第九話 『舞台裏の物語』
コツリ、コツリと。
軍靴の硬い底が床と衝突し、音を立てる。
庁舎の地下、護民官向けの訓練施設が並ぶこのエリアには現在、雪草以外にはひとりしか滞在していない。
護民官が訓練をサボタージュしているからではなく、非常事態だからである。
彼らは、この街を護る対魂獣結界の外側でC級魂獣の群れと戦っているのだ。
「もう終わった頃でしょうか……」
戦闘開始から、二十数分が経過している。
念のため最初の数分は様子をみていたが、第一部隊だけでも十分相手取ることができていた。
残りの第二部隊・第三部隊で包囲すれば、大した負傷者もなしに状況は終了するだろう。
その程度の練度にまでは鍛え上げてあるという自負があった。
無論、雪草か虎太郎のどちらか一人が出るだけで容易に対処できる規模の襲撃でしかない。
しかし、護民軍成立直後から戦っていた第一部隊の猛者たちはともかく、練成中の二部隊は経験不足だ。
彼らに実戦の空気を味わわせることと、もうひとつの理由から、雪草と虎太郎は出撃を自粛していた。
コツリ。
特殊闘技場と真新しいプレートの入った扉の前で立ち止まった雪草は、自分が足音を立てていたことに気づいた。
隠密行動には自信があったのだが、せいぜい三年の経験だ。
ごた混ぜになった感情が表に出てしまっていたらしい。
まだまだ未熟ですねと苦笑しながら、雪草は扉を開く。
途端、乾燥した熱気が噴出した。
「……おせェぞ、ジジイ」
陽炎が、ゆらゆらと立ち昇っている。
皮膚に触れる熱気の感覚から推定される温度は、およそ七〇度。
寒風吹き荒ぶ外と比べて、六〇度以上も高いのだ。
魂力を纏いさえすればどうということもないが、常人には耐え難いだろう。
熱源はすぐに見つかる。
直径一メートルほどの火球が、ほぼ完全な球形を保ってそこかしこに浮かんでいるのだ。
数は一〇。
雪草と虎太郎が整備した特殊闘技室は、その明かりで眩しいばかりに照らされていた。
その火球の群の中心に、声の主――鬼山虎太郎が立っている。
雪草が入る直前まで振るっていたのであろう巨大な両手剣を構える彼は、不機嫌そうに老人を睨みつけていた。
「これは失礼。
少々話し込んでしまいまして」
「……そうかよ」
それっきり虎太郎は黙り、土の床に座り込んだ。
削られていたのだろう、小さな砂煙が発生する。
荒々しい彼からは思いもよらない淡泊な反応に、雪草は眉をひそめた。
事前の取り決めを破り独断専行をしたと言っているのに、睨まれるだけですむとは考えられなかったのだ。
「おや、てっきり怒鳴られるものと思っていたのですが……、いったいどのような変節で?
意味が分からなかったり、聞こえなかったりしたわけではないでしょうに」
「別に、たいしたことでもねェよ。
認めたかないけどよ、俺ァバカだ。
大バカ野郎なンだ。
ンな俺が余計なことに時間使うよりも、ジジイとティアに任せて剣振ってる方がよっぽどいいに決まってらァ。
今更だけどよ、気づいたンだ」
「俺も、いい年だしな」そう言って、虎太郎は抱えた剣を斜めがけした鞘に入れ込む。
巨大な剣に相応のサイズの鞘はガリガリと土を削って、ほぼ水平の位置で止まる。
虎太郎はその鞘を、ベルトで腰の後ろに固定した。
黙々と戦いの準備を整える彼の顔は、いつになく大人びているように見えて、雪草は己の愚かさを想起する。
竜愁との会話でのことだ。
雪草は竜愁に、『思考を止めるな』と言った。
だが、そもそも雪草はソタラハディアとの関係を臭わせるつもりさえもなかったのだ。
あれは計画に全くない、雪草の暴走だった。
扉の前で、『でも、考えたところでどうなるんだよ……!』と。
振り絞るような叫びを聞いて、雪草の自制心は溶解したのだ。
――昨日までの平然を装う振る舞い。
技術を全て解放したというフラムティアの報告。
彼女が伝えたという言葉。
見栄っぱりな少年が悲鳴を上げるほどに重い現実。
そこからひとつの可能性に辿り着いてしまった雪草は、自らの間が抜けた行いに対する激甚な怒りに突き動かされた。
――私たちは、小川竜愁という人格を考慮していなかった……!!
