プロローグ01 『かくて少年は勇者に変わる』
よろしくおねがいします。
一番大切なものは何か、と問われたなら、家族だ、と、多少の照れはあっても迷うことなく答えることができる。
小川竜愁は、端的に言って、そのような少年らしからぬ少年であった。
彼のすべては『家族のため』という言葉に集約される。
学校で虐められた時だって家族に心配をかけないよう、自らの手で解決することを選んだ。
中学に上がってから勉強を頑張っているのも良い大学に入って高給取りな職を得ることで将来家族に楽をしてもらいたいからであるし、様々な家事技能を習得したのもひとりで家のことを回す母親を助けたいがためのことだ。
大切な妹を護るためにそこら中のヤンキーをとっちめたりもした。
そうした生き方には当然、問題がある。
彼の家族は皆自立の意識が強く、彼に支えられることを良しとはしなかったし、そもそも家族が病や寿命で息を引き取り、天涯孤独となったならどうするのかという話だ。
一般的なひとであるのならばなんだかんだ上手くやるのだろうが、竜愁の意識はなあなあで誤魔化すにはあまりに強すぎる。
さらに言えば、彼は、自分の意志で、自分のために生きるという考えを欠片も持ち合わせていなかった。
しかし、彼の抱える爆弾のような問題について、気づいている者はいない。
彼が中途半端に優秀であったせいだ。
常識と呼ばれるものは身につけていたから、彼自身、自分の異常性を理解していてそれを隠している。
だが、少なくとも頭脳面に関しては異常に優秀というほどでもなかったから、彼自身がその危険性に気づくこともない。
とはいえ、それは未だ表面化していない問題であった。
だから、彼も、彼の家族も、幸せで穏やかな暮らしを享受していた。
これは、そんな日々の最後の一幕。
これは、次なる日々の新たな一幕。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
小川竜愁の行動基準は、それが中学三年生の夏休み最終日であっても、変わることなどなかった。
朝目を覚ましたら、まずは顔を洗って、それから日課のトレーニングに出る。
まだまだ厳しい夏の暑さも、六時前の早朝であれば苦にはならない。
三十分ほどを筋力トレーニングに費やした。
それから、竜愁少年は湿った体を拭い強張った筋肉を解すとジョギングに出発する。
急勾配の多いコースだが、彼は素晴らしいタイムで駆け抜け、その日の鍛錬を終えた。
一時間弱と時間にしてはそう長いものではないが、密度の濃いメニューである。
家の隣の公園でストレッチをする竜愁のシャツは汗で酷いことになっていた。
自宅に帰ってからの行動もルーティーン通りのものだ。
まだ誰も活動していない室内で、シャワーを浴びるついでに洗濯機を動かし、着替えてからはコーヒーを沸かす間に朝食の下拵えをすませる。
全てを終わらせてから、コーヒーを片手に新聞を読む彼は、明らかに中学生のものではない風格を漂わせ、満足気に笑っていた。
自分は、これでいいのだ。
家族が健康で幸せに笑っていられるのならばそれ以上を望むことはない。
そのためならなんだってするし、なんでってできるように自らを高めてもいる。
続けていられるということが、何よりも誇らしかった。
「お兄ちゃん、どうしたの?
なんかすっごいアレな感じで笑ってたけど」
「アレな感じってなんだよ」
「アレな感じはアレな感じでしょ。
言わせたいの?」
「……や、いい。
おはよう」
「んー、おはよう」
「で、何見てたのー?」と、妹の仙歌がソファに座った竜愁の肩越しに新聞を覗き込んでくる。
が、見易いように体をどけてやるなり、彼女はうへぇっとでも言わんばかりに『かわいい』部類に入る顔を歪めてから背を向けた。
政経欄だったのだ。
「そんなの、何が面白いの?」
「……ん、まあ、いろいろ」
「いろいろってなに?」
「いろいろはいろいろだろ」
そう返すと、妹はぷっと噴き出した。
彼女は「不毛すぎ。お母さん起こしてくるね」と楽しげに呟いてその場を去っていく。
リビングのドアが音を立てるのを確認してから、少年は立ち上がった。
今日の朝食は昨日の会話で仙歌が食べたいと言っていたパンケーキだ。
今から焼き始めればちょうどいい塩梅だろう。
実際、焼き上がりは母親がリビングに顔を出したのとほとんど同時だった。
「おはよう。
朝ごはん、ありがとうね」
「おはよう。
や、昼と夜は作ってもらってるし」
「それは私のやりたいことで、仕事でもあるんだから」
「俺だって、やりたいからやってるんだよ」
そんなことを言う息子に、母親である響子は苦笑いした。
やりたいから、と言われてしまえば、『母親』な以上どうすることもできない。
せめてもの抵抗として、彼女は食器を棚から抜いて、竜愁に差し出した。
「ありがと」
受け取った皿に盛り付けているところで、パジャマからタンクトップとジーンズに着替えた仙歌が戻ってくる。
全員が席についてから、一斉に食事を始めた。
擦れた食器がカチャカチャ鳴り、静かだった部屋は一気に音で包まれる。
「あー、明日から学校かぁ……」
「あなたは宿題終わってるの?」
「お兄ちゃんには聞かないとこが信頼度の差だよね」
「当たり前でしょ」
「……うん、納得できちゃうんだけどさ、一応私も校内なら学年一位だよ?
