第八話 『母親/老人』
――小川竜愁は、勇者である。
酷い頭痛に苛まれながらも目を開けた少年にとって、それはもはや疑う余地のない事実となっていた。
戻った記憶は、夢でかいま見た戦いのものだけだ。
しかし、三年半という長い時間を戦い続けた勇者の技能と異能を竜愁は知っている。
今の肉体と魂が許す限りであれば扱えると、何となくわかっていた。
高揚感。
レベルアップ、スキルアップ。
できることが増えるというのは快感だ。
自分が自分でなくなったかのように、眠る前と比べて遙かな高みにある能力が誇らしく思えて、一種の万能感もまた、少年の体に行き渡り――
ぴりと、かすかなスパークが冷や水となった。
「ねえよ。
なに考えてんだ、俺」
思い上がりにもほどがあった。
技術はある。
世界から選ばれた者の特権である三つの異能が宿っていることも、感覚でわかる。
だが――、それだけの凡人に何ができるというのか。
竜愁の能力は銃のように素人の手にあっても高火力を発揮するような代物ではない。
一つはそもそも使えないし、他の二つも使い方次第だ。
近接戦闘技術だって、経験不足で使いものにならないだろう。
結局のところ、竜愁には何もできない。
多少は人よりうまく戦えるのかもしれないが、それがいったい何になる?
父と魂獣が戦う間に入っても、邪魔になるだけ。
だって、父なのだ。
尊敬する、カッコいい父なら、竜愁などでは助けることもできないほどに強くあるはずだと――
「……今度は言い訳かよ、ゴミが。
結局、怖がってるだけだろ」
今のはできない理由ではなく、やらない理由だ。
自分よりも他人の方がうまくやれるからと言って何もしないのは、逃避に他ならない。
ときたま街に襲い来るという魂獣。
盾になって死ぬというのは逆に負担となりそうだからおいておくとしても、後方支援でも何でも、できることからしていけば、父の負担を僅かなりとも減らせる。
けれど、恐ろしかった。
戦うこともそうだが、あんな風に戦える自分がいたことが。
いつか、表情一つ動かさず敵を殺していたあの自分に飲み込まれてしまうのではないか?
あんな怪物じみた自分を見て、家族はどう思うだろうか?
想像するだに、恐ろしくてたまらなくなる。
「ぁ……!」
恐怖の先に見えた、ひとつの答え。
【剣ノ勇者】が使用権を持つ【魔法】なら、家族の下から離れ、たった独り、この街を護るために戦い続けられる――そんな鋼鉄の心を付与することができるかもしれない。
――様々な情報を考慮して、できたところでなんの意味もないと結論した。
家族に心配をかけることは変わらないし、何より――
――あの自分に成ることの意味に、竜愁は気づいてしまったから。
震えて、少年は布団の奥に引きこもる。
痺れるような疲労に侵された脳は、すぐにその機能を変化させた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
カーテンが勢いよく開いて、病室に朝日が差し込む。
音と光に目を覚ました竜愁は、寝ぼけなまこを擦った。
そのまま手は下にスライドして、欠伸を隠す。
中学に入ってからは基本的に六時より早く起きているのだが、昨夜は疲れていた。
寝過ごして、看護師さんが朝食を運んでくる時間になったのだろうか。
「……、母さん?」
「おはよう。
ご飯、そこに置いてあるから落ち着いたら食べなさい」
カーテンを窓枠のところで纏めている後ろ姿は、母のもの。
ずっと痩せた姿ではあるけれど、その振る舞いが放つ雰囲気は記憶と相違ない。
ベッド上のスライド式テーブルには湯気の立つお粥と、匙とコップ。
これだけされても気づかなかったのかと、眉間を揉んだ。
「……んっ」
軽く、伸び。
背骨を鳴らした後は首を左右に鳴らして、居住まいを正す。
こぼしてもかからないように布団を足元へ寄せて、緩く合掌。
「いただきます」
言ってから思いだし、「母さん、おはよう」と付け加える。
なぜか、酷く嬉しそうに笑われた。
対応に困って、竜愁は匙に粥を乗せて口元へ運ぶ。
薄い塩と出汁の味が、熱とともに広がった。
少し高めの温度が竜愁の好みだ。
弱った胃に沁みていく。
「これ、母さんが?」
「ん、そうよ。
やっぱり、いくら忙しくても息子の看病ぐらい自分でやりたいじゃない?