そうだ。
魔術を取り戻した竜愁は、自らに施された封印が解けることの意味に気づいてしまった。
フラムティアも薄々察していたからあんなことを言ったのだろう。
雪草が全く関知していなかった、その事実。
突きつけられた竜愁が感じたであろう恐怖の丈を、雪草は身を持って知っている。
それに飲み込まれる瞬間の恐怖は尋常でない。
後悔が大挙して押し寄せるのだ。
そんな思いを、彼にはしてほしくなくて。
――だから、告げた。
しかし……、雪草が一時の感情にとらわれて動いたことには変わりない。
見ず知らずの人間の言葉とはいえ、竜愁も印象に残っただろう。
なにせ、竜愁本人が口癖のように呟いていた理念だ。
それはきっと、いずれ来る再生の時に影響を与えてしまう。
――こんな老人が、その愚かさ故に、竜愁がたったひとりで動かすべき天秤を傾けたのだ。
老害の謗りは免れえまい。
「おら、さっさ行くぞジジイ。
何言ったかは知らねえが、騎士級があんだけ湧いたっつうことは、いつまでも無駄にできる時間なんざねえんだ。
悩むンなら、移動中にしやがれ」
「……本当に貴方は、時々察しがいいので困りますね。
防具を取ってきますので、少しお待ちを」
「おう、三〇秒な」
声を受けて、雪草は動く。
三〇秒は冗談だろうが、虎太郎の言う通り無駄にできる時間などない。
ここ数日、『狩り』に出ていなかったため、空間魂力に偏りが生まれつつあるのだ。
今回の襲撃も、偶然発生した一体を中心に連鎖的に生まれた魂獣が形成する群れによるものだろう。
放置すれば、爆発的に増殖した魂獣が新福岡を飲み込む。
そうなる前に、魂獣を討伐し空間魂力を散らさなければならない。
――考えるなら、戦闘中でもできますしね。
そんなことを思いながら、ソタラハディアにて【魔獣王】を殺した男――雪草長兵は装備保管庫に入った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
荒れたアスファルトや、倒壊したビル、ボロボロの車。
高空から見る旧福岡県東部は、各種資源の宝庫だ。
いずれは資源回収と銘打って雇用を創出せねばなりませんねと未来を算段しつつ、雪草は油断なく周囲の気配を探る。
目視できる範囲には不自然な魂力の偏向もなく、至ってニュートラルな状態だ。
――雪草と虎太郎は新福岡を中心とした渦を描くように飛行し、周囲の探索を進めていた。
新福岡を出立してから三〇分近い飛行で、およそ二周を終えている。
既に都市の周囲四キロの魂力を正常化した計算だ。
両の指で数えられるほどだが、戦闘もこなしている。
「南東にC級が一〇ですね。
約束通り、今回はお譲りします」
「おう」
感知した魂獣のいる方向を伝えれば、虎のように素早い動きで虎太郎が飛び出していく。
名は体を表すと言うか、虎太郎の敏捷性と風魔術による高速移動への適正は、近接特化の【剣ノ勇者】たる竜愁に次ぐものがある。
あの分では三分もせずに戻ってくるだろうと判断して、雪草は空中で立ち止まった。
脳に移植したチップが保存する地図と新福岡を中心とした位置情報システムを照らし併せることで探索範囲からの漏れをなくしてはいるが、気づかないうちにズレが生まれてしまうかもしれない。
それを考えると、虎太郎か雪草のどちらかは動かないことが一番だった。
新福岡を護る銀天蓋の外。
空は、工場から出るガスで汚染されていた三年半前と比べて格段に澄んでいる。
おそらく、海を挟んだ大陸にある巨大国家でも大規模な機械工場は稼働できていないのだろう。
それは、その国の人口の多くが喪われ、文明が崩壊したことも意味している。
中国に住んでいた、親しい取引相手の日本人を思い出す。
国が離れている上、雪草も友人も中堅企業の上役にいたから、実際に顔を合わせる機会こそ少なかったものの馬は合った。
彼と、|自身が副社長を務めていた会社の社長《三十年来の親友》の安否を雪草は知らない。
友人の方もちょうど日本に帰ってきていたはずだから新福岡に住んでいるのかもしれないが、雪草は調べる権限を持っていながら、それをしようとは思っていなかった。
友人と、大学時代からつきあいのあった親友の死を知ることが、恐ろしいのだ。
死んでいないにしても、こころを動かさずに人を殺せる程度に壊れてしまった自分を見られたいとは思えなかった。
恐怖を感じるとき、雪草はいつも、竜愁ならどうするかと考える。
そうして、自分の三分の一も生きていない子供ですら恐怖にあらがうのにと、自らを叱咤するのだ。
しかし今回ばかりはそのやり方も使えそうになくて、雪草は複雑なため息を吐く。
――竜愁は見栄っぱりですからね……、きっと、同じように考えるでしょう。
「帰ったぜ」
「……では、行きましょうか」
返事は待たず、雪草は一歩目を踏み出した。
二歩、三歩と緩やかに加速していく。
――おや?
