敵方(三)
心海の任官は、数日のうちに理那の知るところとなった。
理那はそれと知って、例によって心海を尾行し、彼が何を調査しているのか、調べようとした。
彼女は察しが早い。知恵に聡かった。どうやらすぐに、何かを悟ったらしい。
左相が持ってきた縁談の返答をする日の前夜、理那は父の御前に呼ばれていた。
父の李公は、この縁談を良縁と考えていた。当然、理那の受けるべきものだと思っていた。
「明日は左相にお返事をしに参らねばならんが、良き縁談を下さった御礼を、くれぐれも慇懃にな」
「良縁とお考えですか、父上?」
理那からの思わぬ言葉に、李公は目を見開いた。
「まさか、理那……そなた、気に入らぬというのか?相手に不足か?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
確かに相手に不足はない。素晴らしい男だろう。理那もそう思う。
「では、何故だ?」
「……」
「っ!そなた、まさか、まだ!」
「いいえ!違います!」
父の言わんとすることを察して、彼女は頭を振った。
「では、何だというのだ?」
父は前のめりになって問う。
理那は返答に困ったが、こう言った。
「……私は、人に嫁ぐに相応しくはありませぬ」
「何を言うのか!そなたはまだ若い。そして、この世にまたとなく美しい。誰よりも聡明である。太子の妃候補にも名が挙がったほどであるのに。そなたが太子よりも年長なるが故に、妃には選ばれなかったが、あと数年遅く生まれていたら、そなたが妃であった。それほどのそなたが、嫁ぐに相応しくないとは。何もそこまで己を卑下しなくても、よかろう」
「……」
俯いてしまった理那を見て、李公は顔色をやや変えた。
「そなた、そのようなことを言って、まことは嫁に行きたくないのだろう?それが本心なのではないのか?」
思わず理那は顔を上げた。何か言おうと、口を開きかけたが、父は決してその言葉を言わせまいと、先にやや大きな声で。
「許さぬぞ、断じてそのようなことは!」
理那は口を閉じた。そして、困ったように眉を寄せた。
しかし、すぐに顔を上げると、こう言ったのである。
「わかりました。しかし、それでも、この度の縁談だけは、お断りしなくてはなりませぬ」
「何故じゃ?」
「父上、左相とおつき合いになるのは、もうやめられませ」
「何?」
「左相のお仲人故に、この縁談はお断りしなければなりませぬ」
きっぱり言い切る娘に、李公は首を傾げる。
「そなたは何を言うておるのだ?」
「左相は近々、危ないかと存じます」
「危ない?」
「危険を察した左相にくっつかれては、こちらが迷惑。この縁談を受けて、その縁を頼りに、処刑の憂き目の左相が、我が家に助けを求めてきたらどうしますか。我が家も連座の疑いをかけられ、父上も処刑されるかもしれませぬ」
「待て、待て、処刑とは何のことぞ?」
俄かに李公は仰天した。
理那は一つ溜め息をつく。そして、一瞬迷いを見せたが、意を決して答えた。
「高心海様が大内相の不正を調べておいでです」
途端に色をなす。
「高心海だと?そんな名は聞きたくないぞ!」
「いいえ。お聞き下さい。お聞き頂かなくてはなりませぬ」
理那の目は真っ直ぐである。そこには、情とかいうものは紛れさえしていない。
「心海様は、必ず大内相の不正を暴いてしまわれることでしょう。不正は大内相の派閥全体に蔓延っております。つまり、大内相の不正が明らかになれば、派閥に属する廷臣全ての不正も明るみに出ます。当然、一派の中心たる左相の罪も白日の下に晒されましょう。そうなれば、左相が処罰されることは間違いありません。その左相が父上に泣きついてきた時が、厄介です。父上は引退しておいでで、不正に関わってはいらっしゃいませんが、父上は現役の時、大内相の派閥の重鎮でした。この度のことには無関係でも、左相に泣きつかれて庇ったりしたら、父上にも連座の疑いをかけられましょう。いえいえ、この度の調査で罪に問われる人はおびただしく、いちいちじっくり調べたりなどできないかもしれませぬ。そうなれば、大内相の一派だというだけで疑われ、捕らえられてしまうかも。そして、左相と懇意だとなれば、ろくに調べもせずに、父上を罪人だと決めつけてしまうかもしれません」
みるみる李公の顔は青ざめて行く。理那はそれでも構わず、続けた。
「父上がどうしても、この縁談を進めたいというのなら──子の私に、どうして逆らえましょうか、従いますが、その時は、左相の罪が明らかになり、泣きつかれても、非情に切り捨てられることです。あの左相のことですから、そうなったら必ず父上にくっついて、その背に隠れようとするでしょうが、父上は……」
「もうよい!」
李公は遮って顔をしかめた。
「父上、心海様なら、必ずやってしまわれますよ?」
「くっ!そして、この身を陥れるか?」
「ともかく、左相とはあまりお付き合いなさいますな。我が家を守るためにも」
「……明日、そなたはどうするのだ?」
「お断りしに参ります。私の責任で。私一人で参りますから、父上は家にいらして下さい。友を切り捨てなければならないその場にいらっしゃるのは、お辛いでしょうから」
