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楓。

作者: ゆりかご
掲載日:2026/05/09

夜の街を歩いていると、時々、どうしようもなく昔を思い出すことがあります。


コンビニの光。

冬の白い息。

誰かを待っていた時間。

名前もない帰り道。


その時の空気だけが、不思議とずっと残っている。


この作品は、そんな“夜の記憶”から生まれました。


派手な物語ではありません。


誰かが世界を救う話でもないし、

特別な能力を持った人間が出てくるわけでもありません。


ただ、

誰かを好きだった人たちがいて、

大切な人を失って、

それでもなんとか生きていく。


そんな物語です。


きっとこの作品には、

答えはあまりありません。


楓がなぜああなってしまったのか。

人は本当に誰かを救えるのか。

夢は人を幸せにするのか。


最後まで、はっきりとは分からないままです。


でも、

分からないまま生きていくことも、

きっと人生なのだと思います。


この物語の中には、

沢山の夜があります。


静かな夜。

優しい夜。

苦しい夜。

帰りたくない夜。


そして、

少しだけ前を向ける夜。


もし読んでくださるあなたの中にも、

忘れられない夜があるなら。


この物語は、

少しだけその隣に寄り添えるかもしれません。


どうか最後まで、

彼らの夜を見届けてあげてください。

歌声がやけに耳につく。(まこと)は顔をしかめながら目を開けた。


「おい、(ひじり)朝からうるせえぞ……」


「ええ、お兄ちゃんもう昼だよ」


「もう少し寝かせろって……」


「お姉ちゃん、お兄ちゃん起きないよー」


聖はそのまま楓の上に乗っかる。


「重い……」楓は雑誌から目も離さずぼそっと言った。


「はぁ。夜遊びしてるからでしょ。ほおっておきなさいよ」


楓は今日も、床に寝転がったまま雑誌を読んでいる。


高校生のくせに学校にも行かず、一日中こんな調子だ。


「よーし。起きろー!」


聖が誠の体を揺さぶりながら、調子っぱずれな歌を歌い出す。


「起きろ、起きろ、朝が来たぞー。……てか昼だよ、起きろー」


「ああうるさい!!」


誠は勢いよく飛び起きた。


「お、やっと起きたー」


「せっかくの夏休みなんだから、好きなだけ寝かせろよ……」


「えへへ」



誠はぼさぼさの頭をかきながら、狭い部屋を見回す。


ああ。自分の部屋が欲しい…


このボロアパートに、家族五人。


兄弟三人で一部屋じゃ、落ち着いて寝てもいられない


「お姉ちゃん、次なに歌ってほしい?」


「うーん……ひーちゃんが好きな曲がいいな」


「よーし!それじゃあ——」


聖は勢いよく立ち上がると、手をマイクみたいに握って歌いだした。

部屋いっぱいに、やけに通る声が広がる。


楓はその様子を、少しだけ目を細めて見ていた。


「ひーちゃん、ほんと歌うの上手だね」


頭を撫でられて、聖は嬉しそうに笑う。


「えへへ。もっと褒めて〜」


「いいよ。いくらでも褒める」


楓は珍しく、はっきりとした声で言った。


(……ああいう時だけは元気なんだよな。小2め)


誠は横目で見ながら、ため息をつく。

「ほらほらお兄ちゃんも」


「はいはい。将来は歌手かな」と誠は呆れたように答える。


「なるもん!」


「漫画読んでるから、静かにしてくれ」


「やだあ」聖は気にせず歌い続ける。


その声を聞きながら、楓はふっと笑った。


――それだけが、ほんの少しだけ楽しそうに見えた。



挿絵(By みてみん)



いつの間にか夕方になっていた


玄関のドアが開く音がして、聖がぱっと顔を上げる。


「お父さんおかえりー!」


ドタドタと駆け寄って、そのまま抱きつく。


「よしよし。ただいま〜」


父親は嬉しそうに笑いながら、聖をひょいと持ち上げた。


(たく。相も変わらず。やってんなぁ……)


誠は横目でそれを見ながら、だらりと座ったまま動かない。


「ソーメンか、いいな」

父親はネクタイを緩めながら居間に入ってくる


「無理。私ソーメン食べられないもん」


楓の声が、すぐに返る。


「あ、そうだった。ごめんね楓。アレルギーだもんな」


父親が少し慌てると、


「楓の分もちゃんと作ってあるわよ。チャーハン、そこに置いてあるから」

母親がキッチンから声をかける。


「いいな、チャーハン。俺もそれがいい」


「誠は食べられるでしょ。つべこべ言わずにそれ食べなさい」


「えぇ……やっぱ日本人は米だよな。なあ姉ちゃん」


「ねぇ」


楓は気のない返事をする。


(ほんと興味なさそうだな……)


誠はぼんやりとそう思った。


少し間を置いて、父親が口を開く。


「どうだ楓。夏休みが明けたら、そろそろ学校に行ってみないか」


楓は顔をしかめて、視線をそらした。


ほんのわずかな間。


「学校行くぐらいなら死ぬもん」


箸の音が、一瞬だけ止まる。


誰もすぐには何も言わない。


(……またか)


誠は茶碗に目を落としたまま、小さく息をついた。


慣れているはずなのに、聞き慣れない言葉みたいに、胸の奥に引っかかる。


「もう、楓ったら。またそんなこと言って」


母親がすぐに笑って流す。


けれど楓は、笑わない。


「ああ。生きててもつまんないし、何もかもめんどくさいと思うの」


淡々とした声だった。


(……マジかよ)


誠は茶碗を持ったまま、少しだけ手を止める。


だが、それ以上は何も言わない。


言ったところで、どうにもならない気がした。


「なんか趣味とか好きなことないのか楓」とお父さん


「うーん特に」


「ええ。お姉ちゃん?」と聖。


「ああ。ひーちゃんの歌は別だよ。大好き」と楓は慌てて付け足す。


「えへ。やったあ」


「お姉ちゃん。聖の歌だけが生きがいだもんねー」


「ねー」


「お父さんこそ趣味とか特にないじゃん」


「いや。まあ」そのまま黙り込む。


強いて言えば新聞を読むことか。


お母さんが沈黙を破る


「誠はプラプラしすぎ。昨日も夜遅くまで遊んで」

げっ俺に飛び火が


「いいじゃん別にまだ暗くなかったから」


「いいや。あんたまだ小学五年生でしょ。六時までに家に帰ることっていつも言ってるでしょ」


「へいへい。」


「校区外にも行かない。ほんと何回補導されたか…」


「お兄ちゃんこの前、海行ったんでしょ」


聖の声で、空気が元に戻る。


「まあな」


「いいなあ。私も行きたい!」


さっきまでの重さなんてなかったみたいに、聖は笑う。


(切り替え早すぎだろ……)


誠は小さくため息をついた。

「いいなあ。私も海行きたいー。連れてって!」

兄の肩揺さぶりながらお願いする。


「ああ。もう鬱陶しいな。やだよ」


「ええ。お願い。お願い。一度も海見たことないんだもん!」

長谷川家は家族で出かける機会があまりない。


「行きたいなら一人で行ってこいよ。」


「嫌だ。電車の乗り方わかんないもん。それにお兄ちゃんだって一人じゃなくて友達といったんでしょ。みんなで行った方が楽しいじゃん」


「どうでもいいよ。うるさいなあ」誠は椅子から立ち上がり食器を運ぶ。


「ああお兄ちゃん!もう。お姉ちゃんは行ったことあるの?」

「そうだねぇ。小さいころにお母さんと一回行ったかな」

「ええ!お姉ちゃんもぉ!ずるい。ずるい。私だけ仲間外れー!!」


「はは。ごめん。ごめん。そのときはまだひーちゃん生まれてなかったから」


「よーし。お父さんが仕事が休みの日に、みんなで海に行こう」


「やったあああ。お父さん大好き」と聖はお父さんに抱き着く。

「ハハハ。聖ったら」

お父さんはデレデレしながら聖の背中をポンポンする。


「家族全員でだ。楓」


「ええ私?私は遠慮しとく。海なんて嫌いだし、入るなら死んだほうがまし」


「こら。楓ったら。今回はみんなで行きましょう」とお母さん。


「無理」


楓は即答した。表情も変わらない。


「やだあー。私、お姉ちゃんと一緒がいい。行こうよ」


聖が上目遣いでにじり寄る。


「え、ええ……」


「だめ?」


さらに距離を詰められて、楓はわずかに視線をそらした。


「……んん。わかった。行くよ。行く」


「やったあああ!お姉ちゃんと海だああ!」


聖は両手を上げてはしゃぐ。


「はぁ……あんまり騒がないでよ」


ため息をつきながらも、楓は聖を見る。

――ほんの少しだけ、口元が笑っていた。


(……なんだよ、それ)

誠はその様子を横目で見ながら、ぼそっと心の中でつぶやいた。




家族を乗せた車が海浜公園の駐車場に止まった。




「わあ。すごい。すごい。」と聖は車を出るなり、駆け足でビーチの方向に進む。


「お姉ちゃん。はやくはやくー海だあああ」と今度は俺たちが出たばかりの車の方を向き手を振る。


「もう。ひーちゃんったら。はしゃいでるなあ。」とお姉ちゃん。呆れつつもどこか愛おしそうな声でしゃべる。


「ああそうだな」と誠が楓の横に立つ。


「あいつ今に転ぶぞ」



「ひゃっほう!!砂が、、っあイテ」と聖は転んだ。


そら言わんとばかりにと誠は呆れた顔をしながら


「たく聖。おまえはどんくさいんだから、もう少しおとなしくしてろ」と声を張り上げる




「まあたまにははしゃいでもいいじゃないか。なあ聖」聖の手を取り地面から起こす。「お父さん!えへへ」



「大丈夫?怪我はない?」と楓。少し顔色が変わる。



「平気。平気」とまんざらでもない



「それならいいけど。あんまり一人で遠くに行かないこと」とお母さん。



「はーい」





太陽がじりじりと照りつける。


誠は汗を拭いながら、ふと楓の方を見る。


パラソルの下、砂の上に座ったまま動かない。


「姉ちゃん、海入んねえの?」


「私はいい。ベトベトするし」


即答だった。


(まあ、そんな気はしてたけど)


「俺、アイスでも見てくるわ。その間、あのバカ妹見とけよ」


「はいはい。いちご味があったら私の分もね」



挿絵(By みてみん)



額の汗が流れ、ポタッと砂を滲ませる



海の浜辺付近で聖とお母さんが水を掛け合って楽しそうに笑っていた


だけどその音だけが少し遠くに聞こえてしかたがないんだ






ふと男の声が耳に入ってくる

楓は重たい瞼を開け、ぼんやりと顔をあげた。


「おーい!! 子供が溺れてるぞ!!」


浜辺に人だかりが出来ていた


沖の方で、小さな影が沈んだ。


浮かぶ。


また沈む。


心臓が止まった。


「……ひーちゃん?」


口が勝手に動いていた。


足が前へ出る。


砂浜を踏む感覚が、やけに遠い。


周囲の声がうまく聞こえない。


ただ、あの小さな影だけが見える。


(なんで)


(なんであんなところにいるの)


息が浅くなる。


近づく。


人だかり。


その中に固まったように動かない人が目についた。

青ざめた顔でゆっくりとこちらに目を向ける


「楓……っ」


母親だった。


顔がぐしゃぐしゃだった。


その顔を見た瞬間、楓の頭の中から音が消えた。


ああ。


本当に、ひーちゃんなんだ。


母親が海へ行こうとする。


男の人が止める。


何か言っている。


「レスキューが――」


「危ない――」


知らない。


そんなの、どうでもいい。


ひーちゃんが沈む。


また沈む。


見えなくなる。


――嫌だ。


その瞬間、楓は走っていた。


砂を蹴る。


息が苦しい。


けれど止まれない。


「おい、待て!!」


腕を掴まれる。


振り払う。


邪魔。


早く。


早く行かなきゃ。


ザブンッ!!


海へ飛び込む。


冷たい。


波が重く私の行く手を省こうとする。それでも前へ


前へ


前へ


一緒懸命水を掻く。爪の痛みを感じる。




ひーちゃん。


ひーちゃん。


それしか頭にない。


波が顔にぶつかる。


塩水が口に入る。


どうでもいい


水を掻くたび、ぐんぐん距離が縮まっていく。


さっきまで遥か沖に見えたはずなのに、


もう、そこにいた。


「ひーちゃん!!」


――楓の手が、溺れかけた小さな手を掴んだ




「もう聖!!一人で遠くまで行かないって、お母さん言ってたよねぇ!」


楓は濡れたまま、強く肩を掴む。


だが指先がわずかに震えていた


「だって……ゲホッ、ゲホッ……」


聖は咳き込みながら、涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。


「言い訳しないの」


声は強いのに、どこか余裕がない。


「……ごめんなさい」


「……」


楓は一瞬だけ言葉を失う。


そのまま、ふっと力を抜き表情を緩ませた


「もういい。次から気をつけて」


遅れて母親が駆け寄ってくる。


「もうその辺にしときなさい。ひーちゃん、これからはちゃんと大人の近くで遊ぶのよ」


「うん……」


「楓も、あんな危ない真似はしないこと」


「はーい」


気のない返事。


濡れた髪から、水がぽたぽたと落ちる。


――さっきまでの必死さが、嘘みたいに消えていた。


(……一体なんだったんだ?)


少し離れた場所で見ていた誠は、眉をひそめた。



「それにしてもお姉ちゃん。海に入るくらいなら死んだ方がまし、とか言ってたのに、全力で飛び込んでたじゃん」


誠が半分笑いながら言う。


「う、うるさい」


楓は窓の外に視線を向けたまま、ぼそっと答える。


「私が死ぬのはいいけど……ひーちゃんはダメなの」


――一瞬、車内の空気が止まる。


誰もすぐには何も言わない。


(……だからなんだよ、それ)


誠はゴクッと飲みこむ


「ほんとシスコンだなあ、お姉ちゃんは」


イラついたように言う。


「誠。いい加減にしないと殺すよ。私はあんたが死ぬのは別にどうでもいいと思てるからね」

「へいへい。差別だ。差別」



楓はそっと窓に目を向けた。


ガラス越しに映る聖の姿が、揺れている。


楽しそうに笑っているはずなのに、どこか遠く感じた。


楓は瞼を細める。


――そのまま、目を閉じた。






「お姉ちゃんは私のヒーローだもんね」


「はは。ひーちゃんが困ったら、お姉ちゃんがすぐ助けに行くよ」


楓は聖を抱き上げて、くるりと回る。


聖がきゃあっと笑う。


その様子を見て、父親がふと思い出したように言う。


「そういえば楓、昔は水泳の大会とか出てただろ。メダルももらってたし」


その瞬間。


楓の表情が、すっと曇る。


「……別に。好きでやってたわけじゃないし」


「またそう言って。バスケだって、顧問が——」


「もういいでしょ」


言葉を遮る。


「昔のことだし」


少しだけ、声が強かった。


母親が小さくため息をつく。


「楓はなんでもできるのに、どうしてこんな……」


「誠も何か言ってあげなさいよ」


「知らねえよ」


誠は肩をすくめる。


「そんなの本人の勝手だろ。俺には関係ない」


(……ほんと、めんどくせえな)


誠は視線を外す。


確かに楓は、昔から何でもできた。


勉強も、運動も。


少なくとも、自分が勝てたことはない。


——けど。


(やる気ないやつに、何言っても無駄だろ)


そう思って、それ以上は考えなかった。



なかでも一番楓を気にかけているのが、(たける)じいちゃんだ。


じいちゃんにとって楓は初めての孫で、特別な存在らしい。


厄介なのは、東京に住んでいるくせに、ほとんど毎週のように山梨の家までやってくることだ。


来るたびに楓のことを気にかけて、あれこれ口を出す。


——正直、説教に近い。



挿絵(By みてみん)