どうにも、虎太郎の走りに違和感がある。
全身の駆動が滑らかさを欠いていた。
あれぐらいの戦闘で疲労するほど柔な鍛え方はしていないはずなのだが……、――まさか。
「昨日は何時からあそこにこもっていたのですか?」
「ンあ?
たしか飯食ってからずっとだから……八時からだな。
それがどうしたってンだ?」
「……あのですね、過ぎたるは猶及ばざるが如しという故事を知っていますか?」
「馬鹿にしすぎだろ!?
それぐらい知ってるに決まってンだろうが!」
「なら、私の言いたいことも分かるでしょうに……」
気を詰めて身を虐めるのは結構だが、その疲労で実戦の動きが鈍るようでは駄目だろう。
大きな乱れではないが、ここでは何が起こるか分からない。
滅多にあることではないが、A級魂獣の群れ……新福岡を滅ぼせるクラスの敵は、防御の上からでも致命傷になりかねない攻撃を放ってくるのだ。
「は?
ンぐれえが無理なわけねえだろ。
年食ってるジジイがどうかは知らねえが、こないだ休み入れたから、たかだか二日続けてっだけだぞ?
あと四日は余裕だっつの」
「努力の量で負けられっかよ」吐き捨てるように言うと、虎太郎はぐんと加速して雪草の先を行った。
置いて行かれた老人は目を細めて彼を追う。
ぎこちなさはもう見つからなかった。
黙々と走る。
ああも言われて警告を吐くなど、あまりに無粋だ。
――まあ、あの調子なら大丈夫でしょう。
パフォーマンスの低下自体は、虎太郎も自覚しているだろう。
だが、落ちているなら落ちているなりの戦い方がある。
虎太郎とて、あの死と狂気にまみれた戦争を己が力で切り抜けた英傑なのだ。
出すぎたことだったと、調子の悪い自分に喝を入れた。
一ヶ月とはいえ、穏やかな環境に絆されていたらしい。
追いつき、並ぶ。
――同時、赤い光が瞬いて。
「さすがコタ、脳筋だねっ!」
顕現したフラムティアが朗らかに笑った。
からかいどきと見たのだろう。
なにせ、虎太郎の頬はほのかに赤い。
言った後で羞恥心に襲われているのだろう。
彼らは寡黙を美徳だと信じているから。
「うっせぇ!」
「あははっ」
二四の男と三百越えの聖霊が、若々しい笑顔を弾けさせている。
濃い時間を過ごしたとはいえ、出会って五年にも満たない彼らの姿は夫婦より恋人の方がふさわしいと、雪草は笑った。
結婚には至らなかったが、自分にもあんな頃があったのかと思えば、すがすがしいような、気恥ずかしいような、不思議な感情が湧いてくる。
――と、その揺れが伝わったのだろうか。
目覚めたフィリスが雪草の中で言う。
『じぃじ、どしたの?』
『おはようございます、フィリス。
――虎太郎がまた馬鹿をやっただけですよ』
『ふぅん』
『……危険な戦闘があるかもしれませんので、もう一回寝直さないでくださいよ?』
『分かった!』
『………』
元気溢れる返事に何ともいえない気分になった雪草は、集中しようと周囲に意識を飛ばし――先ほどまでなかった巨大な反応に真面目な顔をする。
B級の反応が一〇と、際だって大きいA級以上の反応がひとつ。
雪草と虎太郎でも、危険な規模の集団だ。
「虎太郎、前回もこの周辺で魂獣と遭遇しましたよね」
「ンあ?