あ、熱すぎたりしない?
好きだったと思ったから熱くしといたんだけど……」
「……おいしい、うん。
ありがと」
「なら良かったわ」
ベッド脇に座って、響子は言った。
竜愁は黙々と食す。
粥はほのかにしょっぱくて、けれど焼き鳥などとは比べるまでもなく胃にやさしい。
懐かしい、母の味だ。
そんな風に感じる自分に反吐が出そうだけれど、おいしいことには変わりない。
柔らかい米粒を潰すようにして味わっていた。
「何か要る?
服とかは仙歌が用意したみたいだけど、ずっと寝てるだけじゃ暇でしょうに」
「……いや、別にいいよ。
時間なんて、考えごとしてれば勝手に潰れるし」
特に、今のような状況ではそれが顕著だ。
考えなければならないこと――いや、覚悟しなければならないことに迫られている今は。
自分の中でひとつひとつ折り合いをつけていき、どうしようもないことへの諦めを――
そこまでを思い、竜愁は頬の筋肉が引きつるのを感じていた。
この状況で何も考えずに流されるというのは馬鹿のすることだが、表に出す必要なんてどこにもない。
隠そうとしているのに、自分で口を滑らせるなんて馬鹿以下だ。
幸いにして、竜愁が横目で響子の顔を確認しても変化は見られない。
息を吐いた。
「それより、ずっとってことは、入院長引きそうなのか」
「そうねえ……、あなた次第かしら。
竜愁が記憶を取り戻すまでは入院させるって、父さん言ってたから」
やはりという納得があった。
――父も、竜愁が異世界で戦った三年半を知っているのだ。
『記憶を取り戻すまで』の条件は、竜愁が狙われるからだろうか。
竜愁が異世界で結んだ縁のすべてが良性である保証はどこにもなく、異世界に居た人間がフラムティアひとりとも限らない。
力を失った勇者が怨恨により殺される、なんていかにもな話である。
荒唐無稽な感も、否めないが。
だが、だとすれば不可解な点がひとつ。
――なんで昨日は外出許可が……?
竜愁の身を護るためなら、病室に缶詰にして部屋の周りを警官……いや、護民官で囲めばいいだけのこと。
そうならないにしても外出許可が下りるとは考えにくい。
実際に竜愁は仙歌とともに出かけることができたのだが……。
「じゃあやっぱり、ここからは出られない?」
「建物の中だったら自由みたいよ」
「そうかぁ……、っ」
気づいた。
フラムティアがその護民官だとは考えられないだろうか。
彼女の飛行速度を計算に入れると、昨日、詰め所に連絡があってからフラムティアが到着するまでの時間が短すぎるのだ。
仙歌を抱えていた帰り道では全速力など出せなかっただろうが、それにしても速い。
その速さの謎も、至近にいたとすれば解決する。
しかし、今度は外出できた理由がわからない。
危険だというなら、側についていた彼女は竜愁を止めるべき立場にあったはずだ。
――まさか、フラムティアの独断か……?
