出逢い(一)
耶津のあまりに突拍子もない発言に、理那は驚愕するばかりだったが、感謝しなければならないのかもしれない。同様に仰天した左相の、理那への怒りが弱まったことは確かだからだ。
「なんと……」
人の用意した縁談に割り込むなと言いたい気持ちだろうが、左相はあまりのことに絶句した。
いかんせん、相手は耶津である。耶津ほどの大物が娶りたいと言っている女なのに──。いくら左相が別の男との縁談を押し付けたくとも、割り込む相手が耶津では、頭ごなしに怒鳴りつけることもできない。
だからといって、急に縁談を破棄し、耶津と理那との仲をとりもとうという考えにも至れない。
しかし、何れにせよ、この耶津の発言は、理那にとってはありがたい効果があったのだ。毒気を抜かれた左相との、険悪な関係は改善された。
「……と、とりあえず、時間を少しくれ」
縁談は白紙に戻すとは言わなかったものの、曖昧になった。そして、耶津の申し出さえ曖昧にしたまま、今日のところはこの話はここまでと打ち切り、左相は耶津を連れて家の中へ入っていった。
今日、耶津が左相を訪ねたのは、別の用事があったからだ。本来の用件を語らうべく、二人は中へ入ったのである。
理那にはもう用はない。帰宅しようと、二人が消えた家の戸口を見つめながら、そう思った。
二人の後から、戸を執事が閉めている。
(結婚?耶津様と?)
理那の頭は痺れていた。
耶津との結婚なんて、考えたこともなかった。
(結婚……か。どうして今更、しなくてはならないというの?)
以前、数年前にここに来た時ならともかく、今、結婚なんてと、溜め息ばかりが出た。
数年前。
理那は確かに結婚を望んでいた。
誰とというのではない。
理那の家に釣り合う、又、理那当人に釣り合う、誰に恥じることもない、良家の立派な男子との縁談。それを望んでいた。
理那を気に入ってくれる人なら。理那の好みに適う人なら。誰でもよかった。
良い相手を選んでくれるというので、理那は左相に縁談を頼むことにした。左相が媒酌人となってくれるなら、この国の貴族として、誇りでもあった。
理那はその日、一人でこの邸を訪ね、左相に縁談を頼んだのだった。先程理那が通された、あの部屋で。
先に、縁談を世話してやると言ったのは、左相の方だった。だから、素直にその好意を受けて、自らお願いに来た理那に、左相は大喜びだった。
喜んで、縁談を世話しようと言った。
しかし、あの日、理那にやさしい声で笑顔を向けた左相は、必ずしも上機嫌というわけではなかった。
理那は、執事が閉めた戸口に、何となく吸い寄せられ、近づいて行く。あの日のように。
先程は自分が通された部屋。
その戸口の前に、あの日のように立ってみると、中からは左相と耶津の声が漏れていた。
漏れている。そう。そんな感じの音量。二人は穏やかに歓談しているのに違いない。
しかし、あの日。理那が縁談の依頼に訪れて、この戸の前に立った時は、左相の癇癪が聞こえていた。
絶えず続く怒鳴り声。何か物を投げつけたような音。地団駄でも踏んだような音。
それらが地響きとともに、この戸口まで届いていたものだった。
思い出して、理那は瞼を閉じ、溜め息とともに眉を寄せる。
数年前のあの日、理那がここを訪ねると、門番が中へ入れてくれたが、先客がいるという。
執事は左相とともに、先客の相手をしており、別の召使いが理那を案内した。
理那がその者の案内で、例の戸口の前で来ると、中からは凄まじい左相の声が聞こえていた。
左相が怒鳴る。物音がする。
続いて、
「どうかお願いします!」
と喚く声。
客のものなのか、その声は必死だった。
何事かと理那が驚いていると、続いてまたしても左相の怒鳴り声や地団駄が。
あまりの剣幕に、召使いも左相に理那の来訪を告げられず、おろおろしていた。
すると、また客の悲鳴にも似た声が聞こえ、それに左相の癇癪が覆い被さると、ばんっと轟音を立ててそこの戸が開いた。
刹那、複数の喚き声とともに、一人の人間が理那の目の前に転がり落ちてきた。
地面に叩きつけられて、その人は呻き声を上げながらも、すぐに四肢を整え、その場に平伏し、
「お願いします!妹が病なのです!」
と喘いだ。
「うるさい!」
上から降ってくる左相の声。続いて、執事が駆け下りてきた。
執事は理那の姿に仰け反り、急に顔色を変えて、
「旦那様っ!」
と、注意した。
召使いはそれで、
「旦那様、李理那様のお越しです」
と言うことができた。
呆気にとられている理那に、執事は軽く頭を下げると、素早く客の男の腕を掴んで、庭を引き摺って行った。
思わず理那は、それを目で追ってしまった。
すると、頭上から、
「理那殿」
と、左相の声。
振り返って、戸口を見上げると、決まり悪そうに左相が立っていた。
「どうぞ」
言われて、理那は中へ入ったが、中は少し荒れていた。散らかっている程ではなかったが、二、三、物が床に落ちている。
召使いがいそいそと片付ける傍らで、理那は挨拶もそこそこに、
「先日お話しの、縁談のお願いに参りました」
と、本題をきりだした。
左相は笑顔を作って、やさしく、
「そうですか、よくいらして下さった」
と言ったが、必死に柔和を繕っていることがわかった。
理那の前だから、愛想よくしなければならないが、本当はまだ、腸が煮えくり返っているに違いなく、心底上機嫌なわけがなかった。
「何卒、縁談をお世話下さいませ」
理那は早口にそう言うと、持ってきた高価な手土産を差し出した。
「これはこれは、ご丁寧に、恐れ入ります。縁談の話、受けて下さるか」
「はい。宜しくお願い致します」
「む。よい相手を世話して差し上げましょう」
「ありがとうございます」
理那はそう頼むと、まだ茶も出ぬうちに、早々に帰ることにした。
左相の機嫌が最悪なのはわかっているし、左相のあんなところを見てしまった後で、気まずかった。そして、あの客のことも気になっていた。
「もっとゆっくりなさればよいのに。茶もまだお出ししていないのに」
左相は一応、社交辞令のようにそう言ったが、
「いえ。急ぎますので……」
理那が断わると、それ以上は引き留めなかった。
いつもなら、引き留める筈だが、やはり左相も気まずかったのだろう。そして、虫の居所が悪いのでもある。
理那は挨拶すると、もう家を出ていた。
庭を歩き、門の方へ。
執事がそこでぎゃあぎゃあ騒いでいた。
執事がその門を乱暴に閉めた時、理那がそこに至った。
執事はあっと色を変え、
「これは、お嬢様。もうお帰りですか?随分お早い……」
と、何とも気まずそうに言った。執事のその表情も、左相のそれと同じだった。
「ええ、もう用事は済みましたので。お邪魔しました」
理那はさり気なくそう言うと、門戸に手をかける。
執事は慌てて自ら門戸を押し、
「お気をつけて。またいらして下さい」
「ありがとう」
執事が開けた戸の隙間をすり抜けながら、理那は挨拶した。
理那が門の外に出ると、戸は内から閉められた。