あー、たしか遭遇したと思うぜ」
「ですよね……」
「でっかいのでも湧いてんの?」
「ええ。
B級が一〇に、虎太郎と同等以上の魂格を持つ個体が一です」
「ハァッ!?
ヤバいどころじゃねぇだろ!」
慌てて方角を聞いてくる虎太郎に制止をかけて、雪草は黙考する。
言うまでもなく異常だ。
一月前ならまだありえたが、雪草と虎太郎が徹底的に魂力を散らしている現在、いくら間を空けたにしても規模が大きすぎる。
虎太郎と同程度の魂格を持つ魂獣が発生するには、高濃度の魂力が長い年月をかけて――
「まずいですね……」
「移動してきたんじゃねェのか?」
「可能性としてはありますが、楽観的すぎます。
――虎太郎とフラムティアは今すぐ新福岡に戻ってください。
魔力が減らない最大速度です。
ここは私がなんとかします」
「了解!
おら、ティアもさっさ戻れ!」
虎太郎が叫ぶも、フラムティアは険しい顔で首を横に振る。
――まさか。
雪草がその予兆を見つけると同時、空間が揺れた。
集団からは巨大な反応が消えていた。
――対魔術用魂術で妨害する間もなく、空間移動魔術が発動する。
「――行かせるわけにはいきませんねぇ」
そして、雪草達の眼前にぱっくりと裂け目が生まれ、軽やかに赤いフード付きコートを着た男が躍り出る。
男の体が完全に出ると、裂け目は閉じた。
――風が吹き、男のフードが外れる。
黒髪と、紫の三本角が太陽を反射して――
「――久我ァアアアッ!!!!」
雄叫びとともに、大剣を抜いた虎太郎が斬りかかった。
久我は両腕で受け止めるが吹き飛び、地面に激突。
灰色の煙が上がる。
だが、煙が晴れて、立つ久我は全くの無傷だ。
「これだから野蛮人は困りますねぇ……。
挨拶もまともにできないのですか?」
「テメェにゃこれで十分だろうが!!」
空中に留まったまま、虎太郎が叫ぶ。
怒りと憎悪の乗った罵声だ。
雪草も、叫ぶ虎太郎を見ていなければ飛びかかっていたかもしれない。
――久我は、許し難い仇なのだ。
――新福岡から南東に四キロ。
――魔王の側近と、勇者の盟友。
――ソタラハディアでの因縁が地球に場を移し、今この時、再燃する。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――ラァッ!!」
虎太郎の斬撃が、二メートル近い長身の久我を軽々と吹き飛ばす。
だが、吹き飛ばされた久我は空中で回転し、攻撃などなかったかのように着地した。
二回の直撃で服がボロボロになってはいるものの、大地が鮮血に汚されることもない。
代わりに、紫色の破片が風に舞っていた。
「――【展開】【餓虎ノ風炎】」
その久我めがけて、雪草は詠唱していた魔術を発動する。
小さな、直径一〇センチの赤い竜巻が二〇、周囲の塵を燃やしながらに最短距離を突き進んだ。
幸いにして雪草は空中に立っている。
地上に立っていたなら、虎太郎を誤射する危険性から直線軌道をとれなかっただろう。
久我は、二〇の竜巻が命中する直前に後方へ跳躍し逃れるが――その程度は読んでいた。
「行きなさい」雪草の声に答えるように、久我がいた地点で衝突した竜巻群が融合し、直径を五倍以上にも増して猛追する。
――まあ、当たらないでしょうが。
雪草はそれを冷徹に俯瞰しながら、次の魔術を演算する。
フィリスの役目はその補助だ。
「【展開】【雪風】!!」
甲高い久我の声が聞こえてくる。
強化により口の回りも加速した人間の声は総じて高くなるが、久我はそれが顕著だ。
耳障りにすぎる。
久我の作りだした吹雪は熱を全て吸収して蒸発、急激な体積変化に伴う圧が地面を割り砕いた。
濃い白煙が上がる。
それを後追いの風が吹き飛ばしていく。
久我は、もう地面にいなかった。
