第六話 『赤き聖霊の願い』
――赤い光が床を照らすや、みるみる内に罅が修復されて滑らかになっていく。
いかにもな光景に、収まったはずの頭痛がぶり返した。
……額をさすっても瘤が見つからない自分の頑丈さもたいがいファンタジーだなと笑いながら。
妻の存在すらも忘れている我が身の愚かしさに暴走した竜愁が突然の破壊行動に出てから、数分。
フラムティアは爆笑し、仙歌と居合わせた護民官の男性にドン引かれて、散々な目にあった竜愁は現在、椅子に座ってうなだれていた。
自分でもよく分からないが、あのときは本当に、心の底から頭突きしなければならないと思ったのだ。
その……妻だった人には土下座してもしきれないので、さらに上をと思ったのかもしれないが、なぜ頭突きを選んだのか。
スピードを上げればレベルも上がるとでも考えたのだろうか。
真相は不明である。
「……しっ、修復完了。
じゃー帰……あ、ごめん。
無理、噴く。
――ッくく、は、あははっ!!」
「もういっそ殺せよ!!」
「それも無理!
アタシまだ死にたくないしー。
リュウシュウ……殺せるとも思えないけど、殺したらアネキに殺される」
こんなバカっぽいリュウシュウ初めて見た、と。
指を指し腹を抱え、しかし品を損なうことなくフラムティアは笑っていた。
こうして見ると、フラムティアは人並みはずれた美少女である。
彼女が至近距離にいるというのに竜愁がなにも感じないのは、やはり記憶のせいなのだろうか。
言葉を交わしていると、自然と言葉が口を突く瞬間があるのだ。
たとえば、こんな風に。
「バカとか、おまえに言われたくない」
「っ、リュウシュウが生意気を!!」
フラムティアは声を上げると、竜愁につかみかかる。
顔が笑っていたから、本気ではない。
本気だったら沸点低すぎるだろと苦笑して、竜愁は右にステップを踏む。
捕まってやるつもりは、ないのだ。
手に一瞬遅れて、風が竜愁の頬を撫でた。
「むー、避けるな!!」
「避けるわ!!」
「仲良いねー」
仙歌の呆れ声に、フラムティアの追撃を回避して三手目に警戒していた竜愁は立ち止まる。
少なくとも、詰め所でやるようなことではない。
……護民官の男は、遠い目をして虚空を見つめていた。
「なんか、すみません。
恥ずかしいところを見せてしまって……」
「いえ、お気になさらず。
自分の若い頃を思い出していただけですから……。
……リア充が」
「………」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「じゃあ帰るよー、センカはつかまってね?」
「あ、うん」
詰め所の前で、護民官の男に見送られながら。
フラムティアにお姫様だっこをされてはにかみ笑いを浮かべる仙歌を、竜愁は所在なしに眺めている。
歩いて帰るのだろうと竜愁は思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
「一応風避けの魔法かけるけど、舌かんだら危ないし気ぃつけてねー」
「……流されて乗った私もアレだけど、これ、どうやって帰るの?
風避けとかもう、イヤな予感が……」
不思議に思っていたのは自分だけじゃなかったことに、竜愁は軽く安堵する。
……しかし、未だ回転の早い思考が推測するに、ろくでもない展開が待ち受けているように思えてならなかった。
フラムティアは、空から降ってきたのだ。
「飛んでくよ?
直線距離でいける分こっちのが早いじゃん。
あ、リュウシュウは運んだげないから自力でついてきてね」
「「………」」
あんまりな言い分に、言葉を失う二人。
フラムティアはこともなげに言ったが、空を飛ぶというのは移動手段として一般的なのだろうか。
――そんなわけがない。
もしそうだとすれば、駐輪場があれほどまでに埋まるはずがないのだ。
……空を舞う主婦の群れを想像して吐き気を催したのは竜愁の秘密である。
そんな彼らの様子を見て、フラムティアはなにを勘違いしたのか、
「そっか、リュウシュウ記憶喪失だし、使い方も忘れちゃってんのか。
メンドクサイなー、もう」
これまた意味不明な台詞を気だるげに吐き出す。
仙歌はフラムティアに抱えられて目を回しているし、竜愁は魔法世界に順応しきれていない。
だから、当然の既決として頭に疑問府を浮かべることになるのだが、フラムティアはお構いなしに続けた。
「ハイ、目ぇ瞑って息吐いて。
あ、センカはいいから。
リュウシュウだけね」
「何を……」
「口答えしないでやるっ!」
なんだよと、不平は渋々飲み込み、言われるままに竜愁は目を閉じ深呼吸。
……何も起こらない。
この女はひとに瞑想をさせて何がおもしろいのだろうか。
他人の深遠なる業に触れてしまったのかもしれない。
失礼な竜愁の思いは幸い知られることなく、次の指示が飛んできた。
「じゃあ体の内側に神経集中させてー。
なんかこう、溜まってるエネルギーみたいなのがあるっしょ?」
「は?