コネがあると言っていたことだし、混雑していた受付を通らせるくらい、できるだろう。
カチンと、スプーンが器の底にぶつかった。
考えている間に食べきっていたらしい。
すっかり温くなっていたスプーンの柄を手放して、コップを傾ける。
冷たい茶が喉を滑り落ちるのを確認して、二度目の合掌。
「ごちそうさま」
「ん、食器片づけるわね」
「それぐらい自分でやるから」
「いいから息子は世話焼かれてなさい」
竜愁が手をのばすよりも先に響子が盆を持ち上げて、洗面台の方に行ってしまう。
併設されている洗面台は二人並んで使えるほど大きくない。
邪魔をするだけだと判断した竜愁は、半分浮かしていた体をベッドの中に戻した。
ひとつ、嘆息。
「何やってるんだか……」
それは、この状況への言葉だ。
母の手を煩わせたという小さな失敗を起点に、溢れ出てきたのだ。
どうしてこんなことになっているのか。
いつまでたっても覚悟できない自分がにくたらしくて、ついつい恨み言が過去の自分へと向いた。
召還されたのはしかたないとしても、なぜ三年間も現地で戦っていたのだろうか。
その三年間、家族が竜愁の身を案じることぐらい予想できただろうに、どうして。
記憶を失い、還ってきてまでも心配をかけ続けるこの体たらくがにくたらしい。
――水音と一緒に、鼻歌が聞こえてくる。
響子の癖だ。
おかげで、食後の小川家にはいつもメロディが流れていた。
――そういや息子って呼ばれるの何時ぶりだったかな……。
あまり覚えのない三人称の響きが、脳内で再生される。
どうしてか、ひどく懐かしい。
「ああ……、少なくとも三年半は呼ばれてないのか」
今の竜愁の主観では一度の睡眠でも、客観的世界は三年半の歳月を歩んでいる。
そして、過去の竜愁からすれば三年以上もご無沙汰していた言葉だからなのだろう。
思い返すと、こんな得体の知れない記憶喪失の男を息子と認めてもらえていることが、無性に嬉しかった。
――泣きそうになるのを、どうにかこらえる。
どれだけ承認欲求旺盛なんだよと自虐してみても止まらなかったので、涙腺を上から押さえ物理的に止める。
目を閉じ、俯いた姿勢で感情の波が引くのを待つこと数十秒。
数分だったかも知れない。
竜愁が顔を上げるのと、少し慌てた様子の響子が戻ってくるのは同時だった。
「ちょっと急ぎの用事入っちゃったから、もう行くわね」
「あ、うん。
行ってらっしゃい」
竜愁が言うや、響子は病室の出口へ早足で歩く。
相当に急ぎの用件らしい。
聞き取ることはできなかったが、何かぶつぶつと独り言を呟いていた。
ガラッと音を立てて、扉が開く。
そして響子は、病室を出ていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「やっぱり気、遣ってるわねぇ……」
時はわずかに遡る。
はぁ……と息を吐いてから、響子は脇に置いた皿へ手を伸ばした。
彼女の悩みの種は、三年ぶりに再会した息子だ。
夫からは「性格も何もかも変わっているかも知れない」と聞かされ、「それでも息子は息子」と三年前と同じように接することを決めていたのだが、拍子抜けするほどに竜愁は変わっていなかった。
それもそう、息子は離れていた間の記憶のすべてを失っていたのだ。
変わろうにも、変わりようがない。
しかし、変わっていないのは悪い面もで。
周囲の空気を読むことに長け、だからこそ気を遣いすぎる――そんな悪癖が、竜愁本人が一杯一杯の状況でも存分に発揮されていた。
竜愁がずっと浮かべていた、引きつったアルカイックスマイルがその証左だ。
息子の笑顔はもっと自然で、やわらかいものなのだと母親の響子は知っている。
輪から少し外れて、談笑する家族に向けるおだやかな笑いこそがそれだ。
目を覚ましたら世界が四一ヶ月後にまで進んでいて、自分はその間の記憶を失っている。
そんな意味の分からない状況にとらわれた息子のストレスがどれほどかなんて響子には想像もできないが、自分たちが『あの日』経験したそれに優ることはあっても劣りはしないと彼女は思っている。
なにせ、精神的な立ち位置と物理的な立ち位置の崩壊が同時に起こっているのだ。
自分が何者で何をしてきたのかも分からないのに、世界は自分を置き去りにして新たな法の下動き出している。
必死に適応しようとしてはいるのだろうが、一朝一夕になるものではないだろう。
――だのに息子は、響子に心配をかけないように精一杯の笑顔を見せた。
もはやすさまじいどころか、異常な領域に達していると言える。
多少気が立ったりしていても許されるものを、ひたすらに自制しているのだから。
響子としては、無理矢理にでも甘やかしたいところだ。
「でも、男の子が意地張ってるのを無碍にするのも悪いし……」
これほど無粋なことはないだろう。
そう思って何も言わずに過ごしてきた数年が響子にはある。
そう、彼女は竜愁が浮いていたことを知っている。
というか、塾にも通っていない男子小学生が放課後家にこもりっきりというだけでいろいろと察せるに決まっていた。
決め手は林間学校の写真が極端に少ないことだった。
しかし、竜愁が同世代からハブにされていることに対し響子や礼吾から何か言うことはしなかった。
息子が隠したいなら隠させておいて、いざ打ち明けられたなら迅速に動くというのが二人の決定だったのだ。
その日が訪れることはついぞなかったのだが。
「ああ、もうやめましょ。
気が滅入るだけだわ」
もっと別な対応を選べたのではないかという仮定は、意味を持たない。
そんなどうにもならないことに悩んで時間を費やすぐらいなら、息子の横にいる時間を増やす方が断然いい。
響子は鼻歌混じりに皿を水に晒す。
十分に汚れが流れたら、備え付けのタオルで水気を拭ってしまう。
部屋を出ようとして、しかし響子は一歩目で立ち止まった。
脳内に響くコール音、つまりは『念話』の着信だ。
『なに、どうしたの?』
息子との時間を邪魔されて、響子の『念』には険が乗っていた。
魔術の発見以降新規に構築されたこの『念話機能』は便利なのだが、感情を隠すことが難しいという点で難がある。
そんな自分に苦笑を浮かべながら、響子は言葉を待つ。
始まりを告げる言葉を、それと知らずに。
『C級魂獣が二〇、北の結界柱付近に発生しました!!