空中、雪草に肉薄せんと迫る。
――ここまでも、雪草の読み通りだ。
「【剣ノ勇者】【彼ノ者ノ盟友】【ソノ名ニオイテ】【展開】【奪魂掌】」
三節の詠唱を経て発動するは、剣の勇者が誇る固有魔術の劣化版。
両腕に金光が宿ると同時、雪草は全身に紺碧色の魂力を纏った。
久我は雪草と同じ高度まで上がると、パンッと空気が弾ける音を立てて接近してくる。
前触れも無しに音速を越えた久我の疾走は、ただぶつかるだけで人を殺せるほどのエネルギーをはらんでいた。
しかし雪草は、腕を前に出し迎撃の構えを取る。
「ァアアアッ!!」
「甘い」
久我の雄叫びには冷たく返し、雪草は滑らかに動いた。
突き出された右拳を左腕で流し、そのまま繰り出すは金光を集中させた肘での打撃。
硬質の手ごたえを打ち返し、久我の体制を崩した。
そして、左後ろ回し蹴り。
斜め上から、硬い軍靴の底で叩き落とす。
久我は、斜め下に向かい隕石のように落ちていった。
手ごたえは浅い。
いくらなんでも簡単すぎたことを考えるに、こうして落下するまでが久我の策だ。
甲高い詠唱が聞こえてくる。
地上にいる虎太郎へ攻撃を仕掛けるつもりか。
――させませんよ。
「【風弾】」
自分の体を風で撃ち、速度を稼いで追走。
コンマ一秒の追いかけっこを制した雪草は、久我の前に回り込んで全力の掌底を放つ。
金光で久我の術式を喰いちぎり、次いで高空へと打ち上げた。
感じる手ごたえは、またも弱い。
「やはり、目的は時間稼ぎですか……」
「まあ、ばれますよねぇ……」
太陽に重なり影のようにしか見えない久我が、言う。
ただの襲撃とは考えられなかった。
それなら【魔獣王】と久我の二人で襲うはずなのだ。
だが、現実として【魔獣王】はいない。
それはつまり、彼がここではないどこかで動いているということを意味していた。
その上で一番可能性が高いのは新福岡への襲撃だ。
というか、それ以外で久我を足止めに使うような重要案件は存在しない。
今すぐにでも久我を打ち倒して新福岡に戻りたいところだが、それがたやすくできるほどには雪草と久我の戦闘能力は離れていなかった。
――先の掌打は、悪手でしたね……。
空中戦闘も想定して目が眩まないよう魔術をかけてあるが、太陽の影響を全てカットすることはできていない。
立ち位置は、久我が有利だ。
無論、虎太郎が空中戦に参加すれば一方的に倒すこともできるだろう。
しかし彼にはもうじき襲い来る魔獣の群れを相手してもらわなければならない。
状況は完全に詰んでいた。
今ごろ、新福岡は魔獣王の襲撃を受けているだろう。
対抗できる戦力は、竜愁が記憶を失っている以上、一見ないに等しい。
絶望的な、最悪のタイミングでの襲撃。
――雪草は、内心でそれを笑った。
――なんとまあ、都合が良いのやら悪いのやら。
幸いにして、種はもう埋まっている。
聖霊の願いを聞き、過去からの言葉に打たれた少年は、いかな覚悟を持っていかな道を選ぶのか。
彼の前では『いつか』と言ったが、雪草は信じている。
大禍を前にして右往左往し、決断せずしてすべてを失う――小川竜愁がそんな愚物に終わるはずがない。
危地に直面したとき、人間はその本質をさらけ出す。
存外、このような状況にあってこそ人間は狂気に打ち勝つ確固とした自我を獲得しうるのかもしれない。
すべては、彼次第だ。
次に会うとき、彼はどのような表情をしているのか。
少年の覚悟が創り上げる先を夢見て、雪草長兵は獰猛に笑った。
確かな年月を重ねた者が持つ、独特な迫力がそこに浮かんでいた。
――そして物語は、新福岡へと移行する。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
