渤海再び(二)
流石に悪いと思ったのであろう。扶余の烏城主は供の者を付けて、心海の母を女真の姉のもとに送り出していた。
それが済むと、心おきなく戦ができる。
扶余は契丹の下、女真と呼応して、定安を攻撃した。
定安の北流松花江の守りは固い。
松花江は女真側にも流れている。
「それは女真に任せよう。定安の背後には高麗がいる。我々は高麗軍を討とうではないか」
契丹・扶余連合軍は、北流松花江に陣を布く定安軍を無視して、進路を長嶺府方面に変えた。
高麗軍は定安からの救援依頼を受けて、鴨緑江に移動していた。
定安軍は、契丹と扶余の連合軍が横をすり抜けるようにして長嶺府へ向かったのを見て、側面及び背後からの攻撃を試みたが、敵に松花江越境の意志がないこと、高麗軍が鴨緑江に到着したことを知ると、それを高麗軍に丸投げして、鉄利府へ向かった。
東北流松花江には、女真が越境してきている。先に女真対策に割いた軍勢と合流して、定安は全軍女真に当たった。
契丹軍との戦いを一手に引き受けることになった高麗軍は、鴨緑江から北上して、長嶺府で敵と激突した。
契丹軍の勢いは凄まじい。高麗軍は押され気味で、じりじりと後退させられる。
そして、結局は長嶺府は契丹に占拠されることとなり、高麗軍は鴨緑江付近まで後退した。
契丹と扶余の狼虎の眼が、きらり鴨緑江を狙っている。
一方、定安は女真との戦いで優位に立っていた。定安も全軍一丸となれば、まだまだ女真などに負けはしない。焦りを見せ始めたのは女真の方だった。
鴨緑府へ遷都することになった王は、めまぐるしく変化する戦局に翻弄された。
「鴨緑江の方が、今となっては危険だ」
「還都だ、龍泉府の方がまだましだろう」
「いや、龍泉府のすぐ近くで女真と戦をしている。還都は宜しくない」
「鴨緑府よりはましだ」
廷臣達が言い合っていた。
王は都をどこに定めたらよいのかわからず、各地を転々とさ迷っていた。この迷走する政権の行き着く先はどこなのか。
「太子よ」
王は疎開中の森の中で息子達を呼び、諭して言った。
「太子は夫婦揃って女真に行きなさい。そなた達は琳媛と縁があるから、その縁を頼りに、琳媛の姉を訪ねるのだ」
琳媛とその姉は女真首長の夫人である。今、女真と定安は戦をしているが、もとは同じ民族であり、長年、不可侵を守ってきた仲である。契丹の目をごまかして、親しく交わってもきていた。
敵になったとはいえ、心底憎み合っているわけではない。
「国益の問題でこうなってしまったのだ。それだけに、女真も悪いと思っているだろう。琳媛の縁者であるそなた達を、決して悪いようにはしない筈」
王は太子夫妻を女真に逃すことにした。そして、第二王子に。
「私はこのまま鴨緑府周辺をうろうろする。戦局がどう変化するかわからぬ。鴨緑府が危険になるか、龍泉府が危険か。しかし、我々親子が二ヶ所に分かれていれば、どちらかは助かり、我が烏氏王統を守れるであろう。だから、そなたは龍泉府に戻りなさい。もしも鴨緑府に危険が及び、私に万が一のことがあったならば、そなたが龍泉府で立ち上がるのだ」
そう言って、太子と王子それぞれに、優れた廷臣ばかり数十人ずつ選んで付け、女真、龍泉府に向かわせた。
王は息子達と別れ、身軽になると、また流浪の日々を続けた。
契丹は勢い付いて、鴨緑江にまで至った。
これを破られたら、高麗国内に乱入され、高麗は契丹に蹂躙される。扶余の二の舞にはなれない。
高麗は国内の軍も総動員して、契丹に当たっていた。
その中には義勇軍もある。渤海人達のそれもあり、また、一時高麗に逃げた大元と裴瑯の軍勢もある。いくつか国籍不明の軍もあった。
「おい!しっかりしろ!こっちだ!どこに行く気だ。敵は風上だぞ」
その中に、そんな声が響いていた。
「すまん!引っ張ってくれ」
大元の武将として戦場にいた裴瑯は、そのやりとりに目を向けた。
「耶津?」
裴瑯は全身布で覆った男を引っ張る男を見て、驚いた。
昔耶津だと確信した。だが、耶津は矢の飛び交う中、男を引きずるのに必死で、こちらに気づいていない。矢をかわしかわし、時に剣で弾き飛ばし、迷惑げに布男を引き回している。
「貴様、目が見えないくせに、戦に出てくるな!迷惑な」
