プロローグ02 『月下、獣の叫ぶ街中にて』
「ングゥ――ァアア!!」
人間を見つけて、巨大な白ゴリラが歓喜の叫びを上げた。
立ち上がり威嚇するゴリラの全長は三メートル一二センチ。
一般的なゴリラを遙かに上回る小山のような巨体に、『小川礼吾』は心肝が泡立つような痒みを覚えていた。
恐れではない。
たかだかD級魂獣だ、職業柄幾度も倒している。
生身に武器の銃剣だけなら多少手こずるかもしれないが、完全武装の今、負ける相手ではない。
まして、まだ気が利かないところはあっても腕のいい部下がついているとなれば、秒殺できる雑魚だ。
この、いてもたってもいられなくなるような感情は期待だ。
四十五を迎えようかという身で情けない話だが、制御できていない。
一ヶ月前と同じように、揃いつつある状況がどうしようもなく掻き立てるのだ。
三年の悲願が成就する――
「いつも通りだ」
「了解」
冷静な声を出せているだろうか。
自分では判断がつかない。
ただ、浮き足立っているのだとすれば、よくない兆候だ。
悲願の成就は、最悪な裏の意味を含んでいるのだから。
それでも、喜ばずにはいられなかった。
葛藤を抱えたまま、足を回す。
ガシャガシャと、振動に震えた鎧が音を立てる。
滑らかな、全力のダッシュ。
ぐんぐんと巨猿の腹が近づいてくる。
――三歩にして七メートルの間合いを喰らい尽くした。
「ハァッ!」
反応できずにいるゴリラの腹に、銃剣を用いた下からの突き。
金色に光る刀身を中程まで刺し、反撃を受ける前にトリガーを引く。
急激な脱力とともに発動する魔術、暴風の猛威。
巨体が浮かび、吹き飛んだ。
反動で、礼吾もたたらを踏む。
ゴリラは空色をした透明な結界に激突して、落下した。
すぐに起き上がってくる。
追撃に三度、トリガーを引く。
同時、「『展開』『氷槍』!」
詠唱が聞こえて、視界に映る氷の槍。
風の弾丸にうずくまったゴリラの腕を地面に縫いつけた――!
一歩目を踏む。
ここまで追いつめたのならば、もう止めを刺すだけだ。
演算を開始。
術式を作成、詠唱に変換。
……口にしようとしたところで見えた被害に、微妙な気分になった。
――氷の刺さった道路が、深くえぐれている。
「――『展開』『迅雷付与』!」
叱責を堪える代わりに大声で言い放った。
手元の銃剣からバチィッ! と空気の弾ける音。
腕に纏う魂力の密度を高めつつ、頭を垂れる化け物の顔面に剣を振り下ろす。
唐竹割りだ。
寸断された頭の真っ白い面が外気に晒される。
そこに突き入れ、だめ押しに『解放』のキーワード。
青白い放電現象。
込められた魔力と怪物の魂が相殺して――
深夜二時。
三年前の災厄から復旧した街の一つ、新福岡の路地で。
白い異形の怪物と民を護る兵の戦いが、小さな傷跡を残して終結した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
道端の段差に腰掛けて、礼吾は自分にしか見えないモニターを思念で操作する。
脳に埋め込んだ『ブレイン・マシン・インタフェース』であるところの『チップ』の操作には未だ慣れない。
戦闘関連の機能は使えなかったら死ぬので文字通り必死に習熟したが、それ以外はからっきしだ。
数秒かけ目的の項目を捜し当てて、実行。
少しして、『解錠しました』と表示。
ヘルメットに指をかけ、一思いに引っ張った。
「っ……ふぅ……」
息を吐く。
鎧の通気性は抜群にいいから、汗の臭いに閉口するようなことはない。
ただ、圧迫感はいかんともしがたく。
氷槍で穴を開けた道路の修繕に勤しむ部下に先んじての休憩だ。
どうせ庁舎に戻る時間はないのだから、合理的判断である。
部下はちょうど、修繕を終えたところだった。
無骨な機械の鎧をきしませて、休むこちらへやってくる。
「終わりました」
立ったままに、彼女は言った。
左手で座るように促してやると、控えめに腰掛け手早くヘルメットを外して脇に置いた。
後ろで束ねられた金色のポニーテールが揺れる。
本人には言えないが、鎧姿の似合わない小顔の少女である。
一六歳の未成年でしかない彼女に鎧を着せているという罪悪感が、そう見せているだけなのかもしれないが。
「ああ、座るか?」
「いえ、魔法を二三使っただけですから」