小川礼吾は、状況が無事に終了しつつあることへの安堵感から大きく息を吐いた。
礼吾率いる――と言っても指揮は小隊毎に任せ、戦闘力の突出した彼は単独で三体の魂獣を相手に戦っていたのだが――第一部隊に大きな損耗はない。
魂獣との戦いで一番槍を務める代わりに配備されている強化機械鎧の恩恵だ。
魔力消費が多いことが難点だが、斥力術式をセミオートで発動してくれる。
もっとも、礼吾個人に限ってしまえばパワードスーツがなくても傷を負うことはなかったかもしれない。
礼吾は普通の護民官の中で唯一、戦闘能力判定A級を持つ傑物だ。
正確には彼を基準に戦闘能力判定が作られたのだが、それは置いておこう。
とにかく、雪草や小太郎との訓練を経てとみに力を増しつつある礼吾は、三体のC級魂獣を完封することに成功したのだ。
第一部隊の中で彼の次に強いミェーラですら三人組で一体を足止めするのが限界であったことから、礼吾の実力が周囲と隔絶した領域に辿り着きつつあることが知れる。
それでも、生かさず殺さずの手加減を強いられた礼吾は軽い眩暈を感じていた。
精神的な疲労だ。
部隊長がへたり込むわけにはいかない。
その気概で立ったまま破壊の傷跡が残る現場を眺めているが、座って休みたいというのが本音だった。
――この程度のことで疲労している自分への反骨心も、理由には含まれていたけれど。
現在は、護民軍の成立直後から戦い続けてきた第一部隊と比べて練度で劣る第二・第三部隊が集団で囲んで、後衛部隊の一斉砲撃から生き残った魂獣を狩っている。
ろくな実戦経験にはならないだろうが、それでも構わない。
大事なのは彼らに実戦の空気を伝えることと、魂獣は『勝てる相手』であると印象づけることなのだ。
礼吾たちは、孝大の開発した薬を服用し、魂を活性化させることで戦う術を得た。
だが、既存の薬では魂の力を引き出しきることができていない。
薬によって励起された魂の生成する魂力は、本来の二割から三割程度なのだ。
では、残りを引き出すには何が必要なのか。
――それは、強い意思だ。
魂と脳は密接に関係していて、そのため脳が『全力を引き出す』と命令することで十全の力を発揮できるようになる。
しかし――、ここで問題となるのが、新福岡の住民が例外なく植え付けられている魂獣に対する恐怖だ。
恐怖は、人の肉体を、脳を、強烈な力で縛り付ける。
敵を眼前にして身が竦めば、当然のように思考能力を奪われて、殺されてしまう。
それは心情的にも、育成コスト的にも喜ばしくないことだ。
――そこでこの、魂獣を圧倒し、その手で倒させるというイベントの出番である。
『生活の全てを奪った恐るべき敵』から『強いが勝てる敵』に落とし込むことさえできれば、感じる恐怖もずいぶんと違う。
命を狙ってくる敵に対する恐怖はいかんともしがたいが、総量が減ればそれだけ力を発揮できるというものだろう。
ウオォオオオオと、勝ち鬨が聞こえてくる。
どこかの部隊の新米が魂獣を討伐したか。
それを皮切りに幾つかの歓声が連続した。
一〇を数えて、礼吾は立ち上がる。
「解散だ。
小隊長はそれぞれ報告書を上げておくように」
了解と返ってくる返事を、今度は数えることなく、礼吾は歩きだした。
結界を抜けて、庁舎裏手の地下へつながる階段へ。
そこを降りれば格納庫の出入口があって、さらにそこからは闘技室につながっている。
特殊闘技室を使うことが多い礼吾の格納庫は、一番隅だ。
格納庫に着いて、チップを介して設けられているセーフティーの全てを解除すると、圧迫が緩んで体が軽くなる。
ヘルメットを外して吊り下げ、両腕を軽く広げて、最後に礼吾は除装のスイッチを入れた。
すると胴鎧の前面が開き、連動してパワードスーツが格納庫に固定される。
