002 人類の天敵
薄暗く鬱蒼と茂る森。
背が高く太い木々が多く生えており、その隙間を縫うようにして草木が僅かな太陽の光を求めて空へと伸び、生い茂っている。
人の手が入った痕跡は無く、原生林という名前にふさわしい命の恵みの宝庫。
そんな森の中を駆け抜ける二つの影。
「くそっ! なんであいつがこんなところにいやがんるんだ!」
「叔父さん急いで!」
一人は30代の細身の男性。そしてもう一人は12歳の短髪赤毛の少女。
必死の形相を浮かべて走る男性は、仕切りに後方の様子をうかがっている。
その横を並走する少女は小刻みに動いて木々をかわし、男性と同じく脱兎のごとく逃走している最中だ。
二人が何から逃げているのか。
答えは少女に叔父さんと呼ばれた男、その視線の先にある。
ぎょろりとした目玉。
体の中心にある大きな一つの目玉。
その周りはうねうねと動く黒い触手が巻き付き、絡まりあったようになっていて、その存在の体を形成している。
他には何も無い。胴体も無い、腕も足も無い。ただ、大きな目玉とにゅるにゅると蠢く触手だけの存在。
その大きさはおおよそ成人男性の10倍はあり、中央の目玉だけで大人7人分はあるという巨大な体をしており、巨大な岩か山と見間違うほどのものだ。
宙を浮きながら二人の後を追いかけてくるそれは、人間達から【ガーヴァル】と呼ばれて恐れられている存在だ。
そんなガーヴァルが二人を殺そうとして追ってきているのだ。
「叔父さん、後ろを見ちゃだめだ! 気が狂って死にたいの?」
「わかってる! わかってるがよぅ!」
ガーヴァルの大きな目玉を直視してはいけない。目が合ってしまうと人間は気が狂ってしまい、棒立ちとなって死ぬ。
この世界では常識であり、この黒い存在を視界に収めることはタブーなのだ。
とはいえ相手は殺意を持って追いかけてくる存在。
相手の位置が今どこなのかを知りたいという生存本能を押さえることは難しい。
そうこうしているうちに、追ってくるガーヴァルとの距離が徐々に縮まっていく。
地を這うようにして逃げる二人は、木の根を避けながら生い茂る草の中を駆け抜ける必要があるが、ガーヴァルはそうではない。ガーヴァルは草の上を飛ぶように浮遊して獲物を一直線に追えばいいだけ。
その差から、必然的に距離は縮まっていく。
二人を射程に捕らえたガーヴァルはうねうねと動く触手を伸ばす。その数は二本。
人間たちを叩き殺すために伸びたそれが上空から振り下ろされ、激しい音を立てて地面を揺らす。
そんな致死の一撃を、その場から飛びのく様にしてなんとか回避することに成功した二人。
獲物を仕留めることが出来なかった触手が、ぶわりと空気の振動を伴って空へと持ち上がる。
その動作は、死神の鎌が一撃ではない事を物語っている。
「も、もう駄目だ! こうなったら!」
背後から襲い来るそれをいつまでも回避し続けられるものではない。
すでに限界まで来ていた男の心は折れ、良からぬ企みに心を染める。
そして、スッと横に手を伸ばすと――
「叔父さんっ!?」
並走していた少女の体を突き飛ばしたのだ……。
予期せぬ裏切りによって少女は地面に倒れ込む。
「悪く思うなよ! ここはそう言う場所だ。今までお前の面倒を見てきた礼を今返してもらうぞ!」
少女の視界の先を行く叔父はそう言うと、茂った草木を抜けて駆け抜けやすい視界の開けた場所へと走り去って行った。
(叔父さんのことは警戒はしていたつもりだけど、今、ここで裏切られるなんて)
逃げ去った叔父と少女は二人で暮らしていた。
両親を亡くした少女が頼ったのが父の弟。元々素行の良くなかった叔父だが、幼い少女が頼るべきものは彼しかいなかったのだ。
その生活が幸せだったかどうかは別にして。
そんな叔父に裏切られたショックは多少あった。
だが、瞬時に意識を切り替えられない奴から死んでいく。
