Running Away
夜が完全に明けるまで、ライトは自分の部屋でこれからのことを考えていた。
事は恐らく今日起きる。世界がまた、混乱する。そしてその混乱の火種は今この城の中にある。
朝の鐘の音と同時に、ライトは部屋を飛び出した。
Running Away
「逃げるぞ。」
ライトが真っ先に向かった先は、やはりイリスの元であった。
城の事は熟知しており、どこをどう逃げるのが一番得策かも頭の中に練ってあった。
「ど、どういうことなのです…?」
イリスは全く状況が掴めないままであったがライトが右手を引き一心に走った。
ライトの一つに結った漆黒の長髪が揺れる。
そのまま向かったのは武器庫。
「…使えますか?」
「はい…久しぶりですが。」
武器庫からライトは父の形見である武器を取り出した。
イリスが初めて見る聖剣ラグナガンは、思わず目を奪われる美しい輝きを持っていた。
「どういうことなの…?何が起きているの?!」
「落ち着いて聞いて下さい、姫。
今この城の中に、味方はいない。乗っ取られたんです、10年前の…奴に。」
イリスは言葉を返さない。
「輪廻するのです、奴は…」
イリスは、硬い表情のライトの固く握られた右手をそっとその手で覆う。
ライトはイリスを見て小さく微笑んだ。
「あなたのことは、俺が守ります。」
「…とても、心強いです、ライト。」
戦う準備は整った。
「あの…ライト、父上と母上、そして兄さんは…?」
「…ジークは、もうすでに奴の手中にある。
…国王と女王については安否が解らない…昨晩国王には会いましたが…。」
不安そうな顔のイリス。
確認しないままに城を出るのは彼女にとって酷だと感じたライトは国王と女王が居るであろう謁見室の玉座へと向かう。
普段ならば朝早くに居るはずはないが、何かを察していた国王ならそこにいるはずだった。
だが、この時二人は知りたくもない現実を知ることになる。
「来たか、ライト…サクラ。」
謁見室を開けた先に真っ先に待ち構えていたのはすでに魔族に心を囚われたジークだった。
イリスは変わり果てた兄の姿に驚いて声も出せない様子であった。
ライトは騎士の本能としてラグナガンを構える。
魔族に取りつかれた人間は、通常の何倍もの力を有する。
その代りその心はすべて支配される。
実力が伯仲の相手であれば、相手の方が強くなるのは予想の範疇だった。
だが予想に反してジークは掛かってこようとはしなかった。
「…父上は、どこに…?」
イリスが絞り出すように声を出す。
ジークはニヤリと笑い、後ろに続く階段の先の玉座を見た。
その目線を追うように二人は玉座を見上げる。
二つ並んだ玉座の片方に、カリヤの姿が見えた。
「父上!!」
カリヤはその声に反応するように二人を見下ろした。
その眼は、ライトに娘が宝だといった優しさなど微塵も感じされない冷たい目線。
そして他者を圧倒的に威圧するその空気。
ジークのそれよりも遥かによくない空気を感じた。
あれが、輪廻する災厄、魔王カルヴァス―――
「…イリス、逃げるぞ。」
ライトのその声は震えていた。
今の力では敵わないと、ただ目を見ただけで察してしまったようだ。
しかし謁見室に入るための唯一の重厚なドアは、城の兵たちが封鎖している。
彼らもまた悪の力に囚われていたのだ。
「ライト…!」
「致し方ない…罷り通る…!!」
向かってきたかつての部下である兵士たちを薙ぎ倒して進むライト。
傷を負えばイリスがその魔法で治癒した。
後方に控えているカリヤとジークは向かってくる様子はない。
今ここで追いつめれば容易に殺せてしまうだろうに、それをしなかった二人にはまだ人間としての意識があるのかそれとも深い意図があるのか、この時は解らなかった。
「…あの二人を追え。」
謁見室を抜けると、ガーネットが導くように地下牢へ二人を向かわせた。
平和であったこの10年は使われることのなかった地下牢であったが、その一室に居たのはアイリス女王だった。
「母上…!」
ローズクォーツの加護か、魔王の影響を受けなかったようだ。
「二人とも、無事でよかったわ…。」
こんな状況でも、アイリスはいつものように穏やかな笑みを浮かべた。そして胸のペンダントを外すと、鉄格子ごしにイリスへ手渡した。
「…これは…?」
「いつか魔王を討ち滅ぼす力…癒しと安らぎをもたらす力よ。」
「母上…まさか…!」
「私も、シオンの父と同じようにかつての英雄。」
