――それで、もうひとつ、聞きたいことがあるんだけど」
「おう、気にしてない。
そういうのは家族として当然だろーし、好きなだけ聞いてくれ」
「じゃあ、遠慮なく。
――仙歌のこと好きなのか?」
「……はい?」
困惑する古賀に、竜愁は苦笑した。
いきなりこれは酷い。
けれどこれが、竜愁が足りないと自負している頭で考えた策なのだ。
ノーを選ばれたときは、健二への質問は終わり。
あとで仙歌に別の質問をするだけだ。
そして――
「……なんで、ばれたんだよ……?
そんな素振り、したつもりなかったのに……」
「まあ、なんとなく?」
イエスが返ってきたときは、続けて次の質問をすると決めていた。
……反応からして、嫌な――いや、喜ばしいことなのだが――予感を感じる竜愁だったが、それはそれ。
躊躇いながらも、竜愁は問いかけた。
「………。
付き合ってるわけじゃないんだよな?」
「あー、うん。
もう、好きになってから一年だし、いい加減告白しようとは思うんだけどな。
中途半端に仲良くなったせいでちょっと恐いし、俺は……。
……つーかこれ、好きな人の兄貴にする話じゃねえだろ」
「………」
一瞬、竜愁は口を半開きにして硬直した。
嫌な予感が真芯に的中しすぎていたのだ。
そのあとも気にはなるが、何より『中途半端に仲良くなったせいで恐い』という言葉が最悪だ。
仙歌の状態は昨日今日に始まったものではないだろうに、それに気づいていないという鈍感さを示してくれている。
……それらしき反応をすることでのミスリードである可能性も考えられるが、反応に嘘は見られない。
それを根拠に納得しようとして、竜愁は思考に引っかかりを発見する。
――こうも息をするかのように嘘を吐く詐欺師が、あそこまで明白な雰囲気を醸している仙歌に手を出さないなんて、ありえるか?
穴を見つけてしまえばもう、頭を抱えるしかなかった。
「はぁぁぁぁ……。
なんかもう、どうでもよくなってきた。
自分がアホすぎてこの場から消えたい」
「脈絡なさすぎねぇ!?」
買い物客もいるスーパーの一角で突然座り込んだ竜愁を健二が引っ張っているが、それどころではない。
こんな簡単なことにも気づかなかった自分が、ただただ恥ずかしかった。
しかし、疑った健二への謝意は微塵もなかった。
捨て身となるが、むしろこの体勢を維持することで恥を掻かせてやりたい気持ちすらある。
きっとこの分では、竜愁が空想の世界にしか存在しないと思っていた両片思いとか言う関係性を実現しているのだろう。
朴念仁。
そんな単語が浮かび、どうしようもない苛立ちを感じていた。
「いいから早く告白しろよ、もう。
意気地なしが」
「いきなり口悪っ!!」
立ち上がり様に言ってやると、本題からずれたツッコミを返された。
こいつらはいつもそうだ。
そうやって逸らし、追求されても逃げ続ける。
変にささくれて竜愁は思い、しかしはたと思考を止める。
まるで、過去にもそんな奴の相手をしたかのようではないか。
――三年半、か。
どうやら自分も、別な関係を築いていたらしい。
恋愛相談をし合うような年になる頃には孤立していたのだから、まず間違いあるまい。
直感の根拠も、その相手と似た気配を感じたというところなのだろう。
記憶は、今思い出せなくても自分の中で息づいているのだ。
わずかな安堵と同時に感じた悪寒は、気のせいだと振り払った。
「まあ、頑張れ。
――応援はしないけど」
「なんで!?」
……その感情と苛立ちは別個になっていた、が。