もうちょっと信じてくれてもいいんじゃないかなって」
「去年も一昨年も、最終日になって一個か二個忘れてた事に気づいたのは誰でしたっけ」
「う……、誰だろね」
弱った表情の仙歌に竜愁は笑った。
メープルシロップの染みたホットケーキをゆっくりと齧りながら、時々混ざって、時々笑う。
こんな朝が幸せだった。
毎日感じているものだけれど、この幸せのために生きていると言っても過言ではない。
朝食を終えてからも、竜愁はいつもどおりに時間を使った。
母親と一緒に洗濯物を干し、妹と一緒にゲームをして、二人が自分のことをしている間に勉強や格闘技――無論、有事に家族を護るためのものだ――の習熟に力を注ぐ。
いつも通り、日付が変わって一時間ほど経ってから眠りにつく。
こうして、小川竜愁という少年の八月三十一日は終わった。
なんの変わりもなく、平穏なまま。
それが、少年が少年のままで過ごせる最後の一日だなんて、知らない素振りで。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌日、二学期の始業式で、竜愁は挨拶を述べる校長を眺めていた。
他の生徒達は周囲の友人同士でぺちゃくちゃ言葉をかわして退屈を凌いでいるのだが、竜愁にそんなことをする相手はいない。
小学校三年生で受けた虐めに、ただ嬲られることを許容できなくて反撃したのが事の発端だ。
当時のいじめっ子を全員ぶちのめしたせいで小学校時代の友人は全員側を離れ、中学校時代についても『ヤバイ奴』というレッテルが貼られていた上、絡んできた上級生をボコした結果、進んで竜愁に近づこうとする人間はいなくなった。
当人としても交友関係を広げようとしていないから、事務的なものはともかく、雑談をする友人というものは、ついぞ、できることがなかった。
そして、これからもできることはないだろう。
自分の思考に、気分が下がる。
楽しそう、とか、羨ましいとか、そういった感情を抱かないわけではないのだ。
ただ、友人を作ることで奪われるであろう時間を想像すると嫌気が差して、結局いつも輪に加われない。
だって、音に聞く限り、彼らは一日数時間もコミュニケーションに費やすというのだ。
竜愁のライフスタイルに、それほどの余地はない。
ああ、嫌だ。
日に日に、ふつうな同級生と混ざって、一緒に過ごしたいという思いが強まっていく。
けれど、その憧憬が肥大化するにつれて、少年の中に根付いた、『ふつうに暮らす大切な家族』を護り、見守っていくという存在価値もその存在感を増すのだ。
そこに折り合いを見つけられるほど、彼は大人ではなかった。
故に、願う。
こんな自分だから、こうして二つの感情にすり潰されてしまいそうになっている。
こんな自分だから、どちらかを捨てることができない。
こんな自分から、変わりたい。
彼が願った直後、彼と、遠い地のもうひとりとを中心として空間がねじ曲がり、世界が変わった。
しかしながら、この世界が変化したことを知るのはこの日から三年と数ヶ月後のことである。
なぜならこの日、彼らは空間のひずみに飲み込まれて、この世界から姿を消したのだから。
それは、ジェットコースターの最高点からの落下を数段ひどくしたような感覚であった。
ぐぅっと、悲鳴を上げたくなるくらいに強い力で引っ張られて、内臓がひっくり返り、あっけないほど唐突に元の状態に戻る。
そのとき竜愁は、自分の体が作り変えられ、あるいはすげ替えられたことに気がついた。
扱い慣れた肉体と、微妙に、しかし完全に異なっている。
だが、こわごわと瞼を持ち上げた――持ち上げることができた!――とき、少年はそんなことがどうでも良くなるほどの衝撃に襲われる。
そこは、ひんやりとした石の部屋であった。
暑苦しい体育館ではない。
そして、竜愁の前では、すっきりとしたドレスなど、畏まった場で着る礼服だと一目で判る、そんな格好で、何人もの大人たちが平伏していた。
しかし、竜愁が真に衝撃を受けたのは、彼らの装いにでも態度にでもない。
ふっ、と、これまで感じたことがないような熱いなにかが心臓から手足の末端まで、一瞬で駆け巡ったことに対しての衝撃だった。
――これは……。
それがなにで、どうして生まれたのかは分からないのに、消えることなく、全身に熱を与えている。
わけのわからない感覚に、ただただ困惑する。
少しして、最も先頭で、最も深々と頭を下げていた男が言った。
「……お客人よ。
言わねばならぬことは多々あるが、まずはこの国、【グリューレ】の代表として、歓迎の意を示させてほしい。
我々はあなた方を最大限に尊重し、尊敬し、できうる限りの便宜を図るとここに誓う。
よくぞ参られた――、この世界、【ソタラハディア】へ」
絞りだすような声だった。
その声に込められた無視しえないほどに切々とした感情と、もう一つの理由から、竜愁は彼の言葉が全て真実であると、なんとはなしに察した。
彼の頭のなかには、彼の知らなかった、そして、知るはずもなかったはずの知識が渦巻いていた。
その知識の通り、竜愁の中には得体の知らない力が宿っていたし、竜愁の瞳は、意識するだけで、その場にある魂と、魔術的エネルギーを読み取ることができた。
少年はとあることに気づく。
どうやら自分は、もう二度と、家族に会えないらしい。
その事実は、彼を絶望に落とすのに十分な威力を持っていた。