渤海再び(一)
「愚かな女だ……」
女は愚かだ。王は尼僧が遺した書簡を眺めて、呟いた。
書簡にはいったいどれほど重要なことが、どれほどの秘策秘事が記されているのかと思って見れば、ただただ心海を死罪に決定した王と朝廷への恨み、心海の助命を嘆願する文章ばかり。最後に、願いのために、自分は死ぬとある。
はじめから死ぬつもりでいたらしいが、愚か過ぎる。
「もっと賢い尼だと思っていたが。これでは妃とたいして変わらんではないか」
王の前には、召し出された宇成が座っていた。宇成は王に宮殿に招かれるほどの豪商である。
「愛憎がからむと──」
女は何も見えなくなるのだと、王はため息をついた。
(女の命一つで、朝廷の決定が覆るわけがあるまいに)
王のため息に合わせて、宇成が言った。
「……無駄死にでございます」
宇成は王とは別のことを思って、涙を流した。
「こんなことをなさらなくとも。陛下は高心海様を逃がそうとなさっていらっしゃったのに……」
「……」
王は書簡を閉じて、やや乱暴に机の上にそれを置いた。
「あんなことを仕出かしたのだ。亡骸は罪人として扱われ、獄門から裏山に投げ捨てられる。普通の弔いはできまい。李家の墓所には入れられぬ。あの居酒屋の内儀に引き取りに来させよ。子の墓に一緒に入れてやれ。あそこなら、民の墓だから、こっそり埋葬してやっても、咎められまい」
「……子の墓?」
宇成は首を傾げ、涙を拭った目を王に向けた。
「そなたは、心海だけでなく、尼公とも親しそうなのに、知らぬのか?」
王はそこまで言って、思い出した。以前、尼僧が流産した時の話を。
(そうだ、子の父は、あの女の別れた夫だが、女が身ごもったことすら知らないと言っていたな)
心海さえ知らないのだ。自分に子がいたことを。その子が無事に生まれてくることもできず、庶民の墓に混じって、ひっそり眠っていることも。
「どうしたものだろう。心海に言ってやるべきか?」
王はそう言って、宇成に心海の子のこと、墓のことを話した。
しばらくして、大罪人の亡骸は、役所の裏山に投げ捨てられた。
獄門の陰に隠れていた宇成は、承瑤とその夫を呼び、荷車に亡骸を乗せて運んで行く。
「理那様……」
承瑤は号泣して、涙も洟も涎も区別なく、涸れるまで泣き続けた。
郊外の庶民の墓地に、心海と理那の子の墓がある。そこに理那をそっと埋めた。
「母子ご一緒とはいえ、こんな……理那様は……」
貴族の娘なのに。寺の仲間に経をあげてもらうことさえなく。
承瑤は供えた花がしぼむまで、墓から離れようとしなかった。
宇成はまだ心海に理那の死を伝えていない。
あとの供養は承瑤に頼み、また獄舎に向かった。
逃亡の機を逃したため、心海はまだ獄舎の中にいる。王の命により、一時遠ざけられていた監視の役人達は、もう全員持ち場に戻っていた。
今は逃亡できない。また頃合いを見計らって、王が機会を作る計画になっている。
宇成はその日の前に、一度心海に理那のことを伝えなければと思い、面会に来たのだ。
宇成ほどの豪商なら、問答無用に罪人とも面会できる。
「宇成!どうなった?」
宇成の姿を見つけると、獄舎の中から心海が苛立ちを声にして訊いてきた。
理那の自害から三日。
相変わらず、民衆の抗議は続いており、四六時中その声が風に乗って聞こえている。
都の民達は扶余からの難民を攻撃し、町中で暴動は激しくなっていた。難民は都を逃げ出し、途中で見つかれば襲われ、そうした騒ぎも抗議の大合唱に混じって聞こえてくるので、心海は焦燥感に襲われていたのだ。
何が起きているのか。理那はどうなったのか。戦局は。
「暴動は……」
宇成は心海の獄舎の前まで来ると、やはり気がひけて、自然と理那のことは後回しになり、暴動について話し始めた。
「──そうか」
民達の話に、こうなる事態は予想していたのか、心海は落ち着いて聞いていたが、それでも深刻そうに眉間に深く皺を刻んでいた。
「──先生?」
宇成はその時になって、初めて違和感を覚えた。