「今日もじいちゃん来るの?」


母親の電話の内容を聞いて、楓がぼそっと呟く。


「……めんどくさいな」


少しだけ間を置いて付け足した。


「俺もいい加減やめてほしいわ」


誠は寝転がったまま言う。


「ただでさえ家狭いのにさ。聖だけでもうるさいのに、じいちゃんまで来たら倍だろ」


「ほんとだよね」


楓は気のない返事をする。


「来るたびに同じこと言うし」


「学校行け、とか?」


「それもあるけど……」


一瞬だけ言葉が止まる。


「なんか、いつも私のことを見透かそうとしてくるというか…」


「……別に」


楓はそれ以上は何も言わなかった。



「また来たのか。もういいだろ。じいちゃん」


「何を言っている。楓の様子を見に来てるんだからな」


「はあ?毎週来てんじゃねえか」


「それでも足りんくらいじゃ」


じいちゃんは真顔で言った。


「……あいつは放っておくと、どこまでも落ちていく顔をしてる」




この家は駅から遠い。


昔は黒塗りのセダンで乗り付けていたじいちゃんも、今は電車で最寄り駅まで来て、そこからタクシーを使ってやってくるようになった。


「楓」


じいちゃんは玄関に入るなり、真っ直ぐに楓を見る。


「お前はもっと気持ちを強く持たんといかん」


楓は視線をそらす。


「まったくな。昔は戦争があってな、望んでもないのに人はようけ死んどった」



「今は平和や。生きれる奴は、生きなあかん」


さらに一歩近づく。


「生きたくても生きられん奴は、世の中に山ほどおる」


「……」


楓は何も言わない。


「それをお前は、何をふざけたこと言うとる」


沈黙。


楓が小さく息を吐く。


「だって……生きてても、めんどくさいことばっかだもん」



「楓」


声が一段低くなる。


「それは“理由”やない」





「まあまあ、お父さん。その辺にしとき。楓も困っとるから」と、おばちゃんが割って入る。


「何を言うとる。わしは楓のためを思って――」


「はいはい、まあまあ」


おばちゃんはじいちゃんをなだめながら居間のほうへ連れていき、お茶を飲ませた。


「おじいちゃん、今度ピアノの発表会があるんだ。見に来てね」


聖が駆け寄ると、じいちゃんの顔がぱっと緩む。


「おお、聖。絶対行くよ。わしは聖が出る行事は必ず見に行くからな」


「えへへ、やった」


聖は頭を撫でられながら嬉しそうに笑う。


「よしよし。じいちゃん、飴持ってきたから食べな。お姉ちゃんの分も渡しといてな」


「うん、ありがとう。おじいちゃん大好き」


「おお、そうかそうか。お前は可愛いのう。目に入れてもええくらいじゃ。聖はみんなのアイドルじゃからな」


じいちゃんは完全に聖にほだされている。


まったく、妹は天性の人たらしだ。どんな人間でも、聖を前にすると可愛がらずにはいられない。


誠もそこにいるというのに、じいちゃんは聖に気を取られて目もくれない。


「はあ。じゃあお母さん、俺は友達の家に遊びに行ってくるわ」


「うん。気を付けてね。六時までには帰ってくるのよ」


「へいへい。分かってるって」


誠は適当に返事をしながら、そそくさと家を出ていく。


「ほんと、あの子ったら。分かってて言ってるのかしら」


母はため息をつき、それから尊じいちゃんのほうを向いた。

「尊さん。誠はいつもああ言って、夜遅くまで遊んでいるんですよ。尊さんからも何か言ってやってください」


「んん。まあ、あいつは大丈夫だろ」


じいちゃんは、誠に関してはあまり気にしていない様子だった。



「それより、(あきら)。お前がしっかりせんと。なんや、あの楓は。まるで肝が据わっとらん」


彰というのは、尊じいちゃんの息子――楓たちの父親のことだ。


「私も楓には、死にたいなんて言わないよう何度も言ってるんですけどね。なにせ物心ついた頃からああで、ぴたりともやめないんですよ」と父さん。


「まあ、本人は冗談半分というか、口癖みたいなものなんだと思いますけど。何度注意しても治らなくて」と母さんも続ける。


「ばかもん! そう言って、本当に楓が死んだらどうする!」


じいちゃんは机を叩かんばかりの勢いで怒鳴った。


「ああ、楓……なんでこうなった。わしは楓を更生させたいんじゃ。どうして楓は……うっ、うぐぅ……」


じいちゃんはそのまま泣き出し、みんなはあわあわしながらも、どこか呆れたような顔をしていた。


「お父さん、落ち着いて」と、おばあちゃん。


「うう……明子(あきこ)、落ち着いていられるか。彰、酒だ。酒を持ってこい」


「お父さん、酒は今ないですよ」


「ああ、ないなら買ってこい」


彰は渋々、酒を買いに行った。


「まったく、彰は明子に似たのか真面目すぎるんじゃ。悪いことではないんだが、つまらん男よ」


じいちゃんは湯呑みを揺らしながら鼻を鳴らす。


「酒もタバコもギャンブルも一切やらん。会社だって東京なんやから、東京に住めばええのに、わざわざこんな山梨の田舎に住みおって」


「ほんとですよ」と母さんが苦笑する。


「車ぐらい持てって言っても、“必要ない”の一点張りですし」


「それに、この家じゃ。わしより稼ぎはあるくせに、こんな狭いアパートに家族五人。ほんま昔から貧乏性でかなわん」


じいちゃんは呆れたように笑った。


「その点、誠はわしの悪い部分ばっかり受け継いだみたいだがな。はっはっは」


「ほんと、誠くんは若い頃のおじいちゃんそっくりだったわ」


おばあちゃんが懐かしそうに笑う。


「意外ですね。尊さんが誠と似てるだなんて」と母さん。


「あら、本当なんですよ」


おばあちゃんは楽しそうに続ける。


「今でこそ厳格そうな顔してるけど、昔はほんとだらしなかったんですから。なんなら誠くんよりひどかったくらい」


「明子、昔の話はよせ」


じいちゃんはわざとらしく咳払いした。


「それより椿(つばき)さん。誠の成績はどうなんじゃ」


「そうですねぇ」


母さんは少し困ったように笑う。


「あの子、学校じゃかなり不真面目なんですけど、テストだけは妙に点がいいんですよ。宿題もろくにやらないくせに」

「先生からの印象も、あまり良くないんです」


「ほほほ。そういうところもじいちゃん譲りねぇ」


「楓も、やっぱり成績は優秀なのか?」


「ええ。楓は昔から、何をやらせても人並み以上にできちゃうんです」


母さんは少しだけ遠い目をした。


「勉強も運動も。顔立ちまで整ってて、背も高いし……ああいう子を天才って言うんでしょうね」


「ほんま、ようできた子じゃ」


じいちゃんは頷く。


「それで、聖ちゃんはどうなんじゃ?」


その瞬間、母さんの顔がふっと柔らかくなった。


「ひーちゃんは……なんていうか、ただただ可愛いですね」


みんなが少し笑う。


「勉強や運動は、楓や誠ほど突出してるわけじゃありません。でも、要領はいいですし、人を惹きつけるものがあるんです」


「特に歌は別格ですね」


母さんの声色が、少しだけ変わる。


「音感もいい。でも、それだけじゃないんです」


一度、言葉を選ぶように間を置く。


「歌手になる人って、技術だけでは駄目なんですよ。人を惹き込む才能というか……カリスマ性というか」


「聖には、それがあるんです。生まれつき」


「椿さん、あなたも十分すごいじゃろ」


じいちゃんが感心したように言う。


「昔、ピアノで賞を取っとったって聞いたぞ」


「そんな、大したものじゃありませんよ」


母さんは控えめに首を振った。


「コンクールの受賞歴くらいはありますけど、父ほどの才能はありませんでしたから」


「いやいや。そのお父さんが、あの八重桜理人(やえざくらりひと)さんじゃろ?」


じいちゃんが目を丸くする。


「クラシックに疎いわしでも知っとるぞ。有名なピアニストじゃないか」

そして、しみじみと笑った。


「まさか、その娘さんとうちの息子が結婚するとはなあ。夢にも思わんかったよ」






もう二十時か。


さすがに帰らないと、母ちゃんまたうるさいよな。


誠はゲーム機のコントローラーを置き、大きく伸びをした。


健吾(けんご)、俺そろそろ帰るわ」


「おう。またな、マコっちゃん」


健吾は床に寝転がったまま手を振る。


ラグビー選手みたいにガタイがよく、同級生とは思えない体つきをしていた。


「明日は龍んち集合な」


(りゅう)かぁ……どうせまたロクでもないこと考えてんだろ」


「あはは。多分な」


健吾が笑う。


「先週だって、“ピンポンダッシュ百件やるぞ”とか言ってたし」


「あー、やったやった」


誠も思わず吹き出す。


「結局十件くらいで逃げ帰ったけどな」


「だって百件は多すぎだろ。あいつ、毎回無茶苦茶なんだよ」


「でもノリノリだったじゃん、お前」


「まあな」


誠はにやっと笑った。


健吾がふと思い出したように言う。


「そういや妹、最近どうなん?」


「あー、聖?」


「うん。相変わらず俺らと遊びたがってんの?」


「そうなんだよ」


誠は少し面倒くさそうに頭をかいた。


「なんか知らんけど、あいつ俺らについて来たがるんだよな」


「別によくね?」


健吾はけろっとした顔で言う。


「俺は全然いいぜ。聖ちゃん可愛いし」


「龍のやつも、“誠の妹おもしれー”って気に入ってるしな」


「俺が嫌なんだよ」


誠は即答した。


「あんなバカどもの中に、なんでわざわざ混ざりたがるかなぁ……」


「お前が言う?」


健吾が呆れたように笑う。


「マコっちゃんだって、その“バカども”の一員じゃん」


「……はは」


誠は少しだけ笑った。


「それもそうか」




「ただいまっと」


誠が玄関を開けた瞬間、酒の匂いが鼻についた。


居間から、じいちゃんの大きな声が聞こえる。


(げっ……まだいるのかよ、あのじじい)


聖は居間の隅で寝ていた。


こんなうるさい中でよく寝られるな、と誠は少し呆れる。


父親まで酒を飲まされているらしい。


普段ほとんど飲まないせいか、顔が赤かった。


「……わしな、本当は女の子が欲しかったんや」


じいちゃんが湯呑みを片手に呟く。


「でも明子は身体が弱くてなぁ。最初の子は流れてもうた」


おばあちゃんが困ったように目を伏せる。


「それで次に彰が生まれた。男でももちろん嬉しかったよ。自慢の息子やった」


じいちゃんは鼻をすすった。


「真面目で、賢くて、ちゃんとした会社に入って……しかも綺麗な嫁さんまで貰ってなぁ」


母さんが苦笑いする。


「そんで、初めての孫が女の子や」


じいちゃんの顔が、少しだけ緩む。


「楓は、小さい頃ほんま可愛かったんや……」


その声だけ、急に弱くなった。


誠は黙って聞いている。


「運動もできる。勉強もできる。顔もええ。背も高い。何やらせても人並み以上や」


じいちゃんは、何かを数えるみたいに指を折る。


「ほんま、全部持っとるんや。あの子は」


そして。


「……気持ち以外はな」


居間が静かになる。


誠はなんとなく、部屋のほうを見た。


楓は聞いているんだろうか。


「お父さん、もう飲みすぎですよ」


おばあちゃんが静かにたしなめる。


「ええんじゃ……」


じいちゃんは力なく笑った。


「彰も椿さんも、“子供は一人でいい”とか言っとったのに、結局三人も産みおって」


「楓だけじゃ、不安やったんかもしれんなぁ」


「お父さん」


おばあちゃんが少し強い声を出す。


「もう夜ですし、今日は帰りましょう」


「いや、今日は泊まる」


「駄目です」


ぴしゃりと言い切る。


「椿さんたちも困ります。ほら、帰りますよ」




翌日。


誠たちは龍の家に集まったあと、いつもの公園へ流れていた。


「今度さ、小田原のフェス行こうぜ。」


龍がベンチに寝転がりながら言う。


龍はクラスでも目立つやつだ。


野球チームのキャプテンで、先生からも一目置かれている。


そのくせ変なことばかり考えていて、なぜか俺たちともつるんでいた。


「小田原って神奈川の?」


「ああ。小田原城でやるらしい」


「AMAKIさん出るんだよ」


「“さん”付けなんだ」


誠が笑う。


「そりゃ付けるだろ。俺の一番尊敬してるMCだぞ」


「へぇ」


「夏休み最後の思い出ってやつだ。行こうぜ」


「おー、いいじゃん」と健吾。


「誠も行くだろ?」


「まあ、予定ないし」


「よし決まり」


龍は嬉しそうにスマホを取り出した。


「あ、龍ちゃんスマホ持ってたの?」


「最近な。親のお下がり」


「いいなぁ」


「これ使って会場まで行くぞ」


「頼もしっ」


健吾が笑う。


「ほら、出演者一覧」


誠はスマホを受け取る。


「へぇ。ドラバツも出んのか」


「誠、知ってんの?」


「最近流行ってるバンドだよ」


「名前変だよな」


「ドラゴンにバーツだぜ?」


「あー、タイの金だっけ」


「よく知ってんな」


「親父が昔タイ行ってた」


「まあ、バンド名なんてそんなもんだろ」


健吾が身を乗り出す。


「で、チケットどうすんの?」


「それがさ、このフェス無料なんだよ」


「マジで!?」


「やりぃ!」


そのとき。


健吾がニヤニヤしながら誠を見る。


「でもさぁ。誠がフェス行くって知ったら、妹ちゃん絶対ついて来たがるだろ」


「あー……」


誠は露骨に嫌そうな顔をした。


「聖のやつ、絶対うるせぇだろうな……」


「別に連れてくりゃいいじゃん」


龍はけろっと言う。


「聖ちゃん可愛いし」


「俺が嫌なんだよ」


誠は即答した。


「あんなバカどもの中に混ぜたくねぇ」


「お前が言う?」


健吾が吹き出す。


「いやいや。お前らの悪影響受けて、あいつがグレたらどうすんだよ」


「そこまで悪くねぇって」


龍が笑う。


「聖ちゃん、もう何回か俺らと遊んでんじゃん」


「そういう問題じゃねぇの」


誠はため息をついた。


「とにかく今回は絶対連れて行かないからな」



挿絵(By みてみん)



――そしてフェス当日。


駅のホームには、まだ人が少なかった。


先に来ていた龍と健吾が、こちらに気づいて立ち上がる。


「おー」


「……あ」


龍が笑った。


「聖ちゃん来てんじゃん」


「こんにちはー!」


聖は元気よく手を振る。


「ヘイ、グータッチ」


龍が拳を突き出す。


「グータッチ!」


聖は満面の笑みで拳を合わせた。


誠は深いため息をつく。


「……なんで毎回こうなるんだよ」


「ヘイ誠、グータッチ」


「うるせぇ」


文句を言いながらも、誠は渋々拳を合わせた。






電車を降りた瞬間から、空気が違った。


遠くから低い重音が響いてくる。


人の声。


笑い声。


蝉の鳴き声。


夏の熱気。


全部がぐちゃぐちゃに混ざって、会場の方から流れてくる。


誠たちは人混みに押されるように、フェス会場へ入っていった。


龍は完全に浮かれていた。


「うおっ……アマキさん!!」


ステージを見た瞬間、声が裏返る。


「マジで本物だ……!」


「興奮しすぎだろ」


誠が笑う。


「いや、だって声ヤバくね!? リズム感もさ、韻の踏み方もさ、全部カッケェんだよ!!」


「ドラゴンみたいに昇天しそうだな」


「なんだよそれ!」


健吾が吹き出した。


「なぁ聖ちゃん! アマキさんヤバいだろ!?」


龍が振り返る。


聖はきょとんとしていた。


「えー……よくわかんない!」


「はぁ!?」


龍が本気でショックを受ける。


誠は笑いながら聖の肩を引いた。


「ほら、龍いじめんなって」


そのとき。


ステージの照明が少し落ちた。


「お、次ドラバツじゃね?」


会場の空気が変わる。


さっきまでのざわめきが、一気に熱を帯びた。


歓声が上がる。


黄色い声。


名前を叫ぶ声。


その中でも、一つの名前だけがやけに耳に残った。


「ユウキ!!」


ステージ中央。


ギターを肩に下げた男が、マイクの位置を直していた。


長い髪。


気だるそうな目。


汗で濡れた黒いTシャツ。


誠は少し眉をひそめる。


(なんだこいつら)


人気バンドというより、文化祭みたいだった。


龍も苦笑している。


「なんか思ってたより普通だな」


「な」


健吾も頷く。


「顔はいいけど、ゆるそう」


その瞬間。


ギュゥゥン――。


ギターの音が、空気を裂いた。


会場が静まる。


一音だった


たったそれだけなのに、全員の意識が一瞬でステージへ持っていかれる。


誠は息を止めた。


ドラムが入る。


ベースが鳴る。


そして。


ユウキが歌った。


叫ぶみたいな声だった。


綺麗じゃない。


むしろ少し掠れている。なのに。


胸の奥を直接掴まれるみたいだった。


誠は思わずステージを見つめる。


(なんだ、これ)


横を見る。聖が、動いていなかった。


落としかけたタオルが、指からするりと滑る。


ぽとり。地面に落ちる。


聖は気づかない。


ただ、ステージを見ていた。


目を見開いて。


息をするのも忘れたみたいに。



挿絵(By みてみん)



夏休みが終わったというもの、聖は毎日のようにギターの話をするようになった。


朝起きてもギター。


ご飯を食べながらもギター。


風呂上がりでもギター。


「ねえお兄ちゃん。ギターってさ、どうやって音出してるの?」


「弦震わせてんだろ」


「どうやって作るの?」


「木とか削って」


「私も作れるかな?」


「無理だろ」


そんな会話が、一日に何度も繰り返された。


居間では母親が困った顔をしている。


「だからね聖。ギターって結構高いの。ひーちゃんが本当に続けたいのか、ちゃんと考えてからじゃないと」


「続けたいもん!」


「ピアノだって最近全然触ってないじゃない」


「うっ……」


図星を刺され、聖は口を尖らせる。


以前までは母親に教わりながら細々と続けていたピアノも、最近ではほとんど触らなくなっていた。


代わりに、フェスで見たあのギターボーカルの真似ばかりしている。


箒を抱えて歌っている姿を見て、誠は何度か吹き出しそうになった。


そんなある日。


聖が唐突に誠の部屋へやってきた。


「お兄ちゃん」


「んー?」


「ギター作って」


誠は漫画から目を離さないまま答える。


「無茶言うな」


「お兄ちゃん工作得意じゃん」


「工作とギター一緒にすんな」


「お願い!」


聖はベッドへよじ登り、ぐいぐい肩を揺らしてくる。


「うっとうしいなあ……」


「お願いお願いお願い!」


「はいはい分かった分かった」


適当に流そうとしたところで、聖が真顔で言った。


「お小遣い全部あげるから」


誠の手が止まる。


「……全部?」


「うん」


「マジで?」


「マジ」


聖は迷いなく頷いた。


誠は思わず顔を上げる。


そこには、本気の目をした聖がいた。


(……こいつ、マジなんだ)


誠は少しだけ面食らう。


だが次の瞬間には、ニヤリと笑った。


「よし契約成立」


「やったあ!!」


聖は飛び跳ねる。


その日のうちに、聖は貯金箱を抱えて誠のところへやってきた。


「はい!」


ちゃりん、と机の上へ小銭が広がる。


誠はその量を見て少し引いた。


(ほんとに全部持ってきやがった……)


さすがに少し罪悪感が湧く。


……いや、でも貰えるもんは貰っとくか。


誠はそういう男だった。


最初は適当に済ませるつもりだった。


中古ショップでボロいギターを安く買い、軽く直して渡せばいい。


むしろ多少金が余るかもしれない。


その程度に考えていた。


だが店で安物のギターを眺めているうち、ふと聖の顔が浮かぶ。


――「マジ」


あの目。


誠はしばらく黙り込み、


「……なんか違うな」


と呟いた。


結局その日は何軒も店を回った。


楽器屋。中古屋。リサイクルショップ。


持ち前の妙なコミュ力で店員と話し込み、奥から壊れたギターまで引っ張り出してもらう。


そして最後に見つけた。


ネックが傷み、部品も欠けている。


けれど、元はかなり良いギターだった。


「兄ちゃん、これ直せんの?」


店主が半笑いで聞いてくる。


誠はギターをひっくり返しながら答えた。


「まあ、たぶん」


「変わったガキだな」


「よく言われます」


結局、足りない部品まで買い足したせいで、聖の小遣いどころか自分の小遣いまで消えた。


(クソ。赤字じゃねぇか……)


ぶつくさ言いながらも、誠の手は止まらなかった。


机いっぱいに工具を並べる。


ネジを締める。


削る。磨く。弦を張る。


普段のだらしない姿からは想像もつかないほど集中していた。


聖はその横で、ずっと目を輝かせて見ている。


「お兄ちゃんすご……」


「話しかけんな。ズレる」


「はーい」


数日後。


誠は完成したギターを聖の前へ置いた。


「ほら」


聖はぽかんとする。


恐る恐るギターへ触れた。


「……え」


「だから完成。せいぜい頑張って練習しろよな」


聖はしばらく固まっていた。


やがて、ぎゅっとギターを抱きしめる。


「……ありがとう」


その声は、今までになく静かだった。


誠は気まずそうに頭を掻く。


「壊すなよ。それ結構金かかってんだから」


「うん」


聖は嬉しそうに何度も頷いた。


その日から、聖は毎日ギターを触るようになった。



挿絵(By みてみん)



二学期が始まってすぐの頃。


夏休み気分の抜けきらない教室は、朝から妙に騒がしい。


「おい誠! 宿題見せろ!」


「やってねぇ」


「嘘つけ!」


「いやマジで」


誠は机に突っ伏したまま欠伸をする。


周囲では、まだ日焼けの残る男子たちが騒ぎ、女子たちが夏休みの思い出話で盛り上がっている。


窓の外では、まだ蝉が鳴いていた。


「マコちゃーん」


後ろから健吾がのしかかってくる。


「重っ」


「へへ。久々の学校だな」


「毎年言ってるけど、夏休み延長してほしいわ」


「分かる」


健吾はケラケラ笑う。


その横へ龍が椅子を引っ張ってきた。


「お前ら聞いたか? 二組のやつ、夏休み中補導されたらしいぞ」


「へぇ。誰?」


「なんか知らん先輩と夜中まで遊んでたとか」


「うわアホだ」


誠が笑う。


「お前が言うな」


龍が即座に突っ込んだ。


その時、教室の前方から声が飛ぶ。


「長谷川ァ。課題出せ」


担任だった。


「やってませーん」


「はぁ……お前なぁ」


先生は露骨に嫌そうな顔をする。


教室のあちこちから笑いが起きた。


「でもテストは点取るんだよなぁコイツ」


誰かが言う。


「そこがムカつくんだよ」


「宿題くらいやれよな」


口々に言われるが、空気は軽い。


誠は学校では、案外うまくやっていた。


先生受けは最悪だったが、生徒とはそれなりに馴染んでいる。


ふざける時はふざけるし、空気も読む。


なんだかんだで人付き合いは悪くない。


「そういや誠、お前んとこの妹どうしてんの?」


「聖?」


「いや姉ちゃんの方」


誠は少しだけ顔を上げた。


「あー楓?」


「この前、駅で見たぜ。相変わらず美人だったわ」


「なんかオーラあるよな」


「でも全然学校来ないんだろ?」


「そうだね」


誠は曖昧に頷く。


楓の通う高校は、県内でもかなり偏差値の高い進学校だった。


それなのに楓は、ほとんど学校へ行かない。


だが、完全な不登校というわけでもない。


定期テストや大事な行事の日には、ふらっと現れる。


そして普通に上位の成績を取る。


教師からも生徒からも、一種の有名人だった。


「楓ちゃん今日来てる!」


「マジ!?」


そんな感じで、学校ではちょっとした騒ぎになるらしい。


家で床に寝転がって漫画を読んでる姿しか知らない誠からすると、意味が分からなかった。


(なんなんだよあの人……)