戦闘能力判定D以上の職員には迎撃命令が出ていますので、休憩中申し訳ありませんが、主任も準備をお願いします!』
『な――!』
動揺する。
C級魂獣とは、AからFまで七段階で設定された危険度指定の中位――身体強化を使用していない人間なら、地球にいたどんな武術の達人でも蹂躙できるほどの怪物だ。
それが、二〇。
礼吾の率いる第一部隊だけでも対抗は可能だが、対応が遅れれば結界柱を破壊される可能性も――
『分かったわ!!
今すぐ行くから、ひとまず第一部隊を出して応戦。
その間に全部隊へ装備を出しなさい。
整い次第、第一部隊を引かせて後衛部隊による一斉攻撃のあとで包囲殲滅します。
ああそれと、独立の二人はなんて言ってるの?』
『お二人は、これぐらいなら手助けしないと……』
『……いいわ。
危険になったら動くでしょうし、居ないものとして考えましょう。
敵の構成は確認次第連絡するよう第一部隊に言っておいて』
『了解しました!』
そこで、念話が切れる。
響子直属の部下たちは指示通りに動くだろう。
それだけの信頼関係は、場数を経て構築してある。
だから響子も、戦闘能力判定C級を持つ後衛部隊部隊長として、信頼を裏切らないよう最善を尽くすのみだ。
扉を開けて、息子に声をかけてから病室を出る。
ひっきりなしに届く状況連絡を捌き続けながらも自身の装備を整えた彼女が戦場に立つのは五分後。
――快勝に終わるこの戦いは、この世界における勇者と魔王の物語の幕開けだ。
それを知っていた者は少ない。
しかし、確かに、この戦いを境として長らく停滞していた世界が動き出すのだ。
勇者と魔王、二者が相見える時も近い――
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「【解除】」
【終句】を唱えると、伝播する魔力が術式に干渉してその術式をバラバラにする。
結界魔術、正確には意思反応型対圧力結界構築術式の恩恵を失った竜愁の肉体はベッドの上に落下した。
バフッと音を立てて体が布団に沈む。
ほどよい疲労感と圧迫感に睡眠欲求が刺激されるが、遠くから聞こえてくる轟音が竜愁に安楽な眠りを許さない。
地揺れ、爆音、雷鳴。
音に合わせてまき散らされる魔力の波動がなければ天変地異かと思ってしまいそうなこれらの魔術は、響子が居なくなって少ししてから発生しだした。
最初は絶え間なかったが、今は随分と断続的になっている。
終息しつつあるということだ。
――竜愁はこれを白い化け物による襲撃だと推測している。
近くで護民官が演習を行っているという線も考えたのだが、ただの演習では母の慌てる理由がわからなくなる。
演習以外で大規模な魔術を扱うとなれば、戦闘行為しか思いつかなかった。
避難警報に類するものが発せられていないことから、危険性は低いのだろう。
しかし、今後の入院生活が長引く可能性も考えて、いざというときの脱出手段を確保しようと、竜愁は記憶の中で自分が使っていた飛行魔術の再現に挑戦している。
先ほどの魔術のコンセプトは、結界による空中に対する足場の作成。
空間に固定するタイプの結界を任意の地点に任意のタイミングで作り、消すことのできる【空歩】という魔術。
一定の成果は得られたから、移動には不自由しないだろう。
「……何やってんだ、俺」
慣れないことをした疲労も、呼吸を繰り返す内に抜けた。
脳がひんやりと冷たい明晰さを取り戻したと途端に、俯瞰視点が客観像を浮かび上がらせる。
――魔術の練習よりも、思索に時間を裂くべきだった。
どうしてと思い挙がるのは、ひとつだけ。
――竜愁は、考えることすらも恐ろしくなっていたのだ。
逃げたところでどうせ何時かは追いつかれるというのに、その形のない追跡者を直視できなくなるほどに恐れてしまった。
思考を止め、ひたすらに振り返らず。
それは良くないと、何とはなしに分かっている。
けれど。
「考えたところでどうなるんだよ……!」