「すまん。ここか。うむ。ひゅんひゅん矢の音がしているな。馬に乗せてくれ。ここから敵陣に突っ込んで、敵将を討ってくる」
「貴様、いい加減にしろよ!それでどうやって敵陣に行く気だ」
と言い様、剣でまた矢を弾いた。
「なあに、馬は賢い生き物さ。俺が指示を出せなくとも、ちゃんと俺を敵のもとに連れて行ってくれる」
「で?どう戦う?貴様なんざ、一刀も浴びせられないうちに、敵の剣の餌食だろ」
「心眼ってやつさ。結構見えるものだよ」
「知るかっ」
呆れて耶津が男を突き飛ばすと、男はよろめいた。そこへ、敵の投げた槍が飛び、
「心海!」
耶津は一気に青ざめたが、男は見事、身を捩らせて槍を避け、槍は地面に突き刺さる。それを引き抜いて、にやり。
「はあっ、貴様、どこまで人を弄ぶ気だ……」
耶津が苛立つのを、離れた所から見ていた裴瑯は、盲目の布男が高心海だと知った。
「どうした?」
敵との最前線ではないためか、この辺りの兵にはあまり緊張感がない。大元も悠然として、裴瑯を振り返った。
「あの者たち。高心海と昔耶津です」
「高心海だと?」
裴瑯の見ている方に視線をやれば、全身布で覆った異様な男が、無理矢理馬に跨ろうとしている。
「目が?」
「見えないようですね」
遠目にも、元気そうだが盲目であることがわかった。そして。
「ひきつれた妙な顔だ」
遠目なので判然としないが、肌が普通の様子でなく、かなり醜いように見えた。
「痘痕か?」
そこで、大元はあることに気付いた。
「疱瘡か!疱瘡でなければ、あのような痘痕はできぬ。疱瘡を病みながら、治ってしぶとく生きるとは」
「なんて奴!疱瘡で盲目となったのですね!それにしても──」
「くくく、皮肉なものだな。我に疱瘡を病ませようと、何度となく我がもとに病人を送り込み、刺客、医者を装った毒殺者も送り込んできたな。ことごとく失敗しておったが、しつこく我が命を脅かし、我を恐怖におののかせた憎き奴。だが、本人が疱瘡を病むとは」
大元も裴瑯も患わなかった。
「殿下を暗殺するため患者と接触して、伝染ったのでしょうね。どうなさいます?ここで仕返しでもなさいますか?」
「いや、放っておけ」
あれで戦に出てくるなぞと鼻で笑って、前を向き直した。
「我も突撃するぞ」
大元は敵中に飛び込んで行った。
一方、馬上の人となった心海は、耶津の制止も聞かずに、突進しようとしていた。
「貴様、死ぬぞ、本当に」
ふっと笑って言い放つ。
「ああ、俺の死に場所だ」
最高の場所を見つけたのだからと、心海は晴れやかである。
「疱瘡を病んで、死にかけて。それでも助かったのは、理那が俺に最後まで責任持って戦えと言っているからなのだ。俺は定安の指揮者だ。最後まで戦う」
「けっ!何がだ、何が指揮だ、罪人のくせに。貴様は定安に不要の者だ」
好きに生きればよいのにと、耶津は悪態つく。
宇成に連れられ、都を出て。途中で元気を取り戻した心海は、宇成から理那の最期を聞くことができた。
子の存在を初めて知り、盲目となったことよりも遥かにそのことが悲しく、悔しく。
そして、吐号浦へ向かう宇成と無理に別れて、この戦場へ来た。
最後まで戦いたい。
その思いしかなく。
「まさかそなたと再会できるとは思わなかったぞ。こんな所でな」
戦場で耶津に会い。こうして、共に義勇軍としてここにいる。
「ここで会えて、とても嬉しかったよ、耶津」
「まったく!貴様も──」
自分もと、耶津は舌打ちした。
「では、死んでくる」
嬉々として、心海は馬の腹を蹴った。馬は心海を乗せて、風のように走り抜ける。
心海は槍を振るった。
(理那!夫人!気付かなくて、何も知らなくて、すまなかった)
子のこと。一人で抱え込んで。どんなに辛かったろう。
水くさい。だが、そこが理那と自分だとも思う。
(俺たちは水くさい。だが、どんなに思い合った愛し合った夫婦よりも、深く思い合っているな!俺は、そなたや子と一緒に埋まりたいなんて思わないよ)
理那の墓に一度も行けなくても、同じ穴に埋まらなくても、構わない。愛なんて、そんなものではない。
(別々の土に埋まる。ここで死ぬ。俺の死に場所はここだ……だが、理那!こんな結末ですまない!結局、俺は凡夫と変わらなかった。才能があっても、行動できなければ──凡夫と同じ結果しか残せなければ──俺は凡夫なんだ!)