しかも楓は、学校で普通に人気がある。


男女問わず好かれる。


話せば気さくだし、ノリも悪くない。


運動もできる。


頭もいい。


顔もいい。


なのに、学校へ来ない。


それでも人が離れていかない。


誠にはよく分からなかった。




放課後。


家へ帰ると、見知らぬローファーが玄関に並んでいた。


「あれ」


居間の方から笑い声が聞こえる。


女子の声だった。


「楓ちゃん、それ絶対違うって!」


「えーそう?」


誠がそっと覗く。


楓がジャージ姿のまま座っていた。


その周りを、制服姿の女子たちが囲んでいる。


「あ、弟くんだ」


「こんにちはー」


普通に挨拶され、誠は軽く会釈した。


楓はちらっとだけこちらを見る。


「誠。冷蔵庫のプリン食べないでね」


「いや知らねぇし」


女子たちが笑う。


その輪の中心にいる楓は、家で見る姿とあまり変わらなかった。


気だるそうで。


ぼんやりしていて。


それなのに、不思議と人が集まる。


楽しそうに喋っている。


笑っている。


ちゃんと、その場に馴染んでいる。


――なのに。


誠には、楓がどこにも居ないように見えた。


学校にも。


家にも。


友達の輪の中にも。


全部、少しだけ遠い。


ただ一人。


聖と一緒に過ごしている時だけは、楓がちゃんといる気がした。




秋が近づいていた。


それでも昼間はまだ暑く、蝉もしぶとく鳴き続けている。


学校帰り。


誠は自転車を漕ぎながら、大きく欠伸をした。


「だりぃ……」


二学期が始まってからというもの、授業は長いし、先生はうるさいしで、誠のやる気は日に日に削られていた。


ただ、今日は少しだけ寄り道をする予定だった。


総合病院。


白い建物が夕陽に照らされている。


誠は慣れた足取りで病院の奥へ進み、そのまま階段を上がっていく。


屋上。


重たい扉を開けると、生ぬるい風が吹きつけた。


「……あっつ」


フェンス越しに、夕暮れの街並みが広がっている。


そして、その端。


白衣姿の女が壁にもたれていた。


長い黒髪を後ろでまとめ、白衣をきっちり着込んでいる。


片手はポケット。


もう片方にはタバコ。


細く煙が流れていた。


「お、轟さん」


轟はちらりとだけこちらを見る。


「来たのか」


「うん」


「学校は」


「帰り」


「そう」


相変わらず感情の薄い声だった。


誠は隣へ行き、フェンスにもたれる。


轟はタバコを咥えたまま、ライターを鳴らす。


カチッ。


火が点く。


誠は最初、この人ロボットみたいだと思っていた。


感情が薄くて。


無駄がなくて。


でも、タバコを吸っている時だけは少し人間っぽかった。


「また吸ってる」


「悪い?」


「別に」


「お前には言われたくない」


「俺まだ吸ってねぇし」


「そのうち吸いそうな顔してる」


「偏見だろ」


轟は少しだけ口元を緩める。


かなり珍しかった。


病院では基本、屋上に人は来ない。


だから轟もここを気に入っていた。


一目が少ない。


静か。風が通る。それに、空が見える。


「今日オペ?」


誠が聞く。


「終わった」


「心臓?」


「そう」


「また?」


「また」


轟は煙を吐く。


白い煙が夕陽に溶けていった。


「心臓ってそんな毎日切るもんなの」


「切らないと死ぬから」


淡々としていた。


だが、その言葉には妙な重みがあった。


誠はなんとなく好きだった。


この人は変に取り繕わない。


偉そうに説教もしない。


でも、ものすごく頭が切れる。


病院の人たちが噂しているのを、誠は何度も聞いたことがある。


――轟先生は天才だ。


――オペが異常に上手い。


――でもちょっと変わってる。


そんな話を。


「楓は」


轟が不意に口を開く。


「今日どうだった」


「あー……いつも通り」


「死にたいって言ってた?」


「まあ」


誠は頭を掻く。


「でも別に暗い感じじゃないんだよな。普通に笑うし」


「そう」


轟は少しだけ目を細めた。


風が白衣を揺らす。


「……分からないんだよな」


ぽつりと零す。


珍しく、独り言みたいだった。


「何が?」


「楓」


誠は黙る。


遠くで救急車のサイレンが聞こえた。


「知能も高い。社会性もある。共感性も低くない。会話も成立する」


轟は整理するように呟く。


「学校へも行ける。人とも関われる。実際、周囲から好かれている」


「うん」


「でも、生きる方向へ意識が向かない」


静かな声だった。


「……壊れているようには見えない。でも正常とも違う」


轟はタバコを指先で軽く回す。


その横顔には、医者というより研究者みたいな執念が滲んでいた。


「精神科の先生たちも、結局みんな離れていった」


「ふーん」


「診断名をつけたがる。分類したがる。だが楓は、そのどれにも綺麗に当てはまらない」


煙がゆっくり空へ昇っていく。


「いや、当てはまっている部分はある。でも、それだけじゃ説明できない」


誠には難しい話だった。


でも、轟が本気で考えていることだけは分かった。


「轟さんってさ」


誠はなんとなく口を開く。


「なんでそこまで姉ちゃんのこと気にするの?」


轟は少し黙った。


長い沈黙。


風だけが吹いている。


やがて、轟は小さく煙を吐いた。


「……分からない」


その答えは、どこか楓に似ていた。


「ただ」


轟はフェンスの向こうを見る。


夕陽が白衣を赤く染めていた。


「放っておけない」


それだけ言った。


誠はぼんやりその横顔を見る。


この人でも、治せない。


心臓は治せるのに。


人の“生きたい”は治せない。


誠はそのことを、まだ上手く理解できなかった。


ただ。


それでも楓を見続けようとしている轟の姿だけは、妙に焼きついて離れなかった。



挿絵(By みてみん)





聖は、ギターを手に入れてからというもの、毎日それを抱えていた。


朝起きてすぐ。


学校から帰ってすぐ。


ご飯を食べ終わってすぐ。


とにかく隙さえあれば、誠が直したそのギターを膝に乗せている。


「聖、宿題は?」


母さんが台所から声をかける。


「あとでやるー」


「それ昨日も言ってたでしょ」


「今日はほんとにやるもん」


そう言いながら、聖の指は弦の上をたどっていた。


ぎこちない音が鳴る。


びいん、と少し間抜けな音。


それでも聖は嬉しそうに笑った。


「鳴った!」


「そりゃ鳴るだろ。弦なんだから」


誠は漫画を読みながら適当に返す。


「でも、まだ変な音する」


「お前の押さえ方が変なんだよ」


「むぅ」


聖は不満そうに頬を膨らませる。


けれど、すぐにまた指を動かした。


最初のうちは、本当にひどかった。


コードを押さえれば指が浮き、弾けば変な音が鳴る。


力を入れすぎて指先が赤くなり、何度も「痛い」と言った。


それでも、やめなかった。


「ひーちゃん、少し休んだら?」


楓が床に寝転がったまま言う。


聖は首を振った。


「やだ。もうちょっとで出来そうなの」


「指、痛いんでしょ」


「痛いけど、楽しい」


その言葉に、楓は少しだけ目を細めた。


聖は気づかない。


ただ、ギターを見ている。


まるでそこに、自分だけの宝物があるみたいに。


母さんは最初、半信半疑だった。


「聖、ギターはピアノと違って、最初は音を出すだけでも大変よ」


「うん」


「すぐに弾けるようにはならないの」


「うん」


「それでもやりたい?」


「やりたい」


聖は迷わず答えた。


母さんはしばらく黙っていた。


ピアノの家庭教師をしている母さんは、音楽の難しさを知っている。


音楽大学を出て、コンクールにも出たことがある。


母さんの父親は、有名なピアニストだった。


だからこそ、音楽がただ楽しいだけのものではないことも、よく分かっていた。


それでも母さんは、聖の前に楽譜を置いた。


「じゃあ、まずは簡単な曲からね」


「うん!」


聖は目を輝かせる。


母さんは鉛筆で楽譜に印をつけながら、ゆっくり説明した。


「ここで指を変えて。力を入れすぎない。音をよく聴いて」


聖は真剣に頷く。


その顔は、普段の甘えん坊の妹とは少し違っていた。


誠は横目でそれを見る。


(なんか、マジでやってんな)


少しだけ意外だった。


聖は飽きっぽいところもある。


歌は好きでも、ギターなんてすぐに投げ出すと思っていた。


けれど、聖は投げ出さなかった。


上手く鳴らなくても。


指が痛くても。


同じところで何度間違えても。


ずっと弾いていた。


そしてある日の夕方。


聖はギターを抱えたまま、楓の前に座った。


「お姉ちゃん」


「ん?」


「聴いてて」


「いいよ」


楓は雑誌から顔を上げる。


誠もなんとなく視線を向けた。


母さんは台所から少しだけ顔を出す。


聖は深呼吸をした。


それから、たどたどしく弦を弾いた。


ぽろん。


ぽろん。


音はまだ硬い。


指も危なっかしい。


けれど、旋律はちゃんと分かった。


きらきら星だった。


聖がずっと好きだった曲。


母さんが昔、ピアノで弾いてくれた曲。


楓に「好きな曲を歌って」と言われた時、聖が嬉しそうに歌った曲。


「きーらーきーらーひーかーるー」


小さな声で、聖が歌い出す。


まだギターは拙い。


けれど歌声だけは、最初からまっすぐだった。


部屋の空気が、少しだけ変わった。


誠は漫画を読む手を止める。


母さんは台所で動かなくなる。


楓は、黙って聖を見ていた。


「おーそーらーのーほーしーよー」


聖の声は明るかった。


子供っぽくて、素直で、どこまでも無邪気だった。


なのに楓には、それが少し遠く聞こえた。


手の届く場所で歌っているはずなのに。


まるで、本当に空の星を見上げているみたいだった。


曲が終わる。


聖は顔を上げた。


「どう?」


楓はすぐには答えなかった。


それから、ふっと笑う。


「すごいね、ひーちゃん」


「ほんと?」


「うん。すごい」


聖はぱあっと笑った。


「やったあ!」


母さんも静かに笑う。


「よく頑張ったね。指、痛かったでしょう」


「ちょっとだけ」


「でも、ちゃんと弾けてた」


「えへへ」


誠は照れくさそうに頭を掻いた。


「まあ、ギターがいいからな」


「お兄ちゃんのおかげだよ!」


聖はギターをぎゅっと抱きしめる。


「これ、ずっと大事にする」


「壊すなよ。修理すんの面倒なんだから」


「うん!」


その返事は、やけに真剣だった。


楓はその様子を見ていた。


聖は笑っている。


母さんも嬉しそうだった。


誠も文句を言いながら、どこか満足そうにしている。


それはたぶん、幸せな場面だった。


でも楓の胸の奥に、ほんの小さな違和感が残った。


聖は、歌っている時だけ少し違う。


そこにいるのに、どこかへ行ってしまう。


そんな気がした。


「ひーちゃん」


「なあに?」


「もう一回、歌って」


楓が言う。


聖は嬉しそうに頷いた。


「いいよ!」


そしてもう一度、きらきら星が始まる。


拙いギター。


明るい声。


夕方の狭い部屋。


その全部が、まだ家族の中にあった。


けれど楓だけは、少しだけ早く気づいていた。


聖の歌は、いつかこの部屋の外へ出ていく。


きっと、ずっと遠くまで。


そんな予感がした。




朝の空気は少し冷たくなっていた。


夏はまだ終わっていないはずなのに、風だけが先に秋へ向かっている。


珍しく、楓は制服を着ていた。


洗面所で髪を整える姿を見て、誠は思わず二度見する。


「……姉ちゃん、学校行くの?」


「行くよ」


楓は鏡を見たまま答える。


「テスト返ってくる日だし」


「あー」


それだけで行くのか、と誠は少し呆れる。


聖は食パンを咥えながら目を輝かせた。


「お姉ちゃん学校だあ!」


「うん」


「えへへ。頑張ってね!」


「別に頑張るほどのことじゃないよ」


そう言いながら、楓はほんの少しだけ笑った。


そのまま玄関へ向かう。


「楓、帰り遅くなる?」と母さん。


「んー。たぶん普通」


「気をつけてね」


「はーい」


ドアが閉まる。


誠はぼんやりと思った。


(……普通に行くんだよな、こういう時)


学校へ行けないわけじゃない。


行こうと思えば行ける。


でも行かない。それが楓だった。


県内有数の進学校。


教室のドアが開いた瞬間、数人が一斉に振り返る。


「えっ楓じゃん!」


「久しぶり!」


「またサボってたでしょー」


「いやあ。ちょっとね」


楓は自然に笑った。そのまま自分の席へ向かう。


誰かが椅子を引き、誰かがプリントを渡してくる。


「はいこれ。先週のノート」


「ありがと」


「楓いないと数学だるいんだけど」


「知らないよそんなの」


教室には笑い声が広がる。


窓際の席。


楓は頬杖をつきながら外を見る。


グラウンドでは運動部が走っていた。


空は高い。


「楓、今日の現文あてられるよ絶対」


「えーやだなあ」


「先生、楓いるとテンション上がるし」


「それは気のせい」


そんな会話をしながらも、楓はどこか淡かった。


授業が始まる。


教師が問題を出す。


「じゃあ長谷川」


「はい」


楓は立ち上がる。


さらさらと答える。


教師は満足そうに頷いた。


「相変わらずよく出来るな」


「どうも」


小さく座る。


周囲は「さすが」と笑う。


けれど楓だけは、特に嬉しそうでもなかった。


昼休み。


女子たちが自然と楓の席に集まる。


「楓ってさ、絶対モテるでしょ」


「別に」


「その顔でそれ言う?」


「いやほんと興味ないんだって」


「もったいなー」


楓は苦笑する。


会話もできる。


笑える。


友達だっている。


学校にも馴染める。


なのに。


(……なんでだろうね)


ふと、そんな言葉が胸をよぎる。


楽しくないわけじゃない。


嫌いでもない。


でも。それだけだった。




挿絵(By みてみん)






夕方。


総合病院。


外来の受付はすでに終わっていて、待合室の照明も半分ほど落とされていた。


静かだった。


遠くで機械音が鳴っている。


楓は長椅子に座ったまま、ぼんやりと壁の時計を見ていた。


カチ、カチ、と秒針の音だけがやけに耳につく。


しばらくして診察室の扉が開いた。


「入れ」


轟だった。


白衣姿のまま、カルテを片手に持っている。


楓は立ち上がり、ゆっくり診察室へ入った。中は少し肌寒い。


机の上には書類が積まれ、パソコンの画面だけが白く光っている。


轟は椅子に座ると、カルテを閉じた。


「学校だったんだって」


「誠から聞いた?」


「聞かなくても分かる」


楓は小さく笑う。


そのまま椅子へ腰掛けた。


「今日はどうだった」


「普通」


「それは良い意味か」


「どうだろ」


楓は少し考える。


「みんな優しいよ」


「そうか」


「ノート貸してくれたり。話しかけてくれたり」


「友達はいる?」


「たぶん」


曖昧な答えだった。


轟は黙って楓を見る。


楓も視線を逸らさない。


診察室は静かだった。


時計の音だけが響いている。


「楓」


「ん?」


「学校は嫌いか」


「別に」


「楽しくない?」


「楽しくないわけじゃない」


楓は窓の外を見る。


夕焼けがガラスに滲んでいた。


「普通に笑えるし。話すのも嫌いじゃないし」


「……」


「でも、なんか違うんだよね」


轟は何も言わない。


楓は続ける。


「みんな一生懸命じゃん」


「そうだな」


「勉強とか。部活とか。恋愛とか。将来とか」


楓は少し笑った。


「ちゃんと生きてる感じがする」


「楓は違う?」


少しだけ間が空く。


「薄いんだよね」


楓はぽつりと言った。


「全部」


轟は指を組んだまま動かない。


「悲しいとか、苦しいとかとも少し違うの」


楓は机の上のペン立てをぼんやり眺める。


「なんか、自分だけずっと夢の中にいる感じ」


静かな声だった。


それは泣き言にも聞こえない。


ただ事実を説明しているみたいだった。


轟は視線を落とす。


カルテ。


検査結果。


過去の診断記録。


どれも決定打にならない。


異常は見つからない。


だが正常とも言い切れない。


「生きたいと思うか」


轟が聞く。


楓は少し考えた。


「分かんない」


「死にたい?」


「それも、そこまで強くない」


楓は苦笑する。


「たぶん、“どっちでもいい”が一番近い」


診察室が静まり返る。


外では看護師が何か話している声が小さく聞こえた。


轟はゆっくり息を吐く。


心臓なら治せる。


血管も縫える。


止まりかけた命だって、繋ぎ止められる。


けれど。


“生きたい”は、どこにも見つからなかった。


「……でも」


楓が不意に口を開く。


「ひーちゃん見てる時は、ちょっと好きかも」


轟は顔を上げる。


「聖か」


「うん」


楓は少しだけ柔らかく笑った。


「あの子、見てると眩しいんだよね」


その言葉を聞きながら、轟は黙っていた。


まるで、自分の知らない熱を語られているようだった。





挿絵(By みてみん)





「お邪魔しまーす!」


龍の声が家に響く。


「うるさ」


誠は靴を脱ぎながら顔をしかめる。


健吾は後ろで苦笑していた。


「いやー久々に来たなマコちゃん家」


「別に昨日も来ただろ」


「細けぇことはいいんだよ」


居間から聖が飛び出してくる。


「あっ龍ちゃん!」


「おー聖ちゃん元気か!」


「元気!」


龍はそのままハイタッチする。


健吾も「よっ」と手を上げた。


「ギターどう?」


「いっぱい練習してる!」


「おっすげぇじゃん」


その時。


部屋の奥から楓が顔を出した。


「……うわ、龍だ」


「なんすかその嫌そうな顔」


「騒がしいの来たなって」


「楓さんひどっ!」


龍は大げさに胸を押さえる。


健吾はぺこりと頭を下げた。


「お、お邪魔してます……」


「健吾は相変わらず真面目だね」


「いやぁ……なんか楓さんいると緊張するっていうか……」


「なんで?」


「いやだって、美人だし頭いいし……」


「はは」


楓は少し笑った。


龍はその様子を見てニヤニヤする。


「楓さんって学校じゃ絶対モテるっしょ」


「興味ない」


「即答!?」


「龍は?」


「俺?モテるに決まってんじゃん」


「うわ自信満々」


「まあでも龍はなんか分かる」と誠。


「だろ?」


「うるさいけど」


「悪口じゃねぇか」


聖がギターを抱えてやってくる。


「ねえねえ龍ちゃん!聞いて!」


「おっ弾くのか!」


「うん!」


聖はぎこちなくコードを押さえる。


ぽろん、と少し頼りない音が鳴る。


龍は目を輝かせた。


「おおー!」


「まだ下手だよ」


「いやでも雰囲気あるって!」


「雰囲気?」


「なんか、聖ちゃんって音鳴らしてるだけで楽しい感じするんだよな」


誠は少し眉を上げた。


楓は黙って聖を見る。


聖は夢中だった。


小さな指で、一生懸命弦を押さえている。


その姿を見ながら、楓はふと思う。


(……やっぱり、この子は)