ずいぶん流暢に敬語を使うようになったなと、礼吾は汗を拭うフリをして顔を覆った。
こんな子どもの手を借りている自分たちが、情けない。
自らの魂格を知った彼女が護民官に志願してきたのは二年前、だっただろうか。
黎明期、慢性的な人員不足に苦しむ護民官の幹部として、彼女――『間鐘ミェーラ』の志願を拒むことができなかった。
いや、それは言い訳だろう。
朝は書類仕事、昼は訓練、夜は治安維持にと、膨大な業務に忙殺されていて、人手なら子どもであってもほしかった。
その通りではあるのだが、冷静になれば子どもを危険にさらしてはいけないなんてこと誰にだって分かる。
その冷静さを欠いていた礼吾と、彼女の父である友人の落ち度だ。
母を喪い不安定だったミェーラに、忙しさを見せつけた。
やさしい彼女がそれを見て、護られる側であり続けるはずがなかったのに。
なにより悔しいのが、戦う日々の中で彼女が成長してくれたことだろう。
そのことに自分は、救われたようにも思えていたのだ――
顎先まで手を下ろしてなおもゆがんでいた顔に、礼吾は空を見上げた。
満天の星空が、真に都市を護る銀色の結界の向こうに広がっている。
彼はすぐに後悔した。
あの結界を見ると、自分たち大人が子供に支えられているという情けない現状を再認識させられるからだ。
新福岡を照らしているのは間違いなく、あの大天蓋なのだ。
あれがなければ、今も人心は乱れ混乱が続いていたことだろう。
そして、あの結界を構築したのは彼ら護民軍ではなかった。
三年前、突如現れた白い化け物――魂獣。
肉体という器を持たない不定系の魂そのものを本質とする怪物は、生物を襲い喰らう、あらゆる生物と相入れない存在だ。
出現が確認されたその日の内に、怪物どもは福岡と東京を壊滅状態にまで追いやった。
まず生物の宝庫である海を遮断され、少しして情報的にも孤立。
最後に得た情報によれば、世界各地でも似たような状況に陥っていたらしい。
礼吾は自衛隊の一員として避難誘導や絶望的な抵抗作戦に従事していたため、詳しいことは分からない。
魔力や魂力は対物干渉能力が低く、翻って既存の兵器の効果も低かったことが大きい。
十数発の銃弾を撃ち込んでようやく沈む野犬型E級魂獣など、当時は悪夢でしかなかった。
それに対し、敵はこちらを容易に殺す力を持っていたのだ。
ミェーラの父である孝大が早期に『魂術』を発見していなければ、実際の七ヶ月どころか三ヶ月も生き延びられなかったに違いない。
『魂賦活剤』と、魂から湧き出る力――魂力を操る術が普及したことで、死傷者は随分と減った。
しかしながら、偉大な発明に助けられても、人類の絶滅は時間の問題でしかなかった。
礼吾たちにできていたのは対症療法的な延命行為でしかなくて、それもちょっと強い魂獣が現れる都度、負傷者も含めれば二割近い損耗を出す、そんなものだったのだ。
だから、状況を変え、救いをもたらしたのは彼らではない。
それは、たったひとりの、未だ若い少年だった。
ある日ふらりと姿を見せた『魔ノ勇者』を名乗る少年――『藍白光輝』に、この都市は救われた。
彼のもたらした恩恵によってこの町は成り立っていると言っても過言ではない。
第一に安全な環境、第二に魔術による生産能力の向上、第三に護民軍――彼が去った少し後に自衛隊を改名した――の総体的戦力の向上など……。
挙げれば限りなく、ああ確かに勇者だと納得させられてしまう。
――一三歳、だったのにな……。
彼の息子の二つ下。
そんな子どもに自分たちは救われ、少年が去ったあともあらゆる面で助けられている。
悔しかった。
大人として、情けなかった。
何よりも自分は、個人としても彼に救われているのだ。
光輝はそんなつもりなどなかったのだろうけれど、彼のもたらした、この変事の原因についての情報がそれである。
――異世界の召還魔術の余波なんです。
――召還された勇者は二人。
――僕と小川竜愁。
――異世界で死んだ地球人は地球に帰還します。
――小川竜愁はまだ生きて、おそらく戦っているでしょう。
――もし死んだなら、住んでいた地域の周辺に現れる可能性が高い――
まだ生きている。
そのことに礼吾はほっとして、そして、慄然とした。
少年の言葉をそのままに受け取れば、それは光輝の死を意味している。
あの男は一度死んで、なおも戦っているのか――