あとは体をひっこ抜くだけで終わりだ。
薄手のインナー姿になった礼吾は、隣にあるロッカーから訓練着を取り出した。
手早く着込んで、愛用の銃剣型魔道具――術式を刻み、魔力を流すだけで魔術を展開できるようにした道具だ――を片手に、礼吾は特殊闘技室に入る。
使用者が三人に限られている特殊闘技室には誰もいなかった。
電灯は設備として存在しないから、光の差し込まないここは真っ暗だ。
明かりを確保するために、礼吾は魔術を発動する。
【光球】という、殺傷能力も質量もない光の球を作るだけの魔術。
部屋の四隅に一つずつ浮かべてから、礼吾は庁舎側の出入口に移動した。
そこには、部屋全体に仕込まれた魔道具の制御版がある。
一定量の魔力を注ぐことで、四方から部屋の中心に向けて特殊な【光球】を射出する魔道具だ。
特殊と言っても、密な魂力か魔力と衝突することで相殺されるという、魔術の基本性質を利用した判別術式が仕込まれているだけのものだ。
射出パターンなどは雪草と虎太郎が組んでいて、体捌きと反射神経の両方を鍛えることができる。
総魔力受容量の一〇パーセントを注いで、「一〇……九……」とカウントが進む中、礼吾は全身に魂力を巡らせながら早足で歩いた。
鈍い金色の魂力が彼の体を覆い、次いで銃剣を包む。
闘技室の中心、両手で銃剣を下段に構え、礼吾は始まりを待った。
「一……〇」
初弾、近づきながらすくい上げるように斬り、踏み込み足を軸にして反転、次弾に降り下ろす。
半身で三発目を回避し斜めの斬り上げで四、五を撃墜。
六発目に突き込んだ勢いで駆け、後方斜め上から連続する魔力の気配を回避する。
パンパンパンと弾ける音が三つ、背後から聞こえた。
一〇発目は一一発目と同時に偏差射撃で左右から。
深く前傾する事で回避し、足元に来た一三発目は纏う魂力の密度を高めた左足で蹴り飛ばした。
数が進むにつれて、要求される動きは徐々に曲芸じみてくる。
止まる暇などなく、常に全力で闘技室を走る。
ジグザグに走り、斬り裂き、蹴り飛ばし、疲労感に霞んでくる思考は力強い踏み込みで引き戻した。
一〇〇を越えると、ポーンと高い音がして上下からも光弾が発射されるようになる。
一〇〇と一〇一の間には一秒のインターバルがあるのだが、その間に【空歩】の魔術で浮遊しなければ下からの【光球】を避けることができない。
そして、中空で奇妙なダンスを踊ること数分。
――消した【光球】が九〇〇を数えたところで礼吾は全方向からの一斉射撃を避けきれず、打たれるがまま地面に落下した。
これがこの魔術の嫌らしいところで、礼吾自身の魔力を使用しているのをいいことに使用者の薄い魂力と接触するやそれを吸収し、【光球】の進行方向に力を発生させるのだ。
子どもにどつかれるぐらいの力ではあるのだが、全方位から滅多打ちにされては鍛えている礼吾でも意識を失いかける。
そうなれば【空歩】の制御を失い、落下して潰れてしまうのも仕方ないことだ。
当人としては、仕方ないですませられることではないのだけれど。
「ハァッ、ハァッ……!」
礼吾の息は、荒い。
続けている内に動きの粗がいくつも見つかって、それを修正しようと躍起になって熱中していたのだ。
収穫はあった。
だが、第一部隊の役割は魂獣に対する即応だ。
訓練でこれほどまでに疲労していては、長失格だろう。
「俺は、駄目だな……」
それから暫く、礼吾は冷たい土の上で大の字になっていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――新福岡に、これより先で待つ表舞台の物語を予測していた者はひとりもいない。
――しかし、物語の幕は上がりつつあった。
――その時まで、残り四時間。