言葉にはしなかった。


ただ。


やはり聖の音だけが、少しずつ遠くへ伸びていく気がした。






秋祭りの日。


商店街には赤い提灯が並び、焼きそばの匂いと人の熱気が夜風に混ざっていた。


「うわぁ……すごい人」


聖は目を輝かせながら辺りを見回す。


金魚すくい。射的。綿あめ。


子供たちが走り回り、大人たちは酒を片手に笑っている。


どこか遠くで太鼓の音も聞こえた。


「はぐれるなよ」


誠が面倒くさそうに言う。


「はーい!」


返事だけは元気だった。


龍と健吾も一緒に来ていた。


「いやぁ祭りってテンション上がるよなぁ!」と龍。


「龍ちゃんもう焼きそば食ってるじゃん」


「祭りはスピード感が大事なんだよ」


「意味わかんねぇ」


誠は呆れた顔をする。健吾は苦笑しながらラムネを開けていた。


少し後ろでは、父さんと母さんが並んで歩いている。


楓はその隣をゆっくり歩いていた。


白い薄手のパーカーを羽織っている。


提灯の赤い光が横顔をぼんやり照らしていた。


そして少し離れた場所。


轟もいた。


白衣ではなく黒いシャツ姿だったが、相変わらず表情は薄い。


「なんで轟さんまで来てるんだよ」


誠が呆れたように言う。


「商店街の会長に呼ばれた」


「絶対嘘だろ」


「半分本当だ」


轟はそう言って缶コーヒーを飲む。


すると、商店街のスピーカーが急にガガッと鳴った。


『えー、本日予定していたキッズステージですが、一組お休みとなりましたので、急遽飛び入り参加を募集しておりまーす』


ざわざわと周囲が騒ぐ。


『歌でも演奏でもなんでもOKです!』


「おっ」


龍がニヤリとした。


その瞬間だった。


その瞬間だった。


「やる!」


聖が勢いよく手を挙げた。


「……は?」


誠が固まる。


「ひーちゃん?」


母さんも目を丸くする。


「歌いたい!」


聖は真っ直ぐ言った。


少しだけ静かになる。


「いやいやいや待て待て」


誠が慌てて止める。


「急すぎだろ」


「大丈夫!ちゃんと練習したもん!」


「いやそういう問題じゃ」


「やりたい」


聖はギターケースをぎゅっと抱えた。


母さんはしばらく聖を見る。


その目は、いつもの子供のわがままを見る目ではなかった。


「……聖、本当にやるの?」


「うん」


迷いがない。


母さんは小さく息を吐いた。


「じゃあ、頑張っておいで」


「やったあ!」


「え、マジで出んの!?」と龍。


「聖ちゃんすげぇ……」と健吾。


誠だけが頭を抱えていた。


「絶対変な空気になるだろこれ……」


楓はそんな誠を横目で見ながら、小さく笑った。


「まあ、ひーちゃんだし」


数分後。


小さな特設ステージ。


子供向けの簡易ステージだった。


周囲ではまだ焼きそばを食べてる人もいる。


射的の音も聞こえる。


誰も真剣には見ていない。


「次、飛び入り参加の聖ちゃんでーす!」


ぱらぱらと拍手が起きた。


聖はギターを抱えてステージへ上がる。


少し大きめのTシャツ。


緊張していないわけじゃない。


でもそれ以上に、楽しそうだった


「こんばんはー!」


子供らしい声が響く。


客席から「かわいい〜」と声が飛ぶ。



挿絵(By みてみん)



誠は顔を覆った。


「うわぁ……」


「いいじゃねぇか」と龍。


聖は椅子へ座る。


ギターを膝に置く。


小さな手でコードを押さえる。


マイクが少しハウる。


それでも聖は笑っていた。


「きらきら星、歌います!」


その瞬間。


楓が少しだけ顔を上げた。


母さんも静かにステージを見る。


聖はゆっくり弦を弾いた。


ぽろん。


最初の音は、まだ少し拙かった。


でも。


二音目。


三音目。


不思議と耳に残る。


商店街のざわめきの中なのに、妙に音が通った。


「きーらーきーらーひーかーるー」


聖が歌い出す。


その瞬間だった。


空気が、少し変わる。


射的をしていた子供が振り返る。


歩いていた人が足を止める。


焼きそばを食べていたおじさんが、ふとステージを見る。


誰も理由は分からない。


ただ、なんとなく耳を向けてしまう。


聖はただ歌っていた。


楽しそうに。まっすぐに。


歌うことが嬉しくて仕方ないみたいに。


「おーそーらーのーほーしーよー」


ギターはまだ完璧じゃない。


コードも少し危うい。


でも声だけは、不思議なくらい真っ直ぐだった。


龍が、途中で黙る。


健吾もラムネを持ったまま動かない。


母さんは気づけば、演奏者として聴いていた。

誠は周囲を見回す。

いつの間にか、人が止まっている。

(……なんだこれ)

その時。

誠は隣の楓を見た。

楓だけは拍手していなかった。

ただ、静かに聖を見ている。その目は少しだけ遠かった。

嬉しそうなのに。どこか寂しそうだった。

聖の声が夜空へ伸びていく。

提灯の灯り。秋の風。きらきら星。

楓はぼんやりと思う。

(……ああ)

この子は、きっと。

もっと遠くへ行く。

曲が終わる。

少し遅れて、大きな拍手が起こった。

聖はびっくりしたように目を丸くする。

それから、照れくさそうに笑った。

「えへへ」

ただ、それだけだった。

まるで自分が空気を変えたことに、気づいていないみたいに。

轟は腕を組んだまま、ステージを見つめていた。

医学では説明できないものが、この世にはある。

そんなことを、ふと思った。




秋祭りの日からだった。


商店街を歩いていると、時々声をかけられるようになった。


「あっ、あの時歌ってた子だ」


「きらきら星の子だよね」


「ギター弾いてた子!」


最初は聖もきょとんとしていた。


「私?」


「そうそう。上手だったよ〜」


商店街のおばちゃんに頭を撫でられて、聖は照れくさそうに笑う。


「えへへ」


隣で誠は、なんとも言えない顔をしていた。


(……マジで覚えられてんのかよ)


少し前まで、ただのうるさい妹だった。


なのに最近は、町の人たちまで聖を知っている。


なんだか妙な気分だった。


「聖ちゃん、今度また歌わない?」


八百屋のおじさんが、店先で笑いながら言う。


「来月、駅前でちっちゃいイベントあるんだよ」


「えっ、いいの!?」


「もちろん」


聖は目を輝かせる。


誠は後ろで野菜ジュースを飲みながら眉をひそめた。


「……またかよ」


「いいじゃねぇか。人気者だな、聖ちゃん」


龍がニヤニヤする。


「お前が一番騒いでるだろ」


「当然!」


龍は胸を張る。


「俺は昔から見抜いてたからな!」


「秋祭りからだろ」


「細けぇことはいいんだよ」


健吾は苦笑していた。


「でも、ほんとすごいよなぁ。なんか最近、商店街の人みんな聖ちゃんのこと知ってるじゃん」


「うん!」


聖だけは、いつも通り嬉しそうだった。


それから少しずつ。


本当に少しずつだった。


商店街の小さなイベント。


地域の出し物。


公民館のミニステージ。


そんな場所へ、聖は時々呼ばれるようになった。


毎回、大した舞台ではない。


客席だってまばらだった。


子供が走り回っている時もある。


誰も真剣に聴いていない日もある。


それでも。


聖が歌い始めると、妙に空気が変わった。


「……あれ、あの子またいる」


「ギターの子だ」


「なんか聴いちゃうんだよなぁ」


そんな声が少しずつ増えていく。


聖は相変わらずだった。


歌う前に焼きそばを食べて。


歌ったあとにラムネを飲んで。


「今日ちょっと間違えた!」


なんて笑っている。


本人だけは、特別なことをしているつもりがなかった。


「おい誠。ギター持ってやれよ」


「なんで俺が」


「兄ちゃんだろ」


龍に言われ、誠は面倒くさそうにギターケースを肩へかける。


「重っ」


「お兄ちゃんありがとー!」


「はいはい」


気づけば、誠も慣れていた。


イベントの日になると、


「コード表持ったか?」


とか、


「チューナー入れたか?」


とか、


自然に確認するようになっていた。


最初はただ付き添っていただけなのに。


今では普通に機材係みたいになっている。


「お前さ」


帰り道、誠がぼそっと言う。


「なんでそんな人前で平気なの?」


「んー?」


聖は夜空を見上げる。


「楽しいから!」


即答だった。


誠は少しだけ笑う。


「……意味わかんねぇ」


でも、その答えが聖らしかった。


母さんは、最初より静かになっていた。


もちろん応援している。


ステージの前ではちゃんと笑う。


「頑張ったね」と頭も撫でる。


けれど時々。


聖が歌っている時だけ、少し遠い顔をしていた。


音楽大学を出ている母さんには分かるのだ。


音感。


リズム。


飲み込み。


そして何より、人の耳を引っ張る力。


それは技術だけでは説明できない。


「……この子、本当に」



挿絵(By みてみん)



夜。


食器を洗いながら、母さんは小さく呟く。


その先は言葉にならなかった。


楓は、部屋の隅で聖の練習を聞いていた。


「お姉ちゃん、どう?」


「うん。上手」


「ほんと?」


「ほんと」


聖は嬉しそうに笑う。


最近、聖は少しずつギターに慣れてきていた。


コードチェンジも速くなっている。


耳コピまで始めていた。


しかも、それを本人が“努力”と思っていない。


ただ好きでやっている。


楓はそれが少し怖かった。


「ひーちゃん」


「なあに?」


「最近、色んな人に声かけられてるね」


「うん!お菓子もらった!」


「はは」


聖は本当に嬉しそうだった。


そこには打算も野心もない。


ただ、歌うのが好き。


それだけだった。


楓はぼんやりと思う。


最初は、自分だけのものだった。


ひーちゃんの歌は、自分だけの光だった。


でも今は違う。


商店街の人も。


龍たちも。


知らない誰かも。


みんな聖を見ている。


聖の歌を待っている。


それはきっと、良いことだった。


なのに。


胸の奥が少しだけ冷える。


(……遠くなるなぁ)


楓は天井を見る。


隣では聖が、また「きらきら星」を弾いている。


拙かった音は、少しずつ形になり始めていた。


まるで本当に。


空へ伸びていくみたいに。


秋が深まるにつれて、聖の名前は少しずつ地元へ広がっていった。


最初は商店街だけだった。


それがいつの間にか、駅前でも話題になる。


「あのギターの子、また出るらしいよ」


「えっ、あの“きらきら星”の?」


そんな会話を、誠は何度か耳にした。


(……ほんとに広がってんだな)


少し前まで、家で騒いでいるだけの妹だった。


なのに今では、知らない人まで聖のことを知っている。


妙な感じだった。


「聖ちゃん!来月の文化広場のイベント、出てみない?」


「ほんと!?」


商店街のイベントスタッフが笑いながら声をかける。


「去年より少し大きいステージなんだけどさ」


「出たい!」


即答だった。


龍が吹き出す。


「ははっ、即決!」


「だって楽しそう!」


「聖ちゃん、ほんと物怖じしねぇなぁ」と健吾。


「緊張とかしないの?」


「するよ?」


聖は少し考える。


「でも、歌う方が楽しみ!」


誠は横でため息をついた。


「意味わかんねぇ……」


イベントの日。


駅前の広場には、小さなステージが組まれていた。


秋風が少し冷たい。


前より人が多い。


地元バンド。


ダンスチーム。


高校生の弾き語り。


そんな中に、小学生の聖が混ざっていた。


「うおー。聖ちゃん今日ちょっと本格的じゃん」と龍。


「客多いな……」


誠は人混みを見回す。


健吾は紙コップのココアを飲みながら、


「なんか俺まで緊張してきた」


と苦笑していた。


少し離れた場所では、父さんがまたビデオカメラを構えている。


母さんは静かにステージを見ていた。


そして。


「おおーい!聖ちゃーん!!」


尊じいちゃんの声が響いた。


周囲が少し振り向く。


「また来てる……」


誠が顔をしかめる。


「当然やろ!!孫の晴れ舞台やぞ!!」


尊じいちゃんは一番前に陣取っていた。


しかもなぜか、“聖応援”と書かれた小さいうちわまで持っている。


「じいちゃん、それどこで作ったんだよ……」


「気合いや!!」


「気合いで作れるもんじゃねぇだろ」


聖はステージ袖から、その姿を見つける。


「あっ、おじいちゃーん!」


ぱあっと笑顔になる。


尊じいちゃんは、その瞬間だけで満足そうだった。


「ひゃ〜〜かわええ……」


「おじいちゃん気持ち悪い」と楓。


「なんや楓!素直に応援せんか!」


「してるよ」


楓は小さく笑う。


その顔は、どこか柔らかかった。


聖の出番が始まる。

マイクを握る。

客席はざわざわしていた。

まだ誰も、本気では聴いていない。

「こんばんはー!」

聖の声が広場へ響く。

「今日は、“きらきら星”歌います!」

龍が健吾へ顔を寄せる。

「またあの曲だ」

「好きなんだろうなぁ」

ギターを構える。

小さな手。

少し擦れた指先。

ぽろん。

最初の音が鳴る。

その瞬間。

また、空気が変わった。

後ろで歩いていた人が足を止める。

スマホを見ていた高校生が顔を上げる。

遠くで話していた人の声が、少しだけ小さくなる。

聖は何も気づいていない。

ただ歌っていた。

嬉しそうに。

楽しそうに。

まるで歌そのものが、呼吸みたいに自然だった。

「きーらーきーらーひーかーるー」

秋風が吹く。

提灯が揺れる。

その声だけが、不思議なくらい遠くまで届いていく。

尊じいちゃんは、途中から腕を組んだまま黙っていた。

目だけが、じっと聖を見ている。

その横顔を見て、誠は少し驚く。

(……じいちゃん、泣いてんのか?)

だが尊じいちゃんは気づかないふりをした。

「いやぁ……歳やなぁ」

鼻をすすりながら笑う。

楓はその姿を見て、少しだけ目を細めた。

みんな、聖を見ている。

商店街も。

知らない人も。

じいちゃんも。

龍も。

健吾も。

家族も。

聖の歌が、少しずつ外へ広がっていく。

それは、とても綺麗だった。

だからこそ。

楓は時々、少しだけ怖くなる。

(……ほんとに遠くへ行くんだなぁ)

ステージの上。

聖は何も知らずに笑っていた。

歌うのが楽しくて仕方ないみたいに。

その姿は、夜の灯りの中で、少しだけ星みたいだった。








季節は少しずつ進んでいた。


聖の歌は、前より遠くまで届くようになっていた。


一方で。


誠たちもまた、少しずつ変わり始めていた。


「おらぁ!走れ走れ!!」


グラウンドに龍の声が響く。


夕方の野球場。


龍はキャプテンマークを腕につけたまま、大きな声を飛ばしていた。


「ボール見ろ!気合いで振るな!」


「うっす!!」


後輩たちが慌てて返事をする。


龍は汗を拭いながら笑った。


「よーし!ナイス!」


その姿は、いつものふざけた龍とは少し違って見えた。


グラウンドの中心に立つ姿が妙に似合っている。


フェンス越しに見ていた誠は、缶ジュースを飲みながら呟く。


「……ちゃんとキャプテンやってんだな」


「龍ちゃんって意外と面倒見いいよな」と健吾。


「まあ昔から変に人集める才能あるし」


すると龍がこちらへ気づく。


「おーい!マコ!健吾!終わったら遊ぶぞ!」


「お前まだ元気あんのかよ」


「当然!」


龍はバットを肩に担ぎながら笑った。


夕焼けのグラウンド。


泥だらけのユニフォーム。


その頃の龍は、確かに“何かの中心”にいた。


挿絵(By みてみん)


中学へ上がってからだった。


誠たちは、前より少しだけ“悪く”なった。


少し遅い時間まで外にいるようになったし、付き合う相手も広がった。


コンビニ前。


ゲームセンター。


河川敷。


駅裏。


以前より危なっかしい場所へ行くことも増えた。


「おいマコ。今日、向こうの中学の奴ら来るらしいぜ」


「また龍の知り合い?」


「知り合いっていうか、まぁ顔見知り」


龍は笑いながら缶ジュースを開ける。


誠はフェンスにもたれながらため息をついた。


「お前ほんと顔広いな」


「カリスマだからな」


「自分で言うな」


健吾はその横で苦笑していた。


以前より、周りには少し怖そうな連中も増えていた。


タバコを吸うやつ。


健吾はその横で苦笑していた。


以前より、周りには少し怖そうな連中も増えていた。


タバコを吸うやつ。


喧嘩自慢するやつ。


バイクを盗んだとか言って笑うやつ。


誠たちも完全に真面目ではない。


むしろ危ない遊びは増えていた。


でも。


「聖ちゃん来てんの?」


誰かがそう言うと、龍は少し顔を変える。


「今日は来てねぇよ」


「そっか」


それだけだった。


別に隠しているわけじゃない。


ただ、なんとなく。


“聖を連れてくる場所じゃない”


という空気があった。


「お兄ちゃん達どこ行くの?」


夜。

玄関で靴を履いていた誠へ、聖が聞く。

「んー。ちょっと遊び」

「私も行きたい!」

「今日は駄目」

「えー」

聖は頬を膨らませる。

龍が後ろから笑った。

「悪ぃな聖ちゃん。今日は男だけだ」

「ずるいー!」

「今度また遊ぼうぜ」

「約束!?」

「おう」

龍は自然に頭を撫でる。

聖はそれだけで少し嬉しそうだった。

誠は横で靴紐を結びながら言う。

「その代わり、今度祭りあったら連れてってやる」

「ほんと!?」

「だから今日は留守番」

聖は少し不満そうだった。

でも完全には納得していない顔をしながらも、

「……わかった」

と引き下がる。

薄々気づいていた。

今日は、自分を連れていかない日なのだと。



挿絵(By みてみん)



とはいえ。

聖自身も、前より少しヤンチャになっていた。

「うおー!龍ちゃん待てー!」

自転車で坂道を爆走する。

「聖ちゃん速っ!?」

「ひゃはは!」

「危ねぇって!!」

誠が後ろから怒鳴る。

聖は笑いながら振り返った。

昔より活発だった。

龍や誠たちの影響もある。

変な言葉も覚えた。

ちょっとした悪ノリも増えた。

母さんに、

「聖、その言葉どこで覚えたの?」

と聞かれて、

「龍ちゃん!」

と即答し。

龍が誠に本気で殴られていたこともある。

それでも。

楓や母さんの前では、聖は相変わらずだった。

「お姉ちゃーん!」

「なあに」

「見て見て!新しいコードできるようになった!」

「ほんとだ。上手」

褒められると、すぐ嬉しそうに笑う。

そこだけ見ると、まだただの可愛い妹だった。

龍は、前よりさらに“兄ちゃん”っぽくなっていた。

「おい聖ちゃん、ギターケースちゃんと閉めろ。落とすぞ」

「はーい」

「あと今日は寒いから上着着ろ」

「えー暑い」

「いいから」

龍はそう言いながら、自分のパーカーを聖へ投げる。

聖は笑いながら袖を通した。

「龍ちゃんの匂いする!」

「やめろ恥ずい」

誠は横で呆れている。

「お前ら仲良すぎだろ」

「へへー」

聖は龍の横を歩く。

その姿は、少しだけ本当の兄妹みたいだった。

健吾ももちろん優しかった。

「聖ちゃん、肉まん食う?」

とか、

「危ないから車来てるぞ」

とか。

面倒見はいい。

でも龍ほど“深く”はない。

どちらかといえば、親戚のおっちゃんみたいな立ち位置だった。

聖も健吾には懐いている。

でも、一番後ろを追いかけるのは龍だった。

楓は高校三年生になっていた。

以前より学校へ行く日が増えた。

教師たちも安心し始めていた。

「長谷川、お前なら東京も狙えるぞ」

「……どうだろ」

「いや本当に。今からでも遅くない」

進路相談。

模試。

大学の話。

周囲は真剣だった。

楓は相変わらず、何でもできた。

勉強も。

人付き合いも。

学校生活も。

やろうと思えば、全部うまくやれてしまう。

だからこそ。

周囲は、“戻ってきた”と思っていた。

「最近ちゃんとしてるじゃない」

母さんも少し安心したように笑う。

「そう?」

「うん」

楓は曖昧に笑った。

その笑顔は、前より柔らかかった。

だから余計に。

轟は違和感を覚えていた。

診察室。

カルテを閉じる。

「……最近、何かあったか」

「別に?」

楓は首を傾げる。

「学校も行ってるし。前より元気だよ」

「そうか」

轟はじっと楓を見る。

確かに穏やかだった。

前より笑う。

話す。

人とも関わる。

だが。

何かが薄い。

まるで。

少しずつ、この世界への執着だけが消えていくみたいだった。

「ひーちゃん」

夜。

楓は部屋から白いパーカーを持ってくる。

秋祭りの日に着ていたものだった。

「これ、あげる」

「えっ!?」

聖は目を輝かせる。

「いいの!?」

「うん。もう着ないし」

聖は嬉しそうに抱きしめた。

ぶかぶかの白いパーカー。

袖が余る。

「やったあ!」

くるくる回る。

楓はそれを見て、少し笑った。

「似合ってる」

「ほんと!?」

「うん」

聖は本当に嬉しそうだった。

何も疑わない。

ただ、“お姉ちゃんにもらった”ことだけを喜んでいた。

楓はその姿を静かに見つめる。

最近。

物を渡すことが増えていた。

ヘアピン。

本。

イヤホン。

小さな私物。

聖は全部大事そうにしていた。

「ありがとう、お姉ちゃん!」

その言葉を聞くたびに。

楓は少しだけ、安心した顔をするのだった。




挿絵(By みてみん)