何言って……あるな。
薄いのと、濃いのと」
中心からエネルギーが広がり、皮に当たって跳ね返らずに留まっているイメージだ。
皮付近の薄いエネルギーは皮に沿ってゆっくりと巡っている。
中心に近い部分には、少し質の違う、濃いエネルギーが溜まっていた。
――俺の体、どうなってるんだよ……。
「うわー……何も考えずに魔力抽出してるとかもう、もはやキモイね。
さすがなんだけど……なんとも言えない。
……まー、とりあえずその薄いヤツ動かせる?」
「ちょっと待て。
……えぇと、こうか――って、なんだこれ」
動かすのは、存外簡単だった。
既にある流れへ、向きを壊さないように力を加えるだけでいい。
これなら集中してなくてもできると目を開け、口を反開きにした竜愁は呟いた。
――体が、金色に光っていたのだ。
驚きを通り越して、呆然とした。
竜愁の全身を覆う金光は、淡く明滅しながら先ほどの流れと同じ方向に流動している。
流れをせき止めてみたら、同時に消えた。
もう一度試すと、また光る。
どうもよくわからないが、感覚によると体内の薄い方のエネルギーが漏れているらしい。
外側から押しつけるようにして力を加えたら、収まった。
「よし、これで光らなく……二人ともどうした?
目が恐い」
「いや、お兄ちゃん……」
「もういや、この天才がっ!!
記憶ない癖に魂力操作一瞬で修得とか、なに?
なめてるの?
実は記憶喪失は嘘ですとか言うなら今のうちだよ?」
「……なんでそんな嘘つかなきゃいけないんだよ。
今の、そんなにすごいのか?」
「説明したくないから、思い出して」
「そんな無茶を……」
呆れ果てる竜愁からは目を背けて、
「もう帰ろ?
天才すぎてヤになってきた」とフラムティア。
仙歌もいつになくむすっとした表情でフラムティアに頷く。
――そしてフラムティアは、跳んだ。
何かを呟いて赤色の粒子を散らしながら、一跳躍で遙か上空へ。
そこから宙を蹴り、庁舎へと猛烈なスピードで走っていく。
「待てよ!!」
追いかけて、竜愁も跳んだ。
このみなぎっている力があればできると、根拠もないのに確信していたのだ。
とは言え、フラムティアのように何もない空間を足場とする方法は知らない。
だから詰め所の屋根に着地して、近くの建物の屋根に飛び移る。
赤毛はまだ、視界に入っていた。
蹴る。
轟と、風。
息を吸う鼻に飛び込んでは鼻孔を冷やしていく。
いったい時速何キロに到達しているのだろうか。
確かめる術はないが、吹き付ける風はもはや目を開けていられないほどに強い。
数瞬で地形を把握して目を閉じ、記憶が怪しくなったら開けるというのを繰り返した。
どうやら強化は身体能力だけでなく思考速度をも対象にしているらしい。
体感でしかないが、そうでなければ竜愁の異様な空間認識能力に説明がつかない。
竜愁は少しずつ、使い方も把握していた。
循環させるエネルギーの量は湧き出すエネルギーを流れに追加することで増やせるし、エネルギーを細胞同士の隙間に流し込むようイメージすれば効率を高めることもできる。
ただし、眼球周辺に流し込むと光で視界が奪われるため要注意だ。
量と速度を高めることで強化の度合いは上げられるが、長時間回しているとエネルギーが劣化するらしく、流れが鈍くなってしまう。
そうなる前に排出する必要があった。
フラムティア曰く『魂力』という名を持つこのエネルギーは、光る。
排出の度に煌々と瞬く金光に辟易として、ならば継続的に排出することで解決しようと考えたのが十秒前。
――現在、竜愁は時速四〇キロにも迫り飛行していた。
纏う魂力が濃密にすぎてむしろ逆効果になっているのだが、そんなこととは露も知らず、夢中になって竜愁は駆ける。
そんな、自動車が一般道を走行するときほどの速度で移動していれば、いくら何でも追いつく。
竜愁がフラムティアの背中を捉えたのは、駐輪場の真上だった。
およそ一分少々の追跡行だったが、息は切れていない。
このまま追いついて――と考えたところで、竜愁は気づいた。
自分は今日、どうやってここに来た?