怖いものは、怖いのだ。
お化けは見えるようになれば怖くなくなると言うが、考えても考えても、その恐怖は輪郭さえ見えてこない。
薄ぼんやりとした、暗い概念のまま、音もなく迫る恐怖――
「――そうですね……。
後悔を減らすという点で、意味を持つのではないでしょうか」
老人の声。
それは、竜愁以外に誰もいなかったはずの病室で出し抜けに響いた。
声が聞こえた、扉のある方向に顔を向ける。
――白の混じった髪をオールバックに纏め、すっくと背筋を伸ばした老人が病室の中に立っていた。
ぽかんと、竜愁は口を開ける。
扉の開く音すらしなかったというのに、いつの間に現れて、いつから聞いていたのか。
そもそも何者なのか。
唐突すぎる事態に処理が追いつかず、竜愁は問いかけることもできない。
「にぃにぃー!」
――沈黙を打ち破ったのは、甲高く叫ぶ幼子だ。
テテテッと足音も軽く、青みがかった銀色の髪をふんわり揺らしながら、彼女はベッドに飛び込んでくる。
満面に笑顔を浮かべた童女を避けるわけにもいかず、竜愁は手を伸ばして抱き止めた。
勢いに反して衝撃は軽く、小さい体は竜愁の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
「こら、フィリス。
竜愁も病人なのですから、あまり乱暴をしてはいけませんよ」
「にぃに頑丈だから、ダイジョブ!!」
「……いえ、まあ、確かにそうなのですが。
それでも礼儀というものがあるでしょう」
「……俺は、気にしてないですし、いいですよ」
言いつつ、竜愁は幼子を抱いたまま起き上がった。
初老の男を正面から見て、問いかける。
「どちらさまですか?
……昨日、俺が地下に行くときについてきた人ですよね」付け加えると、老人の眼光が鋭くなって、竜愁は息を呑んだ。
気を抜けば圧されてしまいそうなほどに力強い瞳だった。
「私は雪草長兵と言います。
以後お見知りおきを。
ああ、貴方が抱えている子どもは私の娘で、フィリスという名です。
名前と年齢差から判るように、養女ですがね」
「……俺は、小川竜愁です」
「ええ。
貴方が小川竜愁であることは、私もフィリスも、よく知っています。
厳密には違うのでしょうが、本質は同じようですしね。
知った仲であるとしても、大差はないでしょう」
その答えについては、予想できていた。
見ず知らずの老人が病室に入ってくるなんてありえないし、初対面の子どもに懐かれるような顔をしていないと自負する身だ。
竜愁の三年半を知る者が接触をはかってきたのだろう。
「何か用ですか?」
「おや、せっかちですね。
もうすこしフィリスと遊んでいても私は構いませんよ?」
「……すみませんが、冗談に付き合う余裕はないんです」
怒気を滲ませて、竜愁。
いい加減、竜愁のために隠されているのだと悟っていても、何も教えてくれない周囲に対する苛立ちもつもっていた。
意味深な言葉など、クソの役にも立たないのだから。
竜愁の怒りを感じとってか、フィリスが竜愁の腕から逃げ出して、雪草の影へ走った。
「では、単刀直入に用件だけを言うとしましょう。
――悩める若者への助言ですよ。
そのために、私はこの病室へ足を運んでいます」
「……間に合っていますので、お帰りください」
「『でも、考えたところでどうなるんだよ』」
「っ、それは、あなたに関係ないでしょう」
突き放そうと、冷気を込めて竜愁は言った。
精一杯に睨みつける。
――踏み込んでくるな。
殺気に近い気迫は、しかし、老人に効果を及ぼせない。
彼は柔和な微笑を張り付けたまま、すっと一歩近づいてきた。
「いえ、関係しているのです。
貴方が選択を間違えたとき、人類は滅びを迎えます。
その責を負うべきは貴方ではありませんし、私としては負わせるつもりもありません。
しかし……、現実として、未だ貴方は人類の存亡を左右しかねない場所に立っているのです。
――貴方の持つ号は、思い出しているのでしょう?