左相と顔を合わせたら、情に流されてしまうかもしれないし。理那はそう思い、自分一人だけで縁談を断りに行こうと決めた。
翌日。
理那は本当に、一人で左相を訪ねて行った。
左相は在宅中だった。
客殿の一間に通される。
理那はその部屋を見回して、以前通されたのもこの部屋だったと、懐古していた。
決してよい記憶ではない。いや、よく考えてみれば、素晴らしい思い出だったのかもしれない、ここでの出来事は。しかし……
「やあ、お待たせしましたなあ」
理那が回想していると、左相が入ってきた。
彼女は現実に戻り、顔をひきしめ、挨拶する。そして、大変高価な手土産を差し出した。
「これはこれは、ご丁寧に。恐れ入ります」
左相は上機嫌で受け取る。
「で、理那殿。今日は先日の返事をお聞かせ頂けるのですかな?」
「はい。それで、参りました」
理那は緊張する。
その硬くなった表情から、左相は答えを察したか、急に顔から笑みを消した。眼に疑いの色を覗かせる。
「理那殿!」
「まことに素晴らしいご縁、心から有り難く思っておりますが……」
その気持ちに偽りはない。しかし。
「理那殿」
いよいよ左相の顔は悪鬼の表情となった。
「今の私には、お相手があまりにご立派過ぎて、気後れしてしまうほどです。私では、妻に相応しくはございません」
「それで、うまく言い逃れているおつもりですか?またしても、そうやって断るつもりですか。そんなことは、絶対許しませんぞ!」
「それは……以前も、素晴らしい縁談をご用意下さいましたのに……」
「そうですとも!」
左相は顔をずいと押し出し、苛立ちを声にして言ってきた。
「貴女は以前、私の面子を潰してくれた。またしても、やってくれるのですか?絶対に、絶対に、私の縁談を受けて頂く!」
この必死さは、やはり、理那が予見した通りなのだろう。昨日、父に忠告した通り。
このままでは、左相に引きずり込まれてしまう。こちらは不正とは無関係なのに、このままでは左相と共倒れだ。
「宜しいですな!理那殿!」
左相は怒鳴った。
理那は断ることができなかった。いや、必ず断るつもりだが、断らなければならないが、今日のところは、引き上げよう。左相のこの様子では、今日は無理だ。
後日出直すことにしようと、理那はうまく挨拶して、早々に退出した。
腹が立っているからだろう、左相本人は見送りには出てこない。しかし、執事を見送りに遣るくらいの常識は持ち合わせていた。
理那は執事に導かれながら、客殿を出る。
立派な庭に出ると、この執事の顔を見て、昔を思い出した。
昔も、左相に縁談を世話してもらったことがあった。
その頃、父はまだ現役で、理那もほんの小娘に過ぎなかった。
左相の用意してくれた縁談を、父も理那も良縁と喜び、そう、あの日も理那一人でここを訪ねてきたのだった。左相に、その縁談を受けたい、それを進めて欲しいと頼みに来たのだ。
その時、そこの門にいたのも、この執事だった。
「お嬢様は、昔とお変わりありませんね。相変わらず、お若くてお美しくて」
執事にそう言われて、現に戻った。
「あなたもね。相変わらず、逞しい。執事というより、護衛みたい。頼もしいわね」
理那がそう言って笑うと、執事も快活に笑った。気分のよい笑い方だった。
その時、前方の見事な庭木の陰から、一人の男が姿を現した。
理那ははっとした。見覚えがあるどころではない。
相手もこちらに気付いて、
「これは、理那殿ではありませぬか?」
と、歩み寄ってきた。
執事は恭しく男に頭を下げた。
理那も楚々とお辞儀をする。相手も理那に礼をした。
「これは……耶津様……」
何故か気まずく感じられ、理那は頭を上げられない。耶津も左相を訪ねてきたところを見られて、少し動揺している。
「左相をお訪ねですか?」
理那は俯きつつ、そう訊く。
「ええ……」
耶津はそこで、表情を改め、堂々と居直った。
そうだ。彼は今でも、大内相の一派に属している。司賓卿と内通しているが故に、後ろめたさが動揺を呼んだが、何をどぎまぎすることがある。彼の内通は知られてはならない。彼は大内相一派。同じ派閥に属する左相を訪ねて、おかしいところは微塵もない。
「ええ、左相にお話がありましてね。理那殿は縁談を断りにみえたようですね?」
「え?」
思わず理那は顔を上げた。
「まあ、嫌ですこと、聞かれてましたのね……」
「はははは。これは失礼。左相の大きなお声が、聞こえてしまいました」
笑った耶津は、しかし、どこか何かを企んでいるような顔立ちなのが、理那にはどうにも馴染めない。多分、今は心から笑ったのではあろうが。
「お恥ずかしいです」
「いえいえ」
耶津はそう言うと、執事に向かって、
「すまぬな。門番には断って、入らせてもらった。来客のようだったので、勝手に庭を拝見していたよ」
と言う。
「あ、は。では、旦那様にご来訪を伝えて参ります」
執事はそう答え、次に理那に向かい、
「申し訳ございません、お嬢様。私はこちらで失礼させて頂きます」
と、慇懃に頭を下げる。
「ええ」
理那が笑顔で答えると、執事はもう一度お辞儀をしてから、去って行った。
庭には理那と耶津が残された。