心海は顔を上げ、理那のことを訊きかけたところで、表情を変えた。
「時に宇成。そなた、大丈夫か?」
「え?」
「大事ないか?」
「は?何のことでしょうか?」
宇成はわけがわからず、首を傾げた。
「大事ないなら良い。しかし、念のためだ。陛下のお傍には参るなよ?」
「えっ」
その表情を見て、心海はぎくっとした。
「そなた?」
「今朝もお召しがあって──」
心海はなおぎょっとしたままであった。
「そうか……いや、それは仕方ない。だが、今後はお召しがあっても、しばらくは、参っては……」
ふらっと立ち眩みして、心海は獄舎の床に膝をついた。
「先生!」
顔が赤い。
「熱が?」
違和感はこれか。
「先生、大丈夫ですか?先生?今すぐに解熱剤をお持ちします!」
「まて!」
制止するため伸ばした手。袖から伸びた、あらわになった腕に、発疹が数粒見えた。
「せ、先生?」
宇成はびっくりして、その発疹を凝視する。
「薬は、俺はいい。それより、そなただ。ひどくならぬうちに服しておけ」
「えっ、私?」
「気づいておらぬか?ならば、早いうちがよい。そなた、感染している。──くっ、自業自得だな」
高熱に浮かされたように、心海は笑った。
「すまない。危険を伴う仕事だった。それをそなたにさせた。迂闊だった。そなたが自覚がないほど軽かったのは幸いだ」
何を言われているのか、ようやく宇成は気づいて、目を剥き、焦って慌て詫びた。
「すみません!私!まさか私、疱瘡がうつっていたとは!先生にうつしてしまったなんて!」
大元を暗殺するために、疱瘡患者と宇成を接触させた。暗殺はなかなかうまくいかず、だから、宇成は何度も何人もの患者と会わなければならなかっただろう。
注意はしていたはずだか、伝染していたのだ。
宇成には奇跡的なほど自覚症状がない。
しかし、今、心海は疱瘡にかかっている。心海は疱瘡の患者とは接していないから、伝染したとすれば、宇成からとしか考えられない。
「すまない、宇成……」
心海は倒れ込んだ。
宇成は役人を呼び、そして、高価な薬を手に入れるために店に帰った。
(先生!私のせいで!)
宇成は店で薬をかき集める。
「どんなに高額でもいいから、都じゅうの薬房、医者に交渉して最上級の薬を手に入れてこい!」
店の者達を走らせた。
そうしている間に。
「旦那様!女真の充媛様からのお報らせです!」
心海に頼まれて女真に遣った急使が帰ってきた。えらく早いが。
「途中で充媛様の方から遣わされた使者と会ったので。旦那様、女真は扶余の動向を見て、契丹に従うことにしたそうです。女真が鉄利に攻め込む準備を整えたとのこと!」
それで、充媛が急を知らせてきたのだ。運良く途中で宇成の使者と会うことができたわけだが。
女真が松花江を越えて定安に攻め込んでくる。鉄利府を攻められれば、都はすぐそこだ。
「くっそ!お前、薬が届いたら、医者を連れて高先生の所に行ってこい!私は、陛下に!」
宇成は叫んだが、あっと思い出し、
「待て待て!お前が陛下にお会いしろ!私に近寄るなよ、早く行け!」
しっと手を払って、その者を追い出した。
(薬は私が先生に)
俄かな遷都となったのは、女真の裏切りが明らかになったからである。軍勢は皆、扶余の方にあり、女真に対応はできていない。
それでも、扶余と戦っている軍勢を、少しは対女真戦にあてなければなるまい。
「高麗に北上してもらえば、定安は女真に兵を割ける」
遼東や鴨緑府辺りにいる高麗軍に、もっと扶余の近くにまで来てもらうのだ。
とにかく、王の身は安全でなければならない。
「陛下の御身は鴨緑府にお移しするべし」
こうして、俄かに定安の貴族百官は上京龍泉府を捨て、西京鴨緑府へと都落ちすることになったのであった。
都は天地がひっくり返ったような大騒ぎ。民の嘆きも怒りも聞き入れる余裕なく、貴族達は先を競って去って行く。
秩序はなくなり、罪人へ気が回る者は皆無で、獄舎の役人も、罪人を放り出して逃げて行く。