冬が近づいていた。


けれど、その日は妙に暖かかった。


空は高く澄んでいて、風も穏やかだった。


長谷川家は、山の方にある公園へ来ていた。


「うわぁー!!広いー!!」


聖が芝生を駆けていく。


「転ぶぞー」と誠。


「転ばないもーん!」


そう言った直後。


落ち葉で滑って盛大に転んだ。


「いったぁ!」


「ほら見ろ」


誠は呆れながら笑う。


龍なら絶対大笑いしてるな、とふと思った。


最近は、龍たちとつるむ時間も増えた。


夜遊びも増えたし、家に帰る時間も遅くなった。


でも今日は家族の日だった。


「ひーちゃん大丈夫?」


楓が近づいて手を差し出す。


「へへ……平気」


聖は笑いながら立ち上がる。


その頭には枯れ葉が乗っていた。


「ついてる」


「えっどこ!?」


「ここ」


楓が葉っぱを取ってやる。


そのやり取りを見ながら、母さんが笑った。


「なんか今日は暖かくてよかったわね」


「ほんとだな」


父さんはレジャーシートを広げながら頷く。


手際が妙に良かった。


「お父さん、慣れてる」


「昔はよく外連れてったからな」


「へぇ」


誠は少し意外そうに見る。


普段、父さんは仕事ばかりだった。


最近は特に忙しそうだ。


東京との往復。


休日出勤。


電話。


それでも今日は、ちゃんと休みを取っていた。


「よーし。飯にするか」


父さんが紙袋を広げる。


中には大量のハンバーガー。


ポテト。


ナゲット。


スーパーの惣菜も少し。


長谷川家らしい、気取らない昼飯だった。


「やったあ!!」


聖が一番喜ぶ。


「ひーちゃん、それ三個目だろ」


「成長期だから!」


「便利な言葉覚えやがって」


誠は笑いながらポテトを摘む。


母さんはコーヒーを飲みながら苦笑していた。


「私、お弁当とかほんと苦手なのよねぇ」


「知ってる」


楓が即答する。


「楓、ひどくない?」


「でも事実じゃん」


「まあ椿さん、料理だけは壊滅的やからな」と尊じいちゃん。


「お父さんまで!?」


「ハハハ!」


みんな笑う。


父さんだけは少し困った顔をしていた。


「いや、でも冷凍食品も最近うまいし……」


「フォローになってないよ彰」


また笑いが起きる。


そんな時間だった。


穏やかで。


普通で。


だからこそ、少しだけ夢みたいだった。


食べ終わったあと。


聖はギターケースを抱えて戻ってきた。


「ねぇ、歌っていい?」


「またか」と誠。


「いいじゃない」と母さん。


「今日は何歌うん?」


尊じいちゃんが嬉しそうに聞く。


聖は少し考えてから笑った。


「きらきら星!」


「やっぱ好きやなぁ」


芝生の上。


冬前の柔らかい陽射し。


周囲では子供たちが遊んでいる。


遠くで犬の鳴き声も聞こえた。


聖は白いパーカーを着ていた


楓から貰ったやつだった。


少し大きい袖が揺れる。


ギターを抱える姿も、前よりずっと自然になっていた。


ぽろん。


音が鳴る。


聖は笑いながら歌い始める。


「きーらーきーらーひーかーるー」


誠は芝生へ寝転がったまま空を見る。


少し眠い。


少し暖かい。


最近、色んなことが変わっていた。


中学。


部活。


夜遊び。


知らない先輩。


知らない世界。


でも。


こういう時間だけは、昔のままな気もした。


「お兄ちゃん、聞いてるー?」


「聞いてる聞いてる」


「適当!」


「はいはい」

聖はむっとした顔をしたあと、また笑う。

その声を聞きながら、楓は静かに聖を見ていた。

最近、聖は前より上手くなった。

ギターも。

歌も。

何より、人へ届く力が強くなっている。

でも本人は何も変わっていない。

相変わらず無邪気で。

食いしん坊で。

楽しそうに歌う。

楓はそれが少し嬉しくて。

少し寂しかった。

風が吹く。

地面には、散り終えた紅葉が積もっていた。

赤ではなく、もう茶色かった。

乾いた葉が風で転がる。

冬が近い。

楓はぼんやり空を見る。

空はやけに青かった。

「楓?」

父さんが声をかける。

「ん?」

「寒くないか」

「平気」

楓は小さく笑った。

最近、家族と出かけることが増えた。

以前なら断っていたような日でも、ちゃんと来るようになった。

母さんは、それを良い変化だと思っていた。

父さんも少し安心していた。

誠ですら、

(なんか最近、姉ちゃん普通だな)

と思う時があった。

でも。

轟だけは違った。

もし今ここにいたなら、きっと気づいていただろう。

楓が少しずつ、“軽く”なっていることに。

まるで。

もう遠くへ行く準備をしているみたいに。




挿絵(By みてみん)






冬だった。


日が落ちるのが早かった。


朝の空気は冷たく、吐く息が白い。


「いってきまーす!」


聖が玄関から飛び出していく。


白いパーカー。


楓から貰ったやつだった。


「走るなって」


誠は靴を履きながら呆れる。


「遅刻するー!」


「知らねぇよ」


龍たちとの待ち合わせがあるらしく、誠も慌ただしかった。


父さんはもうネクタイを締めている。


母さんは台所でコーヒーを入れていた。


相変わらず朝食は簡単なものだった。


冷凍のハッシュドポテト。


食パン。


インスタントスープ。


長谷川家らしい朝。


「楓、今日は学校行くの?」


母さんが聞く。


「んー。行く」


楓は眠そうに答える。


最近は以前より登校する日が増えていた。


進路の話も進んでいる。


先生たちも安心していた。


「今日、面談じゃなかった?」


「午後から」


「ちゃんと行きなさいよ」


「はいはい」


楓は適当に返事をする。


でもその顔は穏やかだった。


少し前より、ずっと。



挿絵(By みてみん)




「じゃ、行ってくる」


父さんが玄関へ向かう。


「いってらっしゃい」


楓が笑う。


それは、本当に普通の朝だった。


誰も気づかなかった。


それが最後になるなんて。


夕方。


母さんは予定より早く家庭教師の仕事が終わった。


「今日は早かったわね」


生徒の母親にそう言われ、軽く頭を下げる。


外はもう薄暗い。


冬の空気は冷えていた。


スーパーへ寄る。


鍋の材料を少し買う。


(今日は聖、喜ぶかな)


そんなことを考えながら帰った。


玄関を開ける。


「ただいまー」


返事はない。


静かだった。


楓は二階かもしれない。


母さんは荷物を置き、コートを脱ぐ。


そして。


ふと視線を上げた。


時間が止まる。


「あ……」


袋が落ちる。


ネギが床へ転がる。


母さんの喉から、声にならない音が漏れた。


連絡を受けた父さんは、仕事を放り出すように会社を出た。


「長谷川さん!?」


後ろから声をかけられても振り返らない。


電車。


タクシー。


焦る呼吸。


頭の中が真っ白だった。


(頼む……)


(頼むから……)


だが。


父さんも、本当は分かっていた。


電話越しの母さんの声で。


もう、取り返しがつかないことを。


その頃。


誠は駅前で龍たちと遊んでいた。


ゲームセンター。


コンビニ。


どうでもいい話。


「おいマコ、電話鳴ってね?」


「あ?」


誠はスマホを取り出す。


画面を見て、少し眉をひそめた。


通知が大量に溜まっている。


母さん。


父さん。


知らない番号。


何件も。


「……なんだこれ」


「出ろよ」と龍。


誠はそこで初めて、スマホがマナーモードになっていたことに気づく。


「うわ、やべ」


軽い気持ちで開こうとして。


でも。


嫌な感じがした。


胸の奥がざわつく。


父さんからの着信。


母さんからの連続通知。


知らない番号。


冬の空気が急に冷たく感じた。


「……俺、帰るわ」


「え?」


「なんか変」


誠はそれだけ言って走り出した。


龍と健吾が顔を見合わせる。


「おい、マコ!」


呼び止める声。


でも誠は振り返らない。


冬の道を走る。


冷たい空気が肺へ刺さる。


意味が分からなかった。


理解したくなかった。


家へ近づく。


そして。


赤色灯が見えた。


パトカー。


家の前。


人影。


静かなざわつき。


誠の足が止まる。


心臓の音だけが妙にうるさい。


「……なんで」


玄関の前には警察官が立っていた。


誠を見る。


何か言っている。


でも耳へ入ってこない。


家の中から。


聖の泣き声が聞こえた。


その瞬間。


誠は全部理解した。


葬式の日。


空は白かった。


雪は降っていない。


でも、凍えるように寒かった。


聖はずっと泣いていた。


「お姉ちゃん……」


何度も。


何度も。


同じ言葉を繰り返す。


母さんへ抱きつきながら泣く。


「やだ……やだよぉ……」


声が枯れても泣いていた。


誠はその横に座っていた。


ほとんど喋らない。


ただ聖が倒れそうになると支える。


水を渡す。


背中をさする。


それだけだった。


父さんは親族対応をしていた。


顔は酷く疲れていた。


一気に老けたように見える。


母さんは泣いていた。


でもどこか壊れないよう必死に耐えていた。


「なんでや……」


尊じいちゃんは棺の前で泣いていた。


「なんでや楓ぇ……」


声を震わせる。


「お前、生きろ言うたやろ……」


誰より感情を抑えられていなかった。


おばあちゃんがその肩を支えている。


「あなた……」


「なんで死ぬんや……っ」


尊じいちゃんは子供みたいに泣いた。


それを見て、聖がまた泣き出す。


「お姉ちゃぁん……!」


会場に泣き声が広がる。


でも。


誠だけは静かだった。


静かすぎた。


龍と健吾はいなかった。


まだ中学生だった。


葬式には来ていない。


でもきっと、もう話は聞いている。


少し離れた場所に、轟が立っていた。


黒い喪服。


いつもみたいに髪を後ろでまとめている。


表情は変わらない。


静かだった。


だが。


その目だけが、酷く暗かった。


轟は棺を見る。


楓の顔は穏やかだった。


まるで眠っているみたいに。


それが、余計に苦しかった。


(……救えなかった)


轟は医者だった。


命を繋ぐ人間だった。


心臓を開き。


血を止め。


人を生かす。


それが仕事だった。


だが。


生きる意思だけは、最後まで治せなかった。


轟はゆっくり目を閉じる。


その時。


聖の泣き声がまた響いた。


「お姉ちゃん……っ」


轟は目を開ける。


そこには、楓が遺したものがいた。


白いパーカーを着た少女。


泣きながら。


それでも、生きている少女が。






楓がいなくなってからの家は、静かだった。


前から静かな家ではあった。


楓は元々、部屋で寝転がっていることも多かったし、長谷川家は聖を除けば賑やかな家庭というわけでもない。


それでも。


今の静けさは、何かが違った。


家そのものが、息を止めているみたいだった。


聖は、ほとんど自分の部屋から出なくなった。


学校も休みがちになっていた。


布団へ潜り込んで、ぼーっと天井を見ている。


白いパーカーを抱きしめたまま眠ってしまうこともあった。


ギターは部屋の隅に立てかけられている。


誠が直した、あのギターだった。


だが、聖は触れない。


ケースを開けることすらできなかった。


ある日。


母さんが、小さな声で聞く。


「……最近、ギターやらないの?」


聖はしばらく黙ったまま。


それから、小さく首を振る。


「……むり」


掠れた声だった。


「歌うと、お姉ちゃん思い出す」


母さんは何も言えなかった。


ただ聖の頭を撫でる。


聖はそのまま泣いた。


子供みたいに。


声を押し殺しながら。


父さんと母さんは、ちゃんと仕事へ行っていた。


朝になれば起きる。


スーツを着る。


化粧をする。


電車へ乗る。


人と話す。


普通に働く。


でも。


二人とも明らかに暗くなっていた。


父さんは家でほとんど喋らなくなった。


ぼーっと煙草のない指先を見ていることが増えた。


母さんも、料理中に何度も手を止める。


鍋を火にかけたまま、立ち尽くしていることもあった。


それでも。


二人とも壊れないように、生活を続けていた。


聖のために。


誠のために。


誠は、家へ帰らない日が増えた。


夜遊び。


知らない先輩。


ゲームセンター。


カラオケ。


冬の街。


危ない連中との付き合いも少しずつ増えていた。


龍と健吾も気づいていた。


「最近のマコ、ちょっとヤバくねぇ?」


龍が煙みたいな白い息を吐きながら言う。


健吾は自販機の缶コーヒーを持ったまま黙る。


「……まぁ、しゃーねぇだろ」


だが。


二人とも放ってはおかなかった。


龍は何度も誠を遊びへ引っ張り出した。


健吾は黙って隣にいた。


長谷川家へも顔を出す。


特に聖のことが気になっていた。


「……聖ちゃん、大丈夫か?」


「大丈夫じゃねぇよ」


誠は吐き捨てるように言う。


珍しく、声が荒かった。


龍も健吾も黙る。


誠は壁へ寄りかかったまま続けた。


「でも……あいつ放っといたら、多分もっとヤバい」


その言葉だけは、本音だった。


ある夜。


誠はかなり遅く帰宅した。


時計は深夜を回っている。


リビングの電気だけがついていた。


聖がソファで寝ている。


白いパーカーを着たまま。


小さな身体を丸めて。


誠は立ち止まる。


「……なんでここで寝てんだよ」


小さく呟く。


聖がうっすら目を開けた。


「……おかえり」


眠そうな声。


「お前、部屋で寝ろよ」


「……お兄ちゃん帰ってこなかったから」


誠は何も言えなかった。


聖はまた目を閉じる。


「……なんか、ひとり嫌」


その瞬間。


誠の中で、何かが引き戻された。


危ない場所へ沈みかけていたものが。


ゆっくりと。


家へ戻ってくる。


誠は深く息を吐いた。


それからソファへ近づき、雑に毛布をかける。


「風邪引くぞ」


聖は半分眠ったまま、小さく頷いた。


轟は、以前より長谷川家へ来る頻度が増えていた。


診察ではない。


もう楓はいない。


それでも来る。


父さんと母さんの様子を見るためでもあり。


そして何より。


聖が心配だった。


「最近どう?」


轟が聞く。


聖は曖昧に笑う。


「……ふつう」


だが。


普通ではないことくらい、轟には分かっていた。


目の下の隈。


細くなった肩。


笑顔の薄さ。


そして。


部屋の隅へ置かれたままのギター。


轟はそれを見つめる。


しばらく黙ってから、静かに言った。


「……無理に歌わなくていい」


聖は少し驚いた顔をした。


轟は白衣のポケットへ手を突っ込んだまま続ける。


「歌えなくなる時もある」


静かな声だった。


聖は何も答えない。


ただ。


少しだけ泣きそうな顔をした。


轟は視線を逸らす。


自分はまた、この子を救えないかもしれない。


そんな考えが、一瞬頭をよぎった。


だが。


それでも。


見続けるしかなかった。


楓の時と同じように。


最後まで。



楓がいなくなってからの春は、少し長かった。


東京へ引っ越すまで、長谷川家はまだ地元にいた。


桜は咲いていた。


でも、家の中だけ季節が止まっているみたいだった。


聖は小学五年生になっていた。


学校へは行っていた。


ちゃんと起きる。


制服を着る。


友達とも話す。


笑うこともある。


でも。


以前みたいに走り回ることは減った。


家へ帰ると静かになる。


ランドセルを置いて、そのままソファへ座る。


ぼーっとテレビを見る。


音は聞いていない。


白いパーカーだけは、相変わらずよく着ていた。


楓がくれたものだった。


ギターは部屋の隅へ立てかけられたままだった。


聖はまだ、まともに触れられない。


ケースを開けるだけで胸が苦しくなる。


ある日。


誠が部屋の前を通ると、小さな音が聞こえた。


ぽろん。


ぽろん。


ぎこちないコード。


誠は立ち止まる。


扉は少しだけ開いていた。


聖が床へ座っている。


俯いたまま、ゆっくり弦を鳴らしていた。


「……なにしてんの」


誠が声をかける。


聖は少し肩を震わせた。


「……れんしゅう」


「ふーん」


誠はそれだけ言う。


部屋へ入らない。


励まさない。


ただ壁へ寄りかかる。


聖はまた小さく弾き始める。


途中で音を止める。


「……まだ、こわい」


小さな声だった。


誠は少し黙る。


それから、


「別に無理して弾かなくていいだろ」


とだけ言った。


聖は俯いたまま頷く。


でも。


ギターは置かなかった。


そこから少しずつ、聖は音楽へ戻り始めた。


以前みたいに無邪気ではない。


けれど。


毎日少しずつ触る。


コードを確認する。


歌ってみる。


母さんも手伝った。


「そこ、コード変わるの早いかも」


「うん……」


「あと、リズム少し後ろ」


「むずい」


そんなやり取りが増える。


母さんは、聖へ強く押し付けたりはしなかった。


でも。


聖が本気で音楽へ戻ろうとしていることには、誰より早く気づいていた。


夏頃になると、聖の歌は以前と少し変わっていた。


技術だけじゃない。


空気が違う。


以前はただ可愛かった。


でも今は、妙に胸へ残る。


笑って歌っているのに、どこか寂しい。


それが聖自身にも説明できない。


ただ。


歌っている時だけ、少し呼吸が楽になる。


そんな感覚があった。


小学六年生になった頃。


母さんが、軽い気持ちで地元の歌の大会へ応募した。


「経験くらいね」


そんな感じだった。


小さな市民ホール。


観客もそこまで多くない。


地域イベントみたいなもの。


聖はかなり緊張していた。


「むりかも……」


舞台袖で小さく言う。


誠が後ろでジュースを飲みながら、


「今さらだろ」


と返す。


「お兄ちゃん他人事すぎ」


「だって俺歌わねぇし」


そんな会話をしながら。


聖はステージへ出た。


照明。


ざわざわした客席。


聖は小さく息を吸う。


そして。


歌い始めた。


会場が静かになる。


途中で誰も喋らなくなる。


歌が終わったあと、一瞬だけ空白ができた。


それから遅れて拍手が来る。


聖は少し驚いた顔をした。


まるで、


「なんでこんなに見られてるの?」


みたいに。


帰り道。


父さんが珍しく口を開いた。


「……すごかったな」


母さんも黙っている。


誠は少し後ろを歩きながら、聖を見る。


聖はコンビニで買ったアイスを食べていた。


いつも通りだった。


でも。


誠には分かった。


あれはもう、“上手い子供”じゃない。


人を惹きつける何かだった。


龍と健吾は、相変わらず家へ遊びに来ていた。


ただ以前より頻度は減っていた。


中学生になり、それぞれ忙しくなっていたからだ。


龍は野球へかなり本気になっていた。


日に焼けた肌。


伸びた身長。


声も少し低くなっている。


聖はまだ、それを恋愛とは思っていない。


でも。


龍が来る日は少し嬉しかった。


「聖ちゃんまた歌出たん?」


龍が笑いながら聞く。


「うん」


「すげぇなー」


頭をぐしゃぐしゃ撫でられる。


「やめて!」


聖が嫌がる。


龍は笑う。


健吾は横で肉まんを食べていた。


「でもほんまにすごかったで」


「健吾くんまでなんなの」


「有名人やな」


「ちがうし!」


聖は顔を赤くする。


でも少し嬉しそうだった。


誠は相変わらずだった。


夜遊び癖は抜けない。


少し危ない連中ともつるんでいる。


だが。


勉強だけは、ちゃんとやるようになっていた。


机へ向かう時間が増える。


帰宅部だったから時間もある。


ある夜。


聖が水を飲みにリビングへ降りると、誠が参考書を開いていた。


「……なにそれ」


「勉強」


「めずらし」


「うるせ」


誠はシャーペンを回しながら答える。


机には医学系の雑誌も置いてあった。


聖はそれを見る。

「お兄ちゃん。お医者さんになるの?」


誠は少し止まる。

それから、

「知らねぇ」

とだけ言った。

でも。

その顔は少しだけ、本気だった。

轟は時々、長谷川家へ来ていた。

もう楓はいない。

それでも来る。

聖の様子を見るためでもあった。

「最近どう?」

轟が聞く。

聖は少し考える。

「……歌は、前より好きかも」

轟は静かに聖を見る。

「そう」

「でも、まだちょっと苦しい」

聖は笑いながら言った。

その笑顔が。

少しだけ大人びて見えた。

轟は気づく。

聖は変わり始めている。

小さくて、無邪気だった少女が。

痛みを抱えたまま。

それでも前へ進こうとしている。

楓とは違う方向へ。

ちゃんと、生きる方向へ。




東京の春は、少し眩しかった。


人が多い。


ビルが高い。


電車がうるさい。


地元とは全部違った。


長谷川家が引っ越したマンションは、以前の家よりずっと綺麗だった。


オートロック。


白い廊下。


広いリビング。


それぞれの部屋。


誠は最初こそ、


「やっと自分の部屋できた」


と喜んでいたが、実際は前より家族で同じ空間にいる時間が増えていた。


聖が、まだ時々夜にリビングへ来るからだった。


聖は中学生になっていた。


制服も変わった。


身長も少し伸びている。


昔は兄弟の中で一人だけ小さかった。


だが最近、急に身体が成長し始めていた。


まだ幼さは残っている。


でも。


ふとした瞬間、妙に綺麗だった。



挿絵(By みてみん)