それが何を意味するかイリスは直ぐに察した。
10年前の戦いで聖剣を使った者は死んでいる。
ならば、魔王を討ち滅ぼす対価に今度はライトを殺すことになるのだろうか、と…。
「女王陛下、あなたはこのままここに…?」
「えぇ、あなたたちの帰りを待っているわ。」
「危険すぎます…!」
「どんなに魔王に憑依されていても、あの人が私に手を下すことはない。」
危険を承知で、二人に不安を与えないようはっきりと言い切ったその言葉には、母としての強さが感じられる。
「もうすぐ追手が来ます。…ライト、サクラをお願いします。」
「はい、この命に代えても。」
ライトは片膝をついて頭を下げた。そしてまだ戸惑いを隠せない様子のイリスの手をライトは取る。
「必ず…戻ってきます…!!」
イリスが母にそう告げると、アイリスは笑顔を返した。
「二人の運命に、幸あらんことを…」
その祈りを二人は背中で受け取った。
この地下牢を抜け出せば、城の裏側の城下町へと繋がっている。
ライト自身も城下町に詳しいわけではなかったが、形振り構って居られなかった。
待ち伏せも予想されたが、地下牢を抜けた先には静かな城下町の風景だった。
「一気にこの国を抜けます。」
ライトは焦る様子はなかったが、それは逆にイリスの不安を煽っていた。
だが今はそんなことを気にする余裕は互いになく、ただ一心に走り抜けるしかなかった。
「あの、城下町というのは、こんなに静かなのですか…?」
イリスにとっていつぶりか解らない城下町がこんなに寂れているのは可愛そうだとライトはふと思った。
もっと自由に生きられる世界にしなければならない、と。
「こんな状況だから、誰も外には出ないんです。
…俺たちより大人は、10年前を鮮明に覚えてるんだろう…。」
「私は…何も知らないのですね…。」
街を全速力で駆け抜けて、城壁の門を抜ける。
まずは隣の国まで避難するつもりだったが、その為には一度森を抜けなければならない。
森に着くまでも途中何度も魔物と遭遇し戦闘になる。
元々国を一歩出れば外には魔物がいたが、その数は格段に増えている。
ライトは戦闘になれているが、イリスはそうではない。
教養程度の魔法と、ローズクォーツの加護でなんとか戦闘に出れるような状況だった。
なんとか森に入り、魔物の気配が少ない休憩の出来る広い場所を見つけた。
「少し…休もう。あの石なら十分座れます。」
「はい…少し、疲れました…。ライトも、横にどうぞ。」
イリスが大きめの石に腰かけた横に、ライトも一礼して座る。
お互いの人の温もりを感じるほど近くにいた。
こんなに近くにいることも久しぶりだったので、お互いどうしていいのか解らないと感じていたそうだ。
ふとライトが肩に重みを感じ、横を確認するとイリスはライトの肩に頭を預けて寝息を立てている。
何かの弾みで滑り落ちてしまわないように、ライトはイリスを抱き寄せた。
「不謹慎…だな。」
不覚にもこの時間に幸せを感じてしまっている。
先ほどまでの激しい戦闘の繰り返しによる疲れも、今この瞬間に全てが消えた。
「…ッ?!」
しかしそんな穏やかな時間は長くは続かない。
周囲の気配がざわつき、取り囲まれていることにライトは気付いた。
そしてその時、城で激しく追いかけてこなかった理由も悟った。
このあたりまで来れば体力が消耗しているのは必至である。
またレイティア国内で慕われる姫とその騎士を殺害したとなると国民の反感は抑えるのが難しい。
しかし今の彼らの立場は脱走した身分だ。ここで消してしまえば…。
そこまで考えてライトは一つ舌打ちすると、武器を構えた。
五感で感じるに、四方が魔族に使役された魔物と城の兵士に囲まれている。
そして疲れ果てたイリスはこの気配に気づくまでもなく、また気付いたところで戦う力は残っていない。
「絶対絶命…だな。」
守れないのが嫌で、力のない自分が嫌で、死ぬほど辛い鍛錬に身を投じてきたというのに、ここにきてまた自分の無力さを感じる。
だが、諦めたり落ち込んだりしている暇もない。
イリスを中心にして彼女を庇いながら剣を振う。
ガーネットの力が援助して最初は数を物ともしなかったが、敵は減るどころか次々四方から現れる。
前にいた兵士と剣がぶつかり合い、弾き返すのが遅れたその瞬間後ろから獣のような魔物が飛びかかってきた。
「なっ…」
間に合わない…!!
ライトがそう悟った瞬間、黒い光が現れた。
この光が運命を覆す光であることなど、知る由もなかった。