王の去った都に宇成は残り、店をまとめていた。彼はその後、十日余り寝込んだ。やはり、軽い疱瘡だったが、完治ではないものの、もう回復している。
「どこにいても危ない。我々は国外へ出る。吐号浦へ!」
大荷物を引き下げ、吐号浦へ行かせる。
「先に行っていろ」
宇成は獄舎へ向かった。
役人のいない獄舎。罪人達が出してくれと騒いでいる。高官だった心海の獄舎は、もとから他の罪人のものとは離れていた。
「先生!」
心海はなお症状重く、顔中に発疹を作っていたが、宇成の薬のためか、命はとりとめている。
「お辛いでしょうが、行きますよ!」
宇成は獄舎の鍵を開けた。鍵はその辺に役人が捨てて行ったので、容易に手に入った。
獄舎の中に入って心海の身を抱き起こすと、心海は力なく首を横に振った。
「敵が来ます。早く行きましょう!」
なお首を横に振るが、宇成は無視し、広い自分の背に彼を担いで、獄舎を出た。
肥えているので、すぐに息が上がる。だが、背中の心海は随分軽くて、どうにか担いで歩けそうだ。
罪人達の獄舎を幾つも通り過ぎて、ようやく乗ってきた馬の所にまで着いた。宇成は心海を馬の背に乗せると、綱を木から解いて歩いて行く。
人々が続々と都を出て行く。人間、家畜、荷馬車荷車が夥しく行き交い、そのため、都の大路は土煙が立っている。
宇成は心海を気遣いながら、視界の悪い中を進む。
「宇成……宇……」
馬上から譫言のように心海が呼んだ。
「はい。お苦しいですか?もうしばらくご辛抱下さい」
心海は首を振った。
「何処へ……」
連れて行くのかと心海は訊いた。
「まず、我が店へ。そして、残っている店の者と一緒に吐号浦へ向かいます。先生も輿にお乗せしてお連れしますから」
吐号浦と聞いて、心海は宇成が国外に出るつもりであることを察し、頷いた。
「途中まで、連れて行ってもらうぞ……遠慮なく……」
「途中?」
宇成は聞き咎めて、馬の背を振り返った。
「鴨緑府へ……行く。陛下は、そちらへ下られた、と」
「先生!そんなお体で──」
まだ国のために働こうというのか。宇成が困惑していると、心海がまた訊いてきた。
「理、那、理那は?」
宇成はまだ理那のことを話していなかった。
宇成はどきっと、つい立ち止まってしまう。宇成が止まったので、馬まで止まってしまった。
「どうした?」
鋭く、心海が馬上に起き上がった。とても座ることなどできないと思えた彼が、猛禽のような目で宇成を見据えている。
「先生……」
宇成はすぐ涙声になった。
都を去れば、心海は二度と理那の墓に参ることはできず、生涯子の存在を知らずに生きることになる。しかし、健康な時でさえ憚られる話を、今の重篤な彼にしてよいものか。
「宇成!」
「……」
宇成の目の縁が赤くなり、彼の中で必死に何事かと戦っている様子。それで、心海は悟った。
「……死んだ、か」
「……」
「……」
「……申し訳っ!」
宇成はこみ上げてきた涙をぐしっと袖口で擦った。
「……そうか……」
がくっと心海の体が傾いて、馬の背からずり落ちて行く。
「先生!」
すんでのところで宇成は落馬する心海を、宇成自身の体全部で受け止めた。心海の体を乗せたまま、地面に倒れ込む。宇成の脂肪が心海の身に一つの傷も付けずにすんだ。
「いたた!」
宇成は弾みで腰を強か打った。しばらく動けないが。
馬が大きく嘶いた。
しばらくして、それを聞きつけてきたのか、店の者が数人走ってきてくれた。
「旦那様!」
「これは幸い、天の助け!」
宇成が喜ぶと、
「お帰りが遅いので。来てよかった」
と使用人達が心海の身をどけて、宇成を助け起こす。
「先生を墓にお連れできないかな……」
気絶している心海の顔をのぞき込んだ。
「旦那様、急ぎましょう。充媛様から使者が来ました。女真はもう出陣したそうです。今頃はもう松花江を越えたことでしょう。張大将軍の軍勢が鉄利方面に転戦したそうですが、間に合わなければ、女真に都に乱入されます」
猶予はないと使用人は言う。
結局、その日、心海は意識を戻すことはなく。宇成達は全員都を出て行った。