フラムティアが封印を緩めたはずです」
「………」
【剣ノ勇者】。
己がそうであると知っていても、そうであるとしか知らない。
だというのに、この老人は何を竜愁に求めているのだろうか。
人類の存亡?
そんなことを言われても、トチ狂った老人の戯言にしか聞こえなかった。
苛立つ。
言われてしまえば、どうやっても考えてしまうから。
マットレスを叩いて、立ち上がった。
ことさらに大きな足音を立てて、正面から対峙する。
思いの他、背が高い。
鳶色の瞳が目の前にあった。
視線を交わしているだけなのに、どうしてか気圧されそうになって、竜愁は言葉を詰まらせる。
ぅぐと、喉で奇妙な音が鳴った。
「私の妄想と一蹴するのは、貴方の自由です。
しかし、分かっているでしょう?
残念ながら私はボケ老人にしてはシャンとしていますし、妄想にしても貴方へ伝える理由がない。
貴方がどういう存在であるかを知っているからこそ、この言葉は意味を持つのです」
「……俺を、笑い者にしたいだけなのかもしれないでしょう」
「……ふむ、そう言われればそうですね。
確かにその可能性は存在しています。
しかしその一方で、私が全て真実を語っている可能性も存在するのですよ。
これこそ、考えたところでどうにもならないものでしょう。
――ひとつ、貴方自身の言葉を送ります」
「………」
「『何かを思いついた段階で、それを確かな可能性のひとつとして考えるべきだ。
最善は、そうやってあらゆる可能性を考慮して、最悪をひとつずつ潰していって、もう何もできないと感じても他を模索して、そこまでしてようやく得ることのできるもののはずなんだ』。
妥協を選び、生温く生きるのならば、こんな言葉は意味を持ちません。
ですがそれは、愚物の生き方です。
『あのときもっと徹底しておけばよかった』……、そう嘆くことがないと誓えますか?
できないのであれば、それがどれだけ苦しい可能性であっても、全霊でもって向き合いなさい。
――死の寸前で抱く後悔ほど虚しいものはありませんよ」
雪草は目を細めて、そう言った。
竜愁は何も返せない。
妥協を選んでも後悔しなくてすむかもしれない。
けれど、神ならぬ竜愁には未来を予測するなんてことできはしない。
――不確実な希望に縋るのは、まさしく愚か者のやることだ。
ああ。
老人は、悔しいほどに綺麗な正論を吐いている。
怖いからと言って逃げたとして、何になるというのか。
何も決めないままに追いつかれてしまうのが関の山。
――無様だ。
そんな姿を認められるはずがなかった。
老人の言を信じるなら、これは竜愁の思っていたことだ。
共感するのは、当然の帰結なのかもしれない。
それでも悔しかった。
逃げてしまった自分の弱さを、殺したくなる。
――その前に、お礼、言わないとな。
「くれぐれも、思考を止めないことです。
煮詰まったなら、別の視点からみればよろしい。
妥協を選ぶにしろ、最善を模索するにしろ、考え続けることで、貴方はいつか、貴方なりの答えを見つけるでしょう。
私は、貴方が本心より選んだ答えを尊重します。
貴方と彼女の幸せな暮らしに最大限協力すると、ここに誓っておきましょう。
――ああ、礼は必要ありませんよ。
若人の未来を支えることさえできればそれで構わないのですよ、私は」
――ほら、老い先短い身ですから。
最後に茶目っ気を出して、老人は笑った。