笑っていない時の横顔。


ぼんやり遠くを見る目。


歌っている時の表情。


そこに、少しだけ楓の面影があった。


ただ。


楓とは違う。


楓が静かに世界から離れていくような美しさだったのに対して。


聖は、ちゃんと世界へ向かっている。


痛みを抱えたまま。


それでも前へ出ようとしている顔だった。


中学生になってから、聖は本格的に路上ライブを始めるようになった。


最初は母さんが反対していた。


「東京の夜は危ないから」


当然だった。中学生の女の子が、夜の駅前で歌う。


心配しない親はいない。


だが。


聖は少しずつ、本気になっていた。


「もっと歌いたい」


その言葉の重さを、母さんは分かっていた。


だから最終的に、


「誠、絶対付き添いなさい」


という条件付きで許可した。


「なんで俺なんだよ」


「一番信用できるから」


「は?」


誠は不服そうだった。


でも結局、毎回ついて行った。


夜の東京駅前。


人の流れ。


雑踏。


ネオン。


聖はギターケースを下ろす。


以前より手つきが慣れている。


誠は少し離れた場所で缶コーヒーを飲みながら立っていた。

完全に保護者だった。


「お兄ちゃん、その立ち方怖いんだけど」


「うるせぇ」


「絶対職質されるよ」


「されねぇよ」


そんなやり取りをしながら。


聖はギターを抱える。


深呼吸する。


そして歌い始めた。


最初は誰も見向きもしない。


東京では珍しくもない。


路上ミュージシャンなんて山ほどいる。


でも。


少しずつ、人が止まり始める。


会社帰りのサラリーマン。制服姿の高校生。カップル。外国人。


みんな、少しだけ足を止める。


聖は歌う。


以前より声が変わっていた。


子供っぽさが少し抜けている。


でも透明感は残っている。


そして。


どこか痛みが混ざっている。


それが妙に人を惹きつけた。


歌い終わる。拍手が起こる。


聖は少し照れながら笑う。


その顔は、まだちゃんと中学生だった。




誠は高校生になっていた。


東京の進学校。


制服を着ていると、それなりに真面目そうに見える。


だが中身は相変わらずだった。


夜遊び癖もある。


口も悪い。帰宅部。でも。


勉強だけはちゃんとやるようになっていた。


地頭が良かった。


授業も理解できる。


模試の順位も高い。


ある日。


聖がリビングでギターを弾いていると、誠が医学書を読んでいた。


「……最近めっちゃ勉強してない?」


「まぁ」


「どうしたの」


「別に」


誠はページをめくる。


聖は少し見つめる。


「お兄ちゃん、お医者さんなりたいの?」


誠は少し止まった。


それから視線を逸らし、


「……まだ分かんね」と答える。だが。


その言葉は以前より本気に近かった。


龍と健吾は地元に残った。


龍は野球の強豪校へ進学した。


背もかなり伸びた。


元々高かったが、更に大きくなっている。


肩幅も広い。


身体も完全に野球選手のものになり始めていた。


健吾は地元の高校でラグビーを続けていた。


少し背は低い。


でも横に大きい。


相変わらず安心感のある体格だった。


二人とも、以前ほど頻繁には会えない。


それでも時々、東京へ遊びに来た。


その日は聖が少し嬉しそうだった。


特に龍が来る日は、妙に落ち着かない。


「聖ちゃんまた背伸びた?」


龍が笑う。


「……ちょっとだけ」


「もうすぐ抜かれそうやな」


頭を軽く撫でられる。


その瞬間。


聖の胸が少しだけ変な感じになる。


なんとなく落ち着かない。


でも、それが何なのかまでは、まだ分からない。


龍は相変わらずだった。


真っ直ぐで。


明るくて。


かっこよかった。


聖にとって、“頼れるお兄ちゃん”の延長みたいな存在だった。


ただ。


以前より少しだけ、近くにいると緊張するようになっていた。


父さんは仕事で更に忙しくなっていた。


出世したのだった。


帰宅は遅い。


電話も増えた。


休日も仕事が入る。


それでも。


以前より、家族を見るようになっていた。


「ライブどうだった」


「学校慣れたか」


「飯ちゃんと食ったか」


そんな何気ない言葉が増える。


大黒柱だった。


派手ではない。


でも。


この人がいるから、この家は立っている。


誠も最近、それを少し分かり始めていた。


母さんは相変わらず聖を応援していた。


過保護なくらい心配もしていた。


だが。


囲い込まない。


「気をつけてね」


そう言って送り出す。


聖の才能を、一番近くで理解していたからだった。


音感。


表現力。


吸収の速さ。


そして何より。


人の心へ届いてしまう声。


母さんは音楽の世界を知っていた。


だからこそ分かる。


この子は、多分、もう止まらない。


ある日の帰り道。


路上ライブのあと。


春の夜風が吹いていた。


聖がギターケースを背負いながら歩く。


「ねぇ」


「ん?」


「今日さ」


「うん」


「なんか、いっぱい人止まってたね」


誠は少し笑う。


「まぁ、お前の歌変だからな」


「はぁ!?」


「なんか残るんだよ」


聖は少し黙る。


それから小さく笑った。


遠くで電車の音が鳴る。


東京の夜は明るかった。


その光の中を。


聖は歩いていく。


楓がいない世界を。


痛みごと抱えたまま。


それでも。


ちゃんと前へ進みながら。




東京の夜は、人が多かった。


平日でも明るい。


駅前には誰かがいる。


歌っている人。


笑っている人。


酔っ払っている人。


誰も彼も、どこかへ向かって歩いている。


聖は駅前の端でギターを抱えていた。


春の終わり頃だった。


夜風が少し暖かい。


「今日、人多いね」


聖が言う。


誠は少し離れた場所で缶コーヒーを飲みながら、


「東京だからだろ」


と適当に返す。


聖は笑う。


それから深呼吸して、ギターを構えた。


少し離れた場所を、一人の男が歩いていた。


日下部(くさかべ)だった。


二十八歳。


仕事終わりだった。


ジャケットの襟を緩め、片手にコンビニの缶ビールを持っている。


疲れていた。


クラブのマネージャー業は、想像以上に気を使う。


出演者、店、客、金、トラブル。


若い頃思い描いていた“音楽”とは、少し違う場所へ来てしまった気もしていた。


昔は自分も、音楽で食っていくつもりだった。


ギターもやった。曲も作った。でも。


現実は甘くなかった。


才能がないことなんて、二十代前半で嫌というほど分かった。


だから今は、支える側にいる。


それなりに充実もしていた。


ただ。


音楽へ熱狂することは、もうあまりなくなっていた。


その時だった。


ギターの音が聞こえる。


日下部は最初、気にも留めなかった。


東京には掃いて捨てるほどいる。


路上ミュージシャンなんて、珍しくない。


だが。


数歩進んだところで、足が止まった。


歌声だった。


派手じゃない。


叫ぶわけでもない。


でも。


妙に耳へ残る。


日下部はゆっくり振り返る。


駅前。


人混みの中。


中学生くらいの少女が歌っている。


背はそこまで高くない。


まだ幼さも残っている。


でも。


不思議と目を引いた。


日下部は少し黙って聴く。


周囲の人間も、少しずつ立ち止まり始めていた。


会社帰りのサラリーマン。


学生。


カップル。


みんな、なんとなく足を止めている。


それを見て、日下部は少し驚く。


(……なんだこれ)


技術だけなら、もっと上手い人間はいくらでもいる。


プロでもいる。


でも。


この子の歌には、妙に“残る”ものがあった。


笑いながら歌っている。


楽しそうに。


なのに。


どこか痛い。


まるで、胸の奥に小さな傷を抱えたまま歌っているみたいだった。


日下部は缶ビールを口へ運ぶ。


ぬるかった。


それでも視線を外せない。


少し離れた場所では、誠が壁へ寄りかかっていた。


制服姿。


背が高い。


目つきが少し悪い。


完全にガラが悪い兄だった。


だが。


歌っている聖を見る目だけは、妙に静かだった。


日下部はなんとなく察する。


(兄貴か)



挿絵(By みてみん)



それからもう一度、聖を見る。


歌が終わる。


拍手が起きる。


聖は少し照れくさそうに笑った。


まだ子供みたいな顔だった。


でも。


その瞬間だけ、妙に綺麗だった。


日下部は無意識に、小さく息を吐く。


(……本物かもな)


そんな言葉が頭をよぎる。


久しぶりだった。


音楽を見て、少し鳥肌が立ったのは。


「お兄ちゃん、今日ちょっと人多かったね」


片付けながら聖が笑う。


「まぁ」


誠は短く返す。


「なんか変なおじさんずっと見てた」


「東京だしな」


「雑すぎない?」


聖は少し笑った。


日下部はその会話を遠くで聞きながら、ゆっくり歩き出す。


話しかけはしなかった。


名前も知らない。


それでも。


なぜか、妙に頭へ残った。


駅前の光。


夜風。


中学生の少女の歌声。


そして。


もう終わったと思っていた自分の中の何かが、少しだけ揺れた気がした。







高校受験が近づく頃には、みんな少しずつ変わっていた。


子供ではなくなっていた。


でも。


まだ大人にもなりきれていない。


そんな中途半端な時期だった。


長谷川家のリビングでは、最近進路の話が増えていた。


特に聖だった。


中学三年生。


路上ライブも増えている。


歌の大会も出ていた。


動画サイトへ上げた弾き語りも少しずつ再生され始めていた。


明らかに、普通の中学生ではなくなっていた。


だからこそ。


父さんも母さんも、進路についてはかなり悩んでいた。


「通信って……本当にそれでいいの?」


母さんが静かに言う。


聖はソファで膝を抱えたまま頷いた。


「うん」


「普通校でも音楽活動はできるでしょ」


「できるけど」


聖は少し考える。


それからゆっくり言った。


「もっとちゃんとやりたい」


その言葉は静かだった。


でも。


以前よりずっと強かった。


聖の成績は悪くなかった。


むしろ良い方だった。


頭の回転も速い。


要領もいい。


母さん譲りなのか、理解力もかなりある。


だから余計に、


「もったいない」


と周囲は思った。


だが。


聖はかなり冷静に、自分の人生を考えていた。


普通高校へ行けば、時間は減る。


活動も制限される。


ライブ。


練習。


路上。


作曲。


やりたいことは山ほどある。


そして。


聖はもう、自分がどこへ向かいたいのか分かっていた。


「歌手になる」


それは憧れではなく、覚悟に近かった。


「バイトもする」


ある日、聖がそう言った。


父さんが眉を上げる。


「別に金は出すぞ」


「うん。でも自分で稼ぎたい」


「高校生だぞ」


「分かってる」


聖は小さく笑う。


「でも、自分のことだし」


父さんは少し黙る。


その横で誠が缶ジュースを飲みながら聞いていた。


聖は続ける。


「お兄ちゃん大学行くし」


誠が止まる。


「……は?」


「医大ってめっちゃお金かかるんでしょ」


「いや、お前……」


「だから私の分まで使わなくていいよ」


聖は普通の顔で言う。だが。その言葉は、少しだけ大人だった。


父さんも母さんも黙る。


誠だけが、妙に居心地悪そうに目を逸らしていた。


誠も変わっていた。


高校生になってから、明らかに勉強量が増えていた。


東京の進学校。


帰宅部。


相変わらず夜遊び癖はある。


でも。


机へ向かう時間だけは、本当に増えていた。


「お前最近なんなん」


龍が呆れたように言う。


ファミレスだった。


久しぶりに四人が集まっていた。


「別に」


誠は適当に返す。


「前まで“適当に大学行って遊ぶ”とか言ってたやん」


健吾も笑う。


「言ってたな」


「なんで急に医大なん」


龍が聞く。


誠は少し黙る。


窓の外を見る。


それから。


「……なんか、そっちの方が向いてそうだから」


とだけ言った。


龍と健吾は顔を見合わせる。


意味はよく分からなかった。


でも。


誠が本気なのだけは分かった。


龍も変わっていた。


高校での野球は本気だった。


だが。


二年の終わり頃、肘を壊した。


完全には治らない怪我だった。


続けることはできる。


でも。


以前みたいには投げられない。


監督も、医者も、それとなく理解していた。


龍はしばらく悩んだ。


だが。


思ったより、絶望はしなかった。


「……あれ、俺意外と平気かも」


夜の電話で、誠へそう言った。


「野球人生終了だぞお前」


「まぁな」


龍は笑う。


「でも俺、野球そのものより、あの空気好きやったんかもしれん」


熱。


歓声。


才能。


夢。


人。


龍は昔から、“人”が好きだった。


だから次第に、別のことを考え始める。


ラップ。


音楽。


アーティスト。


そして。


「俺、事務所やろうかな」


そう言い始める。


「は?」


「才能ある奴、いっぱいおるやん」


龍の目は妙に真っ直ぐだった。


「埋もれてんの、もったいねぇ」


誠は少し笑う。


「あー、お前そういうの好きそう」


「だろ?」


龍は笑った。


怪我をしても。


龍は止まらなかった。


健吾は相変わらずだった。


ラグビーを続けながら、


「まぁ俺は普通に働くかな」


と笑っている。


父親と同じ工場勤務を考えていた。


そこに変な劣等感はなかった。


「健吾くんっぽい」


聖が言う。


「なんやそれ」


「なんか安心する」


健吾は少し笑った。


多分。


健吾はこれからも、こうやって笑う人なのだろう。


ある夜。


誠は久しぶりに轟と会っていた。


病院の屋上だった。


轟は煙草を吸っている。


夜風が白衣を揺らしていた。


誠はフェンスへ寄りかかる。


「医大行くらしいな」


轟が言う。


誠は少し眉を上げる。


「母さん?」


「まぁな」


轟は煙を吐く。


「なんで医者」


誠は少し黙る。


遠くの街を見る。


「……できる側になりてぇから」


轟は何も言わない。


誠は続ける。


「死にたい奴は別に死ねばいいと思ってる」


夜風が吹く。


「でも」


誠は静かに言った。


「生きたい奴が死ぬのは、なんかムカつく」


轟は煙草を咥えたまま、少しだけ目を細めた。


それから。


「……お前、医者向いてるかもな」


と、小さく言った。


誠は少し笑う。


「今さら?」


轟も少しだけ笑った。


夜の病院は静かだった。


遠くで救急車の音が聞こえる。


みんな少しずつ、前へ進んでいた。


痛みを抱えたまま。


それでも、自分の人生を選びながら。







春の夜だった。


東京は相変わらず明るい。


駅前のネオン。


人混み。


電車の音。


誰かの笑い声。


そんな騒がしい街の片隅で、聖はギターケースを下ろした。


高校一年生になっていた。


通信制高校。


制服はない。


今日は白いパーカーに黒いスキニーだった。


昔より背が伸びている。


もう百六十センチを超えていた。


細い。


けれど不健康ではない。


少し大人っぽくなった顔立ちと、まだ残る幼さが混ざっていた。



挿絵(By みてみん)



通り過ぎる人が、時々振り返る。


「あの子かわいくない?」


そんな声もたまに聞こえる。


でも。


歌い始めると、印象は少し変わった。


“可愛い子”ではなくなる。


空気が変わる。


聖はギターを構える。


相変わらず一本だけだった。


誠から貰ったギター。


少し傷も増えている。


シールの跡もある。


でもずっとこれだった。


弦を軽く鳴らす。


深呼吸。


そして歌い始めた。


夜の駅前へ、声が溶けていく。


少しずつ人が止まる。


立ち止まって、見る。


以前より、そういう人が増えていた。


歌が上手いだけではない。


なんとなく、目が離せない。


そんな空気があった。


少し離れた場所。


ガードレールへ座って、聖を見ている少年がいた。


アンだった。


もう何度目か分からない。


最初は偶然だった。


動画で見つけた。


それから気になって、実際に来た。


気づけば何回も来ている。


聖は別にアンと深く話すわけではない。


でも。


なんとなく顔は覚えていた。


「あ、また来てる」


くらいには。


ライブが終わる。


拍手。


小さな歓声。


聖は少し笑って頭を下げた。


客が散っていく。


アンは少し迷ってから近づく。


「あの」


聖が顔を上げる。


「あ、こんばんは」


普通に言った。


アンは少し驚く。


覚えられていると思っていなかった。


「……今日も、よかったです」


「ありがと」


聖は笑う。


その笑顔は、歌っている時よりずっと年相応だった。


アンは少し緊張したまま立っている。


聖はギターをケースへ戻しながら、


「寒くないの?」


と聞いた。


「え」


「いつも薄着じゃん」


アンは固まる。


聖は少し笑った。


「風邪ひくよ」


その言い方が妙に自然で。


アンは少しだけ顔を赤くした。


「迎えまだ?」


聖がスマホを見る。


「……あー、まだっぽい」


その言い方が妙に自然で。


アンは少しだけ顔を赤くした。


「迎えまだ?」


聖がスマホを見る。


「……あー、まだっぽい」


誠からの返信は短かった。


『あと20分』


聖は小さく息を吐く。


アンはなんとなく残っていた。


帰るタイミングを失っていた。


「お兄さん来るんですか」


「うん」


聖は頷く。


「夜はさすがにね」


少し笑う。


昔ほどではない。


毎回付き添いでもない。


でも。


夜だけは、誰かが迎えに来る。


それが長谷川家だった。


「聖ちゃん」


少しして、声が聞こえた。


振り向く。


そこには龍がいた。


黒いパーカー。


高い身長。


大学生になった龍は、以前より更に男っぽくなっていた。


肩幅も広い。


髪も少し伸びている。


「龍!?」


聖が驚く。


「今日東京おったから」


龍は笑う。


「誠いま大学で残ってるらしいで」


「えー」


「代わり来た」


龍は当たり前みたいに言った。


聖は少し笑う。


「なんか久しぶり」


「二週間ぶりや」


「結構久しぶりじゃん」


龍は笑った。


アンは少し離れた場所でその様子を見ていた。


龍は聖のギターケースを自然に持つ。


かなり慣れていた。


「帰るぞ」


「はーい」


聖は普通についていく。


その背中を見ながら、アンは少しだけ不思議な気持ちになる。


聖はステージの上では遠い。


綺麗で、少し近寄り難い。


でも今は、普通に笑っていた。


誰かの妹みたいに。


誰かの大事な人みたいに。


夜風が吹く。


春の東京は、少しだけ暖かかった。





雨上がりの夜だった。


路地は少し濡れていた。


ネオンがアスファルトへ反射している。


金曜の夜。


人は多い。笑い声。煙草の匂い。


どこかの店から低音の効いた音楽が漏れていた。


日下部はカウンター席で一人酒を飲んでいた。



挿絵(By みてみん)



いつものバーだった。


狭い店。


暗い照明。


古いジャズが流れている。


仕事終わりだった。


クラブのトラブル対応で疲れていた。


新人DJが客と揉めた。


酔っ払いの対応もした。


音楽業界は面倒臭い。


でも、嫌いにはなれなかった。


グラスを傾ける。


バーボンが喉を焼く。


その時だった。


「そこ、座っていいっすか?」


若い男の声。


日下部(くさかべ)が横を見る。


背の高い男だった。


黒いパーカー。


キャップ。


肩幅が広い。


スポーツやっていた身体だった。


「別に」


日下部が適当に返す。


男は「ども」と笑いながら座った。


妙に人懐っこい。




挿絵(By みてみん)