少女は背後に迫る天敵の姿を振り返って確認する。 迫る触手を視認して回避行動をとるためだ。
ガーヴァルの目を直視する必要は無い。その周りの触手にだけ視点を合わせればいい。
今はその時。
だが、予想に反して触手は少女を叩き殺そうと迫ってきてはいなかったのだ。
それどころか大きな目玉は少女を見てもいなかった。
「ぎやぁぁぁあぁぁぁぁあぁ!」
前方で叫び声が聞こえた。
こんな命の軽い場所にいる物好きなどいない。
その声はもちろん、少女をおとりにして自分だけ逃げ延びようとした叔父の声だ。
声に反応してそちらを見る少女。
すると、視界の開けた場所を走っていたはずの叔父の足が片方無くなっていたのだ。
膝の下からごっそりと、何か大きな力で奪い去られたかのように。
「足がぁぁぁ、足がぁぁぁぁぁぁぁ!」
もはや走れる状態ではなく、地面に倒れ込んで痛みにもだえ苦しむ叔父。
次の瞬間、叔父の目が見開かれて悲鳴を上げた。
「ひ、ひいいぃぃぃっ!」
そして叔父の体に赤い色をした円形の模様が浮かんだと思うと、次は手が吹っ飛んだ。
そこに来て叔父は、迫るガーヴァルと目が合ってしまったのだろう。
悲鳴はぷつりと消え、血が吹き出す手足はだらりと力なく揺れた後、ピクリとも動かなくなり……まったくの無防備な姿をさらす。
そんな獲物の姿を逃すガーヴァルではなく、まるで渾身の怒りを込めた一撃かと思う程に、力強く、それでいて過剰なほどの勢いで触手を振り下ろすと、叔父の体ごと地面が消し飛んでいったのだ。
「あ、ああ……」
裏切られたとはいえ、血のつながりのある人のそんな様子を目撃しては動揺もしようというもの。
逃げなくては次は自分の番だというのに、赤毛の少女は動くことができずにその場で立ちすくんでしまう。
視線の先には黒い天敵の姿。
振り下ろされて地面にクレーターを作った触手が、用は済んだとばかりに持ち上がる。
すると触手の先端がボシュウという音と共に、気化して消えていく。
その通常らしからぬ奇妙な様子に、少女は正気を取り戻した。
(落ち着け。アタシたちがわざわざ草木の間を走っていたのは、あの赤い模様を避けるため。ガーヴァルに見られたらあの赤い模様が体に浮かんで、はじけ飛んでしまう。そうならないように、見られないようにしていたのに、叔父さんは視界を遮るものが無い場所に出て死んでしまった……。大丈夫。アタシは冷静。叔父さんとは違う。冷静に木々の隙間を縫って逃げて……どこかで隠れきったらアタシの勝ちだ)
努めて冷静にと内心で思い込むようにしていたが……目の前に浮かぶ黒い天敵の存在の前には心の平静など無意味。
漆黒の中に一際煌めく白く巨大な目がぎょろりと見開く。
「あ……あ……」
少女唯一の生存ルートは叔父の声がした瞬間に逆方向へと逃げることだった。
それを怠った結果、叔父に続いて彼女の命も失われようとしていた。
目の前に浮かぶそれは人類の天敵。
人よりも巨大で圧倒的な力を誇る上位存在。見つかったが最後、目の敵のように追われて殺される。自らの糧にするために殺すわけではない。ただ目の前に人間がいるのを毛嫌いするがごとく、殺し、排除しようとするのだ。
それはまさに生理的に受け付けない生物を何としても排除しようとする人間と同じ。
――ぁぁぁ
いよいよ命の灯が消えるという時のこと。
赤毛の少女の耳が人の声のような音を拾った。
――ああああああ
こんな場所に人がいるはずがない。死を前にした幻聴か、と少女は意識を切り捨てようとしたその瞬間。
「あああああああああああああ!」
――バサバサバサバサッ
何かの悲鳴と、何かが木々の隙間を力づくで通るような音が真上から聞こえて来て――
少女が本能的に危険だと思って上を見上げた瞬間――
ドスンとその体に上からの重い一撃がのしかかったのだ。