死を知らない礼吾にその内面を推し量ることはできなかったけれど、生半可な恐怖ではないはずだ。
大人であるのに、魂獣との戦いで殺されるかもしれないと思うと、恐ろしさに身が震えるのだ。
子どもの成長は大人よりもずっと速い。
ミェーラしかり、光輝しかり。
高潔なこころが成長を後押ししているのかもしれない。
だとすれば、汚れてしまった自分はいつまでも彼らに後塵を喫したままでいるのか。
その答えは、もう胸の内にあった。
「――ッ!」
礼吾が浮上した瞬間、アラートが鳴り響いた。
視界に浮かぶ新福岡の全域マップと、魂獣の発生箇所。
場所はそれなりに遠く、反応は大きい。
推定値はA級以上。
――これは。
いっそう強い期待の想念が、礼吾の表情を激しく動かした。
しかし、魂獣というパターンもあると、欠片の冷静が全てを置いて走ろうとする彼をとどめる。
「行くぞ。――応援が来るまで耐える」
「っ、はい!」
やれたのは一言、部下に伝えることだけ。
ヘルメットを被り直す時間も惜しく、礼吾は駆けだした――
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『まずは遠距離から動きを止める。……俺の魔力が半分を切ったら、あとは――』
連携の打ち合わせを、全力で走りながら行う。
舌を噛む心配は必要ない。
チップには念話機能が付随していて、口を開くことなく通話ができるからだ。
戦闘中は危険でしかないが、平時には便利な機能だ。
打ち合わせと言っても、おおよそはペアで夜勤に入る前から決めてある。
確認事項だけのミーティングは、数十秒で終わってしまった。
あとは走るのみ。
だが、思考は拡散していき、思うように集中できない。
身体強化の恩恵――上昇した思考速度が徒となっていた。
直線距離はおよそ一キロ。
実際はプラス五百メートル。
このペースで走れば二分で到着するだろう。
対応速度としては早いぐらいだ。
しかし、その場所が問題だった。
いくら急ぎたくてもこれ以上スピードを上げられない現実に、礼吾の足音が大きくなる。
スラムとは違うが、治安のよろしくない場所だ。
そんなところに長時間倒れていればどうなるかなんて、分かりきっている。
捕まり、拐われ、拘束されて人身売買組織へ。
そんなところだろう。
半年前に摘発した中規模組織に捕らわれていた商品の記憶が、礼吾を苛んでいた。
該当地区の捜査は一昨日に終わっているが、絶対保証の安全なんてものはない。
もしも到着した際、息子が襲われていたら。
礼吾は、激情を抑えられる気がしなかった。
護民官の職務も忘れて、犯罪者を殺してしまうかもしれない。
そうこう考えていると、残り五百メートル。
A級の魂獣となれば、その大きさは鎧を着た礼吾の三倍以上、つまり七メートルをゆうに越している。
だがそれらしき影は見えず、足音も聞こえないと言うことは、これは。
――確定だ。
息子の姿を脳内で想い描く。
最後に見たのは三年前、寝室に入る後ろ姿。
あれから、どれだけ大きくなっていることだろうか。
想像はできなくて、代わりに、二人の『帰還者』に見せてもらった姿が浮かんだ。
――ある日、突如新福岡に出現した巨大な二つの魂。
初老の痩せた男と、若々しい巨躯の男。
光輝と同じ世界――『ソタラハディア』を旅してきたという彼らがもたらした情報は、莫大なものだった。
新福岡に迫るであろう脅威、地球が変貌した正確な理由、戦闘のノウハウ……。
そして、何より礼吾を引きつけたのは、当然、異世界で戦っているという息子のことだ。
――彼らは、竜愁と一緒に戦った者だった。
同席していた友人がヒくほどの勢いで彼らにつめ寄った記憶は、未だ新しい。
そんな礼吾に、老人――『雪草長兵』は、『貴方は、たとえ彼が別人のようになっていても、絶対的な味方であると誓えますか?』と問うた。
食い気味に肯定した自分に彼らが魔術で見せてくれた記憶。
それが、克明に浮かぶ。
――荒野。
辺りを埋めた異形の軍勢。
正面切って相対するは一人の男。
男が次々と斬り殺していく。
振り返ったその男は血に汚れて、しかし、息子の顔をしていた――
――凄惨な虐殺。
死体を量産しながらも、口の端を吊り上げるように笑っていた息子と、寡黙な息子とが結びつかなかった。
あれは――あれが、竜愁?