店員へ酒を注文する。


「ウイスキー飲める?」


店員が聞く。


「全然いけます」


その言い方が妙に慣れていた。


しばらく二人とも黙っていた。


バーの空気はそんなものだった。


無理に喋らない。


でも。


男の方が先に口を開いた。


「音楽関係の人っすか?」


日下部が少し眉を上げる。


「なんで」


「なんとなく」


男は笑った。


「音楽関係の人って、なんか顔疲れてるんで」


「偏見だろ」


「でも当たってるっしょ」


日下部は少し笑う。


「まぁな」


「やっぱり」


男も笑った。


妙に自然だった。


初対面なのに距離が近い。


でも不快じゃない。


「お前は?」


「俺? 今、事務所やろうとしてて」


「事務所?」


「ラップ系っす」


日下部が少し興味を持つ。


「アーティスト側じゃなくて?」


「そっちはまぁ……昔ちょっとやってたくらいで」


男は酒を飲む。


「俺、自分が前出るより、才能ある奴見つける方が好きなんすよね」


その言葉に、日下部は少しだけ反応した。


「へぇ」


「今めっちゃ探してます。若くてヤバい奴」


「そんな簡単にいねぇよ」


「いや、いるんすよ」


男は即答した。


目が真っ直ぐだった。


「埋もれてるだけで」


日下部は少し黙る。


それからグラスを回しながら、


「……まぁ、それは分かる」


と小さく言った。


話しているうちに、妙に気が合った。


音楽の話。


クラブ。


最近の若いラッパー。


配信。


現場。


話題が尽きない。


男はかなり詳しかった。


しかもちゃんと現場を見ている。


ネットだけじゃない。


そこが良かった。


「お前、何歳?」


「二十歳っす」


「若」


「そっちは?」


「二十八」


「うわ、めっちゃ先輩じゃないすか」


言いながら、男は全然敬っていなかった。


日下部は少し笑う。


「名前なんて言うの」


「朝日龍っす」


「変わってんな」


「よく言われます」


龍は笑う。


本当に人懐っこかった。


「そういや」


龍がスマホをいじりながら言う。


「最近よく見てる子いるんすよ」


「ラッパー?」


「いや、弾き語り」


日下部はなんとなく視線を向ける。


龍は動画を開いた。


そこには、駅前で歌う少女が映っていた。


ギター。


白い照明。


透明な声。


日下部の手が止まる。


龍は気づいていない。


「この子、マジでやばくて」


動画の中で、聖が歌っている。


日下部は少し黙る。


まさか、と思った。


「……知り合い?」


「まぁ」


龍は普通に答える。


「昔からのダチの妹っす」


日下部は動画を見る。


夜の路上。


歌声。


昔見た景色。


全部繋がる。


龍は笑った。


「聖ちゃんって言うんすけど」


日下部は小さく息を吐いた。


まさか。


あの路上の少女と。


この妙に距離の近い大学生が。


繋がっているとは思わなかった。


「……世間狭ぇな」


「ん?」


「いや、なんでもない」


日下部は酒を飲む。


少しだけ笑っていた。


そしてこの時、まだ知らなかった。


数ヶ月後。


自分がその“聖ちゃん”を、深夜に車で迎えに行くことになるなんて。



挿絵(By みてみん)



夜。


春も終わりかけている。


風は少しぬるい。


ライブ終わり。


聖はギターケースを背負ったまま、コンビニ前の縁石へ座っていた。


缶のカフェオレを両手で持っている。


隣には誠。


少し離れて龍と健吾。


四人で集まるのは久しぶりだった。


「腹減った」


健吾が言う。


「さっきラーメン食ったやん」


龍が笑う。


「もう減った」


「お前ほんま燃費悪いな」


「ラグビー部やぞ」


「知らんわ」


いつもの会話だった。


でも。


みんな少しずつ大人になっていた。


誠はもう大学生だった。


黒いパーカーに、疲れた顔。


背もかなり伸びている。


昔より更に静かになっていた。


龍も変わった。


大学へ通いながら、東京を走り回っている。


音楽。


クラブ。


人脈。


毎日色んな場所へ顔を出していた。


健吾だけが少し変わらない。


そこが妙に安心した。


「聖ちゃん最近また歌変わったよな」


龍が言う。


聖が顔を上げる。


「そう?」


「なんか前より……なんやろ」


龍は少し考える。


「アーティストっぽい」


「なんだそれ」


誠が缶コーヒーを飲みながら言う。


龍は笑った。


「いや、前までは“めっちゃ歌うまい子”感強かったやん」


「今は?」


「なんか、自分の音楽ある感じ」


聖は少し黙る。


それから小さく笑った。


「最近、曲作ってるからかも」


健吾が反応する。


「マジ?」


「うん」


「すげぇな」


健吾は素直に感心した。


誠は少しだけ視線を向ける。


「完成したの」


「まだ全然」


聖はカフェオレを飲む。


「サビだけとかばっか」


「どんな曲なん」


龍が聞く。


聖は少し考える。


「……夜っぽい」


「お前の曲全部夜っぽそう」


誠が言う。


「なにそれ」


聖が少し笑う。


車が通り過ぎていく。


ネオンが道路へ滲む。


夜の東京は明るい。


でも。


どこか寂しかった。


「そういや」


龍がスマホをいじりながら言った。


「最近おもろい人と知り合ったわ」


「誰」


聖が聞く。


「業界の人」


「また?」


誠が呆れたように言う。


「いや、でもこの人結構すごい」


龍は少し笑う。


「昔バンドとかもやってたらしい」


「へぇ」


「今クラブ関係の仕事してんねんけど、めっちゃ音楽詳しい」


「名前は?」


「日下部さん」


聖はその名前に少しだけ反応した。


どこかで聞いたような気がした。


でも思い出せない。


龍は続ける。


「最初バーで会ってんけど、めっちゃ顔疲れてて笑った」


「失礼すぎるやろ」


健吾が笑う。


「いやでもおもろい人やで」


龍は楽しそうだった。


「なんかダルそうやのに、ちゃんと音楽好きなん分かる」


誠は少し黙って聞いている。


龍は続ける。


「多分聖ちゃんのこと好きやと思う」


「え」


聖が変な顔をする。


「いや変な意味ちゃうぞ」


龍が笑った。


「なんか気に入ってる感じ」


「会ったことないのに?」


「いや、あるっぽい」


聖が少し首を傾げる。


龍は缶ビールを飲む。


「なんか前から知ってた反応してた」


夜風が吹く。


聖は少しだけ考え込んだ。


でも結局思い出せなかった。


「まぁええわ」


龍が立ち上がる。


「そろそろ移動する?」


「どこ行くん」


健吾が聞く。


「知り合いのクラブちょっと顔出す」


誠が聖を見る。


「お前は?」


聖は少し考えてから、


「行くだけ行く」


と言った。


誠は少しだけ笑う。


「危なかったら帰すぞ」


「はーい」


その返事は軽かった。


でも。


聖はもう、昔みたいな“連れて行かれるだけの子”ではなかった。


夜の街を、自分の足で歩いていた。


それでも。


隣にはまだ、誠たちがいる。


そのことが、少しだけ暖かかった。





夜のライブハウスは少し暑かった。


地下。


狭い空間。


酒の匂い。


アンプの低音が床を震わせている。


聖はステージ袖でギターケースを抱えながら、小さく息を吐いた。


高校二年生になっていた。


背はかなり伸びた。


もう百六十センチを超えている。


昔みたいな“小さくて可愛い子”という印象ではなくなっていた。


細い肩。


白い肌。


長くなった手足。


ふとした瞬間、かなり綺麗に見える。


でも。


その細さは少し危うかった。


昔の聖を知る人間ほど、それを感じる。


「聖」


後ろから声がした。


振り向く。


尊じいちゃんだった。


今日は東京まで来ていた。


少し腰が曲がっている。


でも背筋はまだ強い。


昔みたいに、


「聖ー!!」


と大声では呼ばなかった。


静かに近づいてくる。


「……じいちゃん」


聖が少し笑う。


「来てたの?」


「うむ」


尊じいちゃんは短く頷いた。


それから聖を見る。


じっと。


細くなった身体。


でもまっすぐ立っている姿。


全部見ている。


「ちゃんと飯食っとるか」


聖は少し笑った。


「食べてるよ」


「嘘つけ」


昔ならそこで説教が始まっていた。


もっと大声だった。


もっと乱暴だった。


でも今の尊じいちゃんは、それ以上言わなかった。


ただ小さく、


「……無理はするな」


と言った。


聖は少しだけ黙る。


それから、


「うん」


と頷いた。


その返事が少し子供っぽくて。


尊じいちゃんは少し安心したように目を細めた。


ライブが始まる。


照明が落ちる。


聖はステージへ出た。


拍手。


歓声。


でも聖は少し静かだった。


ギターを構える。


相変わらず一本だけ。


誠から貰ったギター。


長く使い込まれている。


聖はマイクの前へ立つ。


少しだけ目を閉じた。


それから歌い始める。


透明な声が、地下の空間へ広がっていく。


客が静かになる。


誰も喋らない。


ただ聖を見る。


後方。


尊じいちゃんは腕を組んだまま、静かに立っていた。


昔みたいに叫ばない。


名前も呼ばない。


でも。


ずっと見ている。


その目だけは、昔よりずっと優しかった。


二曲目の途中だった。


聖の声が少し揺れた。


本当にほんの少し。


誰も気づかないくらい。


でも。


誠は気づいた。


壁際で腕を組みながら見ていた誠が、少しだけ目を細める。


聖も分かっていた。


今、自分が少し危ないこと。


歌詞の一節。


“春が来ても、まだ夜の中にいる”


その瞬間。


楓の顔が浮かんだ。


白いパーカー。


冬。


細い背中。


「聖」


優しい声。


胸が少しだけ苦しくなる。


泣きそうだった。


でも。


聖は歌う。


少しだけ息を吸って、前を向く。


声を切らさない。


その強さが、余計に痛々しかった。



挿絵(By みてみん)



ライブ後。


外は夜風が冷たかった。


龍がコンビニ袋を持ちながら歩いてくる。


「聖ちゃん、お疲れ」


「つかれたー」


聖が少しだけだるそうに笑う。


その顔は年相応だった。


ステージの上とは全然違う。


「ほら、これ」


龍が肉まんを渡す。


「え、やった」


聖は嬉しそうに受け取る。


熱そうにしながら食べ始めた。


誠がそれを見る。


「……お前ほんと、好きなもんだけは食うよな」


「うるさい」


聖が少し笑う。


その瞬間だけ、昔の食いしん坊の聖へ戻ったみたいだった。


「で、日下部さんどこ」


龍が辺りを見る。


「あー、そこ」


少し離れた場所。


黒い車へ寄りかかりながら、煙草を吸っている男がいた。


日下部だった。


だるそうな顔。


黒いジャケット。


眠そうな目。


「なんで俺が迎えやねん……」


ぼそっと言う。


「いいじゃないすか」


龍が笑う。


「タクシー代浮くし」


「お前ほんまムカつくな」


でも日下部は帰らない。


ちゃんと待っている。


「聖ちゃん、この人日下部さん」


聖が軽く頭を下げる。


「こんばんは」


「……どうも」


日下部は少しだけ驚いていた。


ステージの上の聖しか知らなかった


もっと近寄り難い存在だと思っていた。


でも今目の前にいるのは、


肉まんを頬張って、


「熱っ」


とか言っている普通の女の子だった。


しかも少し眠そうで。


少し疲れていて。


細い肩でギターケースを背負っている。


その姿が妙に年相応で。


日下部は少しだけ安心した。


「あの」


聖が言う。


「いつも運転ありがとうございます」


その言い方も、普通だった。


変にスターっぽくない。


日下部は煙草を見ながら、


「……別に俺、運転手じゃねぇし」


と言う。


龍が笑う。


「もう半分そうやん」


「違ぇよ」


でも。


日下部は少しだけ笑っていた。


その時にはもう。


“才能あるアーティスト”


としてだけではなく、


“放っておけない普通の子”


としても、聖を見始めていた。




夏。


夜でも蒸し暑い。


駅前には人が溢れている。


ネオン。


笑い声。


電車のブレーキ音。


その喧騒の中で、聖は今日も歌っていた。


以前より、人が止まる。


明らかに増えていた。


「今日やってる?」


そんな投稿がSNSへ流れ。


それを見て来る人もいる。


最初は“路上で歌の上手い女の子”だった。


でも今は少し違う。


名前を知っている人が増えていた。


「聖ちゃん」


そう呼ぶ人がいる。


動画を撮る人もいる。


ライブハウスから声もかかり始めていた。


そして。


音楽業界の中でも、少しずつ名前が広がっていた。


歌い終わる。


拍手。


歓声。


聖は軽く頭を下げた。


汗で前髪が少し張りついている。


昔より痩せた身体。


細い肩。


でもステージの上では、その危うさごと人を惹きつけていた。


「今日めっちゃ人おったな」


ギターを片付けながら聖が言う。


「だね」


横から声が返る。


アンだった。


最初より自然に話すようになっていた。


迎えが来るまで、アンが残っていることも増えていた。


聖もそれを当たり前みたいに受け入れている。


「暑くない?」


聖が聞く。


「暑い」


「じゃあなんでパーカー着てんの」


アンは少し困った顔をする。


最初の頃より緊張しなくなっている。


でも。


聖を見る時だけ、少しだけ目が真っ直ぐだった。


「新曲やってたよね」


アンが言う。


聖が頷く。


「まだ途中だけどね」


「好きかも」


「ほんと?」


「うん」


聖は少しだけ照れくさそうに笑った。


その顔は年相応だった。


ステージの上の“アーティスト”の顔ではない。


普通の高校生みたいだった。


少し離れた場所。


日下部は煙草を吸いながら、その様子を見ていた。


龍に呼び出されて来た。


半分タクシー扱いだった。


「日下部さん今日暇っすよね?」


と言われ。


「暇じゃねぇ」


と返したのに。


気づけば車を出していた。


「また来てるやん」


龍が笑いながら缶コーヒーを渡してくる。


「お前が呼んだんだろ」


「まぁまぁ」


龍は楽しそうだった。


最近の龍は特にそうだった。


目が生きている。


東京を走り回り。


人と会い。


クラブへ行き。


ライブを見て。


毎日何かを吸収していた。


「事務所、正式に決まったわ」


龍が言う。


日下部が少し視線を向ける。


「マジでやるんか」


「やる」


龍は即答した。


迷いがなかった。


「小さいとこからやけど」


「金は?」


「親もちょっと出してくれる」


「甘やかされてんなぁ」


「使えるもん使う」


龍は笑う。


でも。


その目はかなり本気だった。


「ラッパーも何人か声かけてる」


「へぇ」


「まだ荒いけど、熱ある奴結構おる」


龍は夜の街を見る。


「俺、やっぱ好きなんすよね」


「何が」


「人生変えようとしてる奴見るの」


日下部は少し黙る。


それから煙草を吐いた。


「お前、そういうとこあるよな」


龍は笑った。


その時だった。


「龍ー!」


聖がこっちへ歩いてくる。


ギターケースを背負っている。


汗で少し顔が赤い。


細い。


でもちゃんと前を向いて歩いている。


アンも少し後ろからついてきていた。


「終わった?」


「おわったー」


聖がだるそうに笑う。


龍が自然にギターケースを持つ。


かなり慣れていた。


「お疲れさん」


「疲れた」


聖はそのままコンビニの袋を覗き込む。


「なんかある?」


「食う?」


龍がパンを渡す。


聖は嬉しそうに受け取った。


日下部はそれを見ていた。


ステージの上では、あんなに綺麗だったのに。


今は普通に、


「クリームパンだ」


とか言って喜んでいる。


そのギャップが妙に人間っぽくて。


少し安心する。


「この子?」


アンを見ながら日下部が聞く。


「最近よく来てくれてる」


聖が言う。


アンは少し緊張したまま頭を下げた。


「アンです」


「どうも」


日下部は軽く返す。


聖はアンへ自然に話しかける。


「今日帰り大丈夫?」


「うん」


「ちゃんと寝なよ」


「聖も」


「私はこれから作曲するから」


「寝ろや」


誠の声だった。


いつの間にか来ていた。


大学帰り。


疲れた顔。


でもちゃんと迎えに来る。


聖は少し笑った。


「お兄ちゃん遅い」


「お前が遅ぇんだよ」


そのやり取りを見ながら。


日下部はなんとなく思う。


この子は。


確かに特別だ。


でも同時に。


誰かの妹で。


誰かの娘で。


誰かに守られながら生きている、普通の女の子でもあるのだと。


そして多分。


だからこそ、人を惹きつけるのだろうと思った。




夜十一時を過ぎていた。


ライブ終わり。


駅前の人通りも少し減っている。


聖はコンビニの前でギターケースへ寄りかかりながら、スマホを見ていた。


誠はまだ来ていない。


『あと15分』


短いメッセージだけ来ている。


「今日遅いね」


声がした。


アンだった。


聖が顔を上げる。


「あれ、今日仕事?」


アンは頷く。


黒い作業着を着ていた。


少し汚れている。


袖も擦れていた。


胸元には知らない会社のロゴ。


夜の街へあまり馴染まない格好だった。


挿絵(By みてみん)