「ああ、もう!!」
声を上げて、トタンを蹴る。
急加速し、一〇秒ほどして並んだ。
「おい、仙歌!」
「お兄ちゃん!?
ちょっと速すぎない!?」
「本気出したら案外行けた――じゃなくて!
端末貸してくれ。
自転車回収してくるから先に行ってろ」
「おー、さすがリュウシュウ。
イッケメーン!」
「やかましい!
てか早く!
帰るのめんどい!」
「え、あ、うん。
はい!
パスワードは1022だから」
受け取り、反転。
着地した地面が凹んだが気にしないことにして、竜愁は走る。
ここから駐輪場までは直線だ。
空気抵抗に削られる空路よりは速度を出せる。
風を切りながら、ふと思った。
――どこに停めたっけ……?
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
案の定見つからず、竜愁は光りながら駐輪場を一周した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「おっ、遅かったねー」
「うるさい。
自転車探すのに時間かかったんだよ……」
「アハハッ。
やっぱリュウシュウ調子悪いねー。
ドジってゆうか、間抜けってゆうか……あー、そっちが素なのか。
……どんだけ気ぃ張ってたの?」
「また、意味分からないことを……」
言いながら、竜愁は両肩に担いでいた自転車を下ろした。
前輪を先に着けて、ガチャンガチャンとスタンドを立てる。
まだ庁舎前であるここから庁舎の駐輪場までの運搬が残っているが、少し休憩だ。
息が上がってしまっている。
大きく息を吐いて、顔を上げた。
「あ?
――仙歌はどこに行ったんだ?」
「ちょ!?
殺気出しすぎっ!
センカがいないのは……私のせいだけども、別に怪我とかはないから、落ち着いて落ち着いて」
「………」
殺気の扱いなんて細かくは分からないが、とりあえず魂力の流れを止めて目から力を抜く。
仙歌は、やさしい妹だ。
遅れたとは言えたかが数分を待たないとは考えにくく、だからこそ竜愁は短絡的にフラムティアに原因を求めたのだ。
悪人とは思えないが、どこか胡散臭い彼女は低位の警戒対象である。
「いや、さ。
このままならたぶん大丈夫だって思うんだけど、念押しってゆーか、保険ってゆーか。
アタシも、アタシが見たい未来を見るために、最善を尽くさなきゃってか……。
うーん、なんか良く分かんなくなってきたけど、とにかく、話があって」
だから席を外してもらってる、と。
そう言った彼女の赤い瞳は、一直線に竜愁を射抜いている。
出会って暫く、おちゃらけてばかりだったフラムティアの見せる表情に居心地の悪さを感じて、竜愁は周囲を見渡した。
かすかに赤らんだ太陽の照らす午後五時の庁舎前には、二人以外に誰もいない。
「なんで……」
「あー、アタシ、一応護民軍には所属してないけど、上の方にツテあっからねー。
アホみたいに魔力食われてっけど、人払いの結界張らせてもらってんのよ」
「………」
『人払いの結界』というのの理屈に見当もつかないが、それはともかくとして、そんな名前の代物を庁舎の前に張って問題は起こらないのだろうか。
竜愁の認識では、庁舎は市役所と病院という二つの機能を担っているのだが……。
深く考えなくとも不味いと察せられる状況を用意できるほどにフラムティアのコネは強いのか。
冗談じみた戦慄に体を震わしてから、竜愁はため息を吐いた。
逃避的にもほどがある。
フラムティアのコネの強さがどうしたと言うのか。
真剣な相手に真剣に向き合うのが、怖いだけだった。
何も考えずにつっぱねるのは簡単だが、真剣な人には真剣に対応するのが礼儀というものだろうに。
分かっていても、思っていてもできないところが、いつものごとく最低の屑野郎だ。
「でさ、話なんだけど」
「………」
「竜愁は、なんのために生きてるの?」
「――」
初対面の人間に言うことではないだろうが、フラムティアは真剣な表情だ。
ごまかしてしまおうと思う一方で、ごまかしていい質問なのかとも思う。
――ここで嘘をつくのは、これまでを否定してるんじゃないか?