定安を変えられず、救えず。無名の一兵卒として、戦場の露と消える。
がきんと、手に手応えがあった。敵の刃が心海の槍に当たったのだ。
馬は心海を敵中深くに運んでくれていた。
金属音は、敵の刃が良品であることを告げていた。相手は武将であろう。
「はあっ!」
敵が切りかかってくる。心海の前の空気が突風のように動く。かきん!その刃を弾き、心海が槍を刺せば、肉を突く手応えが槍の先から手に伝わってくる。
「ふんっ。心眼とはなかなかなもんだな」
心海は次の敵を求めて、さらに行く。
──戦は激しさを増し、敵味方入り乱れて、轟音の中。
「定安の高官・高心海を討ちとった!」
という怒号が響いたのは、どれほど経ってからのことであったか。
心海は何人の敵を倒していたのか。
彼の槍は刃こぼれし、すっかり使い物にならなくなっていた。
高麗の必死の抵抗により、契丹は鴨緑江から去って行った。
定安の都は支配者のいない空白地となり。
多くの定安人が国を持たない民となった。
定安の貴族の一部は、その後、女真で目撃されるようになる。彼等は女真で重く用いられていく。
契丹の去った鴨緑江の周辺に、新たな国家が誕生していた。
多数の定安兵、定安人が集っている。だが、王として、その玉座にあるのは烏玄明ではなかった。そして、烏氏の一族の者でもなかった。
「大氏の王朝、ここに復活!」
声高に叫ぶ王。
戦で軍を指揮し、契丹を蹴散らした英雄を、定安人達は讃える。
「陛下!」
玉座で胸を反らし、人々の歓声に応える王に、裴瑯は歓喜の涙を流した。
「ふんっ、馬鹿らしい」
裴瑯の涙を嘲笑する一人の男。彼が旅支度であることに気付いて、裴瑯は驚いて駆け寄った。
「陛下の即位式は間もなくだ。貴公の戦功著しいによって、陛下は貴公を高官に取り立てるおつもりだ。だというのに、どこに行く」
「興味ない」
男は素っ気ない。
「興味ない?貴公はもと高官。今の身の上を恨んでいたではないか。ようやくもとの地位に戻れるのに」
「私は定安人だ」
「……まさか、烏玄明の行方を捜すつもりか?きっと彼は見つからない。それより……」
「くだらん。烏氏に興味なぞないわ。知らぬか?私は昔氏だ。大氏が王位に拘る気持ちを理解できるなら、私のことも理解できるだろう」
裴瑯は息を呑んだ。
「この昔耶津は、誰の下にも仕えない。私を手に入れたければ、私を王にしろ。大氏が王に返り咲いたなら、昔氏にも資格があるのではないか?」
「……ふう」
呆れたのか諦めたのか、裴瑯はため息をついた。
「では、どこに行く気だ?」
「我が王家の源。そなたが一番行きたい所。そなたの先祖が私を羨む姿が目に浮かぶ」
そう言って、彼は旅立つ。
予め用意していた船に乗り込む。川は必ず海に行き着く。
川を下ること数日。ついに海に出た。
時節は初春。潮は東に向かって流れているはず。きっと先祖の故郷の地に運んでくれるであろう。
「おお!空があんなに近い」
大海に出た彼は、空の低さに驚いた。
空は高く、海は地を這い──空と海の距離は遠く離れているはずだ。
だが、遠く彼方の水平線は空と繋がっている。
いや。
ぼんやりと霞むそこは、どこまでが海でどこからが空なのかもわからない。
空か海か。
真上を見上げれば、海の姿をした空があり。
真下を見下ろせば、空の姿をした海がある。
「心海、私は親切だがお人好しではない。わざわざ理那殿の所には連れて行ってやらないが。埋葬くらいしてくれる。貴様は心海だから、ここに眠れ」
荷物から一束の髪を取り出し、空に向かって投げ上げた。
髪は高く上がって空に溶け込み、一瞬、光の中に消えた後、やがて散って、水面に降った。
ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ。
波にくるまれて、髪は海の青に沈んで行く……
────完────




