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あの風の行方

作者: 祐進

歩く僕らの傍らを、一筋の春風が通り抜けた。

その風は、隣を歩く君の髪をなびかせ、通りの木々の葉をそよがせ、僕らのずっと前の方で母親に手を繋がれて歩いていた小さな男の子の小さな帽子を飛ばした。

秋には落ち葉が幾重にも重なりながら降り積もる並木道を男の子が帽子を取りに走ってゆく。

また、風が吹いた。

男の子の指の間から帽子が流れていった。

それだけで十分だ。僕の指の間には君の指がある。手のひらには君の手のひらが触れている。隣を見れば微笑んでいる君がいる。君は帽子を飛ばされてしまった男の子を見て「意地悪な風ね」、と言った。

それだけで十分すぎるほどだ。

「意地悪な風ね」。そう、君の唇は確かにそう動いた。でも僕はそれをはじめて見たわけじゃない。いつだったか、高一か高二の体育祭だったはずだ。君はその時も「意地悪な風ね」、そう言った。

来校者が参加する玉入れの時、突風が吹いた。白い籠だけが吹き倒され、結局白は負けてしまった。君は赤組だったのにそれを見て、「意地悪な風ね」と言ったのだ。

そう言えばその体育祭の季節も春だった。行事の関係でその年だけは秋から春に変更されたのだ。ということは、これは高一の時だったのか。

その時は恋人でも何でもなかった君の横顔が思い出される。その時と何ひとつ変わってない。君の唇の動かし方は。もちろん顔の造作などは多少その時と変わっているけれど。

それにしても不思議だ、と並木道を女と手を繋ぎなら歩いている若い男は思った。あの時は何とも思っていなかった光景が、この人と恋人になったというだけのことで、ありありと思い出せるのだから。記憶にすら残っていないと思っていた記憶を。

恋って不思議だ、愛って神秘だ。そう思いながら男は女と並木道を歩いてゆく。男の子が帽子を拾って頭に乗せる。母親がそれを見守っている。

私もいつかあんな風に子供と街を歩くんだろうか、と女はその光景を見て思った。でもそれは誰の子供だろう。お隣さんの子供? 従兄妹に生まれた子供かしら。それとも自分の子供? でもそれは多分ありえない。この人は子供を欲しがっていないから。別に子供が嫌いなわけじゃないみたいだけど。でもこの人の子供を持つのは無理だろう。とにかく、無理だろう、今のところは。

風が吹いた。

それまでより少しだけ強く吹いたその風はまだ若い葉を一枚か二枚並木からむしり取った。向こうから歩いて来る散歩中の犬が落ちたその葉を踏む。

そう言えば、学校の近くにあった海にはいつも散歩をする犬と飼い主が歩いていたっけ。男はその犬を見ながら思い出していた。でもその海岸は嫌いだった。体育の授業でよく走らされたから。

でも、と僕は思った。でも、何かのせいでその持久走が嫌いじゃなかった時期がある。それは何だったかな。

心地よい無言が並木道を歩くふたりの間に流れていた。押し黙っているわけでもなく話題が見つからないわけでもない。ただ幸福なんだ、と女は思った。

でも、この人はさっきからどこを見ているんだろう。地平線の方向をじっと見つめている。もちろん建物で地平線なんて見えないけれど、その向こう側をじっと目が動かずに見つめている。

この人には好きな人がいた。でもそれが叶わない恋だっていうのはこの人も自分でわかっていた。理由はあまり問題じゃない。恋って、片想いって結果の方が大事なんだ。そこが愛とは違うところの一つ。でもとにかく、その恋は叶わないものだった。それはこの人も認めている。

自転車に乗った高校生くらいの男が後ろからふたりを追い抜いて行ったのを見て、女は握っていた男の手をさらに強くぎゅっと握った。しかし、その女の手の力の変化に男は気付かなかった。

海岸を走る僕の視界には誰がいたんだろう、と男は思い出そうとしていた。埋もれかけた記憶だ。大事な記憶なのに、僕は忘れようとしていた! 確かに、あの時期僕は海岸を走るのが苦じゃなくなっていた。でも、それは何故だったのだろう。

颯爽と僕の前を走っている誰かの姿が思い浮かぶ。

その人だ、と男は思った。その人のおかげだ。その人と一緒に走っていられるから海岸も嫌いじゃなくなっていたんだ。ああ、そうとわかった途端あの人の思い出が次々と浮かぶ。

恋って不思議だ。男は心の中でそう繰り返した。

それにしても、この人は本当にどこを見ているんだろう、と女は思った。私は幸せだ。でもこの人は? この人は私のことが好きなのだろうか。さっきから私のことを見てもくれない。見てるのは目の前の並木道。その向こうの交差点、ジェラートショップ、通り過ぎるタクシー。そう言えば、私はこの人から言われたことがない。ただの一言も「好きだよ」と言われたことがない。その時その時の雰囲気は確かに愛を告げている。でも、それだけだ。言葉はない。それだけなんだ。

並木道に面した店のショーウインドーに私たちの姿が映る。ガラスの向こうの私が心配そうに私を見ている。それなのにこの人ときたらまだ前を見続けている。

何て惨めなんだろう、私は。こんなにきれいな並木道を歩いている時でさえ一人ぼっちだ。

彼女がいっそう強く力を込めて握ったその手の持ち主である男は、完全に意識を記憶の中の海岸にさまよわせていた。

懐かしい。あの日のままだ。そう、あの人はああいうふうに走っていた。背筋をしゃんと伸ばして、風のように走っていた。

女は自分の目に涙が浮かんでくるのがはっきりとわかった。もう耐えられない。事あるごとにこの人は昔の思い出に浸る。あの恋を思い出す。私なんか見ていない。ただの一言も「好きだよ」と言ってはくれない! でも何のために私は涙を流さなければならないのだろう。

男の目に、ゴールする片想いの人の姿が映った。

女の目の前をバスが横切った。交差点だ。

並木道が終わった。

二人の間を通り抜ける最後の風が吹き過ぎた。

それが、二人の恋の終わりだったのだ。


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