逡巡する。
『家族に笑っていてもらうため』と口にするのは、気恥ずかしい。
けれど、気恥ずかしいのと恥とでは恥の方がずっと重い。
単純な強さだけではなく、恥は二つも重なってしまうのだから。
嘘吐きと裏切りは、好んでやりたいと思えなかった。
「……仙歌は聞いてないんだよな?」
「うん。
聞いてないし、アタシから話すつもりもないよ」
「なら、いい。
………。
……俺は、家族が笑って生きていてくれるなら、それでいいんだ」
「………」
熱かった。
寒い外に立っているというのに全身から汗が吹き出す。
頭がぐるぐると回っている。
何を言おうとしていたかも分からなくなって、しかし、口だけが動いた。
言葉が、押さえようもなく溢れてくる。
「みんな、俺よりずっと強くて凄くて……それで、無茶苦茶やさしいんだよ。
俺なんか居なくても立派に生きていけるんだろうけど、俺は息子で兄だから。
……俺が死んだり居なくなったりしたら、きっと悲しむ。
俺のせいで家族が泣いたとしたら、たぶん俺は、耐えられない。
――だから、俺はここに生きてるんだ」
「……うん、そっか。
それで、リュウシュウはああなっちゃったのかぁー……。
全部を護れるくらい強くなって、必死にやっていくうちに目的を見失って……。
なら、やっぱりこれでいいよね。
アタシは竜愁を信じるよ」
「……?」
「お願い事なんだし、口調も変えなきゃなぁ……」
そう言うと、フラムティアは目を瞑って表情を消した。
小声の独り言は一言一句逃さず聞き取れていたけれど、意味はほとんど分からない。
熱暴走を起こした頭が、まだ正常に働いていないのだ。
眺めながら、ただ立っていた。
「――私は、貴方が『小川竜愁』を忘れないことを願います。
どうか、忘れないでください」
――そこに、冷水を打ちかけられるようだった。
形容する言葉は見つからない。
ただ、一歩前に立つ赤髪の女の放つ雰囲気が一変していた。
打ち据えられる。
息が出来なくなる。
力が入らない。
なぜだか分からないけれど、立っていることだけが竜愁の精一杯になっていた。
――そうだ、強化。
表層の力に流れを加えて、細胞の一粒一粒に行き渡らせる。
それでも足りず、竜愁は全力疾走したときのレベルにまで回転数を上げた。
体感的に途轍もなく長い一瞬を経て、少年は呼吸を取り戻す。
言葉は、まだ取り戻せていなかったけれど。
「きっと……、きっと勇者リュウシュウの記憶は膨大で強大で重大で……常人に受け止められるものではないのでしょう。
でも私は信じます。
信じさせてください」
この女は、何を言っているのだろうか。
回復した思考で、口には出せずに竜愁は思う。
――俺が勇者?
バカバカしい。
そんなものは存在しないし、よしんばいるとしても竜愁であるはずがない。
勇者なら、もっと高潔で、超俗的で、誰もに愛される人間だろう。
竜愁とは正反対だ。
常人には受け止められないほど膨大で強大で重大な記憶?
それがどうして竜愁ならできるということになるのか。
常人にできないのだから、できるはずがない。
きっと彼女は竜愁と同名の誰かと勘違いしているのだ。
――そんなことはありえないのに、そう思った。
そしてすぐに、そう思った自分を恥じる。
だって、そうだろう。
彼女はあくまで真剣だ。
それなのに逃げるような思考でまともに取り合わないなんて、間違っている。
間違っている行為をしないのは竜愁にとっての当り前だ。
その禁を犯したとき、竜愁は奴ら《・》の同類に堕ちてしまう。
――それが嫌で、肩肘張って生きてきたんだ。
「………」
「……こんな身勝手な押しつけ、リュウシュウは大嫌いだろうしアタシも好きじゃないけどさ。
けど、言っとけば可能性の後押しぐらいはできるかもしれないじゃん?
世界から勇者に選ばれた……ううん、そんなんじゃなくても、小川竜愁なら、なんとかなると思う。
――だから、勇者リュウシュウの狂生を受け止めても、こころを強く持って、狂わないでください。
そうすればきっと、リュウシュウは――」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――小川竜愁のままで、勇者になれるから。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「それが一番、リュウシュウとアネキのためになるって、アタシは信じてる」
そこまでを言い放つと、フラムティアは身を翻して庁舎に向かう。
彼女がガラス戸の向こう側に消えて、残されたのは一方的な言葉に混乱し呆然とする少年のみ。
彼は小さく言う。
「マジかよ……」
彼の心情、そのすべてを端的に表した言葉は、風に吹かれて何処かに消えた。