「さっき終わった」


「お疲れ」


聖が言う。


アンは少しだけ笑った。


最初の頃より、

アンはよく喋るようになっていた。


でも。


どこか危うい空気はずっとあった。


まだ若い。


多分、聖とそこまで年も変わらない。


でも。


目だけが少し大人だった。


「今日人多かった」


アンが言う。


「ね」


「有名になった」


「そんなことないよ」


聖は笑った。


でも実際、

以前よりファンはかなり増えている。


ライブの誘いも来る。


動画の再生数も伸びている。


音楽関係者も見に来るようになっていた。


聖自身は、まだそこまで実感していなかったけれど。


「アンくん今日何の仕事してたの」


アンは少し黙った。


それから、


「解体」


と言った。


「え」


「古いビル壊す仕事」


聖は少し驚く。


アンは細くはない。


でもまだ若い。


その身体でそんな仕事をしているのが、少し危なっかしく見えた。


「危なくないの?」


アンは少し笑う。


「危ない」


軽く言った。


その言い方が妙にリアルで。


聖は少しだけ眉を寄せる。


「ちゃんと寝てる?」


聖が聞く。


「寝てる」


「ほんと?」


「たぶん」


「たぶんって何」


聖が少し笑う。


でも。


その顔は少し心配そうだった。


アンはそれを見て、

少し目を逸らした。


多分。


そんな顔を向けられることに、

まだ慣れていなかった。


風が吹く。


夜の東京は少し湿っている。


アンは自販機のコーヒーを飲みながら、ぼんやり前を見る。


「日本、長いの?」


聖が聞く。


「三年くらい」


「そっか」


「お金いるから」


その言い方は軽かった。


でも。


軽く言える話ではないことくらい、聖にも分かった。


アンの手は少し荒れていた。


指先も硬い。


作業の傷もある。


聖はそれを見てしまう。


自分と同じくらいの年齢なのに。


この子は、もう働いている。


しかも多分、

かなり危ない仕事を。


「……無理しないでね」


聖が小さく言う。


アンは少し黙る。


それから、


「聖も」


と返した。


聖が少し固まる。


アンは続ける。


「聖、いつも無理してる顔する」


聖は思わず笑ってしまった。


「そんなことないし」


「する」


アンは真面目に言う。


その目が真っ直ぐで。


聖は少しだけ困ったように笑った。


その時。


黒い車がゆっくり止まる。


助手席の窓が開く。


「おせぇ」


誠だった。


疲れた顔。


少し煙草の匂い。


大学帰りなのだろう。


聖は小さく笑う。


「迎えきた」


アンは少し下がる。


誠はアンを見る。


最初の頃より、警戒は薄れていた。


でも完全には消えていない。


誠はそういう男だった。


「じゃ、帰るね」


聖が言う。


アンは頷く。


「またね」


「うん」


聖は車へ向かう。


ギターケースを抱えながら。


その細い背中を、

アンは少しだけ見つめていた。


夜の東京は広い。


でも。


その中で聖だけは、

妙に光って見えた。




夜の首都高だった。


車の窓が少し開いている。


湿った夏の風が入ってきた。


運転席には日下部。


煙草を咥えながら、

だるそうにハンドルを握っている。


「……なんで毎回こんな人数乗ってんだよ」


「広いやん」


龍が笑う。


「ワゴン車舐めんな」


「いや感謝してますって」


「思ってねぇだろ」


思い切り思っていなさそうだった。


後部座席。


聖はギターケースを抱えながら、

眠そうに窓へ寄りかかっている。


その隣にアン。


前には誠と健吾。


もうアンがいることへ、

そこまで違和感はなくなっていた。


最初の頃。


誠はかなり警戒していた。


どこの誰かも分からない。


夜に現れる。


しかも外国人。


聖へ近づいてくる。


誠からすれば、

簡単に信用できる相手ではなかった。


でも。


時間が経った。


アンは変わらずライブへ来た。


変に距離を詰めすぎない。


危ないこともしない。


そして何より。


ちゃんと働いていた。


「今日何時までやったん」


健吾が聞く。


「六時から、今くらいまで」


アンが答える。


「長っ」


「解体?」


誠が聞く。


アンが頷く。


「腰いわさん?」


龍が笑う。


アンも少し笑った。


「ちょっと痛い」


「若いのに終わってるやん」


車の中で笑いが起きる。


アンも少しだけ笑っていた。


最初より表情が柔らかい。


誠が窓の外を見ながら言う。


「まぁ偉いよな」


アンが少し顔を上げる。


「高校くらいの歳で働いてんだろ」


「……まぁ」


「普通にすげぇと思う」


誠はそれだけ言った。


照れもなく。


自然に。


アンは少し黙る。


それから小さく、


「ありがとう」


と言った。


聖はそのやり取りを聞きながら、

少しだけ嬉しそうにしていた。


アンが認められているのが、

なんとなく分かったから。


「てか龍」


健吾が言う。


「お前ほんま最近社長感出してんな」


「あ?」


龍が笑う。


「これ見ろ」


そう言って、

龍がポケットから名刺を出した。


黒い名刺だった。


シンプルなデザイン。


そこには、


『朝日 龍』


と書かれている。


その下に、

事務所名。


肩書き。


電話番号。


「うわ、ほんまに作ってる」


聖が笑う。


「かっこつけやがって」


誠も少し笑った。


龍は嬉しそうだった。


「いや普通にいるからな、こういうの」


「似合ってんのが腹立つ」


健吾が言う。


「やろ?」


龍はかなり満足そうだった。


「アンくんもいる?」


龍がふざけて名刺を差し出す。


アンは少し困った顔をする。


「俺、ない」


「今度作ったるわ」


「何の」


「“朝日エンターテインメント関係者”」


「怪しすぎるやろ」


日下部が前から突っ込む。


車内でまた笑いが起きた。


聖も笑っていた。


その笑い方は、

昔みたいに無邪気ではない。


でも。


ちゃんと楽しそうだった。


車は夜の街を走る。


コンビニへ寄り。


ファミレスへ寄り。


時々音楽を流し。


意味もなく遠回りした。


誰も急いで帰ろうとしなかった。


深夜二時。


ファミレス。


聖はポテトをつまみながら、

眠そうにしている。


「お前また食ってる」


誠が言う。


「お腹空いた」


「ライブ後ほんま食うよな」


「だって疲れるし」


龍が笑う。


「聖ちゃん昔に戻ってるやん」


「何が」


「食いしん坊」


聖は少しむっとした顔をする。


でも。


どこか嬉しそうだった。


アンはその様子を静かに見ていた。


多分。


こういう時間を、

あまり知らなかった。


誰かと、

意味もなく夜を過ごす時間。


ただ笑う時間。


何も生まれない時間。


でも。


だからこそ暖かかった。


日下部がコーヒーを飲みながら言う。


「お前らほんと元気だな……」


「日下部さん老けた?」


龍が笑う。


「うるせぇ」


「でも最近ちょっと楽しそうっすよ」


「気のせいだ」


そう言いながら。


日下部も少し笑っていた。


窓の外では、

東京の灯りが流れていく。


みんなまだ若かった。


将来なんて、

ちゃんと分かっていない。


でも。


少しずつ前へ進いていた。


その夜だけは。


誰も孤独じゃなかった。


雨の夜だった。


東京はずっと湿っている。


アスファルトが黒く光っていた。


「マジで最悪やわ」


龍が吐き捨てるように言った。


珍しく苛立っていた。


ファミレスのテーブルへ肘をつき、スマホを睨んでいる。


誠がコーヒーを飲みながら聞く。


「まだ揉めてんの」


「飛ばれた」


「金?」


「金もやし、音源も」


龍は舌打ちする。


「だるすぎるやろほんま」


事務所を立ち上げてから、

龍の周囲には人が増えた。


夢を持った若いラッパー。


クラブ関係者。


金の匂いを嗅ぎつけた人間。


色んな人間が集まる。


当然、


トラブルも起きる。


龍は今、

その現実を真正面から食らっていた。


「警察は?」


健吾が聞く。


「まぁ動いてるけど、期待してへん」


「だりぃな」


「ほんまそれ」


龍は疲れた顔で笑う。


でも。


その目はまだ死んでいなかった。


そこが龍だった。


聖は黙って龍を見ていた。


少し心配そうだった。


龍は昔から強い。


でも。


最近は背負っているものが増えている。


事務所。


所属ラッパー。


金。


責任。


夢だけで走れる段階は終わっていた。


「龍」


聖が小さく言う。


「ちゃんと寝てる?」


龍は少し笑った。


「お前にだけは言われたない」


「私は寝てるし」


「嘘つけ」


誠が横から言う。


聖がむっとする。


少しだけ空気が柔らかくなった。


その頃。


長谷川家では、

ある空気が静かに共有され始めていた。


聖は。


もういつデビューしてもおかしくない。


誰も口にしない。


でも。


みんな分かっていた。


ライブの規模は少しずつ大きくなっていた。


業界関係者も増えた。


曲も完成度が上がっている。


聖自身、

もう“趣味”では歌っていない。


覚悟がある。


プロの目をしている時がある。


それを家族は知っていた。


休日。


長谷川家。


リビングにはピアノの音が流れていた。


八重桜理人だった。


椿の父。


現役のピアニスト。


歳は重ねている。


でも。


指はまだ美しかった。


静かな旋律だった。


無駄な力が一切ない。


音だけで空気が変わる。


誠ですら、

自然と口数が減る。


理人は、

演奏中ほとんど表情を変えない。


でも。


その背中には、

長年音楽で生きてきた人間の凄みがあった。


聖はその音を、

ソファで膝を抱えながら聞いていた。


理人が演奏を終える。


静寂。


それから小さく息を吐いた。


「……どうだった」


聖が聞く。


理人は少し考えてから言う。


「良い曲だ」


短い。


でも。


その一言にはかなり重みがあった。


聖は少しだけ照れたように笑う。


「お前、もう時間の問題だな」


理人が静かに言う。


リビングが少し静かになる。


お父さんも。


お母さんも。


誠も。


誰も否定しなかった。


それがもう、

答えみたいなものだった。


「まぁまだ高校生だし」


聖が少し笑いながら言う。


でも。


その笑顔の奥に、

少し覚悟が見えた。


誠はそれを見ていた。


夜。


ライブ終わり。


アンは今日も来ていた。


最近は、

終わった後に少し話すのが当たり前になっている。


「今日新曲やってた」


アンが言う。


「まだ途中だけどね」


「好き」


聖は少し笑う。


「アンくん、毎回それ言う」


「ほんとだから」


アンは真面目に返す。


聖が少し困ったように笑った。


沈黙。


でも気まずくない。


夜風だけが流れている。


「聖」


アンが言う。


「たぶん、もうすぐ有名になる」


聖は少し黙った。


それから、


「どうだろ」


と小さく笑う。


アンは首を振る。


「なる」


その言い方は静かだった。


でも。


どこか寂しそうだった。


聖はそれに気づく。


でも。


何も言えなかった。


遠くで車のクラクションが鳴る。


日下部の車だった。


助手席から龍が顔を出す。


「おーい!聖ちゃん!」


「うるさ」


誠の声も聞こえる。


健吾も笑っている。


いつもの夜だった。


でも。


少しずつ終わりへ向かっている夜でもあった。




冬の始まりだった。


東京の夜は冷たい。


でも。


みんな少しずつ前へ進いていた。


誠は大学の図書室にいた。


机の上には大量の資料。


コーヒー。


書き込みだらけのノート。


医大に入ってから、

生活はかなり変わった。


遊ぶ時間は減った。


寝る時間も減った。


試験期間に入ると、

ほとんど大学へ住んでいるような状態になる。


「長谷川、お前まだいるのか」


同級生が呆れたように言う。


誠は参考書から目を離さない。


「うるせぇ」


「怖」


でも。


ちゃんと結果は出す。


それが誠だった。


少し疲れた横顔。


無精髭。


眠そうな目。


昔の悪ガキ感は消えていない。


でも今は、

そこへ静かな色気が混ざっていた。


龍は別の夜を生きていた。


クラブ。


バー。


ライブハウス。


色んな場所へ顔を出している。


名刺交換。


打ち合わせ。


酒。


煙草。


若いラッパーたち。


トラブルも多い。


でも。


龍はそこでちゃんと戦っていた。


「朝日さん、次のイベントなんですけど」


「あとで送っといて」


龍は自然に話を回す。


業界人の顔になっていた。


でも。


時々スマホを見て、

聖のライブ告知を確認している。


そこは変わらない。


健吾は工場だった。


油の匂い。


鉄の音。


冬でも少し暑い。


額に汗を浮かべながら働いている。


決して派手な人生ではない。


でも。


健吾は真面目だった。


先輩からも可愛がられている。


仕事終わり。


缶コーヒーを飲みながら、

スマホで聖の動画を見る。


「すげぇなぁ」


誰へ言うでもなく呟く。


でも。


その顔は少し誇らしそうだった。


そして。


その夜が来る。


駅前。


路上ライブ。


いつもより人が多かった。


聖はギターを抱えながら、

静かに息を吐く。


冬の白い息が夜へ溶ける。


アンも来ていた。


少し離れた場所。


黒いパーカー。


黙って聖を見ている。


聖はマイクの前へ立つ。


歓声。


でも。


今日は少し空気が違った。


聖自身が分かっていた。


今日、

一つ完成したのだと。


「新しい曲、やります」


静かな声だった。


ギターを鳴らす。


最初のコード。


それだけで空気が変わる。


ざわついていた駅前が、

少しずつ静かになる。


歌が始まる。


それは。


今までの聖が全部入った曲だった。


楓の死。


夜。


東京。


孤独。


優しさ。


痛み。


全部。


でも。


ただ暗いだけじゃない。


ちゃんと“生きようとしている”歌だった。


人が止まる。


通行人が振り返る。


誰も喋らない。


ただ聖を見る。


アンは少し息を呑んだ。


知っていた。


聖が特別だということ。


でも。


今の歌は、

それを超えていた。


歌い終わる。


静寂。


それから。


拍手が爆発する。


歓声。


スマホを向ける人。


泣いている人までいた。


でも。


聖はまだ終わらなかった。


少しだけ息を吸う。


それから静かに言う。


「……次、最後です」


ギターを鳴らす。


誰でも知っているメロディだった。


“きらきら星”。


でも。


誰も知っている“きらきら星”ではなかった。


アレンジ。


コード。


間。


声。


全部が違う。


優しく。


静かで。


どこか祈りみたいだった。


聖は歌う。


夜空を見るみたいに。


遠い誰かへ語りかけるみたいに。


楓のことを、

直接歌っているわけではない。


でも。


そこにいる全員が、

何かを感じてしまう。


失ったもの。


会いたい人。


帰れない時間。


全部。


アンは動けなかった。


胸が苦しい。


聖は。


もう遠くへ行ってしまう。


その予感が、

はっきり形になった。


でも同時に。


こんなにも綺麗なものを見れていることが、

少し嬉しかった。


演奏が終わる。


夜の駅前は、

しばらく静まり返っていた。


それから。


大きな拍手が起きる。


歓声。


ざわめき。


誰かが言う。


「やばい……」


「誰この子……」


「プロじゃないの?」


スマホの録画は、

すでにSNSへ上がり始めていた。



挿絵(By みてみん)



その動画は、

一晩で広がる。


二晩目には、

全国へ広がっていた。


“路上ライブの女の子”


として。


“きらきら星を歌った少女”


として。


聖の名前が、

全国へ届き始める。


少し離れた場所。


誠は壁へ寄りかかりながら、

静かにそれを見ていた。


龍もいた。


健吾も。


日下部も。


みんな分かっていた。


ああ。


もう本当に、

ここまで来たんだな、と。




“きらきら星”の動画は、

本当に一夜で広がった。


最初はSNSだった。


そこから動画サイト。


ニュース。


テレビ。


そして音楽業界。


「誰だこの子」


「路上?」


「やばくない?」


そんな言葉が、

あっという間に日本中へ広がっていった。


聖は一躍有名になる。


“きらきら星の子”。


そう呼ばれるようになった。


事務所からの連絡も増えた。


レコード会社。


芸能事務所。


ライブ出演。


インタビュー。


高校生とは思えない勢いで、

世界が変わっていく。


でも。


聖はすぐにはデビューしなかった。


高校を卒業するまで待った。


そこは家族とも話し合って決めた。


焦る必要はない。


もう。


いつでも行ける場所まで来ていたから。


卒業式の日。


聖は少し泣いた。


でも。


その涙は、

昔みたいな悲しみだけではなかった。


春。


聖は正式にデビューする。


デビュー曲は大ヒットした。


透明感のある声。


独特の夜の空気。


そしてどこか痛みを抱えた歌詞。


若い世代を中心に、

一気に広がっていく。


アニメ主題歌も担当した。


テレビにも呼ばれる。


雑誌。


ラジオ。


ライブ。


街中で聖の曲が流れる。


高校生だった少女は、

本当にスターになっていた。


そして。


聖はかなり綺麗になっていた。


昔の可愛さは残っている。


でも。


今はそこへ、

静かな美しさが混ざっていた。


それでも。


人々は“きらきら星”を求めた。


ライブでイントロが流れるだけで歓声が上がる。


泣き出す人もいる。


熱狂的なファンも増えていた。


“きらきら星の子”。


その名前は、

しばらく消えなかった。


ある夜。


仕事終わり。


車の中。


運転席には日下部。


助手席には聖。


東京の夜景が窓の外を流れていた。


「疲れた?」


日下部が聞く。


「ちょっと」


聖はシートへ沈み込みながら笑う。


昔より、

少しだけ大人っぽい笑い方だった。


「でも楽しかった」


「ならいい」


日下部は短く返す。


沈黙。


でも気まずくない。


昔からそうだった。


日下部は少し前から、

正式に聖の専属マネージャーになっていた。


最初は断っていた。


「俺向いてねぇ」


と言っていた。


でも。


結局引き受けた。


多分。


もう他人事ではなかったから。


「……ねぇ」


聖が言う。


「ん?」


「そういえばさ」


「何」


「日下部さんの下の名前って、“(ひろし)”なんだね」


日下部が少し固まる。


「龍から聞いた」


「余計なこと言いやがって……」


聖が少し笑う。


「なんか意外だった」


「何が」


「もっと怖い名前かと思ってた」


「どういう意味だよ」


日下部は呆れたように笑う。


聖も笑う。


その空気は、

少し父と娘みたいだった。


「……でも」


聖が窓の外を見ながら言う。


「“寛”って、日下部さんっぽい」


日下部は何も返さなかった。


でも。


少しだけ照れていた。


誠は研修医になっていた。


忙しい。


寝不足。


夜勤。


それでも。


ちゃんと前へ進いていた。


患者と向き合う時の誠は、

かなり静かだった。


そして少し怖かった。


でも。


その姿は轟によく似ていた。


轟は更に名を上げていた。


優秀なドクターとして。


難しい手術。


講演。


論文。


現場の人間からも一目置かれる存在になっていた。


誠はもう、

昔みたいに頻繁に相談はしない。


でも。


今でも時々、

二人で煙草を吸う夜がある。


龍の事務所も大きくなっていた。


有名なラッパーも生まれた。


若い才能を何人も世へ送り出している。


トラブルもあった。


裏切りもあった。


それでも龍は折れなかった。


相変わらず人懐っこく笑いながら、

東京を走り回っている。


健吾は工場で少し出世した。


後輩もできた。


相変わらず派手ではない。


でも。


ちゃんと生きていた。



挿絵(By みてみん)



時々東京へ来て、

聖のライブへ顔を出す。


「遠く行ったなぁ」


と言いながら、

どこか嬉しそうに笑う。


長谷川家では、

デビュー祝いが開かれた。


久しぶりに家族が集まる。


笑い声。


料理。


お酒。


少し騒がしい夜。


「はい、これ」


誠が小さな箱を渡した。


聖が開ける。


中には腕時計。


深い青色。


文字盤には、

小さな星の模様が入っていた。



挿絵(By みてみん)



「うわ……」


聖が小さく息を漏らす。


お母さんが笑う。


「綺麗でしょ」


「……うん」


聖は時計を見つめる。


少しだけ泣きそうだった。


「“きらきら星”っぽいな」


龍が言う。


「ダサ」


誠が返す。


「うるせぇ」


健吾が笑う。


いつもの空気だった。


アンは、

テレビで聖を見るようになっていた。


ライブ映像。


CM。


駅の広告。


大きなステージ。


歓声。


照明。


もう。


本当に遠い存在だった。


でも。


時々連絡は来る。


短いメッセージ。


“今日寒いね”


“ちゃんと寝てる?”


それくらい。


でも。


完全には切れていなかった。


アンは夜勤終わり。


コンビニの前で、

スマホ越しに聖のライブ映像を見る。


そこにいる聖は、

もう“スター”だった。



挿絵(By みてみん)




でも。


アンの中には今でも、

コンビニ前でクリームパンを食べて笑っていた聖が残っている。




季節が流れる。


秋。


紅葉が揺れていた。


赤。


橙。


金色。


風が吹くたび、

葉が静かに落ちていく。


聖は空を見上げる。


澄んだ秋の空だった。


楓はもういない。


でも。


確かにここにいた。


その記憶だけは、

ずっと消えない。


風が吹く。


紅葉が舞う。


まるで。


星が落ちてくるみたいだった。










挿絵(By みてみん)

















ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。


この物語を書き始めた時、僕の頭の中に最初にあったのは、“夜の空気”でした。


コンビニの光。

湿った夏の風。

冬の白い息。

路上ライブの帰り道。

ファミレスの深夜。

誰かを待つ時間。


そんな、少し寂しくて、でもどこか優しい夜の景色を書きたいと思ったのが始まりでした。


そしてそこへ、

聖という少女が現れました。


最初の聖は、本当にただの子供でした。

無邪気で、食いしん坊で、歌うことが好きな女の子。


でも、物語が進むにつれて、彼女は少しずつ変わっていきます。


大切な人を失い、

夜を知り、

孤独を知り、

それでも歌うことをやめなかった。


気づけば僕自身も、

「聖はこの先どこまで行くんだろう」

と思いながら書いていました。


そしてもう一人、

この物語にとってとても大きな存在だったのが楓です。


楓は、きっと最後まで“完全には理解できない人”だったと思います。


でも、人は案外そういうものなのかもしれません。


大切な人のことを、全部分かったつもりでいても、本当の心の奥までは届かない。


この作品では、そんな距離感も書きたかった気がします。


だからこそ、

楓がいなくなったあとも、彼女はずっと物語の中へ残り続けます。


白いパーカー。

きらきら星。

秋の空。

静かな笑顔。


失った人は消えない。

形を変えて、生き続ける。


この物語は、そんな話だったのかもしれません。


そして最後に。


僕はこの作品を書きながら、

「生きる」ということは、案外派手なものじゃないんだと思いました。


ちゃんと帰ること。

誰かを迎えに行くこと。

コンビニで肉まんを渡すこと。

眠そうに笑うこと。


そんな小さな時間の積み重ねで、人はなんとか前へ進いていく。


この作品が、誰かにとってそんな夜の記憶になれたなら、とても嬉しいです。


本当にありがとうございました。

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