疑いばかりが溢れて、信じることもできなくて。
言われてはいた。
言われてはいたけれど、
変貌してしまっていた竜愁に、礼吾は。
――俺はアレを、息子と見ることができるのか……?
情けない話だが、そんなことを思うまでに平静を失ってしまった。
『ハッ、ンな程度かよ』
巨漢――『鬼山虎太郎』の嘲弄に言い返せなかった自分への憤りが、礼吾の腑を浅く突き刺す。
余計な感情までをも思い出して、ヘルメットの下、厳つい男の顔が凶悪にゆがむ。
答えなんて、とうに出ていた。
日に日に高まって、不安よりもずっと大きくなった期待の感情が教えてくれたのだ。
性格が変わってしまったくらいが、なんだ。
直接腹を痛めたわけではないけれど、血のつながった肉親であることには変わりない。
俺は、父親だ。
誓った言葉にも嘘はない。
歪んだ性根はぶん殴ってでも直してやると、そんな風に、今は思えている。
残り一〇メートル。
一つ角を曲がれば、すぐそこだ。
その角で立ち止まる。
魂格値A級以上の存在の正体については確信しているが、万が一、億が一を考えねばならないのが礼吾の仕事だ。
走る内に、そのぐらいの冷静さは取り戻した。
ミェーラが詠唱する。
「『あまねく力よ』『展開』『魂力探査』」
少女が使ったのは周辺の空間魂力濃度を探る初歩的な索敵魔術。
辺りの魂力濃度は感覚を澄ませば鎧越しに感じられるほどに濃いが、目に映りもしない程度。
A級の魂が紛れることはない。
数秒、無音。
固唾を飲んで待つ礼吾に、ミェーラが言う。
「確認、終わりました。
出現位置から動いていないようですが……これは……?」
「――そうか。
危険はない。
行くぞ」
え? と呆気にとられるミェーラは放置して、礼吾はゆっくりと歩く。
制御に気を遣わなければ、うっかり地面を砕いてしまうかもしれないから。
眠っているであろう息子を抱えながらの帰り道、道路を直しながらでは締まりがない。
そして、彼の忍耐が結実する。
――壁にもたれるようにして、ひとりの少年が眠っていた。
服は何も着ていない。
首にかかったチェーンとそれにぶら下がるリングだけが唯一の装身具だ。
骨ばって、傷だらけなその裸身は誰にはばかるわけでもなしに薄明かりの下に曝されている。
胸が規則正しく上下していた。
少し苦労して、バックパックからやわらかい毛布を取り出した。
なにせ、一月の夜。
鎧を着た礼吾は寒さを感じないが、裸では風邪を引いてしまうだろう。
庁舎までは全力で走っても一〇分以上、衝撃がいかないように注意するなら二〇分弱もかかるのだ。
恭しく、割れ物を扱うかのように抱えあげて、毛布で包む。
このままでは鎧の角が当たると気づき、ミェーラの毛布を使った。
もう一度、強化された腕力で潰してしまわないように、そっと抱き直す。
「ミェーラ、庁舎に連絡して精密検査の準備をさせろ。
大至急」
「は、はいっ! ……あの、その子は、」
「俺の、息子だ」
再び「え?」と混乱するミェーラ。
彼女には「早くしろ」とだけ言っておいて、息子を軽く、引き寄せる。
そうして、誰にも聞こえないように口を開いて、音をこぼした。
音はいくつか連なり、小さく、しかし確かな言葉となる。
――頑張ったな、お疲れ。